6 / 6
6話
それは、初夏の香りが漂う夜会でのことでした。
高く掲げられた燭台の光が、磨き上げられた床に揺らめき、楽団の奏でる軽快な舞曲が広間を満たしている。私はアルバートの腕にそっと手を添えながら、穏やかな気持ちで人々と挨拶を交わしていた。
もう、過去に怯えることはない。
そう思っていたのに――。
「……シャロン」
背後から、聞き覚えのある低い声がした。
振り向いた瞬間、鼻を刺す強い酒の匂い。
デービーだった。
頬を赤らめ、焦点の定まらぬ目でこちらを見ている。
「久しいな……俺を捨てて、ずいぶん楽しそうじゃないか」
「お酒が過ぎていらっしゃいますわ」
できるだけ冷静に返すと、彼はふらりと一歩近づいた。
「お前は……俺のものだったはずだろう」
その言葉に、アルバートがすっと私の前に立つ。
「彼女は、今は僕の婚約者です。お引き取りを」
「うるさい……!」
デービーは声を荒げ、広間の視線を集めた。
「俺はな……エイダを愛している!」
ざわり、と空気が揺れる。
彼は拳を振り上げ、酔った勢いのまま叫んだ。
「エイダ……いや、シャロン! お前が好きなんだ!」
広間が静まり返る。
――今、何と?
私は瞬きをする。
デービーは自分の口から出た名に気づいたらしく、ぎょっと目を見開いた。
「ち、違う……今のは……」
周囲から失笑が漏れる。
「名前も分からぬほど酔っているのですか?」
私は静かに問いかけた。
胸は、不思議なほど凪いでいる。
「あなたにはエイダ様への愛があるのでしょう? ならば、私には関係のないことですわ」
「違う! あれは……あの女が勝手に……!」
しどろもどろに弁明する彼の姿は、かつて私が恐れた婚約者の面影とは程遠い。
「……浮気は、事実だったのですね?」
あえて確認するように言うと、彼は一瞬黙り込んだ。
そして、酒に濁った声で吐き出す。
「……ああ、だが本気じゃない。出来心だ。お前が堅苦しいから――」
その瞬間、広間の空気が変わった。
囁き声が波のように広がる。
「やはり……」
「エイダと……」
彼自身の口から語られた真実。
もはや、隠しようもない。
「シャロン、すまなかった……あのときは魔が差しただけだ」
縋るような目。
けれど、その瞳に宿るのは後悔ではなく、体面を失う恐怖にしか見えない。
「許してくれ」
私はゆっくりと首を横に振った。
「お断りいたします」
はっきりと。
「私は、あなたに裏切られたあの日に、すべてを終えました」
もう心は痛まない。
ただ、静かな決別だけがある。
そのとき、アルバートが私の肩を抱き寄せた。
力強く、誇示するように。
「彼女は僕が守る」
はっきりとした宣言。
ざわめきが、今度は賞賛へと変わる。
デービーは唇を震わせ、何か言い返そうとしたが、やがて周囲の視線に耐えきれず、ふらつきながら広間を去っていった。
その背は、ひどく小さく見えた。
私はアルバートの胸にそっと身を預ける。
「大丈夫かい?」
「ええ……とても」
自然に笑みがこぼれる。
あれほど苦しんだ過去が、まるで遠い物語のようだ。
いろいろなことがあった。
疑われ、傷つき、涙も流した。
けれど今、こうして堂々と隣に立ってくれる人がいる。
それだけで、すべてが報われる気がした。
「アルバート」
「うん?」
「あなたと婚約できて、本当に良かった」
彼は驚いたように瞬き、そして優しく微笑む。
「僕こそ」
楽団が新たな曲を奏で始める。
煌びやかな光の中、私は顔を上げた。
もう後ろを振り返ることはない。
幸せとは、誰かに選ばれることではなく――
互いに選び合うことなのだと、今なら分かる。
アルバートの腕の中で、私は穏やかに目を細めた。
胸の奥には、確かな幸福が満ちている。
高く掲げられた燭台の光が、磨き上げられた床に揺らめき、楽団の奏でる軽快な舞曲が広間を満たしている。私はアルバートの腕にそっと手を添えながら、穏やかな気持ちで人々と挨拶を交わしていた。
もう、過去に怯えることはない。
そう思っていたのに――。
「……シャロン」
背後から、聞き覚えのある低い声がした。
振り向いた瞬間、鼻を刺す強い酒の匂い。
デービーだった。
頬を赤らめ、焦点の定まらぬ目でこちらを見ている。
「久しいな……俺を捨てて、ずいぶん楽しそうじゃないか」
「お酒が過ぎていらっしゃいますわ」
できるだけ冷静に返すと、彼はふらりと一歩近づいた。
「お前は……俺のものだったはずだろう」
その言葉に、アルバートがすっと私の前に立つ。
「彼女は、今は僕の婚約者です。お引き取りを」
「うるさい……!」
デービーは声を荒げ、広間の視線を集めた。
「俺はな……エイダを愛している!」
ざわり、と空気が揺れる。
彼は拳を振り上げ、酔った勢いのまま叫んだ。
「エイダ……いや、シャロン! お前が好きなんだ!」
広間が静まり返る。
――今、何と?
