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本編
第30話:モフモフと赤土の荒野
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ルカスを出て草原を東に進むと、次第に草木が減り始め荒野へと行き当たる。
荒野を形成するのはひび割れた赤色の土。枯れ果てた不毛の大地が地平線の先まで続いている。吹きすさぶ乾いた風が赤土を巻き上げ、空へと舞った砂塵がふたたび重力に引かれて地に降り注ぐ。
雨がほとんど降らない乾燥した地域で、人が住むのには適していない。草原と荒野の境目に、赤土採掘を目的とした小さな村が一つあるだけで、そこが最後の補給ポイントだった。
草原を五日、村に滞在して一日、そして荒野を歩き通して十日が過ぎた。
やせ細った大地には、草木がほとんど生えていない。永遠と同じような景色が続き、一日中歩き通しても目立った変化は訪れない。
そんな退屈な日常の中、ムー太の鼻は魔物の臭いを察知した。
遠巻きにこちらの様子を伺っているようで、それ以上近づいてくる気配はない。
「むきゅう」
ぽふぽふ、と七海の頬を叩き、敵の接近を知らせる。
くすぐったそうに目を細めた彼女は、疲れの見え始めた顔を引き結んだ。
「どうしたの、ムー太? また、魔物かな」
問われ、ムー太はこくりと頷く。
そのやり取りに素早く反応したアヴァンが、重荷を放り出し、長剣を抜いた。
「よし、今度こそ食料調達といこうじゃないか。って、ナナミちょっと待――」
言い終わる前に、七海が周囲に殺気を放った。
威圧するような気配が風に乗り、障害物の無い荒野を駆けていく。
すると、遠方に集結しつつあった魔物の気配が、遠ざかっていくのがわかった。
「むきゅう!」
危機が去り、ムー太は嬉しそうに七海を見上げる。彼女は得意げに胸を張り、
「力量差を見せ付けてやれば、争いは避けられるのよ」
お見事、と言いたげにムー太はボンボンを叩いて拍手を送る。
しかし、そんな彼女にアヴァンは苦言を呈した。
「ただでさえ、荒野は食料調達が難しいんだ。血に飢えた魔物は格好の獲物なんだぞ。それなのに、追い返すなんて勿体無い……」
「どっちにしても、接近されて私が戦う気になったら同じことだよ」
「荒野の魔物程度なら、護衛の必要はないんだ。任せてくれれば仕留めてみせる」
「食うに困ったわけじゃないし、別に良いじゃないの。ねえ、ムー太?」
保存食は常備されており、その残りにもまだまだ余裕がある。だから七海は食料調達よりも、争いを避けることを優先したようだ。平和主義のムー太も、これには賛成だった。
「むきゅう」
同意するように頷けば、二対一の構図が出来上がる。
ムー太の援護を得て、七海がしたり顔になって言う。
「まずは警告を送る。それでも襲ってくるなら倒す。それでいいじゃない。魔樹の森でのこともあるんだから、寄って来た魔物を全部倒していたら、また何かトラブルがあるかもしれないでしょ」
不服そうに唸り、アヴァンが俯く。
「それを言われると返す言葉がないな……」
と、ふいに砂塵を含んだ強風がビュウっと吹いた。
小粒の砂粒がコツコツとムー太の白毛にぶつかってくる。とっさに目をボンボンで覆おうとしたのだけれど、
「むきゅううう」
砂粒が目に入ってしまい、ムー太は混乱した。目がチクチクと痛いのだ。
ボンボンでごしごしと目元を擦ってみたけれど、痛みは取れない。
生まれて初めて感じた激痛に、ムー太は我慢できなかった。抱かれていることも忘れて、その場でもんどりを打とうとする。
アヴァンに意識を向けていた七海は、とつぜん腕の中で暴れ出したムー太に困惑するしかない。
「わわっ、どうしたのムー太。暴れたら危ないよ」
