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七章 浄化の森の民
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失意と絶望が、ジュオウの瞳を奥へと押し込み、口元には笑みを浮かべさせる。
意外なことに、とても静かで穏やかな気持ちだった。
「そうですか、わかりました」
ほほ笑むジュオウの右手が、肩まで上がる。そして――。
――パチンッ。
小さく弾ける音が、伝令の里に響いた。
警戒しながら様子をうかがっていた長老は、その異変にいち早く気付くと、慌てて立ち上がり外へと飛び出した。
天高く伸びる木々たちは、日の光を浴び、きらめいているはずだった。けれど彼らを着飾る葉は、光を失っていたんだ。
他の森の民たちも、異変に気付いていく。
温かく見守ってくれていた樹木は、冷たく暗い影となって、森の民たちを見下ろしていた。
驚きと恐れの混じった目で互いを見つめ合い、森の民たちは怯えていたね。
「木霊たちに何をした?」
振り返った長老は、怒りのこもった目でジュオウを睨みつける。他の森の民たちも、長老の視線の先に目を向けた。
長老の家から出てきたジュオウは、彼らの視線を一身に受けとめる。そして応えるように、ゆっくりと彼らを見回した。
どの目にも、蔑みや憤りの色が宿っていた。自分たちよりも下だったはずの獣が、反旗を翻したのだからね。
もはやジュオウは、彼らを『家族』とは認識できなかった。
「大したことではないですよ? ただ木霊たちに聞いただけです。『伝令の森の民は僕を虐げる。君たちは、そんな森の民たちのために働くのかい?』って」
森の民たちは眉をひそめ、首をひねって、ジュオウの言葉の意味を探る。
ジュオウが口にした言葉で、木霊たちの声が止むとは思えなかったのだろう。彼は何も命じてはいないのだから。
それに彼らには、ジュオウを虐げた記憶なんてなかったんだ。
森に還すべき呪われた子を、哀れみを持って育ててあげたのだから。感謝こそされても、怒りを向けられる理由が分からなかったのさ。
だから森の民たちの困惑は、ますます強まっていった。
「偽りを言うのではない。お前の持つ呪われた魔法を使い、木霊たちを眠らせたのだろう? 元に戻しなさい」
騒ぐ森の民たちの中で、長老だけはき然とした態度を見せた。
ほほ笑みを消したジュオウは、悲しげに眉を下げる。
「ひどいな。偽りなんて言っていないのに」
ぱちんと、里の中に小さな音が響く。そのとたんに、木霊たちは堰を切ったようにしゃべり始めた。
「伝令の森の民たちよ。私たちは、ずっと見ていた。お前たちが彼を傷付ける様を」
「始まりの契約により、我々はお前たちに力を貸してきた。だがこれ以上、お前たちのためには働けない」
森の民たちの顔が、青ざめていく。すくみ上がり、近くの森の民に抱きつく者までいる。
伝令の里は、大きな混乱に陥っていた。
ぱちんと、小さな音が響くと、木霊たちの声は再び消えた。
伝令の森の民たちは魔物でも見るかのような、恐怖と軽蔑の入り混じった目をジュオウに向ける。
「お前の望む情報を与えれば、元に戻すのだな?」
血の気の引いた顔で息を飲み込み、のどを鳴らした長老は、声を絞り出した。
「ええ。欲しいのはそれだけです。あなた方に興味は無いですから。言うことを聞いてくれるなら、木霊たちにお願いしてあげますよ。『伝令の森の民たちを、許してあげて』って」
苦い表情で長老は呻く。けれども彼らになす術などない。
まぶたを落とし気持ちを落ち着かせた長老は、自身の家にジュオウを招き入れた。そして浄化の森の民に関する言い伝えを、全て話したのさ。
長老だけに伝えられる、秘密の物語を。
ジュオウは急いで駆けた。かつて浄化の里があったという場所へ。
覆い立つ草やぶの隙間を走り抜け、小石を飛び越えて、ジュオウは進んでいく。
「木霊よ、教えておくれ。浄化の里はどこにある?」
柏の古木に向かって、ジュオウは叫ぶようにたずねた。
太い幹には、ヘクソカズラが巻きついている。鮮やかな紅の生地に、純白の起毛が輝くドレスを着て、乙女たちは常磐緑の葉の上で円舞を楽しんでいた。
