2 / 6
2話
私は壁際で、グラスに口もつけず立ち尽くしていた。笑い声と音楽が混ざり合う華やかな空間の中で、私だけが取り残されているようだった。
「……お一人ですか、オードリー嬢」
不意に、穏やかな声が背後からかけられた。
振り返ると、そこには端正な顔立ちの青年が立っていた。淡い灰色の上着に身を包み、落ち着いた眼差しを向けている。
――ウィリアム。
同じ貴族社会に身を置く者として、名前は知っている。けれど、こうして言葉を交わすのは初めてだった。
「ウィリアム様……。ええ、少しだけ」
私は礼儀正しく会釈する。
「失礼ですが、具合でも悪いのかと」
「いいえ。お気遣いありがとうございます」
心配、という言葉に胸がわずかに揺れた。今夜、そんな言葉をかけてくれたのは彼が初めてだった。
「本日は、どなたとご一緒に?」
その問いに、ほんの一瞬、言葉が詰まる。
「……婚約者のマーカス様と」
私がそう答えた瞬間、ウィリアムの眉が僅かに動いた。
「それは……随分と失礼なことをなさる方だ」
「え?」
「婚約者をこのように一人にしておくなど。紳士のすることではありません」
淡々とした口調だったが、その中には明確な不快が滲んでいた。
私は思わず、小さく笑ってしまった。
「……本当に、そう思われますか?」
「ええ。少なくとも僕は、そうはしません」
その言葉は驚くほど真っ直ぐで、胸に沁みた。
私は少しだけ視線を伏せ、そして覚悟を決めたように顔を上げる。
「でしたら、あちらをご覧になってください」
私は扇子を持つ手で、広間の中央をそっと示した。
ウィリアムの視線が、その先へと向かう。
そこには、エルザの姿があった。淡い色のドレスを纏い、人々に囲まれている。そのすぐ近くに、マーカスが立っていた。
彼は俯きがちに何かを話しかけている。けれど、エルザの身体はわずかに後ろへ引いていた。笑顔はあるが、目が笑っていない。距離を取ろうとする気配が、遠目にもはっきりと分かる。
ウィリアムが小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「お分かりになりますでしょう?」
「ええ。あれは……迷惑そうですね」
はっきりと、そう言った。
私は胸の奥がちくりと痛むのを感じながら、頷く。
「私は、あの方の想いを止めたことはございません。けれど……公の場であのような振る舞いをなさるのは、あまりに……」
言葉が震えそうになるのを、必死に抑える。
「恥ずかしいのです」
自分の口からその言葉がこぼれた瞬間、胸の奥に溜め込んでいた感情が静かに形を持った。
恥ずかしい。
婚約者が他の令嬢を追いかけ回し、その相手にさえ迷惑をかけている。
それを、皆が見ている。
私もまた、哀れな婚約者として見られているのだろう。
「相手に迷惑をかけるのは良くない」
ウィリアムは低く言った。
「好意は美徳ですが、押しつけは違う。ましてや婚約者がいる身であれば尚更です」
私は思わず彼の横顔を見つめた。
その横顔は穏やかだが、瞳の奥には確かな怒りがある。
私のために、怒っているのだろうか。
そう思うと、胸が少しだけ温かくなった。
「……ありがとうございます、ウィリアム様」
「礼には及びません。見ていて気分の良いものではありませんから」
彼はそう言うと、ゆっくりと一歩踏み出した。
「一言、言ってきます」
「え……?」
止める間もなく、ウィリアムは人波をかき分けて進んでいく。
その背中は迷いがなく、まっすぐだった。
私は思わず息を呑む。
これまで、誰もマーカスを咎めなかった。皆、見て見ぬふりをしていた。あるいは、面白がっていたのかもしれない。
けれど、ウィリアムは違う。
正しいと思うことを、躊躇なく行動に移す。
その姿が、あまりにも眩しく見えた。
マーカスはまだエルザに話しかけている。エルザは困ったように視線を彷徨わせている。
そこへ、ウィリアムが近づいていく。
ざわり、と周囲の空気が揺れた気がした。
私の鼓動が早まる。
今夜、この夜会で何かが変わるのだろうか。
私は扇子を握りしめながら、その行方を見守った。
――どうか。
どうか、この滑稽な状況に終止符を。
そして私は、初めて思う。
もし隣に立つのが、あの人だったなら。
私は、こんなにも惨めな思いをせずに済んだのだろうか、と。
私は見守るだけでいいのだろうか?