「むきゅううう」
混乱の渦中にあるムー太に、その言葉は届かない。
痛みで目を開けることができず、ムー太の視界は真っ暗だ。
ボンボンを振り乱し、目元をぽふぽふと叩いて痛みを追い出そうとするムー太。すると、七海の注意は薄っすらと涙の滲むつぶらな黒目に集まった。素早く魔法式を空中に描きながら、彼女は言った。
「わかった。わかったよ、ムー太。私がなんとかするから落ち着いて。アヴァン、コップを出してもらえるかな?」
「お、おう」
切羽詰った七海の呼びかけに、アヴァンは戸惑いながらも応じ、転がっていたリュックサックからコップを取り出した。七海はそれを受け取ると、即座に魔法式を発動させた。
すると、バケツ一杯分はあるだろう水の塊が中空に発生。そこにコップを突っ込み引き抜けば、なみなみと水が注がれた状態となる。残りの水は、重力に引かれて地面に落ちる。
コップをムー太の目元に近づけ、七海が言った。
「さぁ、ムー太。痛いだろうけど我慢して、目をパチパチするんだよ」
次の瞬間、目元が水で覆われるのを感じた。湯船に浸かって溺れかけたときに感じた、あの感覚だ。けれど、今のムー太に濡れることを気にしている余裕はない。
藁にもすがる思いで言われた通りに、パチパチと瞬きを繰り返す。何度も繰り返していると、いつの間にか痛みが治まっていた。
「むきゅう?」
驚きの鳴き声を上げ、ムー太が大人しくなる。
七海はほっと一息ついて、
「よかった。もう大丈夫だね?」
こくりと頷き、もじもじと体を動かして回転を始めるムー太。「ん?」と小首を傾げる七海と向き合う形になると、その柔らかい胸に顔をぐりぐりと埋めて、小さな子供のように鳴いた。
「むきゅううう」
「よしよし、痛かったよね。もう大丈夫だからね」
「そうしていると、赤ん坊をあやしてるみたいだな」
ムー太の背中をさすり、上下に揺らす姿を見たアヴァンが、そんな感想を口にした。彼はリュックサックからテントを取り出し、いつの間にか組み立て作業に入っている。日の位置を確認し、七海が疑問を口にした。
「あれ、夕暮れにはもう少しあるけど……」
「連日、歩き通しだし疲れただろう。それにたまには、マフマフと遊んでやれよ。その方が、ナナミのストレスも解消できるだろ」
アヴァンはいつだって七海を見ている。その興味が自分に向いていないことを知っているムー太はちょっぴり複雑だ。けれど、今はこのまま甘えていたい。だから彼の提案は有難かった。
「むきゅう!」
「気を遣ってくれたんだね。ありがと」
早速、七海も設営作業へ加わり、あっという間にテントが立った。
テントの規模は小さく、七海とアヴァンが一緒に入れば、他のスペースは残り僅かとなる。そんな狭いテントの中にいる時のみ、ムー太は解放されて自由行動が可能となる。
そんなわけで今回もまた、床にポンッと置かれた。けれども、今はもっと甘えたい気分だったので、ムー太はすぐ横にある七海の太ももに体をすりすりと擦り付けて、構ってもらいたくて鳴いた。
「むきゅう」
柔らかな白毛を擦り付けてくる愛玩動物を見下ろし、七海はふっと笑うと、片手でムー太を優しく撫でながら、
「乾燥して毛が少しパサパサしちゃってるね」
言われてみれば、体の調子がルカスに居た頃と少しだけ違う気がする。
抱かれていたのであまり実感はなかったのだけれど、床に密着していると少しごわごわした感じがする。パサパサになった毛並みをボンボンで撫でながら、ムー太は体を斜めに倒して疑問系で鳴いた。
その視線の先、七海は指先で流れるように魔法式を宙に刻み、魔力を篭めた。
すると、ムー太の周囲に霧雨が舞い、乾燥した白毛がしっとり湿る。
フカフカのタオルで綺麗に拭いてもらえば、自分を包む柔らかな感触が復活。
