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本編
第3話:モフモフと夕飯
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陽が傾き山陰へ沈むと、辺りは急速に暗くなり始めた。
薬草を塗りこみ、包帯をぐるぐる巻きにされた魔眼狼――七海によってポチと名付けられた――は、地に突っ伏したまま、夕食の準備に従事する少女の後ろ姿を眺めていた。
そのすぐ隣。陽が落ちて冷え込み始める中、ムー太は焚き火で暖をとっている。ちょこんと座り、くりくりの目を瞬きながら、薪が燃え広がるのを観察していた。くべられた薪はバチバチと音を鳴らし、オレンジ色の炎は周囲を薄く照らし出す。
ゆらゆらと形を変える炎が不思議で、触角を伸ばそうと――
「ダメだよ、ムー太! 触ったら火傷するからダメ」
と、叱られてしまい、おずおずとボンボンを引っ込める。
七海は、小さな子供を観察するようにムー太の一挙手一投足に気を配りながら、芋の皮を剥き一口大へと切っていく。トントントン、と一定の間隔で振るわれる包丁の音だけが、夜闇に吸い込まれて消える。
淀みのない慣れた手つきで下ごしらえを終えると、具材を小さな鍋に放り込み、地面に固定した木の棒へ引っ掛けた。ぐつぐつと煮立つ鍋に、様々な種類の香辛料を投げ入れて味を整えていく。
スパイシーな匂いが周囲に立ち昇り、ムー太のお腹が鳴った。おいしそうではあるけれど、何だか目がピリピリする。ごしごしと自慢のボンボンで目元を擦ってみるが、ピリピリは取れなかった。
「むきゅう……」
「やっぱり、香辛料の刺激は苦手なんだね。でも、味は気に入るはずだよ」
七海は自信満々に胸を張ってみせる。
一人だったならば、その刺激から逃げ出していたかもしれない。彼女が美味しいというのだから、恐らくそうなのだろう。
そんなことを考えながら、赤く煮立った芋鍋を見つめる。
煮込むことで形が崩れ、芋が内包していたとろみ成分が溶け出して、ドロドロとした見た目へと変わっていく。そんな赤い液体がボコボコと音を立てているものだから、火口から吹き出るマグマを連想してしまい、ムー太は少し怖かった。
とはいえ、漂ってくる匂いは魅力的だ。どんな味がするのだろうか? 時間と共に期待が膨らむ。
七海は、木製のお玉を持ち上げて、ドロドロとこぼれ落ちるスープを真剣な眼差しで睨みつける。が、すぐにその表情は緩み、満足して言った。
「よーし、完成っ!」
「むきゅう!」
七海の嬉しそうな声に同調して、ムー太も歓声を上げた。
二つのお皿に、煮崩れした芋とドロっとしたスープが盛り付けられる。地面に寝そべるように座る魔眼狼の前にその一つを置いて、七海が言った。
「口に合うかわからないけど、これはポチの分ね」
魔眼狼は、鼻を近づけ臭いを嗅ぐと一瞬だけ顔をしかめた。しかし、七海が「無理に食べなくても――」と言いかけた時、意を決したかのようにガツガツガツと食べ始めて「クォーン」と一鳴きした。
いくらか驚いた七海ではあったが、浅いため息をついて微笑むと踵を返し、ムー太の横に腰を下ろす。ぽふぽふ、と太股を叩いてくる愛玩動物を抱き上げると、そのまま膝の上に乗せてぎゅっと抱きしめた。
しばらくの間、その感触を楽しみ愛でてから、
「私たちも、ご飯にしよっか」
「むきゅう!」
待ってましたといわんばかりにムー太は鳴いて、ワクワクを表すように触角を揺らす。しかし、どろっとした液体にボンボンを浸せば、まず間違いなく汚れてしまう。それに湯気が立っているので、火傷してしまうかもしれない。
