闇の王と森の王

しろ卯

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五章 伝令の森の民

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 空に届きそうなほどに高く伸びた木々が、森を覆っていた。中には数千年の時を生きてきた、老齢の木も混じる。
 多くの古木たちが暮らす森の奥に、伝令の里はあった。
 長い歳月を経て肥大化した根は、土の中には収まり切らず、大地を激しく波立たせる。その根も幹も、コケに覆われていた。

 古から変わらぬ姿を残した森の中で、眠りに就いていた木霊たちはいつもと違う気配に目を覚まし、夜空に浮かぶ月を見上げた。
 輝く月から星の欠片がこぼれ落ちてきて、光の柱を造り上げていく。その中から森の民の影が現れると、光の柱は夜空へと帰っていった。
 夜の闇が再び森を包むと、木霊たちも夢の中へと戻っていく。

「やっぱり、こっちのほうが落ち着くね」

 銀色の外套と帽子を外したナユクは、紫紺色の外套と飾り紐を身にまといながら誰にともなく呟いた。

「さて、この辺りのはずなんだけど」

 ナユクは周囲よりも高く隆起した根に上ると、森の中を見回す。
 古木たちの丘のように高い根と、隙間から生えるシダの葉が視界をさえぎり、遠くの様子を見ることは難しい。シダの茎や木にも上って、辺りの様子を確かめる。
 緑色のコケに覆われたふかふかとした大地のお蔭で、高い根から飛び降りても足はちっとも痛くない。
 夜の獣たちに気付かれないよう注意しながら、ナユクは森の中を進んでいった。

「見つけた」

 前方に森の民の家が目視できると、ナユクの頬が緩んだ。

 盛り上がった杉の根の上には、幾重にも樹皮を重ねて造られた、とんがり帽子のような形をした家が建っている。
 そして他の家より高い杉の根に建つ、ひときわ大きな家も見つけていた。その家には長老が住んでいるか、大切な物がしまわれているかだろうと、ナユクは見当を付ける。

 伝令の森の民たちは、過去に託された大切な言伝を書き残しているはずだと、ジャンはナユクに伝えた。さらに、その中に浄化の里に関わる言伝も残っているかもしれないという推測まで教えてくれたんだ。
 ナユクの小さな影は、目的である大きな家に、ゆっくりと近付いていく。

 自然に合わせて時を過ごす森の民たちは、太陽が沈んでいる間は深い眠りに就いている。森の民たちが寝静まっている夜に音を消して忍び込めば、気付かれる心配はない。
 だから、その声を聞いたときのナユクの驚きといったら、なかったそうだ。心臓が飛び出しそうだったって、何度も笑いながら言っていた。

「何をしているのですか?」

 ナユクは驚きで体が硬直し、逃げる機会さえ失ってしまった。どう切り抜けるべきか、必死に思考をめぐらせる。

「怪しい者じゃないよ? 旅をしているんだ。森の民の里が見えたから、ちょっと食料でも分けてもらえないかと思って」

 森の民は命ある者を傷付けることを嫌うからね。もしもナユクが食べ物をくすねても、顔をしかめはしても、必要な量は分けてくれるだろう。
 けれど里に収められた大切な書物を盗み見るとなると、話は別だ。気付かれてしまえば里から追い出され、次からは里に近付くことさえ難しくなってしまう。
 調べるためには森の民たちに気付かれないように忍び込んで、こっそり見せてもらうしかなかったんだ。

 それなのにと、ナユクは肩を落とす。
 ナユクに声を掛けた森の民の視線は、彼の背中から外れることはなかった。

「もう立ち去るからさ。他の森の民たちには、秘密にしてくれない?」

 この場は立ち去って、ほとぼりが冷めた頃にまた来ようと決断したナユクは、首をすくめて申し訳なさそうに弁明する。
 でも森の民の視線はナユクを捕えたままだ。ナユクは逃げるように、ゆっくりと歩き出す。

「どうしてそんな言い方をするのですか?」

 不思議そうに、森の民はたずねた。
 ナユクは質問の意図がわからず、足を止め振り返った。

「僕、何か変なことを言った?」

 森の民はきょとんと、戸惑うナユクを見つめる。
 夏の緑を切り取ってうめ込んだような、深緑色の瞳を何度かまぶたに隠すと、

「里の家族たちなら、こう言います。『誰にも言うんじゃない』って」

 と、しかめっ面をしてみせたんだ。
 ナユクは呆けたように口を開いたまま、不思議そうに森の民を見ていた。

「そんな言い方はしないでしょう?」

 ナユクは当たり前のように言ったけれど、森の民は理解できなくて瞬くことしかできない。二人とも困惑してしまって、見つめ合ったまま固まってしまった。
 少しして、深緑色の目が緩む。

「こっちです」

 ナユクの外套の裾を引っ張り、里の外れを指差す。

「木霊に見つかってしまったら、みんなにも見つかってしまいます。こちらへ」

 ささやくように言った森の民を、ナユクはあらためて見た。
 帽子と外套は、暗闇でもわかるほどに薄汚れ穴まで開いている。木の幹を写し取ったような茶と黒が混ざった髪は手入れもされていなくて、長く波打っていた。

「見逃してくれるの?」

 ナユクも声を落として聞き返す。
 こくりと、森の民は頷いた。

「ありがとう」

 お礼を言ったナユクに、森の民はうつむいた。顔も耳も、首まで火照っていたんだ。

 緊張を解いたナユクが案内されたのは、里の外れに設けられた粗末なあばら家だった。
 古い樹皮や小さな樹皮の欠片で作られた、隙間だらけの家は、強い風が吹けば倒れてしまいそうだ。

 ナユクはあばら家を前に里を振り返る。これほどみすぼらしい家は、他に見当らない。
 裂け目のある樹皮を取り付けただけの扉を開け、森の民は中へと入っていく。
 ナユクも続いて入り、隙間から差す月の薄明かりを頼りに中の様子を見まわした。コケの床に干草が盛られているだけの、本当に質素な家だった。

 ここに隠れていろという意味かと、ナユクは一人納得していた。けれど案内してきた森の民が干草の中に潜り込んだのを見て、誤りに気付く。

「まさか君、ここに住んでいるの?」

 思わずと言った様子で、声を低めることなくたずねた。
 森の民は頷く。

「こういう家が好きなの?」

 干草以外には、何の家具も無い部屋だ。小屋の中を見回しながら聞くナユクに、森の民は首を左右に振った。

「じゃあ、なんでここに住んでいるの? みんなと同じ家を造ってもらえばいいのに」

 首を傾げたナユクに、森の民は答えられない。視線を落とし、沈黙した。
 その仕草に、ナユクは彼の身の上を察したのだろうね。それ以上は何も聞かずに、森の民にならって干草に潜った。
 干し草は油断すると肌に刺さってちくちくするけれど、うまく位置を調節すれば気にならない程度には快適に眠れる。
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