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鯉の恋 三

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 晴れて自由の身になった大鯉は、ちらちらと身代わりとなった鯉に目をやってから、いそいそと巨鯉の下へ向かい身を寄せ合う。
 夫婦というよりも親子のように見える体格差だ。

「おお、おお、可愛そうに。鱗が乾いておるではないか」

 そう言った巨鯉の背びれから、何かが出てきて大鯉の背に飛び移った。 
 よく見れば三寸ほどの小さな翁が、巨鯉の背に乗っていたようだ。
 真っ白な髭は引きづるほどに長く、先端には赤い紐が結んである。髭が長い代わりなのか、頭は禿げあがっていた。

「誰だ? お前は?」

 目が点になった真夜に問われて、翁が大鯉の背中から顔を上げる。

「儂か? 儂は鼓沃こい仙人じゃ」

 どうやら先ほどから喋っていたのは巨鯉ではなく、この小さな翁だったようだ。
 大鯉の背に移った鼓沃仙人は、持っていた鼓を打ち始めた。巨鯉が口を開け閉めして鳴っていたと思っていた音も、本当に鼓の音だったのかもしれない。

「紛らわしい」

 真夜の口を突いて出た言葉に、夜姫と千夜丸も揃って頷く。

 しばらく鼓を調子よく打っていた鼓沃仙人が、その手を止めた。見れば大鯉の背が輝きを取り戻し、元気になっている。

「よし、これで良いじゃろう。 では帰るか」

 再び巨鯉の背に鼓沃仙人が戻ると、二匹の鯉は揃って川を下っていく。

「さかなー、ありがとー!」

 夜姫が大きく手を振るのに合わせて、千夜丸も感謝を伝えたいのか、ぽよぽよと跳ねる。わずかに振り返った大鯉が、応えるようにぱしゃりと尾びれで水を跳ねた。

「この大きさなら盥にも入るし、帰ってから捌くか」

 遠ざかっていく大鯉を見送っていた夜姫と千夜丸の動きが止まり、川下から真夜へと首を動かす。
 一連のやりとりを見ていながらも、彼の食欲は消えないらしい。
 元々夜姫と千夜丸を助けてくれた大鯉を食べようとしていたのだから、指摘するだけ無駄であろうか。

 がっくりと肩を落とした夜姫は、千夜丸に乗って川から離れた。水は危険だと理解したのか、河原で綺麗な石がないかと探し始める。
 そんな可愛らしい遊びなど見向きもせず、真夜は盥に川の水を張ると鯉を入れ、残りの褌を洗ってしまう。
 ぎゅっと絞って洗濯が終わると、先に洗って干しておいた小袖に袖を通した。当然だが、まだ生乾きだ。

「陸海月」

 声を掛けるが千夜丸は見向きもしない。
 舌打ちをした真夜は、千夜丸に乾かしてもらうことは諦める。どうせ着ていればすぐに乾くだろうと考えていたので、無理強いするほどのことでもなかったのだ。

 冬の寒い時期なら生乾きなど着ていられないが、今は初夏。朝方は冷える日もあるが、日中は温かい。
 生乾きの衣を着ていたとて、寒さに凍えるようなことはない。

 それはさておき、水干と小袴を褌と一緒に一まとめにした真夜は、夜姫たちに声を掛けた。

「帰るぞ」
「あーい」

 元気よく返事をした夜姫は、千夜丸と一緒に東袋の中に潜っていく。それを首にかけて右手に洗濯物を持つと、左手に盥を抱えて、真夜は洞窟へと戻った。

 洞窟の前に洗濯物を干し直してから、真夜は鯉を捌くための準備をする。
 鍋には水を入れて火に掛けた。酢や味噌といった調味料の準備も万端だ。

 鯉と向かい合うと、手拭いで鯉の顔を覆うように目隠しをしてやり、脳天を打って気絶させる。
 ここからは時間との勝負だ。鱗もそのままに速攻で三枚に下ろしていく。

 とはいえ完全に三枚に下ろすのではなく、内臓を気付付けないように、肛門より頭側の腹には刃を入れないことが大切だ。
 なにせ鯉の苦玉(胆嚢)には毒があり、嘔吐や下痢などならまだしも、下手をすれば命に関わることもある。うっかり潰してしまっては、せっかくの鯉を無駄死にさせてしまいかねない。

 片身を骨から外したら、首を跳ねて昇天してもらう。

「南無」
「にゃむ」

 真夜の声に反応して、日向ぼっこをしていた夜姫もくるりと向きを変えて、手を合わせて拝んだ。

「ん?」

 と顔を上げた真夜は、ふと思いついて彼女に声をかける。
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