と、絶好調になったムー太の体の下(お腹の辺り)に七海が手を差し込み、すくい上げるようにして持ち上げた。ムー太の丸い体はころんと転がり半回転。
「むきゅううう?」
それを何度も繰り返し、ムー太の体は床の上をコロコロと転がる。
ひっくり返った無防備なお腹をこちょこちょと撫でられて、ムー太はくすぐったい。逃れようと自ら回転すれば、そこをもう一度すくい上げられ、またお腹が晒されてしまう。エンドレスに続く、くすぐり地獄にムー太が悲鳴を上げていると、
「ところで、ナナミは元の世界に帰りたくないのか?」
隅っこで胡坐をかいて、二人のやり取りをぼんやり眺めていたアヴァンが、ふいにそんな疑問を口にした。七海はくすぐりの手を緩め、小首を傾げた。
「どうしてそう思うの?」
「だって前に言ってただろ。マフマフのことをずっと守るんだって。だから帰るつもりは無いのかな……と思ってな。そもそも帰る手段が無いだけなのかもしれないが……」
「そうね、転移先の座標がわからなければ、そもそも転移魔法は使えない。つまり、異世界への転移は、今ある魔法式の技術じゃ到底不可能ってこと。でもね、帰る方法以前に、私の居た世界では、数日消えただけで大騒ぎになるの。それが一年、二年と過ぎれば、もう帰っても居場所がないんだ。だから私は、この世界で生きていくことに決めたの」
アヴァンはほっと安堵したようだった。七海の手前、それは顔に出していないけれど、揺れていた青い瞳が今はしっかりと焦点を結んでいる。身を乗り出すようにして前傾姿勢となり、彼は言った。
「なら、ずっとこっちの世界に居たらいい。居場所がなくなったら、俺が作ってやるからさ」
その余りにナチュラルすぎる宣言に、七海の頬が赤くなる。
「何それ、プロポーズ?」
「むきゅう?」
息がピッタリの二人に問われ、今度はアヴァンの顔が一瞬にして高潮した。以前にも見た一発芸のような特技を見て、ムー太は楽しくなって拍手を送る。
「ち、違っ!? 違うぞ。俺はただ一人の友人としてだな……」
大慌てでアヴァンが両手を振れば、七海は少し不機嫌になった。冷たい視線をアヴァンに飛ばし、口を尖らせながらムー太を抱き上げて、
「ふーん、違うんだ。じゃあ、ムー太はお嫁さんに貰ってくれる?」
「むきゅう?」
結婚という概念を知らないムー太には、何のことだかよくわからない。
とにかく、何かが貰えるらしい。その程度の認識しかないムー太は、食べ物だろうかと頭をひねる。そんなムー太を顔の高さにまで持ち上げて、彼女は柔らかく微笑んだ。
「結婚っていうのはね、ずーっと一緒に居ようねっていう約束みたいなものだよ」
「むきゅう!」
ムー太が元気よく即答すると、七海は「ありがとう」と言って、額にチュッとキスをした。そんな七海を不思議そうに見つめると、彼女は舌をペロッと出して照れくさそうに笑った。
「これからもよろしくね、ムー太」
「むきゅう」
こくりと頷き、姿勢を戻す。
アヴァンはぎこちなく立ち上がり、ガチガチに震える声で言った。
「よし、明日の作戦会議でもしよう。まずは地図を用意して――」
リュックサックを漁り始めた彼を冷めた目で眺めながら、七海が小声で呟いた。
「もう、意気地がないんだから」
疑問符を浮かべて、ムー太は丸い体を傾ける。
そうして時間は過ぎてゆき、荒野での一日が終わるのだった。
◇◇◇◇◇
旅の途中、ムー太は何度も悪夢を見た。
恐ろしい魔物に襲われる夢。人間に追いかけられる夢。腹ペコで動けなくなる夢。土砂崩れに巻き込まれる夢。洪水に流されてしまう夢。余りの寒さに凍えてしまう夢。反対に暑さで喉がカラカラに渇く夢。
けれど、夢の最後には必ずといっていいほど七海が登場して助けてくれるのだ。だからムー太は、夢の中でも安心していられた。安らかに眠ることができた。
