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1話
今夜の劇場は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように煌びやかだった。
幾重にも連なる燭台の灯りが、赤い緞帳と金の装飾を照らし、観客たちのさざめきが柔らかな波のように広がっている。
私――クレアは、隣に座る婚約者、マーヴィンの横顔をそっと盗み見た。
彼は腕を組み、長い脚をわずかに組み替えながら、舞台ではなく遠くの虚空を眺めている。まるでこの場にいること自体が退屈だとでも言うように。
今夜の演目は、若き騎士が困難を乗り越え、愛する令嬢と結ばれる物語。私はこの劇団の評判を聞き、ぜひ一緒に観たいとお願いしたのだ。
私から頼んだのだから、彼には興味がなかったのかもしれない。
婚約者からのお誘いだから仕方なく付き合っただけ、ということも考えられる。
無理をさせてしまったのであれば申し訳なく思う。
このままでは私も楽しめないし、気になってしまった。
「……おもしろく、ございませんか?」
勇気を振り絞って、小声で尋ねる。
「いや」
短い返事。視線は舞台に戻らない。
「別に、悪くはない」
悪くはない、というのは、良いとも思っていないということだ。私は微笑みを保ったまま、膝の上でぎゅっと扇子を握りしめた。
どうして私は、いつもこうなのだろう。彼の機嫌をうかがい、彼の顔色を読み、彼のためにと考えてばかり。
それなのに彼のためになっていないように思える。私だけが空回りしているだけのよう。
でも諦めない。お互いが楽しめるよう、私はもっと彼のことを理解しなくてはならない。
今回は私に付き合ってもらったのだ。ならば次は彼に合わせるべき。
幕間に入り、劇場内がざわめきに包まれる。私は意を決して口を開いた。
「マーヴィン様。次は……あなたがお好きなことをいたしましょう? 本日は私のわがままでございますもの」
彼の視線が、ようやく私に向けられた。その瞳には、驚きも喜びも浮かんでいない。ただ、淡々とした光だけ。
「無理しなくていい」
「え……?」
「君は芝居が好きなんだろう。だから来た。それでいい」
「ですが……」
「俺に合わせる必要はない」
その声音は冷たいわけではない。ただ、どうしようもなく平坦だった。そこには、婚約者としての親しみも、未来を共にする相手への思いやりも感じられない。
すれ違う気持ちに、胸の奥が、じわりと痛む。
このままではずっとすれ違ってしまうような気がした。だから私はどうにかしなければならない。
「私は……」
言葉が、うまく出てこない。
私はあなたと、少しでも近づきたいだけなのです。あなたの好きなものを知り、同じ景色を見て、同じことで笑いたい。それだけなのに。
けれど、彼はそれを望んでいないのだと、私は薄々気づいていた。
沈黙が落ちる。遠くで笑い声が弾け、誰かがグラスを鳴らす音がする。けれど私たちの間には、重たい空気だけが横たわっていた。
「……クレア」
彼が、少しだけ声を低くした。
「この婚約は、家同士の取り決めだ」
わかっています、と即座に答えたかった。そんなことは、最初から承知している。けれど、彼の口から改めて告げられると、刃のように胸に刺さる。
「政略結婚のためのものだ。俺も君も、それを承知でここにいる」
「ええ……」
「だから、お互いに無理をする必要はないだろう」
その言葉は、優しさのようでいて、どこまでも残酷だった。
私は関係を良いものにしたかった。それが政略結婚のためであっても、だからといって大切に思い合うことができないわけではないのだから。
でもそれはお互いの気持ちが同じだった場合の話。
悲しいけど、彼は最初から望んでいないようだった。
「無理を……?」
「好きでもない相手に好かれようと努力するのは、疲れるだけだ」
息が詰まる。
「私は……好きでもない、などとは……」
「俺は、恋だの愛だのに期待していない」
はっきりと、彼は言った。
私の中で、何かが静かに崩れ落ちていく音がした。
これからの人生に大きく影響することだというのに、このままでは一生を無駄にしてしまいそう。
そうしないためにも、難しいかもしれないけど彼を説得しなくてはならない。
自分のためにも、お互いのためにも必要なことだ。
「ですが、夫婦になるのでしょう? ならば、少しでも良い関係を築こうとするのは、当然ではございませんか?」
自分でも驚くほど、強い声だった。胸の奥から、抑えていた想いが溢れ出す。
「私は……あなたと、穏やかに笑い合える関係になりたいのです」
マーヴィンは、わずかに目を伏せた。
「……君は真面目だな」
「それが、悪いことなのでしょうか」
「悪くはない。だが、俺には重い」
重い。
その一言で、すべてが終わった気がした。
舞台の再開を告げる鐘が鳴る。観客たちが席へ戻り、再び物語が動き出す。
けれど、私の心はもう舞台を追うことができなかった。
愛し合う二人が誤解を乗り越え、抱きしめ合う場面でさえ、どこか遠い世界の出来事のように思える。
私はきっと、この人と結ばれても、あのように微笑むことはできない。
彼は私を憎んでいるわけではない。ただ、必要としていないのだ。家のための駒として、並べられただけ。
それでも私は、愚かにも期待していた。時間が経てば、少しは心を開いてくれるのではないかと。
けれど今夜、はっきりと理解してしまった。
この人は、私に何も望んでいない。
そして、私もまた――このままでは、幸せになれないだろう。
劇場の拍手が鳴り響く。けれど私の胸には、空洞のような静寂だけが広がっていた。
私は扇子を閉じ、そっと視線を落とす。
……もし、この婚約がなかったなら。
