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ヒナゲシの花
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遮る物のない夏の灼けるような日差しの中、克則は出撃の命令を待つ身であった。
この所ずっと、今日が自分の命の終わる時かと、今更ながら死にたくないと思う事を、日が落ちて暗闇が訪れるその時まで繰り返していた。
この日本の為に、愛する祖国に命を捧げることを惜しいと思ったことはなかった。海軍に入ったその時から、次の瞬間に死が訪れることを覚悟して訓練に励んでいた。
田舎にはもう待っている家族は誰もいない。母は病に倒れ亡くなってもう3年。父は自分が幼い頃に他界していた。妹は工場で飛行機の部品を作っていたとき、空襲に遭って死んでしまった。他に頼れる親類もいない。
自分はただ一人。君に出会うまでは…。
俺がその子を見たのは、航空隊に入ったその日だった。
広島からここにやってきた日、飛行機の整備や身の回りの世話、通信係などに女性も駆り出されていた。
彼女は慣れない手つきで、それでも丁寧に傷んだ飛行機の外装に薄い鉄板を取り付けていた。
その真剣な眼差しはとても美しかった。化粧っ気のない、髪をおさげにきっちり結び、女学生といった風情だったが、俺にはとてもまぶしく見えた。
しかし、女性をそんなジロジロと見るのは失礼だし、上官や仲間に見つかったら何と言われるか、たるんでいると殴られることもある。
ふっと目をそらし、自分に与えられた機体に向かって足早に去った。
私がその飛行機乗りの兵隊さんに出会ったのは終戦のひと月前、とても暑い日だったわね。
ゴーグルを額に付けて、茶色い制服を着たすらっとしたとてもすてきな人だった。
ここに来る人は出撃したら飛行機の不調などが起きなければもう二度と会えない人ばかりだったの。
通信係をしていた私の友達は、行ってきますの信号と突入しますの信号の後のツーっという音を聞くたびに心臓を鷲づかみにされる気がするのと教えてくれたことがあった。
ああ、この人も行ってしまう人だ。この人が乗る飛行機が故障すればいいのに、不調で飛び続けられずに戻ってくればいいのにと思ってしまったの。
それでも私の仕事は毎日真っ黒になりながら安全に乗れるように整備する仕事。今までやったことなんてなかったよ。機械なんて今でも苦手だもの。でも自分が出来ることをして、兵隊さんたちが死なないでいてくれることを祈りながら作業をしていたね。
その人が私のことを見ていたのは何となく気が付いていたけど、男の人をジロジロ見るなんて出来なくて。だって恥ずかしいし、みっともないでしょう?今はそんなことないのかな?
でも、おばあちゃんが娘の頃はそんな時代だったの。今はいいわね。好きな人に自分の気持ちを伝えられるんだから。
孫の紗彩が夏休み前の宿題なの、と祖母である私に戦争の時の話を聞いてきた。もう70年も経つはずなのに、あの人は制服を着て、ゴーグル、白いマフラー姿で、飛行機の中から一度だけ私に手を振った。その姿は不自然なくらいくっきりとして、確かに生きていたんだと思った。
一度だけ俺はその子と少しだけ一緒の時間を過ごした。と言っても、訓練中に米軍の攻撃を受けた時に彼女を助けたというだけの事だが。
皆が散り散りに逃げ回る中、建物の影で逃げあぐねている彼女を見つけた。どうやら腰が抜けて立てないでいたらしく、俺は彼女を背負って安全な所まで走った。俺の背中で彼女は落っこちないようにぎゅっと制服を握りしめていた。
ここなら敵の死角で安全だろうと思われる所でようやく彼女を地面に下ろした。
「無事か?ケガは?」
俺が問いかけると、
「あ、あの大丈夫です。す、すみません…立てなくなってしまって…」
今まで緊張していたんだろう。ほっとして、我慢していただろう涙がぽろぽろとこぼれた。ぎゅっと胸の前で握りしめていた手が白くなっている。それでも腕でこぼれた涙をぐいっと拭い、深く息を吸った。そして、覚悟を決めるように顔を俺の方に向けて、はじけるような笑顔を見せてくれた。
