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本編

第40話:モフモフのムー太

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 ずっと一緒に居ようって、約束したはずなのに。お嫁にくれるって言ったのに。

 彼女は消えてしまった。

 まだ何も伝えていないのに。言いたいことはたくさんあったのに。

 彼女は手の届かない所へ行ってしまった。

 とめどなく流れ落ちる涙で視界は霞み続け、最後だというのに七海の顔をよく見ることができなかった。そんな状態だったから、その存在が消えてしまったことに真っ先に気がついたのは、絶対に離さないつもりでくっ付けていた二本のボンボンだった。引力制御による目標がロストしたことを感じ取った次の瞬間、ムー太の体は膝一つ分だけ空中に投げ出される形となった。

 小さくバウンドしたムー太は、慌てて涙をボンボンで拭うと辺りを見回し始めた。けれど、目の前にあったはずの七海の姿は、もうどこにも見当たらなかった。

 異世界への転移はこの世界の魔法技術では不可能だ、と以前に聞いたことがある。つまりそれは、もう二度と彼女に会えないことを意味していた。そして悲しいことに、ムー太にはその残酷な現状を正しく理解するだけの知能があった。

 ムー太は泣いた。
 体が湿ってしまうことも忘れて、わんわんと泣いた。
 目元を覆ったボンボンが吸水力を失い、びしょびしょになるまで泣いた。

 胸が苦しくて張り裂けそうだった。過去の記憶を掘り起こしてみても、これほど心を痛めた経験は無い。どうしたら良いのかわからず、ムー太は力の限り泣き続けることしかできなかった。

 途中でエリカがやって来て何事かを話しかけてきたけれど、悲しみに暮れるムー太の耳には何も届かなかった。対話できる状況ではないことを察すると、彼女は兄のエリンを肩にひょいと担いで、そっとその場を後にした。

 そして時は流れた。
 涙が枯れるまで泣き続け、最後の一滴が床に広がった水溜りに落ちる。

 水分を含んで重くなったボンボンで目元を擦ることで、ようやくクリアになった視界が前方のそれを発見した。

「むきゅう?」

 七海の存在が途絶えてしまった前方の空間。今では何も見えないその場所に、僅かな歪みが発生している。その歪みにボンボンを近づけて意識を集中してみれば、なにやら広大な空間がその先に広がっているような気配があった。
 そしてその中には、七海の気配が混じっているようだった。小さな空間の歪みを通して、まだぎりぎり彼女と繋がっていたのである。

「むきゅう!?」

 しかし、その繋がりは少しでも目を離せば見失いかねないほどに曖昧で頼りのないものだった。辛うじて残った彼女の痕跡が煙のように立ち消えることを恐れて、ムー太はその場から動くことができない。
 けれど、その繋がりさえ見失わなければ、いつの日かまた会えるような気がした。中断していた紙芝居を再開するように、ある日とつぜんその存在が復活して、何事も無かったかのようにいつもの日常が戻ってくるのである。

 そんな光景を脳裏に描き、ムー太の胸に一筋の希望が差し込んだ。
 そこでようやく思い出す。

 ――必ず、また戻ってくるから

 別れ際、七海は確かにそう言った。ならばムー太にできることは、その言葉を信じて待つことだけだ。

 無論、七海が本当に帰ってこれるのだとしても、それは一朝一夕に叶うものではないはずだ。けれども、もしかしたら明日には戻ってくるかもしれない。それが駄目でも明後日には、明々後日には……とムー太はそんな風に考える。
 だから目を離すことなく、しっかりと見張り続ける。いつ帰ってきても良いように、誰よりも早く「おかえり」と言えるように、その胸に一秒でも早く飛び込めるように、ムー太はただじっとその時を待つことに決めた。

 と、ふいに目の前にパンが差し出された。見上げると、寂しそうに揺れる青い瞳と目が合った。ムー太がパンを受け取ると、その瞳の持ち主であるアヴァンが隣に腰を下ろして、回収したと思しき七海の愛刀――氷雨を眺めながら力なく言った。

