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07.チェスターが執務机に着くと
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チェスターが執務机に着くと、紅茶が運ばれてくる。
彼好みのさっぱりとした香り。口に含めば渋みが頭を冴えさせるお茶は、チェスターのために淹れられたお茶だ。
他の者が口に含めば眉をひそめかねないが、彼はこのくらい濃いお茶を好む。
もっとも、同じ執務室で仕事をしている者たちまで同じ嗜好ではない。チェスターに合わせて淹れられ紅茶を、彼らは普段使わない砂糖やミルクを入れて凌いでいる。
その様子になんだか優越感を覚えて、チェスターは微かに口角を引き上げた。
シンシアはチェスターのためを考えて行動してくれる。
かつては当たり前に享受していた善意。けれど今では、ほとんど向けられない優しさ。
紅茶の温かみだけではない何かが、チェスターを内側から温めていく。
そんな彼女は侍女としての仕事だけでなく、簡単な雑用まで手伝うようになっていた。
初めは断っていたチェスターたちだったけれど、人手不足に負けて、彼女の優しさに甘えている。その結果、彼女の教育不足が露見した。
「最低限の作法は理解している。だが身についているとは言い難い」
シンシアがお茶を入れ直すために部屋を出たところで、チェスターはペンを置く。
知識としては学んでいるけれども、体に覚え込ませていない。付け焼刃、あるいは貴族の真似をしているように見えた。
「言葉遣いも時々乱れますね」
「悪筆は俺も人のこと言えないですけど、子供みたいな」
チェスターの言葉に、執務室にいた者たちが同調する。
マーメイ伯爵の態度。あまりになかった体力。そして頑なに見せない肌。
それらを踏まえれば、シンシアが生家でどんな扱いを受けていたのか想像がつく。
偶然の出会いから思いつきで雇ったが、日に日に表情が明るくなっていく彼女を見ていると、あの日仮面を落としてよかったとすら思える。
感情を顕わにしないことを徹底される侍女としては好ましくない。しかしどうせこの部屋の中だけだと、チェスターも彼の部下たちも、温かく見守っていた。
「他家の内情にまで踏み込むことはできませんからね」
「よい嫁入り先を探してあげたらいかがですか?」
いつまでも王城で働かせるわけにはいかない。だが実家に戻せば再び辛い日々を送るか、あまり好ましくない相手に嫁がされるのではないか。
そんな心配から出た、善意の言葉だったのだろう。
頷こうとしたチェスターは、言葉を詰まらせた。
頭の隅にもやもやとした不快感を覚え、それは嫌だと拒絶する自分に驚く。
とはいえ、彼女が不幸になる未来など許せるはずもない。
浮かんだ感情に首をひねっている内に、不快感は消えていった。
「そうだな」
改めて応じたチェスターは、シンシアの相手に相応しい令息を頭の中でリストアップする。
ちりりと目の端が黒く淀み、苦いものが胸に込み上がる理由に、彼は気付かなかった。
◇
シンシアが自分の鱗をシアルの油に漬けてから、二か月ほどが経った。
目が覚めたシンシアは、小瓶を見て大声を上げそうになる。
昨日までは薄っすらと黄緑色をしていたシアルの油が、虹色に変わっていたのだ。
「綺麗」
窓から差し込む光に透かして揺らすと、虹がゆらゆらと色を変えていく。
「私の鱗も、役に立つのね」
まだ出来上がったわけではないけれど、本に書いてあった通りに色が変わった。あとはガルマの花粉を採ってくるだけだ。
シンシアは図書館で書き写してきた地図を開く。慣れない作業で歪ではあるものの、目印になりそうなものは書き込めていると自負している。
「ここまで、どのくらいかかるのかしら?」
彼女が知る世界は、伯爵邸の自室と、王城で生活している区画のみ。後は伯爵邸と王城を馬車で移動したときに見た、外の景色くらいだ。
王都がどういった場所で、どれほど広いか。彼女は分かっていなかった。
だからいつものようにチェスターの執務室で仕事をしていた彼女は、文官の一人から何気なく問われた質問に、何も考えずに答えたのだ。
「シンシア嬢、明日は休みだろう? 何をして過ごすんだい?」
「川に行こうと思っています」
「川?」
「はい」
全員が手を止めて、シンシアを見つめる。
何かおかしなことを言っただろうかと、シンシアは小首を傾げた。
「川って……ピクニックかな? 誰と行くんだい?」
「川辺に生える植物を採りに行こうと思っています。一人ですよ」
「植物? どこの川まで行くの?」
「お城の東側にある川です」
シンシアには恋人はおろか、友人と言える相手すらいない。王都を流れる川まで、一人で歩いていくつもりだった。
「……シンシア。王都を流れる川は整備されている。どんな植物が欲しいのか知らないが、有用な植物は生えていないと思うぞ?」