ムー太の中で、七海の存在は日増しに大きくなっていった。
◇◇◇◇◇
荒野の横断を始めて二十日が過ぎた。
赤色の大地に日が沈む頃、夕焼けで空が真っ赤に染まる。逢魔が刻が訪れる刹那、赤土の大地と夕焼け空の色が限りなく近づき融合する。それは天と地の境目である地平線の判別が、難しくなる瞬間だった。
しかし、その日は違った。地平線の先に細長い影が横たわっていて、天と地との境目がはっきりと分かれていたのだ。
テントを張り、寝床を確保しに掛かる七海とアヴァン。彼女の傍らに置かれたムー太が、その変化に真っ先に気づいた。
「むきゅう?」
遠目なのではっきりとは見えないけれど、薄っすらと三角形が連なっているように見える。毎日同じ景色ばかりで退屈していたムー太は、湧き上がる好奇心を胸に興味深そうに鳴いた。
「むきゅう」
テントを張っている間は絶対に動いちゃダメ、と七海に言いつけられている。だから、ムー太はその場でポンポンとジャンプして、彼女の注意を引こうとした。
「どうしたの、ムー太?」
作業の手を止め、七海が首を回してこちらを見る。それを確認すると、ムー太は地平線に横たわる影をボンボンで指して、何度も鳴いた。
「むきゅう」
「ん……あれは、山脈っぽいね。とうとう荒野の終わりに辿り着いたのかな」
ムー太の頭にビビッとくる感覚も、日増しに強くなっている。
目的地が近いことを感じ取って、ムー太は嬉しそうに跳ねた。
荒野を形成するのはひび割れた赤色の土。枯れ果てた不毛の大地が地平線の先まで続いている。吹きすさぶ乾いた風が赤土を巻き上げ、空へと舞った砂塵がふたたび重力に引かれて地に降り注ぐ。
雨がほとんど降らない乾燥した地域で、人が住むのには適していない。草原と荒野の境目に、赤土採掘を目的とした小さな村が一つあるだけで、そこが最後の補給ポイントだった。
草原を五日、村に滞在して一日、そして荒野を歩き通して十日が過ぎた。
やせ細った大地には、草木がほとんど生えていない。永遠と同じような景色が続き、一日中歩き通しても目立った変化は訪れない。
そんな退屈な日常の中、ムー太の鼻は魔物の臭いを察知した。
遠巻きにこちらの様子を伺っているようで、それ以上近づいてくる気配はない。
「むきゅう」
ぽふぽふ、と七海の頬を叩き、敵の接近を知らせる。
くすぐったそうに目を細めた彼女は、疲れの見え始めた顔を引き結んだ。
「どうしたの、ムー太? また、魔物かな」
問われ、ムー太はこくりと頷く。
そのやり取りに素早く反応したアヴァンが、重荷を放り出し、長剣を抜いた。
「よし、今度こそ食料調達といこうじゃないか。って、ナナミちょっと待――」
言い終わる前に、七海が周囲に殺気を放った。
威圧するような気配が風に乗り、障害物の無い荒野を駆けていく。
すると、遠方に集結しつつあった魔物の気配が、遠ざかっていくのがわかった。
「むきゅう!」
危機が去り、ムー太は嬉しそうに七海を見上げる。彼女は得意げに胸を張り、
「力量差を見せ付けてやれば、争いは避けられるのよ」
お見事、と言いたげにムー太はボンボンを叩いて拍手を送る。
しかし、そんな彼女にアヴァンは苦言を呈した。
「ただでさえ、荒野は食料調達が難しいんだ。血に飢えた魔物は格好の獲物なんだぞ。それなのに、追い返すなんて勿体無い……」
「どっちにしても、接近されて私が戦う気になったら同じことだよ」
「荒野の魔物程度なら、護衛の必要はないんだ。任せてくれれば仕留めてみせる」
「食うに困ったわけじゃないし、別に良いじゃないの。ねえ、ムー太?」
保存食は常備されており、その残りにもまだまだ余裕がある。だから七海は食料調達よりも、争いを避けることを優先したようだ。平和主義のムー太も、これには賛成だった。