「エリカさんに全部聞いたよ。ナナミは帰っちまったんだな……」

「むきゅう……」

 自分と同じように七海を失って悲しむ人がいる。
 その共感が同族意識を呼び、寄り添うことで少しだけ寂しさを紛らわせてくれる。それはアヴァンも同じなのか、いつも以上に優しく繊細な手つきで、頭をポンポンと慰めるようにして叩いてくれた。

「今にして思えば、あの占い結果はこういうことだったんだな。闇のカードが二枚出て先が見通せなかったのは、おそらくナナミが元の世界に帰ってしまうからだ。神の力を以ってしても、異なる世界の未来を見通すことはできなかったんだろう」

 確かに占い師は、不吉を予感させながらも未来が見えない、と言っていた。その時のムー太は、七海が大して気にしていない様子だったので、安全な胸の中に腰を据えて呑気に構えていたものだった。
 けれども、今になって――否、今だからこそ思う。もしもあの時、前進することを止めていたらどうなっていたのだろう、と。
 あの頃に戻れるのなら、別の未来を選択したい。ここまで付き合ってくれた大切な友達を選びたい。コアの力なんていらないし、故郷を奪還するという使命でさえも彼女と比べれば無価値に等しいのだから。

「むきゅう……」

「食欲が湧かないのはわかるが、食わないと倒れちまうぞ」

 そう言うアヴァンの持つパンにも手が付けられた形跡はない。無言のままにそれを眺めていると、彼は苦笑し、大口を開けてかぶりついた。もぐもぐと口を動かしながら、おまえも食べろと言いたげにあごをしゃくってくる。

 仕方なしにムー太は頷き、ボンボンの先端にくっ付いたパンを口へと運ぶ。もしゃもしゃと機械的に咀嚼そしゃくし、味のしないパンを無為に噛み砕く。

 食べさせてくれる人は、もういない。

 じわっと黒目に涙が浮かび、慌ててもう片方のボンボンで涙を拭う。

 そんなムー太の泣き顔から目を背け、アヴァンがぽつりと言った。

「ナナミとはいつの日か、また会える気がする。慰めるための気休めを言っているわけじゃない。そんな予感がするんだ」

「むきゅう」

 きっと、アヴァンも自分と同じことを考えていたのだ。そう思ったムー太は、少しだけ嬉しそうに同意した。だからここで一緒に待とう、と隣に座る同志を見上げる。が、彼は悔しそうに顔を歪めた。

「今回、俺は何もできなかった。余りにも次元の違いすぎる二人の間に割って入ることができなかった。俺にできることはと言えば、足を引っ張らないように退場することぐらいだったんだ。そして戻った時にはすべてが終わっていた……」

 吐露される言葉の節々、悔しそうに語られる言葉と言葉の間には、自分の無力を呪っているというよりは、どこか寂しそうな雰囲気が漂っていた。そこでようやく思い至る――彼は七海と別れの言葉を交わしていないのだ。

「むきゅう……」

 自分は恵まれている方なのかもしれない。
 そう考えると、アヴァンが気の毒に思えた。

 そんな心配を察してか、彼は再びこちらに視線を落として頷くと、今度は力強く宣言するように言った。

「だから俺は、もっと強くならなくちゃいけない。次にナナミと再会した時に、胸を張って己の成長を自慢してやるんだ。そして今度こそ肩を並べて戦ってみせる」

 曇りのない青空のようなまなこには、ギラギラとした光が宿り希望の色に燃えている。太陽光に負けないぐらい眩しいその視線に晒されて、受身の姿勢を貫いていたムー太は少しだけ居心地が悪い。一途に待ち続けるのではなく、成長した姿で七海と再会するべきだ、と言われているような気がしたからだ。

