闇の王と森の王

しろ卯

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六章 夢見の森の民

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「そう言えば、夏の暑さをしのぐためには怖いを話をすればいいんだっけ?」

 独り言のように呟きながら、ナユクは闇の中心に向かって進んでいった。
 辺りは月の光も届かないほどの、濃い闇に覆われている。寒さに肌も強張る世界で、泣き声は弱々しくも続いていた。

 闇の中心に浮かぶ、小さな魔物の姿がナユクの視界に入る。白い髪と深緋色の瞳、それに周囲を覆う闇さえなければ、見た目は森の民と変わらない。
 まだ幼い森の民のような姿をした魔物は、ナユクに気付くことなく横顔を向けていた。その視線が向かう先には、草陰に身を潜めて震える森の民がいるようだ。

「消えろ。森の民を喰らうと言うのなら、その前に僕がお前を飲み込んでやろう」

 今にも森の民に襲い掛からんとする魔物に、ナユクは強い語気で言い放った。
 ナユクが魔物と対峙するのは、その時が初めてだったそうだ。わずかにこみ上げてきた怯えを、呼吸と共に心の底に沈める。
 油断することなく魔物を睨み付けながら、ナユクはイートの言葉を思い出していた。

『いいこと? 魔物同士が出くわした場合、互いの闇の深さを競うの。負ければ相手に飲み込まれて、支配されてしまうわ。決してひるんではだめよ? あんたの闇は私よりも深いのだから、自信を持って挑みなさい』

 そう教えてくれたそうだよ。最後に、

『半堕ちのあんたに当てはまるのかは、わからないけれど』

 と、呟いていたのが気になったそうだけど。

 魔物は首をぐるりと回して、深緋色に光る目をナユクに向けた。

「ほう? この僕を飲み込むと? 森の民の分際で、生意気な口を利く」

 目を細めた魔物は瞳の奥に怒りの火を宿らせ、怪しい笑みを浮かべた。闇が膨らみ、ナユクを覆っていく。
 ナユクの心はざわついたけれども、思ったほどではなかったそうだ。ひんやりとした風に、雪の積もる故郷を思い出したほどには余裕があった。
 これならば飲み込まれることはなさそうだと、余裕が出てくる。

「どうしました? 怖くて動くこともできませんか? 口は災いの元。じわじわと、苦しむように喰ってあげましょう」

 ゆがんだ笑顔を浮かべ、ささやくように魔物は言った。
 その物言いに、ナユクの心から魔物を気づかう気持ちは失せていく。生きるために森の民を捕食するだけではなく、傷付ける行為を楽しんでいることが許せなかったんだね。
 冷め切った表情を魔物に向けながら、ため息交じりに言葉を返す。

「消えてはくれないか。それでじゃあ仕方がない」

 ナユクも体から闇を放出し、魔物の闇を押し返していく。圧倒的なまでの力の差で、ナユクの闇は魔物を覆っていった。
 闇が魔物を覆い尽くすなり、それまで敵対心を見せていた魔物の表情が一変した。うっとりと目を細めたかと思うと、恍惚とした瞳でナユクを見つめ始めたんだ。

「ああ、なんと素晴らしい闇でしょう。深く重い。これほど上質の闇があるとは」

 嘲るような口調は一転して、ほめたたえ始めた。あまりの豹変に、ナユクは思わず身を引いて顔をこわばらせる。
 だけどそれだけでは終わらなかった。

「どうぞ私めを、あなた様のしもべにしてください」

 魔物はひざまずいて請い始めたんだよ。
 ナユクはぽかんと口を開けて魔物を見つめたまま、言葉も出てこない。少しして我に返ると、困惑を振り払うように頭を左右に振った。

「魔物のしもべなんて、いらないから」
「そんな。お願いでございます、闇の王様」

 足にすがりついて懇願してくる魔物の姿に、ナユクは顔を引きつらせながら、首を横に振ることしかできない。
 しつこく迫る魔物に、ナユクの頭の中は混乱していた。飲み込まれると支配されるというイートの言葉を、今さらながらに噛み締める。
 飲み込んでも、飲み込まれても、ろくな結果にはならないようだね。

「僕、用事があるから」

 だめで元々と思いつつ言ってみると、魔物は素早く反応した。

「御用事? ならば私めが、代わりにやってまいりましょう」

 胸に手をあて恭しく頭を垂れる魔物から、ナユクはゆっくりと距離を取る。

「君には無理だから。邪魔をしないで」

 上ずった声で返したナユクを、魔物は泣きそうな顔をして、上目づかいで見つめてくる。

「あなた様の邪魔をする気など、なかったのでございます。どうぞお許しを」
「許すから、姿を消してよ」

 戸惑いながらも頷くナユクに、魔物は目を輝かせた。拝むように指を組むと、頭に響く、甲高い声で叫んだんだ。

「なんと御心の広い! 承知いたしました。御用事が終わりましたら、どうぞ、闇の王様の第一のしもべ、このポルトをお呼びください」
「わかったから、行ってよ」
「承知いたしました」

 夜の闇の中に、魔物は一瞬で去っていった。
 ぽかんと口を開けて見送ったナユクは、その場に座り込む。なんとも言えない疲れを感じて、自分の身に起きたことを振り返る余裕もなかったそうだ。
 それでも頭を振って気持ちを切り替えると、怯えて泣いている森の民の下へ向かう。

「けがは無いかい?」

 泣いていた森の民は、びくりと体を揺らした。
 まだ生まれて一ヶ月か二ヶ月といったところだろうか? もしかしたら、この満月に生まれた森の民かもしれない、幼い森の民だった。
 いずれにせよ、深夜の森の奥に一人でいる年齢ではない。

「大丈夫だよ。魔物はもう、追い払ったから」

 ほほ笑みを浮かべて、ナユクが優しく声をかけると、幼い森の民はおそるおそる顔を上げた。涙にぬれた顔でナユクを見つめ、それから首を伸ばして辺りをうかがう。
 魔物がいなくなったことを確かめた幼い森の民は、気が緩んだのか、大きな声を上げて泣き始めてしまった。

「もう大丈夫だから。里へ帰ろう? みんなが心配しているよ」

 ナユクは優しく、森の民の頭をなでてあげた。
 ひとしきり泣いた幼い森の民は、泣き疲て眠ってしまう。苦笑しながらナユクは幼い森の民を背負い歩き出した。

「そういえば、故郷でもよく迷子になって泣いている弟妹たちを、こうして部屋まで連れていったっけ」

 懐かしい思い出が、心の片隅に温かな火を灯す。目を細めながら、ナユクは夢見の里に向かった。
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