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幽世と精進料理 四

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 一杯飲んだところで、御簾の向こうに向かって先ほど目にした出来事を話す。

「――ということがあったんだが、いつもああなのか?」
「多くの人間は規則を守るさ。西側は治安が悪いから、そうとも言い切れないがな」

 町の西側には、荒くれ者たちが住んでいる。居住区域を規制しているわけではないが、初日は壱丁目で申告された生前の罪業ごとに割り振られる。
 善人が悪人の中に混じることは辛いだろうが、悪人が善人の群に混じることも居心地が悪いのだろう。無理に移動しようとする者は滅多にいない。

「俺が言っているのはそこではなくて、鬼人たちの対応だ。採らせたくないならもっと強気に出ればいいだろう? 人間は鬼人を恐れている。少し脅せば言うことを聞く」
「怖がらせたいわけではない。素直に従ってくれるのならば、それが一番だろう?」
「いっそ放っておけ」
「罪が増えるのを見て見ぬふりをしろと? いくらお前の意見だとしても、それこそ受け入れられないな」

 不満そうに顔を背けた初江だったが、にやりと面白そうに白い歯を見せるて話を切り替える。

「ところでお前の子か? まさか人間の女に惚れて、無沙汰していたわけじゃないだろうな?」
「そんなわけがあるか。そもそも俺は別にお前に会いたいと思ったことはない」
「酷い男だ」

 憮然として言った真夜に気を悪くすることもなく、酒を煽ると膝を叩いてかかと笑った。

「そっちの嬢ちゃんにも、食わせていいのか?」

 視線だけを夜姫に向けた真夜は頷く。

「ああ。菓子でもくれてやってくれ」

 口の端を上げた初江が軽く顎をしゃくると、すぐに控えていた鬼人が立ち上がり部屋から出ていった。
 戻ってきた鬼人の手には高坏があり、奉書紙が敷かれた上には白い団子と蓮の落雁、菊を模した練り切りが盛りつけられている。

「おおー」

 繊細な花の形をした菓子に目を輝かせた夜姫は、歓声を上げる。

「遠慮なく食べるがいい」
「これ、食べれる?」
「菓子だからな」

 初江に勧められ、嬉しそうに伸ばした夜姫の手が、遮られ止まる。指先に触れた感触は柔らかく、触れ慣れたものだ。
 真夜の口角がひくりと上がったが、それ以上は表情を崩すことなく無言で見守る。

 いつもならば見知らぬ者の前には姿を見せない千夜丸が、東袋から出てきていた。
 自分の手をじっと見つめていた夜姫は、千夜丸を見る。

「ちよ、食べる?」

 問うと、ぽよぽよと左右に捻るように揺れる。
 どうやら食べたくて邪魔をしたわけではないようだと理解した夜姫は、もう一度高坏に手を伸ばす。ぽよんっと跳ね上がった千夜丸が、再び行く手を遮った。

「ちよ?」

 顔を向ければ千夜丸は、ぽよぽよと体を左右に捻る。夜姫は困ったように眉尻を下げて千夜丸を見つめた。

「陸海月、邪魔をするな。ほら夜姫、俺が押さえておいてやるから、今のうちに菓子をかふっ」

 千夜丸を鷲掴みにし、夜姫に菓子を食べるように促した真夜の口から、鮮血がこぼれ落ちた。
 全員の視線が真夜に向かう。
 初江と鬼人たちからは表情が抜け落ち、困惑で唖然としている。その表情に、真夜の体を気遣う気持ちは見て取れない。驚愕と困惑が大きすぎたようだ。

「しんにゃ、だいじょうぶ?」

 まず声を発したのは夜姫だ。心配そうに真夜の顔を覗き込む。
 次いで鬼人たちが慌ただしく動き出した。濡れた手拭いで口元や手を拭い、汚れた真夜の水干を受け取り部屋から持って出ていく。
 血の付いた畳に小鬼たちが群がって舐めていたが、真夜は見なかったことにした。
 彼らにとって夜叉の血は、自分たちの力を高める格好の餌である。

 御簾の向こうから吹き出す音が聞こえて、真夜の目が細くなり固まった。次の瞬間には爆発するような笑い声が響く。

「冗談だろう? これは傑作だ。まさか、お前が……くっ、くふふふふ」

 笑いすぎて呼吸もまともにできないのか、初江が喋る言葉は切れ切れで、ついにはむせ始めた。
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