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本編
第25話:モフモフと異世界からやって来た英雄
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七海は異世界人である。
というのは、あくまでこちらの世界から見た場合の話で、彼女からしたらこちらの世界こそが異世界に他ならない。彼女は地球から迷い込んだ日本人であり、魔法とは無縁の生活を送る平凡(というと語弊があるが)な少女だったからだ。
異世界に迷い込んだ日のことは、いまでもよく覚えている。
中学三年生、夏休み明けの登校日のことだった。
八月も終わったというのにセミの音がサイレンのようにけたたましく鳴っていた。夏の終わりを感じさせない勤勉で元気なセミたちとは違い、七海は夏休み明けの憂鬱な気分のまま登校している最中だった。前方を見据える目に覇気はなく、汗ばむ制服をパタパタと扇ぎながら歩くその足取りは重い。
途中、通学路を無視して公園の中へと入った。地元の小学生の間では『みどり公園』と呼ばれている公園で、その名の通り多くの木が生い茂っている。
敷地は広い。お馴染みの遊具はもちろん、少し豪華なアスレチックまであって子供たちには人気の公園だ。園内には他にも、野球場やらテニスコート、果てには市民プールまで併設されていて、大人の利用者も多い。
そんな事情から幅広い市民に親しまれるみどり公園ではあるが、その面積が仇となり、生徒の行く手を阻む巨大な障害物になっていた。つまり、七海の通う中学校は公園の向こう側にあるのだ。
馬鹿正直に通学路を守って迂回すれば二十分はかかる道のりである。が、公園を突っ切りショートカットを行えば、八分ほどで抜けることが可能だった。
育ち盛りの生徒たちにとって、睡眠時間というのは非常に重要である。二十分が八分に縮まるだけで、十二分も多く布団の中でまどろむことができるのだ。
結果、通学路を守る者は皆無であり、公園を通って通学することが生徒の間では伝統となっている。無論、七海も例外ではない。
そんな理由で、ふらふらと幽霊のような足取りで木陰を選びながら園内を歩いていく。暑い。ただそれだけが頭の中にあった。
途中にある吊り橋を模した遊具を横目で見て、小さい頃は弟とよく遊びにきたなぁ、と感慨に思った。そして、ふと違和感に気がついた。
静かだった。
無音。いかなる雑音も耳には届かない。
足を止めて首を傾げる。
園内に生息するセミは一匹や二匹では到底収まらず、八月が終わった今でも彼らの合唱は続いていた。事実、先ほどまで鼓膜をドンドンと叩いていたではないか。
それが突然、示し合わせたかのようにいっせいに合唱を止めてしまった。いつから音が止んでいたのか、彼女にはわからない。しかし、なぜかそれがとても重要なことであるような気がした。
一陣の風が吹く。枝葉が揺れ、ガサガサと擦れ合う音が生まれて耳に届く。無音の中に生じたそれは、不安を煽るかのごとく不気味なものであった。
ハッと顔を上げ、周囲を見回す。
誰もいない。
園内に立てられた柱時計を見る。八時十二分。
「え……なんで?」
七海が不安に駆られるのは当然だった。
みどり公園は非公式ながら、生徒たちの通学路として使われている。公園を抜ければ目と鼻の先に学校があるので、通学のピークは必然的に八時十分~二十分の間に集中することになる。
従って、今この瞬間、園内に他の生徒がいないのは不自然なのである。
まず初めに考えたのは、登校日を間違えたのではないかということだった。実はまだ夏休みは終わっていなくて、一日フライングしてしまったのではないか、と。
しかし、即座に否定して首を振る。
というのも、昨夜のことだ。夏休みが終わってしまうことを憂いた七海は、あと一日ぐらい夏休みが残っているんじゃないかという淡い期待を抱き、祈るようにしてカレンダーを確認した結果、絶望したという残念なエピソードがあったからである。
しかも、その一回だけでは諦めが付かず、何度も確認しているところを弟に見つかって、『見苦しいよ、ナナ姉。諦めて明日の準備しなよ』だなんて言われまでした。腹が立ったので弟に八つ当たりしたのは内緒だ。