私は瞬きをする。
デービーは自分の口から出た名に気づいたらしく、ぎょっと目を見開いた。
「ち、違う……今のは……」
周囲から失笑が漏れる。
「名前も分からぬほど酔っているのですか?」
私は静かに問いかけた。
胸は、不思議なほど凪いでいる。
「あなたにはエイダ様への愛があるのでしょう? ならば、私には関係のないことですわ」
「違う! あれは……あの女が勝手に……!」
しどろもどろに弁明する彼の姿は、かつて私が恐れた婚約者の面影とは程遠い。
「……浮気は、事実だったのですね?」
あえて確認するように言うと、彼は一瞬黙り込んだ。
そして、酒に濁った声で吐き出す。
「……ああ、だが本気じゃない。出来心だ。お前が堅苦しいから――」
その瞬間、広間の空気が変わった。
囁き声が波のように広がる。
「やはり……」
「エイダと……」
彼自身の口から語られた真実。
もはや、隠しようもない。
「シャロン、すまなかった……あのときは魔が差しただけだ」
縋るような目。
けれど、その瞳に宿るのは後悔ではなく、体面を失う恐怖にしか見えない。
「許してくれ」
私はゆっくりと首を横に振った。
「お断りいたします」
はっきりと。
「私は、あなたに裏切られたあの日に、すべてを終えました」
もう心は痛まない。
ただ、静かな決別だけがある。
そのとき、アルバートが私の肩を抱き寄せた。
力強く、誇示するように。
「彼女は僕が守る」
はっきりとした宣言。
ざわめきが、今度は賞賛へと変わる。
デービーは唇を震わせ、何か言い返そうとしたが、やがて周囲の視線に耐えきれず、ふらつきながら広間を去っていった。
その背は、ひどく小さく見えた。
私はアルバートの胸にそっと身を預ける。
「大丈夫かい?」
「ええ……とても」
自然に笑みがこぼれる。
あれほど苦しんだ過去が、まるで遠い物語のようだ。
いろいろなことがあった。
疑われ、傷つき、涙も流した。
けれど今、こうして堂々と隣に立ってくれる人がいる。
それだけで、すべてが報われる気がした。
「アルバート」
「うん?」
「あなたと婚約できて、本当に良かった」
彼は驚いたように瞬き、そして優しく微笑む。
「僕こそ」
楽団が新たな曲を奏で始める。
煌びやかな光の中、私は顔を上げた。
もう後ろを振り返ることはない。
幸せとは、誰かに選ばれることではなく――
互いに選び合うことなのだと、今なら分かる。
アルバートの腕の中で、私は穏やかに目を細めた。
胸の奥には、確かな幸福が満ちている。
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
君を幸せにする、そんな言葉を信じた私が馬鹿だった
白羽天使
恋愛
学園生活も残りわずかとなったある日、アリスは婚約者のフロイドに中庭へと呼び出される。そこで彼が告げたのは、「君に愛はないんだ」という残酷な一言だった。幼いころから将来を約束されていた二人。家同士の結びつきの中で育まれたその関係は、アリスにとって大切な生きる希望だった。フロイドもまた、「君を幸せにする」と繰り返し口にしてくれていたはずだったのに――。
お姉様、今度は貴方の恋人をもらいますわ。何でも奪っていく妹はそう言っていますが、その方は私の恋人ではありませんよ?