どうしよう。と、ムー太が困っていると、
「食べさせてあげるから、心配しなくていいよ」
そう言って、七海は細長い棒を手に取った。二本の棒をチョキチョキと器用に動かして、その狭間に芋を挟んで持ち上げる。そうしてムー太の口元に持ってきてくれた。
が、寸での所で芋は上昇し、七海の口元へと運ばれていく。
あと一歩というところでお預けされて、ムー太は不満そうに鳴いた。意地悪されたと思ったので、頬をぷくっと膨らませて、七海を恨めしげに見上げる。
と、しかし。
「ふーふー」
七海が吐息を当てると、芋からは白い湯気が炎のように湧き上がる。何度か繰り返すうちに湯気の勢いは衰えていき、そして、芋は七海の口に運ばれることなく、ムー太の元へと戻ってきた。
「冷ましてみたけど、それでも熱いから気をつけてね。はい、あーん」
再び接近してきたソレを受け入れるべく、ムー太は小さな口を開く。
ほくほくに煮えた芋が口の中に入ると、まず感じたのは刺激。様々な種類の辛みが、色々な角度から舌にぶつかってきて、その衝撃に驚いて目を白黒させた。
突然の奇襲にもめげずに噛み砕いていくと、辛みを押しのけるように甘みが染み出てくる。噛めば噛むほど甘みは広がり、辛みと衝突してマイルドな味わいへと変わっていく。
もぐもぐもぐもぐ、ごくん。
噛めば噛むほど味に深みが増すことにムー太は驚きを隠せない。名残惜しそうに舌でペロリと口元を拭うと、おかわりが欲しくて鳴いた。
「むきゅう」
「へへへー、美味しかったでしょー?」
「むきゅう!」
「このお芋はね、普通に食べると甘ったるくて沢山食べるのは大変なの。だからこうして、香辛料で中和してから食べるんだってさ」
七海はうんちくを披露しながらも、次の芋を運んできてくれる。ムー太はそれを次から次へと頬張って、ほっぺをパンパンに膨らませながら味わった。人間にとって一口大に切られた芋は、煮崩れすることで、ムー太にとって丁度いい大きさになっていたのだ。
母鳥が雛に餌を与えるように、七海はムー太に食事を与え続けた。それが何だか嬉しくて、もっと甘えたい気持ちになってしまう。
もぐもぐと口を動かしながら顔を上げると「ほら、口の周り汚れてるよ」と彼女は笑い、湿った布で口元をゴシゴシと拭う。そのぐらい自分で綺麗にできると思ったけれど、向けられた笑顔が眩しくて、結局、ムー太はされるがままだった。
お腹が膨れると、お約束のように眠くなる。
◇◇◇◇◇
夜も明けようかという早朝。辺りはまだ薄暗く冷え込みも厳しい。
焚き火はほぼ鎮火しており、燻る僅かな煙が立ち昇っているだけで寒さを凌ぐほどの効果はない。
霧が森を覆いつつあり、じわじわと周囲を侵食していく。
七海は自前のリュックサックを枕にしつつ、毛布に包まって眠っていた。抱き枕代わりにムー太を抱いて、凍てつくほどの寒さをガードしながら熟睡している。そして、小さく縮こまる少女を風から守るように陣取って、魔眼狼もまた寝息を立てていた。
ムー太が目を覚ますと、すぐ目の前に七海の顔があり、彼女は良い夢でも見ているのか幸せそうな表情で「むにゃ……絶対に離さないからね。ムー太……むにゃむにゃ」などと言いながら頬ずりしてくる。
七海が体を動かすたびに、冷えた外気が毛布の隙間から入ってくるけれど、人肌の温もりに守られて、それほど気にならなかった。
しばらくその状態で居たものの、すぐに飽きてしまい動きたくなる。
しかし、体を動かそうとすると、七海は両腕をぎゅっと引き締めて逃がそうとしない。無意識の行動なのだろうけれど、余りに強く抱きしめるものだから、七海の胸が顔に押し付けられて息苦しい。