 ムー太の反応を待たずに、彼は続ける。

「俺は一度、ルカスに戻って事の顛末を報告する。その後のことなんだが、良かったら俺と一緒に来ないか?」

「むきゅううう」

 この場を離れたくないムー太は、柔らかな毛を床に押し付けるようにして、いやいやと体を動かした。それを見たアヴァンは少し寂しそうに俯き、

「そりゃ、ナナミと比べたら不満なのはわかるさ。でも、俺たちはもう仲間だろ? ここまで一緒に冒険してきたんだからさ」

「むきゅう。むきゅううう」

 仲間、という言葉に一度頷きを返し、次に前方の空間をボンボンで指しながら、ムー太は懸命に鳴き続けた。

 そこが七海の消えてしまった空間なんだよ。二つの世界は微かに繋がっているから、ここで待っていればきっと迎えに来てくれるんだよ。だって七海がそう約束してくれたんだから、アヴァンだって信じるでしょう? だから、帰るなんて言わないで一緒に待とうよ。
 と、言葉にすれば数行で済む説明を、ムー太は身振り手振りだけで伝えようとする。元々、意思疎通がうまくいかないアヴァンは困ったように眉をひそめ、

「うーむ……単純に嫌というわけではなさそうだな。ここに残りたいのか?」

「むきゅう」

 ムー太が頷き返すと、アヴァンは食べかけだったパンを口に放り込み、両腕を組むと難しい顔で何事かを思案し始めた。ごくり、と喉を鳴らして噛み砕いたパンを飲み込むと、彼はおもむろに口を開いた。

「もちろん、無理強いするつもりはない。残りたいのならその意思を尊重するさ。ただ気懸かりなのは、安全面での問題だ。命を落とすようなことになればナナミが悲しむからな」

「むきゅう」

 コアの力を手に入れ、おそらく強くなったのであろう自らの胸を力強く叩き、ムー太は自信満々に頷く。その誇らしげな姿を見たアヴァンは首を捻り、

「む……決意は固いようだな。一人残していくのは心配だが、どうしても残りたいのなら仕方ないか。お互いの目的が異なるのなら、それぞれの道を行くしかない。それが冒険者ってもんだ」

「むきゅう……」

 一緒に七海を待とう、というジェスチャーによる説得が伝わっていないことを感じ取り、ムー太は悲しそうに鳴いた。
 七海と別れた上に、アヴァンとまで別れなければならない。立て続けにやってきた別れがとても寂しいものに感じられる。けれど、無理強いすることはできない。自分の意に反して我慢を強いられることが、どれだけ辛いことなのかを今のムー太は知っているからだ。

 しょんぼりするムー太の頭をポンポンと叩くと、おもむろにアヴァンは立ち上がり、自らの腰に下げていた氷雨をベルトから外した。鞘に収められた刀をムー太の前へと置いて、

「下手に動くよりも、別れを告げたこの場所で待っていた方が再会できる可能性は高い。そう言いたいんだろう? その指摘は正しいと思う。だから、これは置いていくことにする。ナナミと再会できたら、返してやってくれ」

「むきゅう」

 二つのボンボンにくっ付けて、氷雨を持ち上げる。鉄の塊はずっしり重い。アヴァンから託されたそれを失くしてしまわないように、お腹の下辺りに敷くようにして置いておく。ムー太自身が重石となるので、その場を動かなければ失くすことはないだろう。その厳重な管理方法を見たアヴァンが苦笑して、

「数日だけ俺もここに滞在するよ。だから気が変わったら教えてくれ。その時は、一緒にルカスへ帰ろう。帰ってからはサチョと暮らすのもいいだろう。事情を話せば、きっとギール殿がなんとかしてくれるさ」

 その提案はとても魅力的なように思えた。自分を気遣ってくれるアヴァンを見上げ、感謝の印にボンボンを差し出し、握手を求める。一瞬だけきょとんとしたアヴァンだったが、すぐにその意図を察して、ボンボンを包み込むようにして握り返してくれた。