ともあれ、前述の理由から九月一日が日曜日でした、なんて可能性もありえない。もしそうであれば、七海が見逃すはずもないし、こんなに憂鬱になることもなかったのだから。
「臨時休校? インフルエンザ?」
それらしい理由を口にしてみると、少しだけ不安が和らいだ。
休校になったのならば、実質的に夏休みが一日伸びるようなものである。理由如何によっては、更なる延長もありえる。あごに手をやり少考した結果、そんな楽観的な結論に達したのは、彼女がまだ普通の女の子だったからだ。
とにもかくにも、登校してみれば事情がはっきりするだろう。他の生徒が居れば情報を得られるだろうし、それが無理なら職員室に行けばよい。そう思って、一歩を踏み出した。その時だった。
「天賦の才に恵まれし者よ、あなたの力が必要です。どうかその力を以って、目障りな魔王を討滅してください。それが叶ったなら、元の世界へ返すことを約束しましょう」
男性の声よりも高く、女性の声よりも低い。中性的な声が頭に響いた。
と、同時。
世界がぐにゃりと歪んだ。
最初、眩暈を起こしたのだと思った。だから七海は頭を抑えて目を瞑り、転んでしまわないように踏ん張った。そして次に目を開いたとき、周囲の景色は一変してしまっていた。
正面、古風な石造りの家が視界に入った。辺りを見回せば似たような家々が並んでいる。幻覚でも見ているのかと思い、目をゴシゴシと擦って再度見回してみたが、結果は同じ。
言葉では言い表せない不安感が全身を覆う。
直感が告げていた。非常事態が発生したのだと。
明らかに園内ではないどこか。見覚えのない異なる地に自分は立っている。
目を瞑っていたのは時間にして二、三秒程度だったと思う。そんな短い時間では、公園から脱出することさえ不可能だ。
何者かに気絶させられ、意識がない状態で運ばれたのだろうか。いいや、気を失ったりしていないことだけは断言できる。ならば、ここは一体どこなのか?
彼女が異世界に転移した可能性に気がついたのは、それからしばらくしてのことだった。
◇◇◇◇◇
後になってわかったことだが、七海が迷い込んだのはベレナ村という小さな集落だった。幸いなことに言葉は通じて、情報を集めることができた。
彼らは薄汚れた布の衣服を着ており、制服姿の七海を見て上流階級の人間だと勘違いしたようだった。へりくだり頭を下げられたのは居心地が悪かったけれど、親切に説明をしてくれたのは本当に助かった。
持ち物は通学用の薄っぺらい鞄が一つだけ。初日はプリントを持ち帰るだけなので、中身は筆記用具ぐらいしか入っていない。装備はおろか道具もお金もない現状は、どう考えても詰んでいた。
村の中央にある広場。
その片隅に座り込み、七海は途方に暮れることしかできない。
どうやって家に帰ればいいのだろう。
そろそろ夕時だ。このまま夜を迎えたら、野宿するしかないのだろうか。
そういえば、朝から何も食べていない。お腹が減った。
お金もないのに、これからどうしたらいいのだろう。
体育座りの両膝の上に額を乗せて、身を縮めるようにしてそんなことを考えていた。そんな時、彼女の肩がポンポンと優しく叩かれた。
顔を上げてみると、人の良さそうなお婆さんが立っていた。
「どうしたね、魔族に出会おうたみたいな顔をして。村の娘ではないようじゃね。何か困っているんかい? わたしでよければ力になるんよ」
自分を気遣ってくれる温かい言葉が、不安で孤独だった彼女にはとてもありがたく感じた。じわっと涙が目に浮かび、堪え切れずにそのままボロボロと落ちた。一度、堰を切って流れ出した涙を止めることは叶わない。
老婆は「ありゃま」と笑い、七海が落ち着くまで背中を擦ってくれた。
事情を聞かれ、鼻を啜り上げながら七海はすべてを打ち明けた。すると老婆は疑うこともなく「そうかそうか、大変じゃったね」と言いながら、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いてくれた。そして彼女は、にこりと微笑んで言った。
「行くところがないなら、うちに来ればええ」
行く当てのなかった七海に断る理由はなかった。促されるまま老婆の家へと案内されて、夕食をご馳走になった。そのメニューは、温かいスープとブロック状の肉を長時間煮込んだチャンダの二品。今まで食べたどの料理よりも美味しく、どん底にあった七海にとって希望の味だった。