悲鳴を上げたかったけれど、起こしてしまうのも悪い気がして、結局、ムー太は我慢した。
脱出を諦めたムー太はゆっくりと目を瞑る。すると、無意識のうちに、思考の波が形成されて次から次へと押し寄せてきた。思い出されるのは、昨日の出来事。七海との出会いから今に至るまでの回想。
七海は終始一貫して、ムー太に優しかった。大事そうに抱きかかえ、基本的に離そうとしない。それをムー太は煩わしいと思わなかったし、むしろ、幸せな気分になれて嬉しかった。
ムー太の本能が告げる人間というものは、もっと危険で自分勝手で魔物に対して容赦がないというイメージだった。だから、人間に捕まったと思った時は恐怖を感じたし、これほど優しくされるとは思っていなかった。
なぜ、彼女は優しく接してくれるのだろう、とムー太は疑問を感じる。答えはわからないけれど、七海に悪意がないことは理解していたし、向けられた好意が本物であることも理解していた。
ムー太は、七海のことが好きだ。優しく撫でてくれる七海が好き。おいしい食べ物を分けてくれる七海が好き。自分の気持ちを汲み取ってくれる七海が好き。
では、七海はなんで自分のことを好きなのだろうか?
思考の波はぐるぐると渦を巻き始め――、ウトウトとまどろみ始めた時だった。
草を掻き分けるガサガサという音と、人間の話し声が聴こえてきた。ムー太よりも早くそれを察知していた魔眼狼は、低く小さく唸りを上げた。
「グルルルル……」
「しー、大きな声を出したら気づかれる」
いつの間にか目を覚ましていた七海は、むくりと起き上がり人差し指を立てながら注意した。その言葉が通じたのか、魔眼狼は唸るのを止めて沈黙する。
七海は囁くように小さな声で、
「ポチ、君は逃げたほうがいい。出血は完全に止まっているようだから、もう大丈夫。魔眼狼は危険な魔物だと認識されているから、話し合いも不可能だし、やつら目の色変えて攻撃してくるに違いないよ」
「クォーン……」
「心配してくれてるの? 大丈夫だよ、何の問題もない」
「クォーン……」
魔眼狼は、尚も心配そうに七海を見つめる。その目は、王に忠誠を誓った兵士のようだった。
七海は苦笑すると、バシッと魔眼狼のお尻を叩いた。
「ほら、行きな!」
びくっと体を震わした魔眼狼は、その勢いで駆け出した。しばらく走ってから振り返り、迷いの眼差しを送ってくる。そこで七海は鬼となり、追い払うように手を振った。
魔眼狼は少し寂しそうに一礼すると、そのまま朝霧の中へ消えていった。
「魔物でも義理を大切にしたりするのかな。ねえ、ムー太はどう思う?」
「むきゅう?」
七海は少しだけ寂しそうだった。
だが、感傷に浸かる時間はない。
足音が近づき、不鮮明だった話し声が徐々に鮮明なものへと変わっていく。
「その話は本当なんでしょうね? 嘘だったら承知しないからね」
「おいおい、疑ってくれるなよ。小便に起きたとき、確かに見たんだ……明かりがうっすらとな。魔族かもしれねーから気をつけろよ」
「いや、それが本当なら同業者の可能性が高いだろう」
声の調子と会話内容から、三人の人間が近づいてくるのがわかる。男二人に女一人のようだ。
七海は小さく舌打ちして、
「バレてる……仕方ないか。森の中で見かけた人間は、もっと多かった気がするけど……。とにかく、まずは敵じゃないことを示さないとね」
「むきゅう」
ムー太は不安だったけれど、七海が一緒という安心感が手伝って、比較的冷静でいられた。体が震えるのは寒さのせいだけではないけれど、『大丈夫』と自分に言い聞かせる。
七海はムー太を抱えたまま立ち上がり、翻るマフラーの裾を背中に流しながら不敵な笑みを浮かべた。
