婚約者に本命の女性がいるのは明らかでした

南部

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2話

 私は壁際で、グラスに口もつけず立ち尽くしていた。笑い声と音楽が混ざり合う華やかな空間の中で、私だけが取り残されているようだった。

「……お一人ですか、オードリー嬢」

 不意に、穏やかな声が背後からかけられた。

 振り返ると、そこには端正な顔立ちの青年が立っていた。淡い灰色の上着に身を包み、落ち着いた眼差しを向けている。

 ――ウィリアム。

 同じ貴族社会に身を置く者として、名前は知っている。けれど、こうして言葉を交わすのは初めてだった。

「ウィリアム様……。ええ、少しだけ」

 私は礼儀正しく会釈する。

「失礼ですが、具合でも悪いのかと」

「いいえ。お気遣いありがとうございます」

 心配、という言葉に胸がわずかに揺れた。今夜、そんな言葉をかけてくれたのは彼が初めてだった。

「本日は、どなたとご一緒に?」

 その問いに、ほんの一瞬、言葉が詰まる。

「……婚約者のマーカス様と」

 私がそう答えた瞬間、ウィリアムの眉が僅かに動いた。

「それは……随分と失礼なことをなさる方だ」

「え?」

「婚約者をこのように一人にしておくなど。紳士のすることではありません」

 淡々とした口調だったが、その中には明確な不快が滲んでいた。

 私は思わず、小さく笑ってしまった。

「……本当に、そう思われますか?」

「ええ。少なくとも僕は、そうはしません」

 その言葉は驚くほど真っ直ぐで、胸に沁みた。

 私は少しだけ視線を伏せ、そして覚悟を決めたように顔を上げる。

「でしたら、あちらをご覧になってください」

 私は扇子を持つ手で、広間の中央をそっと示した。

 ウィリアムの視線が、その先へと向かう。

 そこには、エルザの姿があった。淡い色のドレスを纏い、人々に囲まれている。そのすぐ近くに、マーカスが立っていた。

 彼は俯きがちに何かを話しかけている。けれど、エルザの身体はわずかに後ろへ引いていた。笑顔はあるが、目が笑っていない。距離を取ろうとする気配が、遠目にもはっきりと分かる。

 ウィリアムが小さく息を吐いた。

「……なるほど」

「お分かりになりますでしょう?」

「ええ。あれは……迷惑そうですね」

 はっきりと、そう言った。

 私は胸の奥がちくりと痛むのを感じながら、頷く。

「私は、あの方の想いを止めたことはございません。けれど……公の場であのような振る舞いをなさるのは、あまりに……」

 言葉が震えそうになるのを、必死に抑える。

「恥ずかしいのです」

 自分の口からその言葉がこぼれた瞬間、胸の奥に溜め込んでいた感情が静かに形を持った。

 恥ずかしい。

 婚約者が他の令嬢を追いかけ回し、その相手にさえ迷惑をかけている。

 それを、皆が見ている。

 私もまた、哀れな婚約者として見られているのだろう。

「相手に迷惑をかけるのは良くない」

 ウィリアムは低く言った。

「好意は美徳ですが、押しつけは違う。ましてや婚約者がいる身であれば尚更です」

 私は思わず彼の横顔を見つめた。

 その横顔は穏やかだが、瞳の奥には確かな怒りがある。

 私のために、怒っているのだろうか。

 そう思うと、胸が少しだけ温かくなった。

「……ありがとうございます、ウィリアム様」

「礼には及びません。見ていて気分の良いものではありませんから」

 彼はそう言うと、ゆっくりと一歩踏み出した。

「一言、言ってきます」

「え……?」

 止める間もなく、ウィリアムは人波をかき分けて進んでいく。

 その背中は迷いがなく、まっすぐだった。

 私は思わず息を呑む。

 これまで、誰もマーカスを咎めなかった。皆、見て見ぬふりをしていた。あるいは、面白がっていたのかもしれない。

 けれど、ウィリアムは違う。

 正しいと思うことを、躊躇なく行動に移す。

 その姿が、あまりにも眩しく見えた。

 マーカスはまだエルザに話しかけている。エルザは困ったように視線を彷徨わせている。

 そこへ、ウィリアムが近づいていく。

 ざわり、と周囲の空気が揺れた気がした。

 私の鼓動が早まる。

 今夜、この夜会で何かが変わるのだろうか。

 私は扇子を握りしめながら、その行方を見守った。

 ――どうか。

 どうか、この滑稽な状況に終止符を。

 そして私は、初めて思う。

 もし隣に立つのが、あの人だったなら。

 私は、こんなにも惨めな思いをせずに済んだのだろうか、と。

 私は見守るだけでいいのだろうか?

 これから起きることを予想すると、私も近くにいたほうがいいだろう。

 音楽が高らかに響く中、ウィリアムはついにマーカスの前へと立った。

 私も周囲に迷惑をかけないよう、自然な歩みで彼らに近づく。

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