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幽世と精進料理 九

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「そんな奴、放っておけばいいんだよ? お前はお前だろうが? どうしても真似したいって言うなら、もっと適当な奴がいるだろうが? 閻魔王とか」
「うーん。閻魔殿はねえ、滲み出ている雰囲気とか、顔が怖いだけだから」

 真夜は沈黙した。無理に記憶の引き出しから探し出さなくても、鋼のような黒い髭を生やした厳つい顔が脳裏に浮かぶ。ついでに怒りに満ちた怒声も聞こえた気がして、ぶるりと身震いした。
 決して雰囲気や顔だけが怖いわけではない。

「因果な務めだよな? もう全員、地獄の釜送りでいいんじゃないのか?」
「君ならやりそうだね。でもそうもいかないよ。そんなことをすれば、世界は悲しみで満ちてしまう。きちんと功罪を確認して、善なる者には更なる得を、悪なる者には悔い改めて改善してもらわないと」

 眉尻を落としながら笑う初江の顔には、悲しみと苦しみが見て取れる。視線を切って見ぬふりをした真夜は盃を舐め、小鉢に箸を伸ばす。
 青々として艶やかな青唐辛子に、擦り胡麻がまぶされている。
 外れを引いたのか、ひりっと舌を噛んだかのように辛味が現れて、仄かに酔っていた意識が急激に引き起こされた。

「相変わらず真面目だな」
「どうだろうね? ただ放っておけないだけかもしれないよ? 僕にしか聞けない声があるのに、無視はできないからね」
「それが真面目だって言ってんだよ、初江」

 ふんわりと、初江は春の野に咲く小さな花のように微笑む。

 亡者が暮らす十ある町の九つは、人間ならば目の前にしただけで震えあがるような、威風堂々たる王が治めている。
 しかしなぜかこの二丁目だけは、うっとりと魅了される者は現れても、畏怖の感情を抱かれることはない、美少女の姿を持つ初江王が治めていた。

 亡者たちへの裁きは、先に自己申告で行われる。自発的に罪を吐露し反省を見せれば、与えられる罰は軽くなる。逆に隠せば罪は重くなる。
 厳つい他の王を前にすれば、多くの亡者たちは震えあがって正直に白状するのだが、初江の姿を見た亡者たちは彼女を侮り、隠したり偽りを述べることが絶えなかった。
 そうして亡者たちは罪を重ね、罰が重くなっていく。

「だから君の真似をしていたのだけれど、合格は貰えないのかな?」
「対象を変えろ。俺とお前じゃ違いすぎる。むしろ虚勢を張っているように見えて、却って侮られるぞ?」
「そうかい? 僕はそうは思わないのだけれど、君からの諫言だ。聞いておこう」

 盃を置いた初江は不満そうだが、どこか嬉しそうに笑う。



 翌朝、朝食を終えた真夜は夜姫たちを連れて川に向かう。
 初江の部屋から出た時点で、千夜丸は言葉を交わすことができなくなってしまった。そのため昨夜は、夜姫も千夜丸も落ち込んでいたのだが、一晩寝て目覚めればいつもと変わらぬ様子に落ち着いていた。

「ちよー、喋るー」

 夜姫に促され、彼女の腕の中で「無理」とばかりにぽよよんっと揺れる千夜丸。
 受け入れて乗り越えたのではなく、単純に理解していないだけかもしれないが、真夜は放っておくことにした。説明が面倒だったからではないと信じたい。

 途中で立ち寄った御店で莚と桶、一尺ほどの竹筒、それに浅めの木の器を求めたが、支払ったのはそれらの対価としては相当に低い、六文だけだ。

「ありがとうございます」

 普通の町であれば「ふざけるな」と怒鳴られてもおかしくない金額であるにもかかわらず、代金を貰った男は両手を合わせ拝むようにして、真夜の姿が見えなくなるまで見送っていた。
 そして真夜の姿が見えなくなると、手にした六文を無くしてなるものかとばかりに、ぎゅっと握り込んむ。

「これでやっと、この町から出られる」

 感無量といった様子で呟くと、小躍りするようにしてどこかへ駆けていった。
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