「むきゅう」
同意するように頷けば、二対一の構図が出来上がる。
ムー太の援護を得て、七海がしたり顔になって言う。
「まずは警告を送る。それでも襲ってくるなら倒す。それでいいじゃない。魔樹の森でのこともあるんだから、寄って来た魔物を全部倒していたら、また何かトラブルがあるかもしれないでしょ」
不服そうに唸り、アヴァンが俯く。
「それを言われると返す言葉がないな……」
と、ふいに砂塵を含んだ強風がビュウっと吹いた。
小粒の砂粒がコツコツとムー太の白毛にぶつかってくる。とっさに目をボンボンで覆おうとしたのだけれど、
「むきゅううう」
砂粒が目に入ってしまい、ムー太は混乱した。目がチクチクと痛いのだ。
ボンボンでごしごしと目元を擦ってみたけれど、痛みは取れない。
生まれて初めて感じた激痛に、ムー太は我慢できなかった。抱かれていることも忘れて、その場でもんどりを打とうとする。
アヴァンに意識を向けていた七海は、とつぜん腕の中で暴れ出したムー太に困惑するしかない。
「わわっ、どうしたのムー太。暴れたら危ないよ」
「むきゅううう」
混乱の渦中にあるムー太に、その言葉は届かない。
痛みで目を開けることができず、ムー太の視界は真っ暗だ。
ボンボンを振り乱し、目元をぽふぽふと叩いて痛みを追い出そうとするムー太。すると、七海の注意は薄っすらと涙の滲むつぶらな黒目に集まった。素早く魔法式を空中に描きながら、彼女は言った。
「わかった。わかったよ、ムー太。私がなんとかするから落ち着いて。アヴァン、コップを出してもらえるかな?」
「お、おう」
切羽詰った七海の呼びかけに、アヴァンは戸惑いながらも応じ、転がっていたリュックサックからコップを取り出した。七海はそれを受け取ると、即座に魔法式を発動させた。
すると、バケツ一杯分はあるだろう水の塊が中空に発生。そこにコップを突っ込み引き抜けば、なみなみと水が注がれた状態となる。残りの水は、重力に引かれて地面に落ちる。
コップをムー太の目元に近づけ、七海が言った。
「さぁ、ムー太。痛いだろうけど我慢して、目をパチパチするんだよ」
次の瞬間、目元が水で覆われるのを感じた。湯船に浸かって溺れかけたときに感じた、あの感覚だ。けれど、今のムー太に濡れることを気にしている余裕はない。
藁にもすがる思いで言われた通りに、パチパチと瞬きを繰り返す。何度も繰り返していると、いつの間にか痛みが治まっていた。
「むきゅう?」
驚きの鳴き声を上げ、ムー太が大人しくなる。
七海はほっと一息ついて、
「よかった。もう大丈夫だね?」
こくりと頷き、もじもじと体を動かして回転を始めるムー太。「ん?」と小首を傾げる七海と向き合う形になると、その柔らかい胸に顔をぐりぐりと埋めて、小さな子供のように鳴いた。
「むきゅううう」
「よしよし、痛かったよね。もう大丈夫だからね」
「そうしていると、赤ん坊をあやしてるみたいだな」
ムー太の背中をさすり、上下に揺らす姿を見たアヴァンが、そんな感想を口にした。彼はリュックサックからテントを取り出し、いつの間にか組み立て作業に入っている。日の位置を確認し、七海が疑問を口にした。
「あれ、夕暮れにはもう少しあるけど……」
「連日、歩き通しだし疲れただろう。それにたまには、マフマフと遊んでやれよ。その方が、ナナミのストレスも解消できるだろ」
アヴァンはいつだって七海を見ている。その興味が自分に向いていないことを知っているムー太はちょっぴり複雑だ。けれど、今はこのまま甘えていたい。だから彼の提案は有難かった。
「むきゅう!」
「気を遣ってくれたんだね。ありがと」
早速、七海も設営作業へ加わり、あっという間にテントが立った。
