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春の天麩羅 三

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「きっちりとお礼参りはしたけどな。百羽程の仲間を連れて、その人間の巣やらなんやらに、皆で糞を落としてやった。いやあ、壮観だったで? 一帯が真っ白に染まって」

 かかかっと痛快そうに笑っているが、その光景を想像すると件の人間の悲鳴が聞こえ、愕然とした顔まで見えるようで、何とも言い難い気持ちになる。
 白くなった家や庭も悲惨だが、おそらく空は烏たちで真っ黒に覆われて、近隣に暮らす人間たちも、神仏の怒りを被ったと恐怖に苛まれたことだろう。

 緩みかけていた真夜の手は、呆然となって動きを止めていた。烏は今しばらく自由の身を得られないようだ。

「糞だらけの巣にはおられんかったんやろうな。巣を変えおったから、また白く染めてやった。烏の情報網を舐めんなってえのな」

 先ほどまでのしんみりとした空気はどこへやら。真夜は烏から視線を逸らす。
 烏を怒らせてはいけない。命を奪ったり、怪我を負わせたりするよりはずっとましだが、心が折られそうだ。

「だから俺は、人の来ん山奥の、更に奥で子を育てとる。ここらには人間は近づかん。なのに、なんで居るんや?」

 声が低くなった途端に、尖った目で忌々しげに真夜を睨んできた。

 真夜は人間ではない。しかし外見は人間と大差ない。少々犬歯が大きく、爪も硬いのだが、口を閉じていれば分からないだろう。
 本来ならば二本ある立派な角も、今の真夜の頭上には存在していないのだから。
 人間の肉体を利用して造り上げた体は、人間という器の範疇でしか形作ることができない。彼らに存在しない角は、造り出すことができなかったのだ。

 すうっと細めた真夜の目の奥に、昏く不穏な気配が渦を巻き、烏は狼狽えた。
 思っていた相手と違う。ちょっかいを掛けてはいけない相手に、強気に出てしまったのではないかと、危険を感知して顔を逸らす。
 けれど逸らした先に娘の姿が見えた。まだ飛ぶことはおろか、走って逃げることさえままならない赤子だ。自分が諦めてしまえば、娘の命も危うい。

 必ず親子ともども、この窮地を逃れて生きて戻るのだと、気合を入れ直して真夜を睨み上げる。でもやっぱりその顔は冗談ぬきに怖くて、すぐに顔を逸らした。
 きっと戦わなくても逃げる方法はあるはずだと、気持ちを切り替えたところで真夜の口が動いた。

「俺は、人間じゃねえ」
「カ?」

 思わぬ言葉に、烏から間抜けな声が飛び出した。光の消えた男の目には、目の前にいるはずの烏の姿も映っていない。
 真夜の夜叉としての矜持が憤りを覚える。誇りが、悔しさに震える。 
 封印されている間に妖力は減少し、得られた肉体は脆く全力を出すことは叶わない。それでも――。

「俺は、夜叉だ」

 音を立てぬよう慎重に器を置くように、真夜の口から緊張を含んだ重い声が差し出された。

「カ? カアアァッ?!」

 呆気に取られた烏が、次の瞬間には悲鳴を上げていた。しばらくの間、嘴を大きく開いて固まっていたが、思考が戻ってくると慌てて土下座する。

「申し訳ありませんでした。まさかまさか夜叉様とは存じませず、とんだご無礼を。平にどうかお許し下さい。重ねてのご無礼で恐縮ではございますが、どうぞ今しばらく夜叉様の縄張りに住まうことをお許しください。子らが育ちましたらすぐに立ち退きますので。代わりと申しては不足でしょうが、私めのことは如何様にもお使いになってくださって構いませんから」

 地面に深々と羽を突いて謝る姿は、黒い羽扇のようだ。毛玉も父の隣で頭を下げている。顔が見えなくなって丸くなった姿は、完全に毛玉だ。毛玉以外の何物でもないだろう。

 真夜の正体を知って態度を一変させた烏に、真夜も戸惑うかと思いきや、

「俺の生活に影響がなければ、好きに暮らせばいい。それこそ人間じゃあるまいし。言うこと聞くって言うなら、卵が欲しい」

 と、さっそく要求を出した。
 本来この世界に存在するものは、誰ものものであり、誰のものでもない。身勝手に破壊することは許されないが、現世の掟を守っていれば自由に使ってよいのだ。
 掟を忘れ、不必要なまでに欲し占有しようとするのは、人間くらいである。
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