老婆は夫を早くに亡くした未亡人で、名前をソニアといった。
人の良い彼女だったから、互いを「ソニアさん」「ナナミちゃん」と呼び合い、打ち解けるまでそう長い時間は掛からなかった。
七海は畑仕事を率先して手伝って、日々を過ごした。自分を助けてくれたソニアに少しでも恩を返したかったからだ。苦手だった家事にも積極的に取り組んで、元々器用でなんでもこなせる彼女はすぐに上達していった。
家に帰りたい。そう思うことは幾度もあった。けれど、そう願っても帰る術がないのではどうしようもない。体を動かすことで雑念を振り払い、ただ生きることだけを考えた。
とはいえ、異世界に来てよかったと思えることが一つだけあった。
魔法使いになりたい。幼い頃に誰もが一度は描くであろう他愛もない夢。大人になるに連れて風化するそれは、しかし、まだ中学生だった少女の心の中に願望として根付いていた。
だから、初めて魔法を見たときの彼女の驚きは相当なものであり、そしてそれはこの世界で生きていくのも悪くないと思わせる切っ掛けとなった。
七海は魔法を習いたかったが、村人たちの中に魔法を使えるものはいなかった。彼女が見た魔法でさえも、魔法式が組み込まれた道具を用いただけに過ぎず、奇跡を起こす原理などは謎に包まれたままだった。
けれど、魔力の制御だけは教えてもらうことができた。この世界の人間にとって魔力の制御は呼吸するのと同じぐらい当たり前のことであり、魔法知識のないソニアでも教えることができたのだ。
そして、七海はすぐに魔力の制御ができるようになった。するとソニアは記念だと言って、なけなしのお金をはたいて一振りの木刀をプレゼントしてくれた。
何の変哲もない木刀に見えるが、刃には魔法式が刻まれていて魔力を篭めて振るえば、突風を巻き起こせるというものだった。殺傷力はない玩具のようなものだったが、七海はえらく喜んで大事にした。
ソニアは本当に親切だった。裕福とはいえない生活の中にありながらも、常に七海のことを気に懸けてくれているのが伝わってくる。その優しさに触れて、七海はだんだんと村での生活が好きになっていった。
元の世界に帰りたいという想いは依然としてあったが、ソニアと別れるのも寂しいと感じ始めていた。だから七海は、どうにかして魔法を学ぶことを直近の目標とすることにした。
そしてしばらくは、平穏な日々が続いた。
しかし、異世界の生活にも慣れ始めたある日、事件は起きてしまったのだ。
魔族が村に攻めて来た。
というのは、あくまでこちらの世界から見た場合の話で、彼女からしたらこちらの世界こそが異世界に他ならない。彼女は地球から迷い込んだ日本人であり、魔法とは無縁の生活を送る平凡(というと語弊があるが)な少女だったからだ。
異世界に迷い込んだ日のことは、いまでもよく覚えている。
中学三年生、夏休み明けの登校日のことだった。
八月も終わったというのにセミの音がサイレンのようにけたたましく鳴っていた。夏の終わりを感じさせない勤勉で元気なセミたちとは違い、七海は夏休み明けの憂鬱な気分のまま登校している最中だった。前方を見据える目に覇気はなく、汗ばむ制服をパタパタと扇ぎながら歩くその足取りは重い。
途中、通学路を無視して公園の中へと入った。地元の小学生の間では『みどり公園』と呼ばれている公園で、その名の通り多くの木が生い茂っている。
敷地は広い。お馴染みの遊具はもちろん、少し豪華なアスレチックまであって子供たちには人気の公園だ。園内には他にも、野球場やらテニスコート、果てには市民プールまで併設されていて、大人の利用者も多い。
そんな事情から幅広い市民に親しまれるみどり公園ではあるが、その面積が仇となり、生徒の行く手を阻む巨大な障害物になっていた。つまり、七海の通う中学校は公園の向こう側にあるのだ。
馬鹿正直に通学路を守って迂回すれば二十分はかかる道のりである。が、公園を突っ切りショートカットを行えば、八分ほどで抜けることが可能だった。
育ち盛りの生徒たちにとって、睡眠時間というのは非常に重要である。二十分が八分に縮まるだけで、十二分も多く布団の中でまどろむことができるのだ。
