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2話
翌日の午前。空は澄みきっているというのに、私の胸の内は、昨夜から少しも晴れてはおりませんでした。
応接間に通されたと聞いた瞬間、来客が誰であるかを悟りました。デービー。約束もなく、突然に。
やがて扉が開き、彼が姿を現す。
「……ずいぶんと落ち着いているな」
開口一番、その声音には不機嫌が滲んでいた。
「お越しくださり、ありがとうございます。デービー様」
私は深く一礼する。胸の奥は静まり返っていた。昨夜あれほど泣いたというのに、不思議と涙はもう出なかった。
「昨夜、なぜ勝手に帰った?」
低く、責めるような声。
「体調が優れませんでしたので」
「嘘をつくな。俺に何も告げず、主催者にも挨拶せずに去るとは何事だ。婚約者としての自覚が足りないのではないか?」
その言葉を聞きながら、私は彼の顔をまっすぐに見つめた。かつてはその視線に怯え、嫌われぬよう言葉を選んでいた私が、今はただ静かに観察している。
――この方は、本当に何も覚えていないのでしょうか。
「自覚、ですか……」
「そうだ。君の軽率な行動で、俺まで笑い者だ」
胸の奥に、冷たいものが広がる。
「では、お尋ねいたします。昨夜、広間を出られた後は、どちらへ?」
彼はわずかに眉を動かした。
「……少し空気を吸いに出ただけだ」
「お一人で?」
「当然だ」
私は、ゆっくりと息を吸った。
「薄暗い廊下で、女性と抱き合っておられたのを、私は見ております」
静寂が落ちる。
彼の表情が一瞬強張り、すぐに不機嫌そうに歪んだ。
「何を馬鹿なことを言う。誰と見間違えた?」
「見間違いではございません。エイダ様と、愛を囁き合っておられました」
「証拠はあるのか?」
あまりにも即座の否定。その潔白さを装う態度が、かえって胸を刺す。
「俺を疑うとは、いい度胸だな。君はいつからそんなに思い込みの激しい女になった?」
思い込み。
私は唇を噛みしめた。
「思い込みではありません。あなたは、『シャロンは堅すぎる』と仰いました」
彼の目が鋭くなる。
「……聞いていたのか」
「偶然、耳に入りました」
「ならば理解できるだろう。あれは社交辞令のようなものだ。君は何でも真に受けすぎる」
「抱き寄せることも、社交辞令でございますか?」
問い返した私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼は苛立たしげに舌打ちをする。
「君が俺を信じないことの方が問題だ。婚約者ならば、まず俺の言葉を信じるべきだろう」
「信じてまいりました。これまでずっと」
疑われても、冷たくされても。それでも誠実であろうと努めた。
「ですが昨夜、私は現実を見てしまいました」
「くだらん嫉妬だ。だから君は堅苦しいのだ」
その一言で、何かが完全に切れた。
「では、私はあなたにとって、退屈な存在なのですね」
「少なくとも、エイダの方が理解がある」
その名を彼の口から聞いた瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。けれど、涙は出ない。
「……そうでございますか」
「俺を疑い、夜会を台無しにし、今度は根拠のない非難か。これ以上は看過できん」
彼は私を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「シャロン。婚約は破棄だ」
その言葉は、あまりにもあっけなかった。
かつては、何より恐れていた未来。
けれど今、私の心は驚くほど静かだった。
「承知いたしました」
私の返答に、彼の方が一瞬目を見開く。
「……何だと?」
「婚約破棄、受け入れます」
胸の奥に、微かな解放感が広がる。
「もっと早く、こうすべきだったのかもしれません」
「強がるな」
「強がりではございません」
私はまっすぐ彼を見た。
「私は、あなたに愛される努力をしてまいりました。ですが、あなたは私を信じず、そして他の女性を抱いた。それがすべてです」
「俺を悪者にする気か」
「事実を申し上げているだけです」
彼の頬が怒りで紅潮する。
「後悔するぞ。社交界での立場がどうなるか分かっているのか」
「それでも構いません」
不思議なことに、恐怖はなかった。
昨夜、あの廊下で心は一度死んだのだ。今さら失うものなどない。
「失礼いたします、デービー様」
深く一礼する。これが最後の礼。
彼は何か言いかけたが、荒々しく踵を返し、部屋を出て行った。
扉が閉まる音が響く。
私はその場に立ち尽くしたまま、静かに息を吐いた。
――終わったのだ。
胸は少し痛む。けれどそれは、愛を失った痛みというより、長く締め付けられていた鎖が外れた後の痕のようだった。
もっと早く、気づくべきでした。
疑われながら愛されることなど、最初から不可能だったのだと。
窓から差し込む陽光が、床を明るく照らしている。