「そうなのですか?」
困惑顔のチェスターの言葉に、シンシアも困惑してしまう。
川に行けば採取できると思っていたのだ。予定が狂い、どうすればいいだろうかと悩みだす。
「何の植物が欲しいんだ?」
「ガルマです」
「ガルマ? それなら王家が管理している森に生えていたと思うが。何に使うのだ?」
「それは……」
絶たれたかと思った入手の道が開けて、シンシアは喜んだ。だけど薬のことは、まだチェスターに知られたくなかった。
どう答えればいいだろうかと、彼女は考える。けれど薬以外に、ガルマの使い方をシンシアは知らなかった。
「まあいい。それなら私が連れて行ってあげようか? 最近根を詰めていたからな。遠乗りに行こうと思っていたのだ」
「そんな。殿下の手を煩わせるなど、申し訳ありません」
「そう畏まるな。王族といっても形ばかりのものだということは、すでに理解しているだろう? 汚れてもいい、動きやすい服は持っているか?」
「えっと、はい」
マーメイ伯爵家から持ってきた服はどれも着古していて、今さら少し汚れが増えたくらいで支障はない。
貴族令嬢が着るには簡素過ぎるドレスだ。走ったり剣を触れと言われれば難しいけれど、令嬢が動く範囲であれば問題ないだろう。
「では決まりだ」
戸惑うシンシアが拒否するより先に、決定されてしまった。
◇
シンシアは馬に乗ったことなどなかった。とはいえ乗馬を趣味とする令嬢は少ないため、珍しいことではないだろう。
チェスターが跨る馬に抱きかかえるようにして乗せてもらい、王城の裏に広がる森を駆ける。
「力を抜け。馬に緊張が伝わる」
「申し訳ございません」
謝るシンシアだけれども、緊張するなと言うほうが無理があった。
チェスターは馬をゆっくり進めてくれているが、それでも大きく揺れる。
落ちないよう、必死に鞍に捕まるけれども、鞍に縋るほど姿勢が悪くなり、却って落ちそうになった。
それだけでも怖くて緊張するというのに、視線を左に向ければ、チェスターの胸元が目に入るのだから。
「こちらに身を預けろ。そのような体勢では疲れるだろう?」
「だ、大丈夫です」
少しでもチェスターから身を離そうとするシンシアに、チェスターは眉をひそめる。
「許せ」
「え? きゃあっ!?」
チェスターの右手がシンシアの脇に触れ、引き上げられた。鞍から手が離れ、チェスターと体が密着する。
「椅子の背もたれとでも思っておけ」
「とんでもございません!」
どんな豪華な背もたれだと、シンシアは絶叫したくなる気持ちを必死に抑えた。
彼好みのさっぱりとした香り。口に含めば渋みが頭を冴えさせるお茶は、チェスターのために淹れられたお茶だ。
他の者が口に含めば眉をひそめかねないが、彼はこのくらい濃いお茶を好む。
もっとも、同じ執務室で仕事をしている者たちまで同じ嗜好ではない。チェスターに合わせて淹れられ紅茶を、彼らは普段使わない砂糖やミルクを入れて凌いでいる。
その様子になんだか優越感を覚えて、チェスターは微かに口角を引き上げた。
シンシアはチェスターのためを考えて行動してくれる。
かつては当たり前に享受していた善意。けれど今では、ほとんど向けられない優しさ。
紅茶の温かみだけではない何かが、チェスターを内側から温めていく。
そんな彼女は侍女としての仕事だけでなく、簡単な雑用まで手伝うようになっていた。
初めは断っていたチェスターたちだったけれど、人手不足に負けて、彼女の優しさに甘えている。その結果、彼女の教育不足が露見した。
「最低限の作法は理解している。だが身についているとは言い難い」
シンシアがお茶を入れ直すために部屋を出たところで、チェスターはペンを置く。
知識としては学んでいるけれども、体に覚え込ませていない。付け焼刃、あるいは貴族の真似をしているように見えた。
「言葉遣いも時々乱れますね」
「悪筆は俺も人のこと言えないですけど、子供みたいな」
チェスターの言葉に、執務室にいた者たちが同調する。
マーメイ伯爵の態度。あまりになかった体力。そして頑なに見せない肌。
それらを踏まえれば、シンシアが生家でどんな扱いを受けていたのか想像がつく。
偶然の出会いから思いつきで雇ったが、日に日に表情が明るくなっていく彼女を見ていると、あの日仮面を落としてよかったとすら思える。
感情を顕わにしないことを徹底される侍女としては好ましくない。しかしどうせこの部屋の中だけだと、チェスターも彼の部下たちも、温かく見守っていた。
「他家の内情にまで踏み込むことはできませんからね」
「よい嫁入り先を探してあげたらいかがですか?」
いつまでも王城で働かせるわけにはいかない。だが実家に戻せば再び辛い日々を送るか、あまり好ましくない相手に嫁がされるのではないか。
そんな心配から出た、善意の言葉だったのだろう。
頷こうとしたチェスターは、言葉を詰まらせた。
