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忘れよう。忘れるんだ――
そう思えば思うほど、頭の中を占めるのは、銀次の笑顔だった。
「先生、いつまでそうしてるつもりです?」
突然掛けられた声に、深琴は、はっとして顔を上げた。
「最後の患者さん見送ってからずっとそこに立ちっぱなしで……水もったいないんで、どいてくれます?」
「え、あ、ごめん……」
加奈に言われ、深琴は慌てて一歩下がる。すると目の前の洗面台を濡らし続けていた水がぴたりと止まった。どうやら手を洗って、そのままぼんやりとしてしまったらしい。
「どうかしたんですか?」
深琴にペーパータオルを握らせた加奈が、そのまま洗面台の掃除を始める。その後姿を見ながら、深琴は、ううん、と首を振った。
「なんでもない……大丈夫。片付け終わったら上がっていいから」
「ホントに? 診療は真面目にやってたんで何も言わなかったんですけど、昼休みもぼんやりしてましたよね? 何か悩んでるなら、話すだけでも楽になりますよ」
「うん……でも、ホントに大丈夫だから……心配かけて、すみません」
ぺこりと頭を下げると、加奈は幾分仕方ないなといった顔をして笑った。
「じゃあ、私は上がります。先生も、ちゃんと休んでくださいね」
また明日、と加奈が微笑む。それに深琴が頷くと、加奈は帰る支度をしてクリニックを出て行った。
「……事務処理しちゃおうかな……」
頭を空にすると、どうしても銀次のことを考えてしまう。
確かに銀次といると楽しかった。知らないことを何でも教えてくれて、新しい体験もたくさんできて、毎日がすごく新鮮だった。だからなのだろう。銀次と会うと、高揚感に包まれて、何もしていなくてもわくわくして、ドキドキしてそれが心地よかった。初めて感じるそんな気持ちがなんなのか、自分で知る前にあんなことになって……正直後悔している。きっと銀次だって、戯れであんなことをして、今頃後悔しているに違いない。
銀次の汚点に、なりたくはない。
さて仕事でもしようか、とデスクに向かったその時だった。クリニックのドアが開く音が響いて、深琴は振り返った。
「先生、匿ってください!」
さっきクリニックを出て行ったはずの加奈が駆け込んでくる。驚いて立ち上がると、加奈の後ろからスーツ姿の男性が現れた。
「すみません、今日はもう診療は終了してるのですが……」
深琴が男性に言うと、加奈が深琴の後ろに隠れるように後退りをした。それを感じて深琴が一歩前に出る。
「突然こんなところまで失礼しました。私、楠木と申します。加奈の夫です」
男性は咄嗟ににこやかな笑みを浮かべ、頭を下げた。深琴はそれに一瞬呆然とする。今会った印象ではとても加奈に傷をつけるような夫には見えない。
「……加奈さんと一緒に働いてます、澤島です」
「ずっと、加奈がご迷惑をおかけしました。加奈、いい加減帰っておいで。私が悪かった」
楠木が頭を下げる。けれど加奈は深琴の白衣の袖をぎゅっと握ったままだった。その手が震えている。
「迷惑なんて……加奈さんはよく働いてくれてます。帰るかどうかは、もう少し話し合われてからでも……」
深琴が言うと楠木は顔を上げた。それから冷たい視線を向ける。
「それは、他人のあなたが、口を出すことではないです」
楠木がそう言い放ったその時だった。
「他人じゃない!」
加奈がそう叫ぶ。それから深琴の腕を取り、楠木に対峙した。
「私、この人とお付き合いしてるんです。結婚したいんです。だから……別れてください」
加奈の突然の言葉に楠木はもちろん、深琴も驚いた。けれどここは加奈の芝居に付き合うのが最善だろう。深琴は黙って楠木を見やる。
「……やっぱり、外に男作ってたのかよ。俺に何の不満がある? その男よりも俺の方が絶対に稼いでる。苦労させたつもりはない」
「お金じゃない。あなたはお金さえ渡しておけば、私たちが幸せと思ってたのかもしれないけど、そんなことなかった。私だって、殴られたら痛いし、怒鳴られたら悲しい。それでも笑ってるなんて、できなかった」
加奈がそう言いながら大粒の涙を零し始めた。深琴がそっと加奈の肩を抱く。
「加奈さんは、僕にとって大事な人です。これ以上傷つけるなら、警察を呼びます」
深琴が言うと、楠木が大きく息を吐く。
「今日はこれで帰ります。が、加奈の夫は俺だ。それは忘れるな」
そう言うと、楠木はきびすを返してその場を離れた。入り口のドアが開く音がして、加奈はほっと息を吐く。
「すみません、先生。巻き込んでしまって」
「いえ……びっくりはしたけど……大事な人っていうのは本当だから」
深琴が加奈に微笑んだ、その時だった。え、と言う声が聞こえ、深琴は顔を上げた。
「そういう、こと、だったんだ……」
そう言って呆然とした顔をして立っているのは銀次だった。深琴と目が合った瞬間、銀次はきびすを返して走り出した。
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