「またいつの日か、三人で一緒に冒険しよう。それまで死ぬんじゃないぞ。約束だからな、ムー太」

 初めて名前を呼ばれて、ムー太は少しだけ嬉しかった。指きりでもするようにボンボンをふりふりと上下に動かして、互いの無事と健康を祈願する。そして願わくば、三人が再び巡り会い、幸せだった日々の続きを歩めますように。

 握手を終える頃には、ムー太の意志はより強固なものへ変わっていた。そしておそらくは、アヴァンの意志も同様だったのだと思う。だからこの時点で、二人の別れは決定していたのだろう。事実、

「それじゃ、元気でな」

「むきゅう」

 三日後、アヴァンは旅立っていった。
 ムー太が飢えないようにと、荷にあった食料のほとんどを残して。



 ◇◇◇◇◇

 コアの力を手に入れて強大な力を得ても、ムー太の本質は何一つ変わっていない。己が欲するものを手に入れるために全力を尽くす。それがいかに困難な目標であっても、諦めることなく愚直に目指し続けるのである。

 かつては、無意識のうちに刷り込まれていたコアの取得が目標だった。しかし今は違う。明確な意思を以って、七海との再会を渇望し、目標に定めている。
 だから、ムー太は動かない。大地に根を下ろし、その場を一歩も動かずに待ち続ける。頑なに動かないのは、未だに消える気配のない空間の歪み――異世界との繋がりを辿って、七海が迎えてに来てくれると信じているからだ。

 じっと身を縮めながら、くりっとしたつぶらな黒目を瞬いて前方の空間を凝視する。真剣な面持ちを崩さずにムー太は幾日も幾日も待ち続けた。

 陽が昇っては沈み一日が終わる。

 そのサイクルの中には、雷雨の激しい嵐の日もあった。が、地下に位置するアルデバラン内部では、それらの天災はどこ吹く風。何の変化も生まれない退屈な時間だけが、ただただ流れるのみである。

 時折、頭に挿した髪飾りから声を掛けられることがある。人間の姿に顕現するには膨大な魔力が必要らしく、魔力を使い果たしたイゼラはこうして髪飾りの状態で話しかけてくるのだ。
 イゼラとの会話はムー太にとって、孤独を癒す効果があった。けれど、その頻度は決して多くは無い。なぜなら、植物が原型である彼女は、会話をするのにも魔力が必要で、ある一定量の魔力を蓄えてからでないと話すことができないからだ。
 最近では、数日に一度だけ、それも限られた短い時間でのみ会話が可能だった。

 そんなわけで、一日の大半を一人で過ごす。
 元来、好奇心旺盛で真新しいものには何にでも興味を示すムー太である。けれどその反面、何の変化も生まれない退屈な日常は苦手だった。その上、一人ぼっちという寂しさも手伝って、孤独に打ちひしがれることが多かった。
 そんな時は、頭に巻かれたマフラーの裾をボンボンにくっ付けて、鼻先にまで持ってきてはその匂いを嗅いだ。くんくん、と目を瞑りながら鼻を動かせば、七海に抱かれているような気分になれて寂しさを紛らわせるのである。

 七海の幻影に元気を貰い、そうしてその幻の続き、幸せだった日々が取り戻されることを夢見てムー太は待ち続けた。

 お腹が空いたらアヴァンが残してくれた保存食をもぐもぐと頬張れば良い。そのままでは硬くて食べにくい干し肉は苦手だったけれど、貴重な栄養源を前にムー太は好き嫌いをしなかった。
 ボンボンにくっ付けた干し肉にかぶりつき、ギチギチと音を立てながら長い時間を掛けて噛み千切る。塩味の利いた少量の肉をよく噛んで、十分に味わいながら飲み込む。その作業を繰り返すことで、明日を生きるための血と肉を得る。