「ただ待っているのも退屈だし、こっちから行こうか。大丈夫、ムー太は必ず守ってみせるんだから」
そう言うと、軽い足取りで朝霧の中へと踏み入った。
薬草を塗りこみ、包帯をぐるぐる巻きにされた魔眼狼――七海によってポチと名付けられた――は、地に突っ伏したまま、夕食の準備に従事する少女の後ろ姿を眺めていた。
そのすぐ隣。陽が落ちて冷え込み始める中、ムー太は焚き火で暖をとっている。ちょこんと座り、くりくりの目を瞬きながら、薪が燃え広がるのを観察していた。くべられた薪はバチバチと音を鳴らし、オレンジ色の炎は周囲を薄く照らし出す。
ゆらゆらと形を変える炎が不思議で、触角を伸ばそうと――
「ダメだよ、ムー太! 触ったら火傷するからダメ」
と、叱られてしまい、おずおずとボンボンを引っ込める。
七海は、小さな子供を観察するようにムー太の一挙手一投足に気を配りながら、芋の皮を剥き一口大へと切っていく。トントントン、と一定の間隔で振るわれる包丁の音だけが、夜闇に吸い込まれて消える。
淀みのない慣れた手つきで下ごしらえを終えると、具材を小さな鍋に放り込み、地面に固定した木の棒へ引っ掛けた。ぐつぐつと煮立つ鍋に、様々な種類の香辛料を投げ入れて味を整えていく。
スパイシーな匂いが周囲に立ち昇り、ムー太のお腹が鳴った。おいしそうではあるけれど、何だか目がピリピリする。ごしごしと自慢のボンボンで目元を擦ってみるが、ピリピリは取れなかった。
「むきゅう……」
「やっぱり、香辛料の刺激は苦手なんだね。でも、味は気に入るはずだよ」
七海は自信満々に胸を張ってみせる。
一人だったならば、その刺激から逃げ出していたかもしれない。彼女が美味しいというのだから、恐らくそうなのだろう。
そんなことを考えながら、赤く煮立った芋鍋を見つめる。
煮込むことで形が崩れ、芋が内包していたとろみ成分が溶け出して、ドロドロとした見た目へと変わっていく。そんな赤い液体がボコボコと音を立てているものだから、火口から吹き出るマグマを連想してしまい、ムー太は少し怖かった。
とはいえ、漂ってくる匂いは魅力的だ。どんな味がするのだろうか? 時間と共に期待が膨らむ。
七海は、木製のお玉を持ち上げて、ドロドロとこぼれ落ちるスープを真剣な眼差しで睨みつける。が、すぐにその表情は緩み、満足して言った。
「よーし、完成っ!」
「むきゅう!」
七海の嬉しそうな声に同調して、ムー太も歓声を上げた。
二つのお皿に、煮崩れした芋とドロっとしたスープが盛り付けられる。地面に寝そべるように座る魔眼狼の前にその一つを置いて、七海が言った。
「口に合うかわからないけど、これはポチの分ね」
魔眼狼は、鼻を近づけ臭いを嗅ぐと一瞬だけ顔をしかめた。しかし、七海が「無理に食べなくても――」と言いかけた時、意を決したかのようにガツガツガツと食べ始めて「クォーン」と一鳴きした。
いくらか驚いた七海ではあったが、浅いため息をついて微笑むと踵を返し、ムー太の横に腰を下ろす。ぽふぽふ、と太股を叩いてくる愛玩動物を抱き上げると、そのまま膝の上に乗せてぎゅっと抱きしめた。
しばらくの間、その感触を楽しみ愛でてから、
「私たちも、ご飯にしよっか」
「むきゅう!」
待ってましたといわんばかりにムー太は鳴いて、ワクワクを表すように触角を揺らす。しかし、どろっとした液体にボンボンを浸せば、まず間違いなく汚れてしまう。それに湯気が立っているので、火傷してしまうかもしれない。
どうしよう。と、ムー太が困っていると、
「食べさせてあげるから、心配しなくていいよ」