「あの、ありがとうございました!斉藤さんはケガはないですか?」
俺の手が、考えるより先に彼女の方へ伸びていた。自分の胸の中に力いっぱい抱きしめたい衝動が生まれていた。
彼女の笑顔が自分に向けられていることがこれほどうれしいことなのかと自分の心の動きに驚いた。その気持ちをねじ伏せて、手を彼女の頭にぽんっと乗せた。
「自分は大丈夫です。あなたにケガがなくて良かった。」
女性と言葉を交わすことなどなかった俺は、いつも無愛想な顔しか出来ないことを自覚していた。せめて笑顔のお返しをしよう。俺は柔らかく笑えているだろうか?彼女は俺のそんな心中までは知らないだろう。怖い顔で訓練しているこの俺のせめてものこの笑顔を覚えていてほしい。湧き上がったこの気持ちには名前を付けてはいけない。このわずかな時間(とき)を胸に旅立とう。短い人生の中の数少ないこの素敵な時間(とき)を身に付けて飛ぼう。
「一度だけ個人的な笑顔を見たことがあるのよ。からかわないでよ、こんなおばあちゃんを。」
紗彩は祖母の一人の女の子みたいなはにかんだ笑顔を見て微笑んだ。
「だっておばあちゃん女の子みたいで可愛いんたもん」
「もう、さや。やめてちょうだい」
眼鏡の奥からいたずらっ子のようなキラキラした目で紗彩は見つめられた。まるで恋する10代の女の子みたいな祖母を見て、なぜだかすごく胸が熱くなった。
「おばあちゃん、その人とはどうなったの?」
「ん?そうね。さやになら話してもいいかな」
祖母の目は何もない空間を見つめ、意識を70年前にタイムトラベルさせたようだった。
ほんとにその一度だけだったの。私に笑顔を向けてくれたのは。私が空襲で腰が抜けて走れなくなっていたとき、あの兵隊さんが私を負ぶって逃げてくれてね、安全な所で下ろしてくれたの。
怖くても泣いちゃいけないって教えられていたのに、どうしても我慢出来なくて涙がこぼれてしまった私に、あの人はとても優しい笑顔で頭に大きな手をぽんっとのせてくれた。
自分だってケガするかもしれないし、死んでしまうかもしれないのに、ただの女学生だった私を助けてくれたの。
おばあちゃんその時に心がぽかっと温まったと感じて幸せな気分になったんだけど、その気持ちに名前を付けてはいけないと思ったのよ。今思えば、それが初恋だったのにね。この兵隊さんのお嫁さんになれたらすごく幸せになれそうだなって思ったのにね。その時おばあちゃんは初恋だと思う事をやめてしまったの。私がそう思ったら、この兵隊さんが困ってしまうだろうと思ったから。
その一度きり。個人的に彼に会うことは叶わなかった。掃除をしたり、食卓を整える時に姿を見ることはあっても、出撃するその日まで彼が私を見ることはなかったし、私も盗み見ることも出来なかった。
飛行機を見送るとき、一度だけ手を振ってくれたように見えただけ。それでもたった一つ、私の下駄箱に一輪の花を置いていってくれたの。とても綺麗なヒナゲシの花。手紙も何もなかったけれど、私はあの兵隊さんだと思ったの。彼が飛び立った日にあったから。
彼は飛行機の不調もなく、突入するという信号を残して逝ってしまったの。あれは八月三日。あと二週間も経てば戦争は終わっていたのにね。
「ヒナゲシってポピーのこと?おばあちゃんの庭に夏になるといろんな色のポピーが咲いてるよね?」
「小さい頃から大好きなの。色がぱきっと鮮やかで茎が細くて風にゆらゆら揺れて。黄色、白、オレンジ、赤…」
「でもおばあちゃんがヒナゲシの花が大好きって何でその兵隊さんは知ってたの?」
祖母は紗彩に柔らかな笑顔を見せた。
「このお話には続きがあるのよ。」
そのヒナゲシの花を薄紙に包んで、本に挟んで押し花にしていたの。時々薄紙を開いてそのオレンジ色を眺めてはその兵隊さんを想って誰にも見られないように泣いていたの。
彼が飛び立って三日後、寮母のハルさんが私を呼び止めた。
「奈津さん。あとで私の部屋にいらっしゃい。少しお話があるの。」