頭の隅にもやもやとした不快感を覚え、それは嫌だと拒絶する自分に驚く。
とはいえ、彼女が不幸になる未来など許せるはずもない。
浮かんだ感情に首をひねっている内に、不快感は消えていった。
「そうだな」
改めて応じたチェスターは、シンシアの相手に相応しい令息を頭の中でリストアップする。
ちりりと目の端が黒く淀み、苦いものが胸に込み上がる理由に、彼は気付かなかった。
◇
シンシアが自分の鱗をシアルの油に漬けてから、二か月ほどが経った。
目が覚めたシンシアは、小瓶を見て大声を上げそうになる。
昨日までは薄っすらと黄緑色をしていたシアルの油が、虹色に変わっていたのだ。
「綺麗」
窓から差し込む光に透かして揺らすと、虹がゆらゆらと色を変えていく。
「私の鱗も、役に立つのね」
まだ出来上がったわけではないけれど、本に書いてあった通りに色が変わった。あとはガルマの花粉を採ってくるだけだ。
シンシアは図書館で書き写してきた地図を開く。慣れない作業で歪ではあるものの、目印になりそうなものは書き込めていると自負している。
「ここまで、どのくらいかかるのかしら?」
彼女が知る世界は、伯爵邸の自室と、王城で生活している区画のみ。後は伯爵邸と王城を馬車で移動したときに見た、外の景色くらいだ。
王都がどういった場所で、どれほど広いか。彼女は分かっていなかった。
だからいつものようにチェスターの執務室で仕事をしていた彼女は、文官の一人から何気なく問われた質問に、何も考えずに答えたのだ。
「シンシア嬢、明日は休みだろう? 何をして過ごすんだい?」
「川に行こうと思っています」
「川?」
「はい」
全員が手を止めて、シンシアを見つめる。
何かおかしなことを言っただろうかと、シンシアは小首を傾げた。
「川って……ピクニックかな? 誰と行くんだい?」
「川辺に生える植物を採りに行こうと思っています。一人ですよ」
「植物? どこの川まで行くの?」
「お城の東側にある川です」
シンシアには恋人はおろか、友人と言える相手すらいない。王都を流れる川まで、一人で歩いていくつもりだった。
「……シンシア。王都を流れる川は整備されている。どんな植物が欲しいのか知らないが、有用な植物は生えていないと思うぞ?」
「そうなのですか?」
困惑顔のチェスターの言葉に、シンシアも困惑してしまう。
川に行けば採取できると思っていたのだ。予定が狂い、どうすればいいだろうかと悩みだす。
「何の植物が欲しいんだ?」
「ガルマです」
「ガルマ? それなら王家が管理している森に生えていたと思うが。何に使うのだ?」
「それは……」
絶たれたかと思った入手の道が開けて、シンシアは喜んだ。だけど薬のことは、まだチェスターに知られたくなかった。
どう答えればいいだろうかと、彼女は考える。けれど薬以外に、ガルマの使い方をシンシアは知らなかった。
「まあいい。それなら私が連れて行ってあげようか? 最近根を詰めていたからな。遠乗りに行こうと思っていたのだ」
「そんな。殿下の手を煩わせるなど、申し訳ありません」
「そう畏まるな。王族といっても形ばかりのものだということは、すでに理解しているだろう? 汚れてもいい、動きやすい服は持っているか?」
「えっと、はい」
マーメイ伯爵家から持ってきた服はどれも着古していて、今さら少し汚れが増えたくらいで支障はない。
貴族令嬢が着るには簡素過ぎるドレスだ。走ったり剣を触れと言われれば難しいけれど、令嬢が動く範囲であれば問題ないだろう。
「では決まりだ」
戸惑うシンシアが拒否するより先に、決定されてしまった。
◇
シンシアは馬に乗ったことなどなかった。とはいえ乗馬を趣味とする令嬢は少ないため、珍しいことではないだろう。
チェスターが跨る馬に抱きかかえるようにして乗せてもらい、王城の裏に広がる森を駆ける。
「力を抜け。馬に緊張が伝わる」
「申し訳ございません」
謝るシンシアだけれども、緊張するなと言うほうが無理があった。
チェスターは馬をゆっくり進めてくれているが、それでも大きく揺れる。
落ちないよう、必死に鞍に捕まるけれども、鞍に縋るほど姿勢が悪くなり、却って落ちそうになった。
それだけでも怖くて緊張するというのに、視線を左に向ければ、チェスターの胸元が目に入るのだから。
「こちらに身を預けろ。そのような体勢では疲れるだろう?」
「だ、大丈夫です」
少しでもチェスターから身を離そうとするシンシアに、チェスターは眉をひそめる。
「許せ」
「え? きゃあっ!?」
チェスターの右手がシンシアの脇に触れ、引き上げられた。鞍から手が離れ、チェスターと体が密着する。
「椅子の背もたれとでも思っておけ」
「とんでもございません!」
どんな豪華な背もたれだと、シンシアは絶叫したくなる気持ちを必死に抑えた。
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