少しの沈黙があり、それから、ゆったりとした柏の木霊の声が返ってくる。
「ジュオウよ、浄化の里は消えてしまった。ここには巨人たちもやって来る。早く森の奥へお帰り」
ようやく耳にすることのできた、浄化の里の情報だ。無意識にジュオウの口元が緩んでいく。
だけど、続いた言葉が引っかかった。
「ここは結界の中だろう? どうして巨人たちがやって来るんだい?」
森の民の森と巨人の里は、古の森の民たちが張りめぐらした結界で隔たれていたんだ。その内側に入ろうとした巨人は、道に迷い、元の場所に戻ってしまうはずだった。
木霊は答える。
「巨人たちは、海や空をも穢れに染めた。結界は薄れ、そこに巨人が使役する、熊のように大きな獣が現れた。山をも崩し、森ごと結界を破壊してしまった」
「そんな」
がく然としたジュオウは、よろめくように後退る。
それでは結界の中にいても、安全とは言えなくなってしまう。もう森の民たちに、安心して暮らせる場所はないのだろうかと、血の気が引いていった。
ジュオウは強く目を閉じて心を鎮める。
今は先のことを心配している場合ではない。目的を果たさなければならないのだから。
「浄化の里は、どこにあったの?」
まぶたを上げて、あらためてたずねた。
柏の木霊は記憶を辿る。それから、
「西の方角だ。七色の岩がそびえる海岸」
と、答えたんだ。
「ありがとう、柏の木霊」
「お役に立てて幸いだ、我らがジュオウ」
はじけんばかりの笑顔でジュオウがお礼を言うと、柏の木霊は嬉しそうに枝葉を揺らした。
別れの言葉を述べたジュオウは走り出す。
「生きている間に、二人のジュオウに会えるとは」
後ろから、木霊の呟きが聞こえた。けれどジュオウは振り返らない。この先に、浄化の里が眠っているのだから。これでナユクを救えるのだから。
羽が生えたように軽い足取りで、ジュオウは走り続けた。
柏の木霊以外にも、さらに幾柱かの木霊に確かめて、ジュオウは目的の場所に辿り着く。
森が開けた先は、地面が途切れて崖になっていた。下を覗いてみると、切り立った崖の下、波の当たらない高さに、平らな白い道が見える。
辺りを見回しても、下りる道はないようだ。仕方なく、崖の凹凸を、滑らないように気をつけながら下りていった。
意外なことに、とても静かで穏やかな気持ちだった。
「そうですか、わかりました」
ほほ笑むジュオウの右手が、肩まで上がる。そして――。
――パチンッ。
小さく弾ける音が、伝令の里に響いた。
警戒しながら様子をうかがっていた長老は、その異変にいち早く気付くと、慌てて立ち上がり外へと飛び出した。
天高く伸びる木々たちは、日の光を浴び、きらめいているはずだった。けれど彼らを着飾る葉は、光を失っていたんだ。
他の森の民たちも、異変に気付いていく。
温かく見守ってくれていた樹木は、冷たく暗い影となって、森の民たちを見下ろしていた。
驚きと恐れの混じった目で互いを見つめ合い、森の民たちは怯えていたね。
「木霊たちに何をした?」
振り返った長老は、怒りのこもった目でジュオウを睨みつける。他の森の民たちも、長老の視線の先に目を向けた。
長老の家から出てきたジュオウは、彼らの視線を一身に受けとめる。そして応えるように、ゆっくりと彼らを見回した。
どの目にも、蔑みや憤りの色が宿っていた。自分たちよりも下だったはずの獣が、反旗を翻したのだからね。
もはやジュオウは、彼らを『家族』とは認識できなかった。
「大したことではないですよ? ただ木霊たちに聞いただけです。『伝令の森の民は僕を虐げる。君たちは、そんな森の民たちのために働くのかい?』って」
森の民たちは眉をひそめ、首をひねって、ジュオウの言葉の意味を探る。
ジュオウが口にした言葉で、木霊たちの声が止むとは思えなかったのだろう。彼は何も命じてはいないのだから。
それに彼らには、ジュオウを虐げた記憶なんてなかったんだ。
森に還すべき呪われた子を、哀れみを持って育ててあげたのだから。感謝こそされても、怒りを向けられる理由が分からなかったのさ。
だから森の民たちの困惑は、ますます強まっていった。
「偽りを言うのではない。お前の持つ呪われた魔法を使い、木霊たちを眠らせたのだろう? 元に戻しなさい」