そんな考えを抱いてしまう自分に、ひどく罪悪感を覚えながら。
幾重にも連なる燭台の灯りが、赤い緞帳と金の装飾を照らし、観客たちのさざめきが柔らかな波のように広がっている。
私――クレアは、隣に座る婚約者、マーヴィンの横顔をそっと盗み見た。
彼は腕を組み、長い脚をわずかに組み替えながら、舞台ではなく遠くの虚空を眺めている。まるでこの場にいること自体が退屈だとでも言うように。
今夜の演目は、若き騎士が困難を乗り越え、愛する令嬢と結ばれる物語。私はこの劇団の評判を聞き、ぜひ一緒に観たいとお願いしたのだ。
私から頼んだのだから、彼には興味がなかったのかもしれない。
婚約者からのお誘いだから仕方なく付き合っただけ、ということも考えられる。
無理をさせてしまったのであれば申し訳なく思う。
このままでは私も楽しめないし、気になってしまった。
「……おもしろく、ございませんか?」
勇気を振り絞って、小声で尋ねる。
「いや」
短い返事。視線は舞台に戻らない。
「別に、悪くはない」
悪くはない、というのは、良いとも思っていないということだ。私は微笑みを保ったまま、膝の上でぎゅっと扇子を握りしめた。
どうして私は、いつもこうなのだろう。彼の機嫌をうかがい、彼の顔色を読み、彼のためにと考えてばかり。
それなのに彼のためになっていないように思える。私だけが空回りしているだけのよう。
でも諦めない。お互いが楽しめるよう、私はもっと彼のことを理解しなくてはならない。
今回は私に付き合ってもらったのだ。ならば次は彼に合わせるべき。
幕間に入り、劇場内がざわめきに包まれる。私は意を決して口を開いた。
「マーヴィン様。次は……あなたがお好きなことをいたしましょう? 本日は私のわがままでございますもの」
彼の視線が、ようやく私に向けられた。その瞳には、驚きも喜びも浮かんでいない。ただ、淡々とした光だけ。
「無理しなくていい」
「え……?」
「君は芝居が好きなんだろう。だから来た。それでいい」
「ですが……」
「俺に合わせる必要はない」
その声音は冷たいわけではない。ただ、どうしようもなく平坦だった。そこには、婚約者としての親しみも、未来を共にする相手への思いやりも感じられない。
すれ違う気持ちに、胸の奥が、じわりと痛む。
このままではずっとすれ違ってしまうような気がした。だから私はどうにかしなければならない。
「私は……」
言葉が、うまく出てこない。
私はあなたと、少しでも近づきたいだけなのです。あなたの好きなものを知り、同じ景色を見て、同じことで笑いたい。それだけなのに。
けれど、彼はそれを望んでいないのだと、私は薄々気づいていた。
沈黙が落ちる。遠くで笑い声が弾け、誰かがグラスを鳴らす音がする。けれど私たちの間には、重たい空気だけが横たわっていた。
「……クレア」
彼が、少しだけ声を低くした。
「この婚約は、家同士の取り決めだ」
わかっています、と即座に答えたかった。そんなことは、最初から承知している。けれど、彼の口から改めて告げられると、刃のように胸に刺さる。
「政略結婚のためのものだ。俺も君も、それを承知でここにいる」
「ええ……」
「だから、お互いに無理をする必要はないだろう」
その言葉は、優しさのようでいて、どこまでも残酷だった。
私は関係を良いものにしたかった。それが政略結婚のためであっても、だからといって大切に思い合うことができないわけではないのだから。
でもそれはお互いの気持ちが同じだった場合の話。
悲しいけど、彼は最初から望んでいないようだった。
「無理を……?」
「好きでもない相手に好かれようと努力するのは、疲れるだけだ」
息が詰まる。
「私は……好きでもない、などとは……」
「俺は、恋だの愛だのに期待していない」
はっきりと、彼は言った。
私の中で、何かが静かに崩れ落ちていく音がした。
これからの人生に大きく影響することだというのに、このままでは一生を無駄にしてしまいそう。
そうしないためにも、難しいかもしれないけど彼を説得しなくてはならない。
自分のためにも、お互いのためにも必要なことだ。
「ですが、夫婦になるのでしょう? ならば、少しでも良い関係を築こうとするのは、当然ではございませんか?」
自分でも驚くほど、強い声だった。胸の奥から、抑えていた想いが溢れ出す。
「私は……あなたと、穏やかに笑い合える関係になりたいのです」
マーヴィンは、わずかに目を伏せた。
「……君は真面目だな」
「それが、悪いことなのでしょうか」
「悪くはない。だが、俺には重い」
重い。
その一言で、すべてが終わった気がした。
舞台の再開を告げる鐘が鳴る。観客たちが席へ戻り、再び物語が動き出す。
けれど、私の心はもう舞台を追うことができなかった。
愛し合う二人が誤解を乗り越え、抱きしめ合う場面でさえ、どこか遠い世界の出来事のように思える。
私はきっと、この人と結ばれても、あのように微笑むことはできない。
彼は私を憎んでいるわけではない。ただ、必要としていないのだ。家のための駒として、並べられただけ。
それでも私は、愚かにも期待していた。時間が経てば、少しは心を開いてくれるのではないかと。
けれど今夜、はっきりと理解してしまった。
この人は、私に何も望んでいない。
そして、私もまた――このままでは、幸せになれないだろう。
劇場の拍手が鳴り響く。けれど私の胸には、空洞のような静寂だけが広がっていた。
私は扇子を閉じ、そっと視線を落とす。
……もし、この婚約がなかったなら。
そんな考えを抱いてしまう自分に、ひどく罪悪感を覚えながら。
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