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「今日は星がきれいですね、先生」
一日の診察を終えた午後七時、窓際で作業していた加奈がぽつりと呟いた。
「一昨日雨だったから、かな」
「あの雨、すごかったですもんね。空気がきれいになったのかな――あ、でも、いつでもここは星も空気もきれいですけど」
「田舎だからね」
パソコンの画面から視線を外し、窓を見やる。明るい室内からでは星は見えず、少し疲れた自分の顔が見えて、深琴は視線を再び目の前に戻した。
「でも私、ここ好きですよ。みんな優しくて穏やかで……」
加奈がそう言いかけた時だった。クリニックのドアが開いた時に鳴るチャイムの音が響いて、加奈が言葉を止めた。
「患者さん? 見てきますね」
加奈が診察室から出て、待合室へと向かう。奥で加奈と誰かが話す声がかすかに届いて、その後またすぐに加奈の足音が近づいてきた。
「先生、お客様です。宮田様っていう若い男性の方」
加奈の言葉に深琴は一瞬首を傾げてから、ああ、と頷いてデスクチェアから立ち上がった。
それから照明の落された暗い待合室へと向かうと、一際明るい笑顔で手を振る銀次が見えた。
「センセイ、こんばんは」
「こん、ばんは……」
「これ、この間はありがとう。貰っていいって言ってたけど、やっぱり返そうと思って」
銀次がそう言って差し出したのは、一昨日銀次に渡した傘だった。
「わざわざありがとう……えっと……じゃあ……」
銀次から傘を受け取った深琴は、どう言葉を続けたらいいか分からず、結局曖昧に言って銀次を見やった。
それじゃあ、ときびすを返すかと思ったが銀次は動かない。笑顔のままでこちらを見ていて、深琴は視線を泳がせた。
素っ気無いかもしれないが、特に話すこともないし、何か礼になるようなものも今は持ち合わせていない。お茶でも、なんていっても診察室じゃコーヒーくらいしか用意できないし、引き止めるのも迷惑かもしれない――深琴がそんなふうに考えていると、銀次が、センセイ、と口を開いた。
「はい?」
突然呼ばれ、声が裏返る。そんな深琴をくすりと笑ってから、銀次が言葉を繋げた。
「もう今日は上がり?」
「え? あ、うん……後は少し事務作業をしたら終わり、だけど……」
「じゃあ待ってるから、これから飯行こうよ。傘のお礼に奢らせて」
銀次の言葉に深琴は驚いて、え、と間抜けな返事をしてしまった。銀次はそれに微笑み、飯付き合ってよ、と再び深琴を誘った。
「僕、と?」
「そう、センセイと行きたい」
まさかそんなことを言われると思っていなくて、深琴の頭は真っ白になる。
「なにか、予定あった?」
「あ、いや、何も……」
「じゃあ待ってるから」
銀次はそう言うと待合室のソファに腰を下ろして、ポケットからスマホを取り出しそれを弄り始めた。自分を待つ気らしい。
「わかった……少し待ってて」
その様子に深琴はなるべく早く仕事を終わらせようと足早に診察室へと戻った。
それから三十分で仕事を終わらせ、銀次がいつも行くという居酒屋に落ち着くまであっという間だった。
商店街の片隅にある小さな居酒屋は、寡黙な店主とおしゃべりで愛想のいい女将さんがやっている。どちらも深琴のクリニックに通ったことのある患者だ。
「あらセンセイ、うちに来てくれるの初めてじゃない? 銀ちゃんと知り合いだったの?」
とりあえずのビールとお通しの小鉢を持って来た女将さんがにっこりと微笑む。深琴は、ええ、と軽く答えたが、銀次は、意外でしょ、と笑って言葉を続けた。
「センセイは高校の先輩なんだ」
「あらそうだったの。世間は狭いわねって、田舎だもの、当たり前ね」
女将さんはからからと笑ってから、ゆっくりしてってね、とテーブルを離れた。町には居酒屋やバーが数えるほどしかないせいか、他にも客がいて、それなりに繁盛しているようだった。深琴はあまり外で食事をしないので、こんな雰囲気も久々だった。
人との付き合いは苦手だが、人の中にいることは、嫌いではないのだと改めて感じる。
「ごめんね、センセイ。ちゃんと、仕事終わった?」
乾杯、とビールの入ったグラスをぶつけてから、銀次がそう聞く。深琴はそれに頷いた。
「大丈夫。加奈さんもいたから」
先生が遊びに? 珍しい! すごい! じゃあ全力で仕事片付けましょう! とものすごく張り切っていた加奈のお陰、と言えなくもないと深琴は思い出して小さく笑う。
「センセイ何か思い出した? センセイの笑った顔、可愛い」
銀次の言葉に深琴は首を傾げた。今銀次は可愛いと言ったか。もうこっちは三十路一歩手前まで来てる、しかも男だ。子供の頃から可愛げがないと自負している自分に、まさかそんな言葉がかかるなんて、聞き間違いだろう――そう思っていると、銀次が更に、可愛い、と微笑む。
「センセイ、またご飯、付き合ってね」
「……どうして?」
ひどく真面目にそう聞き返すと銀次が驚いた顔を見せた。だって、本当に自分なんかと食事をしても楽しくないと思ったのだ。話題を振ることも、振られた話題を膨らませることもできないし、見ていて気持ちのいいほどたくさん食べるわけでもない、そんな自分と食事をしても楽しいとは思えないのだ。
けれど銀次は再び微笑んで口を開いた。
「俺がセンセイと飯食いたいって思ったから」
それじゃダメ? と聞かれ、深琴は小さく首を振った。
「ダメじゃ、ない」
深琴の返事に、銀次は本当に嬉しそうに笑って、よかった、とグラスを傾けた。
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