これから起きることを予想すると、私も近くにいたほうがいいだろう。
音楽が高らかに響く中、ウィリアムはついにマーカスの前へと立った。
私も周囲に迷惑をかけないよう、自然な歩みで彼らに近づく。
「……お一人ですか、オードリー嬢」
不意に、穏やかな声が背後からかけられた。
振り返ると、そこには端正な顔立ちの青年が立っていた。淡い灰色の上着に身を包み、落ち着いた眼差しを向けている。
――ウィリアム。
同じ貴族社会に身を置く者として、名前は知っている。けれど、こうして言葉を交わすのは初めてだった。
「ウィリアム様……。ええ、少しだけ」
私は礼儀正しく会釈する。
「失礼ですが、具合でも悪いのかと」
「いいえ。お気遣いありがとうございます」
心配、という言葉に胸がわずかに揺れた。今夜、そんな言葉をかけてくれたのは彼が初めてだった。
「本日は、どなたとご一緒に?」
その問いに、ほんの一瞬、言葉が詰まる。
「……婚約者のマーカス様と」
私がそう答えた瞬間、ウィリアムの眉が僅かに動いた。
「それは……随分と失礼なことをなさる方だ」
「え?」
「婚約者をこのように一人にしておくなど。紳士のすることではありません」
淡々とした口調だったが、その中には明確な不快が滲んでいた。
私は思わず、小さく笑ってしまった。
「……本当に、そう思われますか?」
「ええ。少なくとも僕は、そうはしません」
その言葉は驚くほど真っ直ぐで、胸に沁みた。
私は少しだけ視線を伏せ、そして覚悟を決めたように顔を上げる。
「でしたら、あちらをご覧になってください」
私は扇子を持つ手で、広間の中央をそっと示した。
ウィリアムの視線が、その先へと向かう。
そこには、エルザの姿があった。淡い色のドレスを纏い、人々に囲まれている。そのすぐ近くに、マーカスが立っていた。
彼は俯きがちに何かを話しかけている。けれど、エルザの身体はわずかに後ろへ引いていた。笑顔はあるが、目が笑っていない。距離を取ろうとする気配が、遠目にもはっきりと分かる。
ウィリアムが小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「お分かりになりますでしょう?」
「ええ。あれは……迷惑そうですね」
はっきりと、そう言った。
私は胸の奥がちくりと痛むのを感じながら、頷く。
「私は、あの方の想いを止めたことはございません。けれど……公の場であのような振る舞いをなさるのは、あまりに……」
言葉が震えそうになるのを、必死に抑える。
「恥ずかしいのです」
自分の口からその言葉がこぼれた瞬間、胸の奥に溜め込んでいた感情が静かに形を持った。
恥ずかしい。
婚約者が他の令嬢を追いかけ回し、その相手にさえ迷惑をかけている。
それを、皆が見ている。
私もまた、哀れな婚約者として見られているのだろう。
「相手に迷惑をかけるのは良くない」
ウィリアムは低く言った。
「好意は美徳ですが、押しつけは違う。ましてや婚約者がいる身であれば尚更です」
私は思わず彼の横顔を見つめた。
その横顔は穏やかだが、瞳の奥には確かな怒りがある。
私のために、怒っているのだろうか。
そう思うと、胸が少しだけ温かくなった。
「……ありがとうございます、ウィリアム様」
「礼には及びません。見ていて気分の良いものではありませんから」
彼はそう言うと、ゆっくりと一歩踏み出した。
「一言、言ってきます」
「え……?」
止める間もなく、ウィリアムは人波をかき分けて進んでいく。
その背中は迷いがなく、まっすぐだった。
私は思わず息を呑む。
これまで、誰もマーカスを咎めなかった。皆、見て見ぬふりをしていた。あるいは、面白がっていたのかもしれない。
けれど、ウィリアムは違う。
正しいと思うことを、躊躇なく行動に移す。
その姿が、あまりにも眩しく見えた。
マーカスはまだエルザに話しかけている。エルザは困ったように視線を彷徨わせている。
そこへ、ウィリアムが近づいていく。
ざわり、と周囲の空気が揺れた気がした。
私の鼓動が早まる。
今夜、この夜会で何かが変わるのだろうか。
私は扇子を握りしめながら、その行方を見守った。
――どうか。
どうか、この滑稽な状況に終止符を。
そして私は、初めて思う。
もし隣に立つのが、あの人だったなら。
私は、こんなにも惨めな思いをせずに済んだのだろうか、と。
私は見守るだけでいいのだろうか?