テントの規模は小さく、七海とアヴァンが一緒に入れば、他のスペースは残り僅かとなる。そんな狭いテントの中にいる時のみ、ムー太は解放されて自由行動が可能となる。
そんなわけで今回もまた、床にポンッと置かれた。けれども、今はもっと甘えたい気分だったので、ムー太はすぐ横にある七海の太ももに体をすりすりと擦り付けて、構ってもらいたくて鳴いた。
「むきゅう」
柔らかな白毛を擦り付けてくる愛玩動物を見下ろし、七海はふっと笑うと、片手でムー太を優しく撫でながら、
「乾燥して毛が少しパサパサしちゃってるね」
言われてみれば、体の調子がルカスに居た頃と少しだけ違う気がする。
抱かれていたのであまり実感はなかったのだけれど、床に密着していると少しごわごわした感じがする。パサパサになった毛並みをボンボンで撫でながら、ムー太は体を斜めに倒して疑問系で鳴いた。
その視線の先、七海は指先で流れるように魔法式を宙に刻み、魔力を篭めた。
すると、ムー太の周囲に霧雨が舞い、乾燥した白毛がしっとり湿る。
フカフカのタオルで綺麗に拭いてもらえば、自分を包む柔らかな感触が復活。
と、絶好調になったムー太の体の下(お腹の辺り)に七海が手を差し込み、すくい上げるようにして持ち上げた。ムー太の丸い体はころんと転がり半回転。
「むきゅううう?」
それを何度も繰り返し、ムー太の体は床の上をコロコロと転がる。
ひっくり返った無防備なお腹をこちょこちょと撫でられて、ムー太はくすぐったい。逃れようと自ら回転すれば、そこをもう一度すくい上げられ、またお腹が晒されてしまう。エンドレスに続く、くすぐり地獄にムー太が悲鳴を上げていると、
「ところで、ナナミは元の世界に帰りたくないのか?」
隅っこで胡坐をかいて、二人のやり取りをぼんやり眺めていたアヴァンが、ふいにそんな疑問を口にした。七海はくすぐりの手を緩め、小首を傾げた。
「どうしてそう思うの?」
「だって前に言ってただろ。マフマフのことをずっと守るんだって。だから帰るつもりは無いのかな……と思ってな。そもそも帰る手段が無いだけなのかもしれないが……」
「そうね、転移先の座標がわからなければ、そもそも転移魔法は使えない。つまり、異世界への転移は、今ある魔法式の技術じゃ到底不可能ってこと。でもね、帰る方法以前に、私の居た世界では、数日消えただけで大騒ぎになるの。それが一年、二年と過ぎれば、もう帰っても居場所がないんだ。だから私は、この世界で生きていくことに決めたの」
アヴァンはほっと安堵したようだった。七海の手前、それは顔に出していないけれど、揺れていた青い瞳が今はしっかりと焦点を結んでいる。身を乗り出すようにして前傾姿勢となり、彼は言った。
「なら、ずっとこっちの世界に居たらいい。居場所がなくなったら、俺が作ってやるからさ」
その余りにナチュラルすぎる宣言に、七海の頬が赤くなる。
「何それ、プロポーズ?」
「むきゅう?」
息がピッタリの二人に問われ、今度はアヴァンの顔が一瞬にして高潮した。以前にも見た一発芸のような特技を見て、ムー太は楽しくなって拍手を送る。
「ち、違っ!? 違うぞ。俺はただ一人の友人としてだな……」
大慌てでアヴァンが両手を振れば、七海は少し不機嫌になった。冷たい視線をアヴァンに飛ばし、口を尖らせながらムー太を抱き上げて、
「ふーん、違うんだ。じゃあ、ムー太はお嫁さんに貰ってくれる?」
「むきゅう?」
結婚という概念を知らないムー太には、何のことだかよくわからない。
とにかく、何かが貰えるらしい。その程度の認識しかないムー太は、食べ物だろうかと頭をひねる。そんなムー太を顔の高さにまで持ち上げて、彼女は柔らかく微笑んだ。
「結婚っていうのはね、ずーっと一緒に居ようねっていう約束みたいなものだよ」