 そして、お腹がいっぱいになれば、当たり前のように眠くなる。けれど、見張りに立つ兵士の如く、ムー太は欠伸を噛み殺しながら、前方の注視を怠らない。それでもやっぱり、最後には睡魔に負けて眠ってしまう辺り、とことんシリアスが似合わないムー太なのだった。

 そんなある日、ワンパターンな生活に変化が起きた。
 食事を終えておねむのムー太は、いつも通り、ボンボンでぽふぽふと目元を叩きながら眠気を追い払う作業に追われていた。こうなってしまっては時間の問題で、就寝までに残された時間はそう長くない。だから、このタイミングでイゼラが話しかけてくる事はないのだが、その日は違った。彼女は短く、

「気をつけよ。何者かが接近している」

 アルデバラン内部に魔物が侵入したとは考えられない。彼らの知能では、書庫に続く扉を開けることができないからだ。必然的に、その正体は絞られることになる。ムー太がキョロキョロと辺りを見渡すと、傾いた本棚の影から予想通り銀髪の少女が姿を現した。
 ムー太が警戒に身を縮めると、歩み寄ろうとしていた足をぴたりと止めて、エリカが悲しそうに俯いた。おろおろと視線を彷徨わせた彼女は、何度も口を開こうとして失敗。言葉にならない呻きを漏らし、潤んだ銀の瞳を何度も瞬かせている。

 無言の時間がしばらく続いた。
 その空白の時間に耐えられなかったのか、エリカはドレスの裾をぎゅっと握り締めた。それと同時に意を決したのか、彼女は絞り出すようにして言った。

「あ、あの……あのね、ワタシが悪かった……って反省してるの。だから、ね……仲直りして欲しいなって。だ、ダメかな……?」

「むきゅっ」

 彼女ら兄妹が、七海との仲を引き裂いたことは明白だった。そのことをきちんと理解しているムー太は、ぷいっとそっぽを向いて怒っていることをアピール。合わせて、不満そうに鳴くことで抗議の意思表示に代えた。

 その反応を見たエリカの顔は青ざめ、桃色の唇が小刻みに震えだす。その震えは全身に広がるように伝播していき、立っているのもやっとといった様子。それでも彼女は、震える両手を合わせ、神に祈るようにして悔恨の言葉を紡いだ。

「マーコがあんなに悲しむなんて……想像も……ごめんなさい。自分のことしか考えていないって、イゼラさんに怒られて……今ならわかるから……もう、無理強いしたりしないから……だから……」

 涙を浮かべるその眼差しは真剣で、本心からの謝罪であろうことはすぐにわかった。揺れる瞳は不安の表れに相違ない。彼女は今、悔い改めようとしている。そして、許してもらえるか不安で仕方がないのだ。

 そのことをムー太は直感で理解した。同時に、許したいとも思った。
 けれど、以前のようにエリカの胸に飛び込む気にはなれなかった。おそらくそれは、気分的な問題なのだろう。七海を失ってからこれまで、ムー太はずっと悲しみに暮れていたし、笑うことさえ忘れていたのだから無理もない。
 と、困ったムー太は、とにかく自分の意思を伝えようと思い至り、

「むきゅう!」

 背後にある空間の歪みをボンボンで指し、次に自らが居座る床面をボンボンで指し、その動作を交互に繰り返しながら、何度も勇ましく鳴くことでこの場から動く気がないことをアピールしていく。
 その主張が伝わったかは不明だが、エリカは何かに気が付いたようだった。

「あら、これは……」

 呟き、エリカがこちらの方へと歩み寄る。疑問符を浮かべながら見上げるムー太の脇をすり抜けて、彼女は袖口から伸びる細い腕を空間の歪みに向けた。
 そして、

「僅かに……本当に僅かにだけれど、向こうの世界と繋がっている。これを見つけて、ずっとずっと守っていたのですね……」

「むきゅう」

 こくこくとムー太が頷く。小さな体を目一杯に使った肯定の頷き、その動作からは切実な何かが滲み出ていた。それを視界に収めたエリカの目元から一筋の涙が落ちる。彼女は唇をぎゅっと噛み、首を横に振った。