騒ぐ森の民たちの中で、長老だけはき然とした態度を見せた。
ほほ笑みを消したジュオウは、悲しげに眉を下げる。
「ひどいな。偽りなんて言っていないのに」
ぱちんと、里の中に小さな音が響く。そのとたんに、木霊たちは堰を切ったようにしゃべり始めた。
「伝令の森の民たちよ。私たちは、ずっと見ていた。お前たちが彼を傷付ける様を」
「始まりの契約により、我々はお前たちに力を貸してきた。だがこれ以上、お前たちのためには働けない」
森の民たちの顔が、青ざめていく。すくみ上がり、近くの森の民に抱きつく者までいる。
伝令の里は、大きな混乱に陥っていた。
ぱちんと、小さな音が響くと、木霊たちの声は再び消えた。
伝令の森の民たちは魔物でも見るかのような、恐怖と軽蔑の入り混じった目をジュオウに向ける。
「お前の望む情報を与えれば、元に戻すのだな?」
血の気の引いた顔で息を飲み込み、のどを鳴らした長老は、声を絞り出した。
「ええ。欲しいのはそれだけです。あなた方に興味は無いですから。言うことを聞いてくれるなら、木霊たちにお願いしてあげますよ。『伝令の森の民たちを、許してあげて』って」
苦い表情で長老は呻く。けれども彼らになす術などない。
まぶたを落とし気持ちを落ち着かせた長老は、自身の家にジュオウを招き入れた。そして浄化の森の民に関する言い伝えを、全て話したのさ。
長老だけに伝えられる、秘密の物語を。
ジュオウは急いで駆けた。かつて浄化の里があったという場所へ。
覆い立つ草やぶの隙間を走り抜け、小石を飛び越えて、ジュオウは進んでいく。
「木霊よ、教えておくれ。浄化の里はどこにある?」
柏の古木に向かって、ジュオウは叫ぶようにたずねた。
太い幹には、ヘクソカズラが巻きついている。鮮やかな紅の生地に、純白の起毛が輝くドレスを着て、乙女たちは常磐緑の葉の上で円舞を楽しんでいた。
少しの沈黙があり、それから、ゆったりとした柏の木霊の声が返ってくる。
「ジュオウよ、浄化の里は消えてしまった。ここには巨人たちもやって来る。早く森の奥へお帰り」
ようやく耳にすることのできた、浄化の里の情報だ。無意識にジュオウの口元が緩んでいく。
だけど、続いた言葉が引っかかった。
「ここは結界の中だろう? どうして巨人たちがやって来るんだい?」
森の民の森と巨人の里は、古の森の民たちが張りめぐらした結界で隔たれていたんだ。その内側に入ろうとした巨人は、道に迷い、元の場所に戻ってしまうはずだった。
木霊は答える。
「巨人たちは、海や空をも穢れに染めた。結界は薄れ、そこに巨人が使役する、熊のように大きな獣が現れた。山をも崩し、森ごと結界を破壊してしまった」
「そんな」
がく然としたジュオウは、よろめくように後退る。
それでは結界の中にいても、安全とは言えなくなってしまう。もう森の民たちに、安心して暮らせる場所はないのだろうかと、血の気が引いていった。
ジュオウは強く目を閉じて心を鎮める。
今は先のことを心配している場合ではない。目的を果たさなければならないのだから。
「浄化の里は、どこにあったの?」
まぶたを上げて、あらためてたずねた。
柏の木霊は記憶を辿る。それから、
「西の方角だ。七色の岩がそびえる海岸」
と、答えたんだ。
「ありがとう、柏の木霊」
「お役に立てて幸いだ、我らがジュオウ」
はじけんばかりの笑顔でジュオウがお礼を言うと、柏の木霊は嬉しそうに枝葉を揺らした。
別れの言葉を述べたジュオウは走り出す。
「生きている間に、二人のジュオウに会えるとは」
後ろから、木霊の呟きが聞こえた。けれどジュオウは振り返らない。この先に、浄化の里が眠っているのだから。これでナユクを救えるのだから。
羽が生えたように軽い足取りで、ジュオウは走り続けた。
柏の木霊以外にも、さらに幾柱かの木霊に確かめて、ジュオウは目的の場所に辿り着く。
森が開けた先は、地面が途切れて崖になっていた。下を覗いてみると、切り立った崖の下、波の当たらない高さに、平らな白い道が見える。
辺りを見回しても、下りる道はないようだ。仕方なく、崖の凹凸を、滑らないように気をつけながら下りていった。
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