そう言って、七海は細長い棒を手に取った。二本の棒をチョキチョキと器用に動かして、その狭間に芋を挟んで持ち上げる。そうしてムー太の口元に持ってきてくれた。
が、寸での所で芋は上昇し、七海の口元へと運ばれていく。
あと一歩というところでお預けされて、ムー太は不満そうに鳴いた。意地悪されたと思ったので、頬をぷくっと膨らませて、七海を恨めしげに見上げる。
と、しかし。
「ふーふー」
七海が吐息を当てると、芋からは白い湯気が炎のように湧き上がる。何度か繰り返すうちに湯気の勢いは衰えていき、そして、芋は七海の口に運ばれることなく、ムー太の元へと戻ってきた。
「冷ましてみたけど、それでも熱いから気をつけてね。はい、あーん」
再び接近してきたソレを受け入れるべく、ムー太は小さな口を開く。
ほくほくに煮えた芋が口の中に入ると、まず感じたのは刺激。様々な種類の辛みが、色々な角度から舌にぶつかってきて、その衝撃に驚いて目を白黒させた。
突然の奇襲にもめげずに噛み砕いていくと、辛みを押しのけるように甘みが染み出てくる。噛めば噛むほど甘みは広がり、辛みと衝突してマイルドな味わいへと変わっていく。
もぐもぐもぐもぐ、ごくん。
噛めば噛むほど味に深みが増すことにムー太は驚きを隠せない。名残惜しそうに舌でペロリと口元を拭うと、おかわりが欲しくて鳴いた。
「むきゅう」
「へへへー、美味しかったでしょー?」
「むきゅう!」
「このお芋はね、普通に食べると甘ったるくて沢山食べるのは大変なの。だからこうして、香辛料で中和してから食べるんだってさ」
七海はうんちくを披露しながらも、次の芋を運んできてくれる。ムー太はそれを次から次へと頬張って、ほっぺをパンパンに膨らませながら味わった。人間にとって一口大に切られた芋は、煮崩れすることで、ムー太にとって丁度いい大きさになっていたのだ。
母鳥が雛に餌を与えるように、七海はムー太に食事を与え続けた。それが何だか嬉しくて、もっと甘えたい気持ちになってしまう。
もぐもぐと口を動かしながら顔を上げると「ほら、口の周り汚れてるよ」と彼女は笑い、湿った布で口元をゴシゴシと拭う。そのぐらい自分で綺麗にできると思ったけれど、向けられた笑顔が眩しくて、結局、ムー太はされるがままだった。
お腹が膨れると、お約束のように眠くなる。
◇◇◇◇◇
夜も明けようかという早朝。辺りはまだ薄暗く冷え込みも厳しい。
焚き火はほぼ鎮火しており、燻る僅かな煙が立ち昇っているだけで寒さを凌ぐほどの効果はない。
霧が森を覆いつつあり、じわじわと周囲を侵食していく。
七海は自前のリュックサックを枕にしつつ、毛布に包まって眠っていた。抱き枕代わりにムー太を抱いて、凍てつくほどの寒さをガードしながら熟睡している。そして、小さく縮こまる少女を風から守るように陣取って、魔眼狼もまた寝息を立てていた。
ムー太が目を覚ますと、すぐ目の前に七海の顔があり、彼女は良い夢でも見ているのか幸せそうな表情で「むにゃ……絶対に離さないからね。ムー太……むにゃむにゃ」などと言いながら頬ずりしてくる。
七海が体を動かすたびに、冷えた外気が毛布の隙間から入ってくるけれど、人肌の温もりに守られて、それほど気にならなかった。
しばらくその状態で居たものの、すぐに飽きてしまい動きたくなる。
しかし、体を動かそうとすると、七海は両腕をぎゅっと引き締めて逃がそうとしない。無意識の行動なのだろうけれど、余りに強く抱きしめるものだから、七海の胸が顔に押し付けられて息苦しい。
悲鳴を上げたかったけれど、起こしてしまうのも悪い気がして、結局、ムー太は我慢した。