「ワタシが愚かでした。マーコの気持ち……今になってようやくわかるだなんて。待ち続けるのは辛いよね……許してくれなんて都合が良すぎるよね。でも、それでもやっぱり、償うことで許してもらいたい。だからワタシが、あの人を呼び戻してみせる。まだ完全に閉じていないのなら……再召喚は可能なはずだから」

「むきゅう!?」

 驚きに飛び上がったムー太の返事を待たずに、エリカはにこりと微笑んで、

「兄様ほどの才能はありませんが、ワタシもラザフォード家の生まれ。手掛かりさえあれば、やってやれないことはありません」

 微妙に不安を誘うニュアンスが含まれているのは、彼女が魔法よりも剣術を得意としているからだろう。魔導師としての才能はエリンに大きく劣る一方で、魔法剣を使用した接近戦ではエリカが大きく勝る。双子の戦力バランスは前衛と後衛にそれぞれ特化する形で、絶妙に整えられているのだ。
 とはいえ、待ちの一手しか持ち得ないムー太にとって、彼女の提案はいつまで続くかわからない日々を終わらせる一筋の光明に等しかった。だから、

「むきゅう! むきゅう!」

 期待に体をポンポンと跳ね上げて、早く早くと言いたげにムー太は鳴いた。
 態度を軟化させたムー太を一瞥し、エリカが安堵の吐息をつく。

「少し、離れていて下さいね」

 お尻に敷いていた氷雨をボンボンでしっかり持つと、ムー太は促されるままにその場を離れた。退避が完了したことを見届けると、エリカは中空からサーベルを出現させ、魔法を唱えるとその切っ先を地面に突き刺した。すると、細長い剣身から無数の魔法式が地面に広がり、一瞬にして魔法陣が形作られる。
 魔法陣はエリカを中心として大きな円が一つ。更にその円に隣接するようにして小さな魔法陣がいくつも生まれ、そして増殖していく。魔法式の織り成す白色光が周囲を照らし、複雑に絡み合いながら膨らんでいき――

 バチン、と弾けた。

「え? なんで――」

 構築されつつあった魔法式が一瞬にして瓦解し、ムー太の目の前で光の粒となり弾け飛んでいく。綺麗だな、なんて呑気な感想を抱きつつ、驚きに顔を強張らせるエリカが気になって、ムー太は体を傾ける。

「むきゅう?」

 見上げたエリカの顔から血の気が引いていき、その反応から失敗したことを察してムー太はがっかり。と、彼女の動揺は収まるどころか拡大していき、

「……ありえない。この段階で失敗するなんて……まさか」

 首を巡らせ周囲を探りだしたエリカに習って、ムー太もキョロキョロと所在なさげに体を動かす。が、先の戦闘で瓦礫と化した本棚やその破片が転がるだけの荒廃とした書庫に変化はない。
 そうこうしている内に、エリカの前方にある空間の歪み、その上空に新たな魔法陣が出現。激しい閃光が明滅するのとエリカが叫ぶのはほぼ同時だった。

「兄様、やめて」

 閃光で眩んだ黒目をボンボンで擦りながら、ムー太は目を開ける。そして我が目を疑った。そこに在るはずのもの、在らなければならないものが消えていた。二つの世界を繋ぐ希望の光。見失わないように幾日も見張り続けてきたそれが、欠片も残さずに消えてしまっているのだ。

「むきゅううう?」

 大きなショックを受け、ムー太の頭は真っ白になった。これでは七海と再会できないではないか。涙目になりながらどういうことかとエリカを見上げる。抗議の視線を受け、エリカも泣きそうになりながら頭を振った。