柚木ゆず
恋愛
「すでに気付いているんですのよ。わたくしやお父様やお母様に隠れて、交際を行っていることに」
「ダーファルズ伯爵家のエドモン様は、雄々しく素敵な御方。お顔も財力も最上級な方で、興味を持ちましたの。好きに、なってしまいましたの」
私のものを何でも欲しがる、妹のニネット。今度は物ではなく人を欲しがり始め、エドモン様をもらうと言い出しました。
確かに私は、家族に隠れて交際を行っているのですが――。その方は、私にしつこく言い寄ってきていた人。恋人はエドモン様ではなく、エズラル侯爵家のフレデリク様なのです。
どうやらニネットは大きな勘違いをしているらしく、自身を溺愛するお父様とお母様の力を借りて、そんなエドモン様にアプローチをしてゆくみたいです。
婚約者様。現在社交界で広まっている噂について、大事なお話があります
柚木ゆず
恋愛
婚約者様へ。
昨夜参加したリーベニア侯爵家主催の夜会で、私に関するとある噂が広まりつつあると知りました。
そちらについて、とても大事なお話がありますので――。これから伺いますね?
そこまで幼馴染が好きというなら、どうぞ幼馴染だけ愛してください
睡蓮
恋愛
リューグ伯爵はソフィーとの婚約関係を結んでいながら、仕事だと言って屋敷をあけ、その度に自身の幼馴染であるマイアとの関係を深めていた。その関係は次第に熱いものとなっていき、ついにリューグ伯爵はソフィーに婚約破棄を告げてしまう。しかしその言葉こそ、伯爵が奈落の底に転落していく最初の第一歩となるのであった。
どう見ても貴方はもう一人の幼馴染が好きなので別れてください
ルイス
恋愛
レレイとアルカは伯爵令嬢であり幼馴染だった。同じく伯爵令息のクローヴィスも幼馴染だ。
やがてレレイとクローヴィスが婚約し幸せを手に入れるはずだったが……
クローヴィスは理想の婚約者に憧れを抱いており、何かともう一人の幼馴染のアルカと、婚約者になったはずのレレイを比べるのだった。
さらにはアルカの方を優先していくなど、明らかにおかしな事態になっていく。
どう見てもクローヴィスはアルカの方が好きになっている……そう感じたレレイは、彼との婚約解消を申し出た。
婚約解消は無事に果たされ悲しみを持ちながらもレレイは前へ進んでいくことを決心した。
その後、国一番の美男子で性格、剣術も最高とされる公爵令息に求婚されることになり……彼女は別の幸せの一歩を刻んでいく。
しかし、クローヴィスが急にレレイを溺愛してくるのだった。アルカとの仲も上手く行かなかったようで、真実の愛とか言っているけれど……怪しさ満点だ。ひたすらに女々しいクローヴィス……レレイは冷たい視線を送るのだった。
「あなたとはもう終わったんですよ? いつまでも、キスが出来ると思っていませんか?」
もうすぐ婚約破棄を宣告できるようになるから、あと少しだけ辛抱しておくれ。そう書かれた手紙が、婚約者から届きました
柚木ゆず
恋愛
《もうすぐアンナに婚約の破棄を宣告できるようになる。そうしたらいつでも会えるようになるから、あと少しだけ辛抱しておくれ》
最近お忙しく、めっきり会えなくなってしまった婚約者のロマニ様。そんなロマニ様から届いた私アンナへのお手紙には、そういった内容が記されていました。
そのため、詳しいお話を伺うべくレルザー侯爵邸に――ロマニ様のもとへ向かおうとしていた、そんな時でした。ロマニ様の双子の弟であるダヴィッド様が突然ご来訪され、予想だにしなかったことを仰られ始めたのでした。
皆さん、覚悟してくださいね?
柚木ゆず
恋愛
わたしをイジメて、泣く姿を愉しんでいた皆さんへ。
さきほど偶然前世の記憶が蘇り、何もできずに怯えているわたしは居なくなったんですよ。
……覚悟してね? これから『あたし』がたっぷり、お礼をさせてもらうから。
※体調不良の影響でお返事ができないため、日曜日ごろ(24日ごろ)まで感想欄を閉じております。
わたしがお屋敷を去った結果
柚木ゆず
恋愛
両親、妹、婚約者、使用人。ロドレル子爵令嬢カプシーヌは周囲の人々から理不尽に疎まれ酷い扱いを受け続けており、これ以上はこの場所で生きていけないと感じ人知れずお屋敷を去りました。
――カプシーヌさえいなくなれば、何もかもうまく行く――。
――カプシーヌがいなくなったおかげで、嬉しいことが起きるようになった――。
関係者たちは大喜びしていましたが、誰もまだ知りません。今まで幸せな日常を過ごせていたのはカプシーヌのおかげで、そんな彼女が居なくなったことで自分達の人生は間もなく180度変わってしまうことを。
17日本編完結。4月1日より、それぞれのその後を描く番外編の投稿をさせていただきます。