結果、通学路を守る者は皆無であり、公園を通って通学することが生徒の間では伝統となっている。無論、七海も例外ではない。
そんな理由で、ふらふらと幽霊のような足取りで木陰を選びながら園内を歩いていく。暑い。ただそれだけが頭の中にあった。
途中にある吊り橋を模した遊具を横目で見て、小さい頃は弟とよく遊びにきたなぁ、と感慨に思った。そして、ふと違和感に気がついた。
静かだった。
無音。いかなる雑音も耳には届かない。
足を止めて首を傾げる。
園内に生息するセミは一匹や二匹では到底収まらず、八月が終わった今でも彼らの合唱は続いていた。事実、先ほどまで鼓膜をドンドンと叩いていたではないか。
それが突然、示し合わせたかのようにいっせいに合唱を止めてしまった。いつから音が止んでいたのか、彼女にはわからない。しかし、なぜかそれがとても重要なことであるような気がした。
一陣の風が吹く。枝葉が揺れ、ガサガサと擦れ合う音が生まれて耳に届く。無音の中に生じたそれは、不安を煽るかのごとく不気味なものであった。
ハッと顔を上げ、周囲を見回す。
誰もいない。
園内に立てられた柱時計を見る。八時十二分。
「え……なんで?」
七海が不安に駆られるのは当然だった。
みどり公園は非公式ながら、生徒たちの通学路として使われている。公園を抜ければ目と鼻の先に学校があるので、通学のピークは必然的に八時十分~二十分の間に集中することになる。
従って、今この瞬間、園内に他の生徒がいないのは不自然なのである。
まず初めに考えたのは、登校日を間違えたのではないかということだった。実はまだ夏休みは終わっていなくて、一日フライングしてしまったのではないか、と。
しかし、即座に否定して首を振る。
というのも、昨夜のことだ。夏休みが終わってしまうことを憂いた七海は、あと一日ぐらい夏休みが残っているんじゃないかという淡い期待を抱き、祈るようにしてカレンダーを確認した結果、絶望したという残念なエピソードがあったからである。
しかも、その一回だけでは諦めが付かず、何度も確認しているところを弟に見つかって、『見苦しいよ、ナナ姉。諦めて明日の準備しなよ』だなんて言われまでした。腹が立ったので弟に八つ当たりしたのは内緒だ。
ともあれ、前述の理由から九月一日が日曜日でした、なんて可能性もありえない。もしそうであれば、七海が見逃すはずもないし、こんなに憂鬱になることもなかったのだから。
「臨時休校? インフルエンザ?」
それらしい理由を口にしてみると、少しだけ不安が和らいだ。
休校になったのならば、実質的に夏休みが一日伸びるようなものである。理由如何によっては、更なる延長もありえる。あごに手をやり少考した結果、そんな楽観的な結論に達したのは、彼女がまだ普通の女の子だったからだ。
とにもかくにも、登校してみれば事情がはっきりするだろう。他の生徒が居れば情報を得られるだろうし、それが無理なら職員室に行けばよい。そう思って、一歩を踏み出した。その時だった。
「天賦の才に恵まれし者よ、あなたの力が必要です。どうかその力を以って、目障りな魔王を討滅してください。それが叶ったなら、元の世界へ返すことを約束しましょう」
男性の声よりも高く、女性の声よりも低い。中性的な声が頭に響いた。
と、同時。
世界がぐにゃりと歪んだ。
最初、眩暈を起こしたのだと思った。だから七海は頭を抑えて目を瞑り、転んでしまわないように踏ん張った。そして次に目を開いたとき、周囲の景色は一変してしまっていた。
正面、古風な石造りの家が視界に入った。辺りを見回せば似たような家々が並んでいる。幻覚でも見ているのかと思い、目をゴシゴシと擦って再度見回してみたが、結果は同じ。
言葉では言い表せない不安感が全身を覆う。
直感が告げていた。非常事態が発生したのだと。
明らかに園内ではないどこか。見覚えのない異なる地に自分は立っている。
目を瞑っていたのは時間にして二、三秒程度だったと思う。そんな短い時間では、公園から脱出することさえ不可能だ。
何者かに気絶させられ、意識がない状態で運ばれたのだろうか。いいや、気を失ったりしていないことだけは断言できる。ならば、ここは一体どこなのか?