「ワタシじゃない……ワタシがやったんじゃない。兄様、なぜなのですか!」

 息巻くエリカの視線の先に兄の姿はない。しかし、

「なぜ、はボクの台詞だよエリカ。白マフを説得し、今度こそ旅立つというから任せたというのに、あの娘を呼び戻そうなんて暴挙と言うほかない。もう一度戦うことになれば、今度はボクが討たれるかもしれない。そのぐらいわかるだろう」

 薄暗い天井からエリンの声が降ってきて、書庫内に反響する。その居場所は特定できないが、下手人はエリンであると断定。駄々っ子のようにボンボンを振り乱し、ムー太が荒ぶり始める。
 一方、中空に視線を彷徨わせたエリカが抗議を続ける。

「あの人を呼び戻さないと、マーコの協力を得られません。このままでは旅立てないことぐらい、兄様にだってわかるでしょう!?」

「それをどうにかするのがエリカの役目だろう」

「ですから、どうにかするために呼び戻す必要があると申しているのです」

「わかってないな、エリカ。いいかい? あの娘は、白マフを利用するボクらを目の敵にしているんだよ。呼び戻したら最後、白マフを奪われてお終いさ」

「いいえ。きちんとお話すれば、わかって下さるはずです」

 双子の兄妹は、互いに一歩も引かずに口論を続けた。その間にもムー太は、空中を睨み付けて声の出所を探していたが見つけることはできなかった。そして、話は平行線のまま進んでいき、とうとうエリンの声に苛立ちが混じる。

「つまり、あの娘を呼び戻す以外の解決法はない、ということだね」

「ええ、そうです。ですから、兄様の力であの人を再召喚して下さい」

「残念だよ、エリカ。だったら、残る手段は一つしかない。記憶をすべて消し去って、まっさらの状態からやり直しってことになる」

「そんな……そんなことをしたら、ワタシのことまで忘れてしまいます」

「それが嫌なら――」

「むきゅうううううううううううううううううううっ!!!」

 姿の見えないエリンへ向けて、ムー太は怒りを露にした。
 幾千幾万と繰り返してきた転生の記憶。膨大なそのデータの中にさえ存在しないどす黒い感情が、体中を蝕むようにして広がっていく。
 全身の毛を逆立て、眉間の黒線を険しく歪め、ボンボンでファイティングポーズを取る。その怒りに比例して体内の魔力が増幅されていき、合わせて体がどんどん膨らみ大きくなる。横に立つエリカの身長を追い抜き、それでもまだ成長を続けるモフモフの体。

 圧倒的な存在感を放ちだしたムー太を見て、エリカが悲痛の声を上げた。

「ダメよ、マーコ! まだ、兄様には勝てないはずです。頼みの綱の引力制御も、姿を晒していない相手には通用しません。だから逃げて! ワタシが兄様を止めるから、その間に……どこか遠くへ!!」

 けれども、ムー太は聞く耳を持たない。威嚇するように鳴く。

「むきゅうううっ!!!」

 ムー太は、七海のことが大好きだ。

 優しく撫でてくれる七海が大好き。
 おいしい食べ物を分けてくれる七海が大好き。
 自分の気持ちを汲み取ってくれる七海が大好き。
 良い匂いがする七海が大好き。
 特別扱いしてくれる七海が大好き。
 温かい胸の中で守ってくれる七海が大好き。
 体をキレイに洗ってくれる七海が大好き。
 自分のために怒ってくれる七海が大好き。
 笑顔の七海が大好き。困った顔も、泣いた顔も大好き。

 たくさんの大好きが詰まった記憶の宝箱。かけがえのない大切な思い出の数々を、エリンはいとも簡単に消すのだと言った。そのことが許せなかった。許してはいけないと思った。平和主義のムー太は、絶対に譲ることのできない大切なものを守るため、己のすべてを賭けて全身全霊で戦うことを決意した。