私部屋に呼ばれた事なんて初めてだったから、きっと何か不手際があって叱られるんだろうなって。少し不安な気持ちで寮母さんの部屋に行ったわ。
部屋を訪れると、きちんとお掃除されてこざっぱりとした部屋に机と本棚、小さなテーブルと粗末な椅子が二脚。テーブルには花瓶代わりのコップにヒナゲシが三本活けてあった。
「ゆっくり出来る時間に呼び出してごめんなさいね。」
「いえ、大丈夫です。それより私何かしてしまいましたか?」
よほど心配そうな顔をしていたんでしょうね。ハルさんは笑って、
「そんなに心配しないで。お話ししたいことは、斉藤さんっていう飛行機乗りの兵隊さんの事なの。」
ハルさんは彼からきつく口止めされていたのと言いながら優しく微笑んでいた。
「奈津さんは何が好きかって聞いてきたの。一週間くらい前だったかしら。寮母だからって何でも知ってる訳じゃないけれど、あなたがよく花を摘んで飾っていたのは見ていたから、お花かしらねって答えたわ。」
女の子が喜びそうな物など何もない時代に、身近で手に入りそうな物と言えば自然に咲いている花くらいのものだったから。
それから、斉藤というあの兵隊さんが語っていた言葉を一つ一つ宝箱から大切に取り出すようにゆっくりと話してくれたの。
自分はこれから死地に向かうこと、彼女がこれから先、自分の事など思い出すことなく、幸せな人生を歩んでいってもらいたいと思っていること、それでも本当はとても気になっていて、こんな状況でなければ自分がその子と一緒に人生を歩んでいきたかったこと。好きだったこと。
「斉藤さんには悪いけれど、奈津さんにも残酷かもしれないけれど、私は今まで生きてきて初めてこの約束は守れないと思ってしまったの。彼のこの想い、本当にまっすぐで美しいと思った。いつも何考えているか全然分からない風で、怖いくらい真剣に訓練に取り組んでいるこの青年が、初めて照れくさそうに話している姿を見て、本当なら私は墓場までこの言葉たちを連れていかなくちゃいけなかった。彼はもう私たちの手の届かない所にいってしまったけれど、これから先どんなにつらいことがあっても、このまっすぐな想いはあなたを勇気づけてくれるんじゃないかなって勝手に思ってしまったのよ。」
絶対に彼女に言わないでほしい。自分は墓場までこの気持ちを持って行き、悟らせるつもりは微塵もないと。それでも一度は言葉にしてみたかった。でもこの気持ちを彼女が知ることはとても残酷で、悲しませるだけで、何もしてやれない。自分が腑甲斐ない。黙っていれば良かったのだが、最期のわがままと思い話したかった。あなたなら黙って聞いてくれるだろうと勝手に思ってしまったと。
「話を聞いたその晩はあまりよく眠れなかったわね。こんな時代でなければ、違った状況であればどうなっていたんだろうって。お互いに何の障害もなく出会えていたら幸せになれたんじゃないのかしらって。」
私は声を上げて泣いてちゃったわ。あの時代、涙を流して兵隊さんの死を悼んだりすることは出来なかった。非国民ってね。寮母のハルさんは黙って私を抱きしめてくれたの。
「男ってのは自分勝手な生き物だわね。」と笑顔のまま涙をこぼしていたの。
出撃が明日に迫った前の晩、一緒に旅立つ戦友の勝治(かつはる)と草に寝転がって星空を眺めた。
「花ならあとに残らない」
枯れてしまえば処分出来る。彼女の目の奥に、心に、鮮やかな色と鼻の奥をくすぐる香りを残して。それもいつかは薄れて消えていく。ならば、最期の俺のわがままで、ほんのひととき自分を思い出してくれるかもしれないな。
「あー、女々しいな。」
「なんだお前。弱音も吐けるんじゃないか。」
横に寝転がって寝ていたはずの勝治がしゃべった。
「お前になんか話しかけてない。」
「おーそうか。まあそう言うな。どうせ明日には消えてなくなる運命だろう?」
「まあな。」
そういう勝治も故郷に奥さんと子供を残してきている。まだ二十歳そこそこの奥さんと乳呑み児だ。
「お前、なんて言って出てきたんだ?」
