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その日の診療も無事に全て終わり、後片付けに追われる午後六時過ぎ、ふと顔を上げた先の窓ガラスに、ぽつりと雫が落ちた。その数はやがて増え、古いこのクリニックの屋根を打つ音も聞こえ始めた。
「……雨?」
「え、ホントですか?」
奥で器具の洗浄をしていた加奈が深琴の傍に寄る。
「大変! 竜也に傘持たせてない」
「あ、じゃあ今日はもういいよ。あと僕だけで大丈夫だし」
「助かります! じゃあ、よろしくお願いしますね、先生」
加奈の言葉に頷くと、彼女は白衣の上に上着を着ただけで、すぐにクリニックを出て行った。
「母親だなあ……」
加奈に夫はいない。正式にはいるらしいのだが、加奈は息子の竜也を連れてここまで『逃げて』きたらしい。衛生士の募集をかけた時に応募してきた加奈の話に初めは深琴も訝しがり、採用を見送ろうかとも思ったが、資格を持っていて高齢化の進むこの町で長く働けそうな若い人を雇うチャンスはもうないのではないかと思い、加奈と働くことに決めた。
実際加奈はよく働いてくれているし、人柄もよく、すぐにこの町に馴染んだ。あれから三年、深琴がさわじま歯科の先生をやるのと同じだけ加奈もここで衛生士を続けてくれている。当初腕にあった生々しい痣も、今ではすっかり消えていて、息子と穏やかな日々を過ごしていることが分かり、ほっとする。
「そういえば、母さんとしばらく話してないな……」
今はクリニックの倉庫となっている二階を見上げ、深琴が呟く。そこは、深琴にとって実家になるのだが、今は誰も住んでいない。深琴がこのクリニックを継いですぐに両親は、母親の実家へと引っ越していった。
父は腕のいい歯科医で、依頼があれば二十四時間いつでも往診に出かけていく人だった。その日も午前二時過ぎに患者から電話が入り、痛み止めだけでも処方してくるよ、と父は出かけていった。その帰り道、事故に巻き込まれ、その後遺症で右手の感覚を失った。
当然歯科医は続けられず、いいタイミングだからと深琴にクリニックを譲り、今は母の実家の農家を手伝っている。
時々どっさりと野菜を送ってきて楽しそうなメールも入ってくるので、第二の人生を楽しんでいるようで今は安心している。
ただ深琴自身は、二十四時間歯科医ではいられないと思い、今は近くのマンションを借りてそこから通勤している。
父親のように、明るく社交的で誰からも好かれ、頼りにされ、それに応えられる、そんな歯科医に自分はなれない。そう思ったら、歯科の看板を掲げたこの場所に二十四時間居ることが、ひどく苦しくなってしまったのだ。
つまり、自分は逃げたのだ。
「さて、僕も帰るか」
雨脚はどんどん強くなっているようだった。ロッカーに置いてあった傘を持ち出し、外へ出ると大粒の雨が降っていた。傘を開き、歩き出す。そこへ、足音が近づいて深琴は顔を上げた。
深琴の右から左へと傘も差さず走っていく人影に、深琴は目を凝らした。長身、茶色の髪、長い腕に長い脚、広い背中――あの日、自分を助けてくれた人に間違いない。深琴は慌てて彼の背中を視線で追った。
このままではずぶ濡れになってしまう――そう思って声をかけようとするが、どう言ったらいいのか分からず、そうしている内に彼の背中は遠のいていく。深琴はぐっとつま先に力をこめて、地面を蹴った。
すぐに追いつくと思ったが、彼の足は速く、結局深琴が追いついたのは、近くのコンビニだった。店先で着ていたTシャツの裾を絞っている。そんな彼にゆっくりと近づき、いつもの倍以上の速度で動く心臓を落ち着けるようにゆっくりと呼吸を繰り返してから、彼の前に立った。けれど緊張で強張った深琴の口からは言葉が出ない。
そんな深琴に気づいた彼が顔を上げた。こちらを見ているくせに一言も発しない深琴を見つめ、彼が首を傾げる。なにか言わなきゃ、と深琴は掠れる声で精一杯言葉を発した。
「……こ、れ……どうぞ!」
この間はありがとうございました、これ良かったら使ってください――そう言えばよかった。彼に傘を押し付け、きびすを返した後で深琴は思った。
これじゃなんだか分からない。ただの変な人で、追いかけてきたと知れたらストーカー認定だってされかねない。でもこれが自分の精一杯だった。
もういい。恥ずかしい。一刻も早くここから立ち去りたい――そう思って深琴は走り出そうとした。けれど、それは叶わなかった。
次の瞬間、深琴の腕はがっしりと誰かに掴まれていた。
「ちょっ、待って! それじゃそっちが濡れるでしょ、センセイ」
振り返ると彼が驚いた顔をして傘を深琴に差し出した。足を止めた深琴に、彼が大きく息を吐く。
「さわじま歯科のセンセイだよね? 傘のお礼に家まで送るから、一緒に帰ろ」
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