醜い王子と人魚の献身

しろ卯

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01.広い部屋にあるのは

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 広い部屋にあるのは、シンプルな寝台と小さなテーブルセット。棚に並ぶ本は貴族令嬢として嗜むべき最低限のものだけ。
 窓に吊るされた厚いカーテンは、朝が来ても開かれることはない。
 庭の花壇に咲いた四季の花を眺めることも、梢に停まって囀る小鳥の姿を見ることも、シンシアには許されていなかった。

 家族と顔を合わせることは、年に数度。
 伯爵家に生まれた娘でありながら、家庭教師は付けられていない。読み書きは幼い頃に乳母から教わったけれど、それ以上は独学だ。
 食事と掃除の時間になると、侍女が訪れる。彼女たちは怯えた様子で、決してシンシアと交流を持とうとはしなかった。

 冬が旅支度を終えたのだろう。
 チェラルの枝先に付いた蕾が膨らんでいく。薄紅色の可憐な花が咲けば、春の到来である。
 そんな春を目前に控えたある日。食事の時間でもないのに、侍女がシンシアの部屋を訪れた。
 顔を青くした彼女の手には、大きな荷物が携えられている。

「お召替えを」

 シンシアは侍女に指示されるまま、身に付けていた服を脱ぐ。肌が外気に晒された途端、侍女が小さな悲鳴を漏らした。

「ひいっ!?」

 ますます顔を青ざめさせ、体を震わせる侍女に、シンシアは申し訳なく思う。そして同時に、悲しくなった。

 シンシアの肌には、魚に似た薄く小さな鱗が生えている。
 目立つ場所だと、左の脇腹から背中にかけて。腕は右の肩から肘に、左の二の腕の中ほどから手首まで。足にも右の腿からふくらはぎへと、鱗が並ぶ。他にも斑に点在していた。
 産まれて間もない頃に生えてきた鱗は、剥ぎ落しても少し経てばまた生えてくる。
 苦肉の策で皮ごと削ぎ落された左足の膝下は、鱗の代わりに桃色の引きつった肌が覗く。

 呪われた娘だと蔑まれながらも、屋敷に置かれ最低限の生活を保障されているのは、この左足のお蔭だった。
 足を削がれた痛みに、幼いシンシアは悲鳴を上げて泣き叫んだ。少女に応えるように、空は曇り雷が落ちる。

 偶然だったのか、それとも本当になんらかの力が働いたのかは分からない。
 けれど伯爵家の人間は、その出来事に恐れを抱く。
 シンシアに危害を加えれば、禍がもたらされる。そう考え、以降は彼女の体に危害を加えることはなくなった。
 部屋から出る自由こそ与えられていないけれど、衣食住は整えられている。

 歪みかけた表情を押さえ込むシンシアに、侍女はドレスを着つけていく。
 怯える侍女を気の毒に思いはするが、シンシアは何も言わない。喋れば余計に怯えさせるだけだと、今までの経験で知っているから。

 首までしっかり覆う襟元。鱗を落とすことのないよう、絞られた袖口。さらに白い手袋が嵌められる。
 型は古く、若者向けとは言えないデザイン。けれど王城に上がる最低限のラインはクリアしていた。
 派手過ぎず、しかし地味過ぎて目を引くほどではない。大勢の淑女に囲まれれば、埋没してしまうだろう。
 目立つことが許されないシンシアには相応しいドレスだ。

 化粧も終えると、侍女は耐え切れずに安堵の息を零した。
 その行為がシンシアの気分を害したとでも思ったのか。引きつった顔で一礼するなり、逃げるように部屋から出て行く。
 扉が閉まると、シンシアはせっかくのドレスを着崩さないように注意しながら、椅子に腰かけた。

「今夜だったのね」

 春の始まりに開かれる生誕祭は、国王陛下の誕生日を祝う記念行事だ。伯爵家以上の貴族と成人した家族に出席を義務付けられている。伯爵家の娘であるシンシアにも、登城する義務があった。
 彼女が部屋から出ることが許される、数少ない機会の一つだ。

 シンシアの胸の中で、外へ出られる喜びと期待、そして不安と恐怖が騒ぎだす。
 わずかな傷でさえ瑕疵とされる貴族の令嬢。体の至る所に鱗を生やす彼女がどう扱われるか、幼い頃から何度も聞かされてきた。
 決して秘密を知られてはいけない。もしも知られてしまえば、今の生活すら失ってしまう。
 ゆっくりと息を吐き出して、シンシアは不安と恐怖を押しのける。