彼女が異世界に転移した可能性に気がついたのは、それからしばらくしてのことだった。
◇◇◇◇◇
後になってわかったことだが、七海が迷い込んだのはベレナ村という小さな集落だった。幸いなことに言葉は通じて、情報を集めることができた。
彼らは薄汚れた布の衣服を着ており、制服姿の七海を見て上流階級の人間だと勘違いしたようだった。へりくだり頭を下げられたのは居心地が悪かったけれど、親切に説明をしてくれたのは本当に助かった。
持ち物は通学用の薄っぺらい鞄が一つだけ。初日はプリントを持ち帰るだけなので、中身は筆記用具ぐらいしか入っていない。装備はおろか道具もお金もない現状は、どう考えても詰んでいた。
村の中央にある広場。
その片隅に座り込み、七海は途方に暮れることしかできない。
どうやって家に帰ればいいのだろう。
そろそろ夕時だ。このまま夜を迎えたら、野宿するしかないのだろうか。
そういえば、朝から何も食べていない。お腹が減った。
お金もないのに、これからどうしたらいいのだろう。
体育座りの両膝の上に額を乗せて、身を縮めるようにしてそんなことを考えていた。そんな時、彼女の肩がポンポンと優しく叩かれた。
顔を上げてみると、人の良さそうなお婆さんが立っていた。
「どうしたね、魔族に出会おうたみたいな顔をして。村の娘ではないようじゃね。何か困っているんかい? わたしでよければ力になるんよ」
自分を気遣ってくれる温かい言葉が、不安で孤独だった彼女にはとてもありがたく感じた。じわっと涙が目に浮かび、堪え切れずにそのままボロボロと落ちた。一度、堰を切って流れ出した涙を止めることは叶わない。
老婆は「ありゃま」と笑い、七海が落ち着くまで背中を擦ってくれた。
事情を聞かれ、鼻を啜り上げながら七海はすべてを打ち明けた。すると老婆は疑うこともなく「そうかそうか、大変じゃったね」と言いながら、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いてくれた。そして彼女は、にこりと微笑んで言った。
「行くところがないなら、うちに来ればええ」
行く当てのなかった七海に断る理由はなかった。促されるまま老婆の家へと案内されて、夕食をご馳走になった。そのメニューは、温かいスープとブロック状の肉を長時間煮込んだチャンダの二品。今まで食べたどの料理よりも美味しく、どん底にあった七海にとって希望の味だった。
老婆は夫を早くに亡くした未亡人で、名前をソニアといった。
人の良い彼女だったから、互いを「ソニアさん」「ナナミちゃん」と呼び合い、打ち解けるまでそう長い時間は掛からなかった。
七海は畑仕事を率先して手伝って、日々を過ごした。自分を助けてくれたソニアに少しでも恩を返したかったからだ。苦手だった家事にも積極的に取り組んで、元々器用でなんでもこなせる彼女はすぐに上達していった。
家に帰りたい。そう思うことは幾度もあった。けれど、そう願っても帰る術がないのではどうしようもない。体を動かすことで雑念を振り払い、ただ生きることだけを考えた。
とはいえ、異世界に来てよかったと思えることが一つだけあった。
魔法使いになりたい。幼い頃に誰もが一度は描くであろう他愛もない夢。大人になるに連れて風化するそれは、しかし、まだ中学生だった少女の心の中に願望として根付いていた。
だから、初めて魔法を見たときの彼女の驚きは相当なものであり、そしてそれはこの世界で生きていくのも悪くないと思わせる切っ掛けとなった。
七海は魔法を習いたかったが、村人たちの中に魔法を使えるものはいなかった。彼女が見た魔法でさえも、魔法式が組み込まれた道具を用いただけに過ぎず、奇跡を起こす原理などは謎に包まれたままだった。
けれど、魔力の制御だけは教えてもらうことができた。この世界の人間にとって魔力の制御は呼吸するのと同じぐらい当たり前のことであり、魔法知識のないソニアでも教えることができたのだ。
そして、七海はすぐに魔力の制御ができるようになった。するとソニアは記念だと言って、なけなしのお金をはたいて一振りの木刀をプレゼントしてくれた。
何の変哲もない木刀に見えるが、刃には魔法式が刻まれていて魔力を篭めて振るえば、突風を巻き起こせるというものだった。殺傷力はない玩具のようなものだったが、七海はえらく喜んで大事にした。
ソニアは本当に親切だった。裕福とはいえない生活の中にありながらも、常に七海のことを気に懸けてくれているのが伝わってくる。その優しさに触れて、七海はだんだんと村での生活が好きになっていった。
元の世界に帰りたいという想いは依然としてあったが、ソニアと別れるのも寂しいと感じ始めていた。だから七海は、どうにかして魔法を学ぶことを直近の目標とすることにした。
そしてしばらくは、平穏な日々が続いた。
しかし、異世界の生活にも慣れ始めたある日、事件は起きてしまったのだ。
魔族が村に攻めて来た。
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