 戦闘態勢に入ったムー太の体は、散らばった瓦礫を押し退けながら膨張を続ける。本棚を次から次へと押し倒し、巨大化する体は全長三メートルを超えるほどだ。その巨体を揺らし咆哮を上げる。

「むきゅうううっ!!!」

 確かに、まともな攻撃手段を持たないムー太では、天才魔導師であるエリンに勝つことは難しいだろう。けれど、今回ばかりは引くわけにはいかなかった。大きくなった体の側面に抱きついて、静止を呼びかけるエリカの声に耳を傾けるわけにはいかない。
 と、そこでムー太は閃いた。かつて、双子の兄妹が話していた内容を思い出す。

 ――コアを一つ吸収するごとに新しい魔法を習得できる

 その話が本当ならば、すでに何かしらの魔法を習得しているはずである。
 そして、

 ――その魔法は、次のコアを探すために最も適切だと思われるものが選択される

 つまり、エリンは習得済みの魔法が何なのかを知らない。であるならば、事前に対策を打たれることはないだろう。とすれば、習得した魔法の効果如何によっては、付け入る隙があるということだ。

「むきゅう!」

 植木サイズにまで成長を遂げたボンボンをぼふんと叩き、勇ましく鳴いて気合を入れる。そしてムー太は目を瞑り、自分が使える魔法を頭の中でイメージしながら、他の魔法へと意識を繋げた。
 とある晩、サチョを助けるために行った習得済みの魔法への接続である。

 ・引力制御
 ・斥力制御
 ・ヒーリング
 ・フレンズゲート

 見知らぬ魔法を発見し、ムー太は大きな体を傾ける。床の軋む音と一緒に、

「むきゅう?」

 更に意識を集中させれば、魔法の効果までを知ることができる。
 好奇心に導かれるままにその効果を確認したムー太の体が、唐突にしゅるしゅると音を立てて縮み始める。最後にしゅぽん、と音を立てて元のサイズに戻ったムー太は、何の躊躇もなく【フレンズゲート】を使用した。

 コアから得た魔力のほとんどを使用した超高出力の魔法が発動。光り輝く長方形のゲートが目の前に出現する。鏡のように薄いゲート向こう側には、馴染みのない空間が広がっていた。

 大して広くもない室内に、木と鉄を組み合わせて作られた小さな机と椅子が、所狭しと置かれている。そしてその一つ一つには、白と黒の制服に身を包んだ少年少女が着席していて、皆一様に前方の黒い板を注視しているようだ。
 その中に、一人だけ退屈そうに窓の外を眺める少女が居た。こちらの世界では珍しい黒髪も、ゲートの向こう側では珍しくないようだ。と、何の前触れもなく少女がこちらを向いた。その顔を見たムー太の目元にじわっと涙が浮かび上がる。

 巨大化することで乱れてしまったマフラーを巻き直し、ボンボンを使って髪飾りの位置を整える。すべての準備を終えたムー太は、目を丸くして驚くエリカを振り返った。突如発生したゲートを前に動けずにいる彼女へ向けて、ボンボンをふりふりして別れを告げる。少しの逡巡を挟んだのち、ムー太は氷雨をしっかり持つとぴょんとゲートに飛び込んだ。

 ゲートの向こう側では、突然現れたムー太に困惑しながらも、少女がしっかりと丸い体を抱き留めていた。わんわんとムー太が泣いているのは、嬉し涙なのだろう。なぜならその顔は、とっても幸せそうだからだ。

 ゲートはゆっくりと閉じていく。
 もう誰も二人の邪魔をすることはできない。



 【フレンズゲート】
 友達の元へと通じる自分専用のゲートを開くことができる。

 次のコアを探すための最適解。幾千幾万の転生の果てにムー太が出した結論は、七海と一緒にいることだった。その胸に抱かれていることだった。
 いつでも望むタイミングで、安心安全快適な胸の中へ飛び込める魔法こそが、その答えだったのだ。
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