上 下
60 / 103

夜太郎と地侍 八

しおりを挟む
「喜平は烏の行水だから、すぐに出るわ。後は任せて多恵は支度をしておきなさい」
「大丈夫ですよう。手拭いを持っていくだけですから」

 笑って返した多恵は慣れた様子で炊けた飯をお櫃に移すと、その他の料理も盛っていく。お菊も手伝って膳を整える。
 温かな膳の用意ができると、すぐに賀蔵が待つ部屋へと運ばれた。

「旦那様、食事の用意ができました」
「ありがとう。今夜も美味そうだ」

 膳に並ぶのは麦飯と茄子の味噌汁、川蝦入りの煮豆に牛蒡の酢の物、そして韮をたっぷりと乗せた豆腐の一汁三菜であった。
 武家ともなれば亭主と嫁は膳を別にする家もあるが、賀蔵夫婦は共に食事をとる。

「野苺はどうします?」

 問われて賀蔵はちらりと夜姫を見る。人形が食べることができるのか、考えあぐねたのだ。
 視線を向けられた夜姫は、小さく首を横に振った。真夜がいないこの場所では、夜姫は食べることができない。

「今夜はいい。取っておいてくれるか?」
「はあい。竹筒に入れておきますね」

 すぐに多恵は台所へととんぼ返りした。
 夫婦のみの部屋となると、賀蔵夫婦は向き合って夕餉にする。
 少しして喜平の声が聞こえたかと思うと、すぐにぱたぱたと土間を走る音が聞こえてきた。多恵が風呂場へ走ったのだろう。

 賀蔵とお菊は顔を見合わせて吹き出すと、「頂きます」と挨拶をしてから茶碗を取った。白茶色の線が中央を割る麦の間に、白く艶やかに輝く顔を出した生成り色の米が混じる。
 侍といっても貴族や大名に比べればずっと身分は低く、米だけを食べるなどという贅沢はできない。ましてや搗いて糠を取るという手間が掛かる白米など、滅多に食べることはない。
 とはいえ玄米をそのまま炊くのは時間が掛かり胃にももたれるため、軽く搗いたものを食べるのが一般的だ。

 賀蔵は甘い湯気を楽しみながら、熱々のご飯を口に入れた。
 ゆっくりと噛みしめると、麦がぷちぷちと歯を楽しませ、米の甘味がじわりと広がっていく。しっかりと咀嚼してとろとろになると、飲み込んだ。

 続いて味噌汁の椀を取る。大地の色を持つ汁には緑色の三つ葉が芽吹いていた。
 箸を深くまで入れれば、隠れていた深紫色の皮を背負った白い茄子が現れる。柔らかな茄子を崩さぬように持ち上げて、口へと運んでやる。
 噛めば実も皮も抵抗なく潰れ、とろりとした舌触りの中から小さな胡麻のような種が出てきたが、一緒に噛み潰してやる。
 飲み込んで汁を吸うと三つ葉が一緒に入ってきて、しゃくしゃくと音を立てた。

 再び麦飯を一口頂いてから、醤油を垂らした豆腐を摘む。細かく刻んだ韮をこぼれるほどに乗せた木綿豆腐は、賀蔵の好物だ。青々とした韮の色目が白い豆腐に映える。
 ひやりと冷たい豆腐を舌が押すと、簡単に崩れてしまう。柔らかな豆腐の手応えの無さに、出番は無しかと鼻白んだ歯は、混じっていたしゃきしゃきとした韮に笑みをこぼした。
 口の中で豆腐は崩れ、韮の風味と混じり合っていく。そこに醤油の塩気とコクも加わり、淡白な味なのにご飯を食べたくなってくる。
 咽へと送り込むとすぐさま麦飯を口に運ぶ。豆腐と韮の余韻を感じながら、冷えた口の中を温めてやる。

 次はどうしようと考えた賀蔵だったが、小鉢に盛られている煮豆へと箸を向けた。柔らかく煮られた卵色の大豆は、硬く真ん丸としていた姿から、瑞々しいぷっくらとしたひよこ型に成長している。
 豆もまた植物の卵なのだと思わせる変化に、命の不思議を感じながら、口へと送りだす。
 柔らかな豆はほくりと潰れ、仄かな甘みと優しいコクを生み出す。一緒に口に入っていた小さな川蝦はぷちりと薄皮が潰れると、風味豊かな旨みを弾けさせた。
 噛んでいる内にこれから生まれようとしていた大豆の力強さが、体へと流れ込んでくるようだ。じっくりと噛みしめて、大切に頂く。

「いつもながら、多恵の煮豆は美味いな」
「ええ、本当に。柔らかくて歯がなくても食べられそうです」
しおりを挟む

処理中です...