「美味しかったよ、ごめんね。」

天之奏詩(そらのかなた)

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「美味しかったよ、ごめんね」

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 私の名前は飯田沙織。母、飯田麻友、基、河上麻友の事を心底軽蔑している。
 二年前、不倫していた母が不倫相手との性行為中に殺されかける事案が発生した。その際、不倫相手の家の近所の誰かが『強姦されている女性がいる』と警察に掛けたらしく、そのおかげで、母の死は間一髪のところで食い止められた。
 パパは警察官だった。そして、その現場に直接向かったのがパパだったのだ。
 正直、この話を聞いたとき私は、人生で初めて母を殺そうかと思った。なぜここまで私の母に対する殺意が募ったかというと、それはパパの愛の深さにあった。パパは、母にそんな態度を取られたというのに、母を見捨てなかった。確かに酷く怒り散らしてはいたが、それでも、パパは母を受け入れ続けた。
 私はその話に首を突っ込みはしなかったが、正直はたから聞いていて、パパは優しすぎるんじゃないかと思った。
「何故そこまでするの」なんて、母に隠れて直接聞いたこともあった。その時パパは、一瞬の迷いなく答えた。

「一目惚れだったから」

 あんなに胸が苦しくなったことはない。
 私は、パパほど素敵な男を知らない。



 近所の中三生が私立受験を済ませたという噂が流れた頃、スーパーではバレンタインの香りが満ちていて、私も少しばかり高揚していた。
 学校帰りに駅前のスーパーで、板チョコとその他必要な材料を買い占めて、その袋を右手に帰路を踏む。
 チョコを渡す相手は決まっている。先に言っておくと男子じゃない。友チョコ、はあるけれど、そんなもの余った分を適当に消費してもらうくらいの気持ちだ。
 私の本命は、他の誰でもなく、パパしかいない。
「ただいま、パパ」
 家のリビングのテーブルの上にスーパーの袋をおいて、とりあえず学校の荷物を置きに自室へと向かった。制服を脱いで部屋着に着替える。先週買った新しい下着は、こうしてみるとあまり私には似合っていないかもしれない。可愛かったのに、可哀想なことをしたな。
 私は足早にリビングに戻って、明かりのついていないテレビの部屋で横になる母を横目に、スーパーの袋の中身を取り出した。
 キッチンへ向かい、ヘラやフォーク、ラップなんかを一式広げる。
 バレンタインデーは明日。
 私の胸の高鳴りは、パパ用のチョコレート作りの手を心地よく弾ませた。
 楽しい、楽しい!
 チャッチャッチャッチャ、ボールの中の溶けたチョコレートを混ぜる。チャッチャと下地作業を終わらせて、チャッチャと型に流し込んだりココアパウダーに包んでラップを巻いたり。
 手慣れたものだ。練習すればレシピなしでもちゃっちゃと済ませられる。要は漢字の練習と同じ。小学校一年生でやったあれだ。もし誰にでもできる事が出来ない人間がいるならば、そいつはきっと呼吸ができない。吸って吐く。そうか、これももしかしたら、誰にでも出来る事ではないのかもしれない。運なのだ。たまたま私は、呼吸が出来る体で生まれてきた。そんな運なのだ。
 いらないことを考えていると、気がつけば私はもう、冷凍庫にチョコレートを仕舞い込んでいた。ボールとヘラ、フォークをお湯につけていっとき放置しておく。残ったゴミをゴミ箱に入れて、今度は晩御飯かと冷蔵庫を漁る。適当にあったものを合わせて炒めて、塩コショウを振ればお終いだ。米を炊いて、味付けは各自行えばいい。
 どうせ食べるのは私と母なのだ。パパは食べられない。二ヶ月前に、鬱で自殺した。仕事帰りに、車道に飛び込んだらしい。あり得ない話じゃなかったし、私自身何となくそうなる予感はしていた。母のことを心底愛するパパと、パパにまるで関心を無くした母。そりゃあまあ死にたくもなるだろう。仕方がない。仕方がなかった。母のせいだ。
「晩御飯、テーブルに置いとくからね」
 私はそう言い残してリビングを後にした。
 パパ、チョコレートは喜んでくれるかな。随分甘党だったからなあ。もしかしたら私の手作りよりも、市販のケーキのほうが喜んでくれたかもしれない。だけどそれでも、

 ――ハッピーバレンタインだよ、パパ。





 翌朝、高ぶる気持ちで冷凍庫を開けると、そこに、昨晩私が作ったチョコレート達は全てなくなっていた。ただ流しに溜まった、冬の冷たい水の中に、私が使った型が浸かっている。
「臭い部屋…」
 私は付けっぱなしのテレビの前で眠りこける母を睨んだ後、キッチン扉を開いたところに、一本消えた包丁の列を見て泣いた。
 テーブルの上の炒め物は、昨日のままだった。
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