脱出を諦めたムー太はゆっくりと目を瞑る。すると、無意識のうちに、思考の波が形成されて次から次へと押し寄せてきた。思い出されるのは、昨日の出来事。七海との出会いから今に至るまでの回想。
七海は終始一貫して、ムー太に優しかった。大事そうに抱きかかえ、基本的に離そうとしない。それをムー太は煩わしいと思わなかったし、むしろ、幸せな気分になれて嬉しかった。
ムー太の本能が告げる人間というものは、もっと危険で自分勝手で魔物に対して容赦がないというイメージだった。だから、人間に捕まったと思った時は恐怖を感じたし、これほど優しくされるとは思っていなかった。
なぜ、彼女は優しく接してくれるのだろう、とムー太は疑問を感じる。答えはわからないけれど、七海に悪意がないことは理解していたし、向けられた好意が本物であることも理解していた。
ムー太は、七海のことが好きだ。優しく撫でてくれる七海が好き。おいしい食べ物を分けてくれる七海が好き。自分の気持ちを汲み取ってくれる七海が好き。
では、七海はなんで自分のことを好きなのだろうか?
思考の波はぐるぐると渦を巻き始め――、ウトウトとまどろみ始めた時だった。
草を掻き分けるガサガサという音と、人間の話し声が聴こえてきた。ムー太よりも早くそれを察知していた魔眼狼は、低く小さく唸りを上げた。
「グルルルル……」
「しー、大きな声を出したら気づかれる」
いつの間にか目を覚ましていた七海は、むくりと起き上がり人差し指を立てながら注意した。その言葉が通じたのか、魔眼狼は唸るのを止めて沈黙する。
七海は囁くように小さな声で、
「ポチ、君は逃げたほうがいい。出血は完全に止まっているようだから、もう大丈夫。魔眼狼は危険な魔物だと認識されているから、話し合いも不可能だし、やつら目の色変えて攻撃してくるに違いないよ」
「クォーン……」
「心配してくれてるの? 大丈夫だよ、何の問題もない」
「クォーン……」
魔眼狼は、尚も心配そうに七海を見つめる。その目は、王に忠誠を誓った兵士のようだった。
七海は苦笑すると、バシッと魔眼狼のお尻を叩いた。
「ほら、行きな!」
びくっと体を震わした魔眼狼は、その勢いで駆け出した。しばらく走ってから振り返り、迷いの眼差しを送ってくる。そこで七海は鬼となり、追い払うように手を振った。
魔眼狼は少し寂しそうに一礼すると、そのまま朝霧の中へ消えていった。
「魔物でも義理を大切にしたりするのかな。ねえ、ムー太はどう思う?」
「むきゅう?」
七海は少しだけ寂しそうだった。
だが、感傷に浸かる時間はない。
足音が近づき、不鮮明だった話し声が徐々に鮮明なものへと変わっていく。
「その話は本当なんでしょうね? 嘘だったら承知しないからね」
「おいおい、疑ってくれるなよ。小便に起きたとき、確かに見たんだ……明かりがうっすらとな。魔族かもしれねーから気をつけろよ」
「いや、それが本当なら同業者の可能性が高いだろう」
声の調子と会話内容から、三人の人間が近づいてくるのがわかる。男二人に女一人のようだ。
七海は小さく舌打ちして、
「バレてる……仕方ないか。森の中で見かけた人間は、もっと多かった気がするけど……。とにかく、まずは敵じゃないことを示さないとね」
「むきゅう」
ムー太は不安だったけれど、七海が一緒という安心感が手伝って、比較的冷静でいられた。体が震えるのは寒さのせいだけではないけれど、『大丈夫』と自分に言い聞かせる。
七海はムー太を抱えたまま立ち上がり、翻るマフラーの裾を背中に流しながら不敵な笑みを浮かべた。
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