これから起きることを予想すると、私も近くにいたほうがいいだろう。
音楽が高らかに響く中、ウィリアムはついにマーカスの前へと立った。
私も周囲に迷惑をかけないよう、自然な歩みで彼らに近づく。
あなたにおすすめの小説
出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です
流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。
父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。
無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。
純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
正当な権利ですので。
しゃーりん
恋愛
歳の差43歳。
18歳の伯爵令嬢セレーネは老公爵オズワルドと結婚した。
2年半後、オズワルドは亡くなり、セレーネとセレーネが産んだ子供が爵位も財産も全て手に入れた。
遠い親戚は反発するが、セレーネは妻であっただけではなく公爵家の籍にも入っていたため正当な権利があった。
再婚したセレーネは穏やかな幸せを手に入れていたが、10年後に子供の出生とオズワルドとの本当の関係が噂になるというお話です。
家族に裏切られて辺境で幸せを掴む?
しゃーりん
恋愛
婚約者を妹に取られる。
そんな小説みたいなことが本当に起こった。
婚約者が姉から妹に代わるだけ?しかし私はそれを許さず、慰謝料を請求した。
婚約破棄と共に跡継ぎでもなくなったから。
仕事だけをさせようと思っていた父に失望し、伯父のいる辺境に行くことにする。
これからは辺境で仕事に生きよう。そう決めて王都を旅立った。
辺境で新たな出会いがあり、付き合い始めたけど?というお話です。
姉の婚約者と結婚しました。
黒蜜きな粉
恋愛
花嫁が結婚式の当日に逃亡した。
式場には両家の関係者だけではなく、すでに来賓がやってきている。
今さら式を中止にするとは言えない。
そうだ、花嫁の姉の代わりに妹を結婚させてしまえばいいじゃないか!
姉の代わりに辺境伯家に嫁がされることになったソフィア。
これも貴族として生まれてきた者の務めと割り切って嫁いだが、辺境伯はソフィアに興味を示さない。
それどころか指一本触れてこない。
「嫁いだ以上はなんとしても後継ぎを生まなければ!」
ソフィアは辺境伯に振りむいて貰おうと奮闘する。
2022/4/8
番外編完結
「君を愛したことはない」と言われたので出て行ったら、元婚約者が毎日謝りに来ます
かきんとう
恋愛
王都でも有名な名門公爵家、レイヴェルト家の屋敷には、今日も重苦しい空気が流れていた。
磨き上げられた大理石の廊下を歩きながら、エレノア・グランシェは静かに息を吐く。
この家に嫁いで、半年。
正確には、まだ“婚約者”の立場だった。だが周囲はすでに彼女を未来の公爵夫人として扱い、屋敷の使用人たちもそう認識している。
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
皆さん、覚悟してくださいね?
柚木ゆず
恋愛
わたしをイジメて、泣く姿を愉しんでいた皆さんへ。
さきほど偶然前世の記憶が蘇り、何もできずに怯えているわたしは居なくなったんですよ。
……覚悟してね? これから『あたし』がたっぷり、お礼をさせてもらうから。
※体調不良の影響でお返事ができないため、日曜日ごろ(24日ごろ)まで感想欄を閉じております。