「せっかくだもの。楽しまなくちゃ」

 愁いを帯びた睫毛を上げると、口元に微かな笑みをかたどった。
 期待はしていない。だけど、小さな鉢から大きな池に放たれる、数少ない機会だ。
 再び閉じ込められても思い返して楽しめるよう、外の景色をしっかりと目に焼き付けて来なけてこよう。
 そんな決意を自分自身に言い聞かせ、怖気づきそうになる心を奮い立たせる。

 扉を軽く叩く音で、シンシアは立ち上がった。部屋を出て、使用人の案内で玄関まで向かう。
 すでに家族たちの姿はない。シンシアと同じ馬車に乗ることを、そして彼女の姿を目にすることを厭う彼らは、一足先に王城へ向かったのだ。
 用意されていた予備の馬車に乗せられて、シンシアは王城に向かった。


   ◇


 広いホールで語らう紳士淑女たちを、シンシアは壁際から眺めていた。
 色取り取りのドレス。輝くシャンデリア。奏でられる音楽――
 滅多に見られない光景に、シンシアが退屈を覚えることはない。

 明るいホールとは対照的に、日が落ちて薄暗くなった庭園には、妖精灯の柔らかな光が灯る。
 砂糖がたっぷり入った甘い砂糖水に誘われて、妖精たちがランタンに集まっていく。星の瞬きほどの明るさしか持たない妖精たちも、集まれば周囲を照らすのに充分な灯りとなった。 
 妖精たちはもっと甘くて美味しい砂糖水はないかと、妖精灯を飛び巡る。

 ふわりと吹き込んできた香しい早春の風に誘われて、シンシアは庭園に足を向けた。
 まだ肌寒く、花も少ないためか、人の姿は数えるほど。人目を避けなければならないシンシアには、却ってちょうどいい。
 花の女王バラーラが、緑の外套をくつろげる。まだ蕾とも呼べる彼女の赤いドレスは、ほんのわずかしか覗いていない。それでも仄暗い妖精灯に照らされて、妖艶な美しさでシンシアを魅了した。

 絵本の中に迷い込んだ気がして浮かれたシンシアは、ひらりひらりと舞う蝶のように庭園を進む。

 こつりと、足に何かが当たった。下を見れば、白い仮面が足下に落ちている。
 しゃがんで手に取ったシンシアは、辺りを見回す。
 でも、誰もいない。

 妖精が一匹、目の前を横切り、生垣でできた壁に潜っていく。
 枝葉の隙間を器用に飛んでいく妖精を追って覗き込むと、下を見て何かを探している男の姿が見えた。
 白いシャツに、黒いズボン。
 招待客の貴族としても、王城に仕える使用人としても、王城で見かけるには余りに簡素な格好だ。
 いったい何者だろうかと首を傾げながら、シンシアは生垣越しに声を掛ける。

「あのう、探しているのはこれですか?」

 人と関わるのは好ましくないと分かっているけれど、困っているのを放っておくわけにもいかない。
 はっと顔を上げた男は、生垣の隙間からシンシアの存在を確認するなり、すぐに顔を背けた。
 一瞬だけ見えた彼の瞳。煌めく青色は彼女が知るどんな宝石より美しくて、シンシアは息を呑んだ。

「ああ。礼を言う。下から渡してくれるか?」

 男が姿勢を低くすると、生垣の下から手が伸びてきた。差し出された白い手袋の上に、シンシアは拾った仮面を乗せる。
 手が引っ込むと、仮面を顔に付けて立ち上がった男が、彼女のほうを向いた。

「叫ばないのか?」

 シンシアは問い掛けの意味が分からず、きょとんと瞬く。
 彼女の反応を見て、男は自嘲気味に鼻で笑う。

「私の顔を見たのだろう? 令嬢なら悲鳴を上げるものだが?」

 男の顔には、赤黒く浮き出た線が無数に走っていた。
 シンシアは特段なんとも思わなかったけれども、彼女の肌を見た侍女たちは、悲鳴を上げたいたことを思い出す。
 きっと白く滑らかな肌でなければ、令嬢は悲鳴を上げるものなのだろう。
 そんな結論に至ったけれど、悲鳴を上げられた時、シンシアは悲しい気持ちになった。だからきっと、正しい反応ではないはずだと思う。
 それなのに、男から向けられた眼差しを見ていると、要望に応えたほうがいいのだろうかと思ってしまった。だからシンシアは、声を出したのだ。
 
「きゃあ?」

 目元しか見えないのに、男が仮面の下で戸惑っているのが分かる。
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