「むきゅう!」
ムー太が元気よく即答すると、七海は「ありがとう」と言って、額にチュッとキスをした。そんな七海を不思議そうに見つめると、彼女は舌をペロッと出して照れくさそうに笑った。
「これからもよろしくね、ムー太」
「むきゅう」
こくりと頷き、姿勢を戻す。
アヴァンはぎこちなく立ち上がり、ガチガチに震える声で言った。
「よし、明日の作戦会議でもしよう。まずは地図を用意して――」
リュックサックを漁り始めた彼を冷めた目で眺めながら、七海が小声で呟いた。
「もう、意気地がないんだから」
疑問符を浮かべて、ムー太は丸い体を傾ける。
そうして時間は過ぎてゆき、荒野での一日が終わるのだった。
◇◇◇◇◇
旅の途中、ムー太は何度も悪夢を見た。
恐ろしい魔物に襲われる夢。人間に追いかけられる夢。腹ペコで動けなくなる夢。土砂崩れに巻き込まれる夢。洪水に流されてしまう夢。余りの寒さに凍えてしまう夢。反対に暑さで喉がカラカラに渇く夢。
けれど、夢の最後には必ずといっていいほど七海が登場して助けてくれるのだ。だからムー太は、夢の中でも安心していられた。安らかに眠ることができた。
ムー太の中で、七海の存在は日増しに大きくなっていった。
◇◇◇◇◇
荒野の横断を始めて二十日が過ぎた。
赤色の大地に日が沈む頃、夕焼けで空が真っ赤に染まる。逢魔が刻が訪れる刹那、赤土の大地と夕焼け空の色が限りなく近づき融合する。それは天と地の境目である地平線の判別が、難しくなる瞬間だった。
しかし、その日は違った。地平線の先に細長い影が横たわっていて、天と地との境目がはっきりと分かれていたのだ。
テントを張り、寝床を確保しに掛かる七海とアヴァン。彼女の傍らに置かれたムー太が、その変化に真っ先に気づいた。
「むきゅう?」
遠目なのではっきりとは見えないけれど、薄っすらと三角形が連なっているように見える。毎日同じ景色ばかりで退屈していたムー太は、湧き上がる好奇心を胸に興味深そうに鳴いた。
「むきゅう」
テントを張っている間は絶対に動いちゃダメ、と七海に言いつけられている。だから、ムー太はその場でポンポンとジャンプして、彼女の注意を引こうとした。
「どうしたの、ムー太?」
作業の手を止め、七海が首を回してこちらを見る。それを確認すると、ムー太は地平線に横たわる影をボンボンで指して、何度も鳴いた。
「むきゅう」
「ん……あれは、山脈っぽいね。とうとう荒野の終わりに辿り着いたのかな」
ムー太の頭にビビッとくる感覚も、日増しに強くなっている。
目的地が近いことを感じ取って、ムー太は嬉しそうに跳ねた。
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「醤油?味噌?そんなものがあれば、この世界の食文化はひっくり返るぞ!」
ひょんなことから出会った没落貴族の美少女・リリアナと共に、カイリは現代知識と地味スキルを駆使して屋台から商売をスタート。
絶品料理で人々の胃袋を掴み、さらには便利な生活用品を次々と発明していく。
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迫り来る悪徳商会や腐敗した貴族の妨害も、現代のマーケティング術と知恵で痛快に打ち破る!
これは、平凡なサラリーマンが異世界の常識を覆し、食と生活に革命を起こして一代で大商会を築き上げる、痛快成り上がりファンタジー!
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第18回 ファンタジー小説大賞 読者投票93位
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