浮気現場を目撃してしまい、婚約者への気持ちが揺らぎました

南部

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1話

 今宵の夜会は、春の訪れを祝う華やかな催しだった。でも、私の心は満たされない気持ちでいっぱいだった。

 燭台に灯された無数の蝋燭が天井の金箔を照らし、楽団の奏でる優雅な旋律が広間を満たしている。

 せめて私もこの場に相応しくあろうと微笑もうとする。

 淡い象牙色のドレスに身を包んだ私は、婚約者であるデービーの隣に立っている。

「今夜の君は、ずいぶんと人目を引いているな」

 低く囁くような彼の声に、私は胸を高鳴らせた。

「そのようなことはございませんわ。デービー様の隣に立つ以上、相応しくあろうと努めているだけです」

「……ふん。誰に見せるためだ?」

 その言葉に、私は一瞬返答を失った。彼はいつもこうだ。私の言葉の裏を探り、試すような目を向ける。疑い深い性分であることは知っている。それでも私は、彼の婚約者として誠実であろうと心に誓ってきた。

「もちろん、あなたのためですわ」

 そう答えると、彼はわずかに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。

 しばらくして、貴族たちとの挨拶が続くうちに、ふと隣の温もりが消えていることに気づいた。

「……デービー様?」

 辺りを見渡しても、彼の姿はない。先ほどまで確かにここにいらしたのに。

 私は胸騒ぎを覚えながら、広間を抜け出した。廊下は人影もまばらで、壁に掛けられた燭台の灯りだけが、ゆらゆらと揺れている。楽団の音色も遠くなり、代わりに自分の鼓動ばかりが耳に響いた。

 曲がり角の先から、微かな声が聞こえた。

「……君は本当に俺の気持ちを理解してくれる」

 その声は、紛れもなくデービーのものだった。

 私は思わず足を止めた。呼吸が浅くなる。聞いてはいけない。けれど、足は勝手にその方向へと進んでしまう。

 薄暗い廊下の奥。人目を避けるような場所で、彼は一人の女性を抱き寄せていた。豪奢な紅のドレス。金の髪を艶やかに結い上げたその姿を、私は知っている。

 エイダ。

「わたし、あなたのお気持ちが嬉しいの。あの真面目なお嬢様より、わたしの方がずっとあなたを楽しませて差し上げられるでしょう?」

「ああ……シャロンは堅すぎる。俺を疑いもせず、ただ従順だ。だが君は違う」

 彼の腕は、確かに彼女の腰を強く抱いていた。

 視界が歪んだ。まるで世界が遠ざかるようだった。

 あれほど疑い深い彼が、他の女性にはあんなにも甘い声を向けるなんて。

 私は何を信じていたのだろう。

 足音を立てぬよう、そっと後ずさる。胸の奥が焼けるように痛い。泣いてはいけない、と自分に言い聞かせるのに、頬を温かいものが伝った。

 私はそのまま広間へ戻らず、外套を手に取り、誰にも告げずに屋敷を後にした。

 馬車に乗り込むと、扉が閉まる音がやけに重く響いた。車輪が石畳を軋ませ、夜の闇へと進み出す。

 窓の外には、淡い月明かり。けれど私の心には、何一つ光が差さない。

「……終わり、なのでしょうか」

 小さく呟いた声は、馬車の中で虚しく消えた。

 私は彼を愛していた。疑われても、冷たい言葉を向けられても、いつか心を通わせられると信じていた。それが私の誠意だと。

 けれど、彼は私を「堅すぎる」と言った。

 真面目であろうとしたことが、彼には退屈だったのだろうか。婚約者として、名誉を守ろうと努めてきた日々は、彼の心には届いていなかったのだろうか。

 胸が締めつけられる。

 もし今、彼が私の不在に気づいたとしても、追っては来ないのではないか。きっとエイダと共に、甘い言葉を囁き続けているに違いない。

 私は、彼にとって何だったのだろう。

 家同士の都合で結ばれた、ただの名ばかりの婚約者。愛されることのない、形式だけの存在。

 涙が止まらない。けれど声を上げて泣くことはできなかった。令嬢としての矜持が、最後の砦のように私を縛る。

 ――もう、終わりなのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れ落ちた。

 彼を愛する気持ちさえ、否定されたように感じて。

 馬車は夜の闇を進み続ける。私は震える指先をぎゅっと握りしめながら、これから訪れるであろう明日を思った。

 婚約の破棄。家同士の対立。社交界での噂。

 けれど、それ以上に怖いのは――彼をまだ愛している自分自身だった。

 裏切られてもなお、彼の腕の温もりを思い出してしまう私は、愚かなのでしょうか。

 月明かりが揺れる窓に、涙に濡れた私の顔が映る。

 私はそっと目を閉じた。

 この恋が、終わりであるならば。

 どうか、私の心も共に終わってくれますように――。

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