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その日 二

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 立ち上がった真夜は社から出てゆく。
 
「お供つかまつります」

 彼の前に跪いた異形たち。その表情は決意に満ちていた。
 一瞥した真夜が発したのは一言。

「好きにしろ」
「はっ」

 彼は自由を愛す。己の自由を愛し、他者の自由を愛す。苦難に飛び込むも、彼らの自由。
 だから、止めはしなかった。
 真夜に付き従う者、眷属たちに報せる者、水の氾濫を止めようとする者。それぞれができることをした。

 龍の子が弑された場所に向かった真夜は、空の見える岩の上に立ち、舞う。
 雨が頬を打ち、腕を打ち、足を打つ。龍の怒りを帯びた水弾は、硬い夜叉の皮膚をも薄く切る。それでも舞は止まらない。

「おら管狸くだだぬき、もっと腹鼓を打て」
「よいさ!」
怪楽かぐらども、雨に負けてんぞ?」

 物の怪たちの演奏に合わせて、真夜は舞う。舞う。舞い続けた。
 笛の音が消えようと、鼓の音が途切れようと、彼の舞は止まらない。

「おら、龍王! お前の怒りは俺が受け止めてやる。ほら、来いよ!」

 ぴしゃりと雷が落ち、体を黒く焦がしても、彼は止まらない。荒々しく、雄々しく、そして神々しく。彼は舞う。
 そして――。 

「天駆ける龍王よ、その怒り鎮めたまえ。常夜とこよにく持ちし者の罪、許し給え。冥府めいふの王よ、迷いし御魂に祝福を。冥途への橋を架け給え」

 一際大きな落雷を最後に、雨が上がり雲間から光が差し込んだ。淡く輝く青い珠が、光の橋を昇っていく。
 その珠を追うて昇る、蛍に似た淡く儚げに灯る小さな珠。何度も振り返るように止まっては、真夜に追い払うように手を振られ、昇っていった。
 光の橋が天へと消えると、真夜は座り込み辺りを見回す。

 太い竹炭、皮が焼けた鞨鼓かっこ、煤けて歪に凹む鉦鼓しょうこ、水に溶けゆく黒い灰……。
 異形として共に騒いだ者たちの残骸に、真夜はぐっと息を飲む。

「もう堕ちてくんなよ?」

 青い空に向かって呟いた真夜は、大の字になって眠った。



「卦の通り、この大雨は夜叉の仕業であった」

 耳障りな声で目を覚ます。起き上ろうとしたが、全身が重く軋んで腕を上げることすら敵わない。
 妖力を使い果たした代償かと思うたが、それだけにしては奇妙な違和感があった。まるで鋼の糸で縛られているかのようだ。
 目だけを動かせば、純白の狩衣に身を包んだ者たちに囲まれていた。

「お前……」

 人間たちの中に見覚えのある顔を見つけ、目を見張る。
 男は真夜の傍まで進み出てくると、彼にだけ聞こえるように小声で囁いた。

「あなたには感謝している」
「何を言ってやがる?」

 鋼の糸を断ち切ろうとするが、龍王の怒りを鎮めた後とあっては児戯の如き抵抗さえできない。

「あなたのお陰で私は天候を操る力を手に入れ、私は陰陽師として地位を得た。しかし加減を間違えたようでな。責めは貴方に取っていただく」
「あ?」

 その人間が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。けれど、ただ一つだけ確信した。
 龍王の子を捕えたのは、この人間だ。かつて真夜が教えた洞窟に行き、龍王の子を見つけたのだろう。

 ほんの些細な気の迷い。人間を人ならざる者の世界に近付けたがゆえの結果。
 自然をも、雨を司る龍王までも支配できると驕れる人間を。

「たちの悪い冗談だ」

 くつりと嗤う。笑う。哂う。
 壊れたように笑う夜叉の姿を前に、人間たちの目には恐れが宿る。
 真夜は山を見る。緑に覆われた山。一部で土が見えているが、何とか無事であったようだ。

「龍の子を弑し、夜叉まで弑すか。愚かな」

 鋼の糸が輝きを放ち、躰を焼いていく。爪が土を噛み、歯がぎりりと音を立てる。
 そして、彼は封じられた。



「蘇ったら人を滅する方に賭けたのですがねえ」
「甘いなあ、翁さん。旦那さんがそんな面倒なことするわけないで」
「せやけどなあ、阿さん。あれは予想せんかったで?」

 長きの時を生き残った者は、回顧する。
 腹に人の子の御魂を宿した人形を乗せ、大の字になって眠る夜叉を眺めながら。
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