私はそっと目を閉じた。
涙は、もう流れなかった。
応接間に通されたと聞いた瞬間、来客が誰であるかを悟りました。デービー。約束もなく、突然に。
やがて扉が開き、彼が姿を現す。
「……ずいぶんと落ち着いているな」
開口一番、その声音には不機嫌が滲んでいた。
「お越しくださり、ありがとうございます。デービー様」
私は深く一礼する。胸の奥は静まり返っていた。昨夜あれほど泣いたというのに、不思議と涙はもう出なかった。
「昨夜、なぜ勝手に帰った?」
低く、責めるような声。
「体調が優れませんでしたので」
「嘘をつくな。俺に何も告げず、主催者にも挨拶せずに去るとは何事だ。婚約者としての自覚が足りないのではないか?」
その言葉を聞きながら、私は彼の顔をまっすぐに見つめた。かつてはその視線に怯え、嫌われぬよう言葉を選んでいた私が、今はただ静かに観察している。
――この方は、本当に何も覚えていないのでしょうか。
「自覚、ですか……」
「そうだ。君の軽率な行動で、俺まで笑い者だ」
胸の奥に、冷たいものが広がる。
「では、お尋ねいたします。昨夜、広間を出られた後は、どちらへ?」
彼はわずかに眉を動かした。
「……少し空気を吸いに出ただけだ」
「お一人で?」
「当然だ」
私は、ゆっくりと息を吸った。
「薄暗い廊下で、女性と抱き合っておられたのを、私は見ております」
静寂が落ちる。
彼の表情が一瞬強張り、すぐに不機嫌そうに歪んだ。
「何を馬鹿なことを言う。誰と見間違えた?」
「見間違いではございません。エイダ様と、愛を囁き合っておられました」
「証拠はあるのか?」
あまりにも即座の否定。その潔白さを装う態度が、かえって胸を刺す。
「俺を疑うとは、いい度胸だな。君はいつからそんなに思い込みの激しい女になった?」
思い込み。
私は唇を噛みしめた。
「思い込みではありません。あなたは、『シャロンは堅すぎる』と仰いました」
彼の目が鋭くなる。
「……聞いていたのか」
「偶然、耳に入りました」
「ならば理解できるだろう。あれは社交辞令のようなものだ。君は何でも真に受けすぎる」
「抱き寄せることも、社交辞令でございますか?」
問い返した私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼は苛立たしげに舌打ちをする。
「君が俺を信じないことの方が問題だ。婚約者ならば、まず俺の言葉を信じるべきだろう」
「信じてまいりました。これまでずっと」
疑われても、冷たくされても。それでも誠実であろうと努めた。
「ですが昨夜、私は現実を見てしまいました」
「くだらん嫉妬だ。だから君は堅苦しいのだ」
その一言で、何かが完全に切れた。
「では、私はあなたにとって、退屈な存在なのですね」
「少なくとも、エイダの方が理解がある」
その名を彼の口から聞いた瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。けれど、涙は出ない。
「……そうでございますか」
「俺を疑い、夜会を台無しにし、今度は根拠のない非難か。これ以上は看過できん」
彼は私を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「シャロン。婚約は破棄だ」
その言葉は、あまりにもあっけなかった。
かつては、何より恐れていた未来。
けれど今、私の心は驚くほど静かだった。
「承知いたしました」
私の返答に、彼の方が一瞬目を見開く。
「……何だと?」
「婚約破棄、受け入れます」
胸の奥に、微かな解放感が広がる。
「もっと早く、こうすべきだったのかもしれません」
「強がるな」
「強がりではございません」
私はまっすぐ彼を見た。
「私は、あなたに愛される努力をしてまいりました。ですが、あなたは私を信じず、そして他の女性を抱いた。それがすべてです」
「俺を悪者にする気か」
「事実を申し上げているだけです」
彼の頬が怒りで紅潮する。
「後悔するぞ。社交界での立場がどうなるか分かっているのか」
「それでも構いません」
不思議なことに、恐怖はなかった。
昨夜、あの廊下で心は一度死んだのだ。今さら失うものなどない。
「失礼いたします、デービー様」
深く一礼する。これが最後の礼。
彼は何か言いかけたが、荒々しく踵を返し、部屋を出て行った。
扉が閉まる音が響く。
私はその場に立ち尽くしたまま、静かに息を吐いた。
――終わったのだ。
胸は少し痛む。けれどそれは、愛を失った痛みというより、長く締め付けられていた鎖が外れた後の痕のようだった。
もっと早く、気づくべきでした。
疑われながら愛されることなど、最初から不可能だったのだと。
窓から差し込む陽光が、床を明るく照らしている。
私はそっと目を閉じた。
涙は、もう流れなかった。
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