「俺のことはあきらめてくれと。一緒に生きてやれなくてごめんなって。」
勝治もまた星空を見ながら、妻の姿を思い出し、彼女の手元にあった本に妻の名前と伝えたい言葉の分だけ文字を拾って丸を付けてきた。あいつは気付くだろうか。
それきり黙ってしまった二人は、この目で見られる最後であろう美しい星空を見て、それぞれの心に宿る女性に想いをはせていた。
生きてえな。死にたくねえな。幸せに生きていってくれ。俺のことは忘れてもいいから。
あの子はどんな女性になるんだろうな。きっと綺麗になるんだろうな。いつも笑顔を絶やさず、誰に対しても同じ態度で親身になって世話をしていた彼女。あの時の笑顔、俺だけに向けてくれた笑顔、うれしかったな。
「おばあちゃん。悲しいけど素敵な初恋だったね。」
紗彩が発したその一言で、時が70年前に戻った。助けてもらったあの日の優しい笑顔と大きな手。出撃するときに一度だけ振られた手袋をした白い手が鮮やかによみがえった。
「そうね。おばあちゃんにはもったいないくらいの素敵な初恋ね。」
どうか神さま。悲しいことは繰り返されませんように。
この所ずっと、今日が自分の命の終わる時かと、今更ながら死にたくないと思う事を、日が落ちて暗闇が訪れるその時まで繰り返していた。
この日本の為に、愛する祖国に命を捧げることを惜しいと思ったことはなかった。海軍に入ったその時から、次の瞬間に死が訪れることを覚悟して訓練に励んでいた。
田舎にはもう待っている家族は誰もいない。母は病に倒れ亡くなってもう3年。父は自分が幼い頃に他界していた。妹は工場で飛行機の部品を作っていたとき、空襲に遭って死んでしまった。他に頼れる親類もいない。
自分はただ一人。君に出会うまでは…。
俺がその子を見たのは、航空隊に入ったその日だった。
広島からここにやってきた日、飛行機の整備や身の回りの世話、通信係などに女性も駆り出されていた。
彼女は慣れない手つきで、それでも丁寧に傷んだ飛行機の外装に薄い鉄板を取り付けていた。
その真剣な眼差しはとても美しかった。化粧っ気のない、髪をおさげにきっちり結び、女学生といった風情だったが、俺にはとてもまぶしく見えた。
しかし、女性をそんなジロジロと見るのは失礼だし、上官や仲間に見つかったら何と言われるか、たるんでいると殴られることもある。
ふっと目をそらし、自分に与えられた機体に向かって足早に去った。
私がその飛行機乗りの兵隊さんに出会ったのは終戦のひと月前、とても暑い日だったわね。
ゴーグルを額に付けて、茶色い制服を着たすらっとしたとてもすてきな人だった。
ここに来る人は出撃したら飛行機の不調などが起きなければもう二度と会えない人ばかりだったの。
通信係をしていた私の友達は、行ってきますの信号と突入しますの信号の後のツーっという音を聞くたびに心臓を鷲づかみにされる気がするのと教えてくれたことがあった。
ああ、この人も行ってしまう人だ。この人が乗る飛行機が故障すればいいのに、不調で飛び続けられずに戻ってくればいいのにと思ってしまったの。
それでも私の仕事は毎日真っ黒になりながら安全に乗れるように整備する仕事。今までやったことなんてなかったよ。機械なんて今でも苦手だもの。でも自分が出来ることをして、兵隊さんたちが死なないでいてくれることを祈りながら作業をしていたね。
その人が私のことを見ていたのは何となく気が付いていたけど、男の人をジロジロ見るなんて出来なくて。だって恥ずかしいし、みっともないでしょう?今はそんなことないのかな?
でも、おばあちゃんが娘の頃はそんな時代だったの。今はいいわね。好きな人に自分の気持ちを伝えられるんだから。
孫の紗彩が夏休み前の宿題なの、と祖母である私に戦争の時の話を聞いてきた。もう70年も経つはずなのに、あの人は制服を着て、ゴーグル、白いマフラー姿で、飛行機の中から一度だけ私に手を振った。その姿は不自然なくらいくっきりとして、確かに生きていたんだと思った。
一度だけ俺はその子と少しだけ一緒の時間を過ごした。と言っても、訓練中に米軍の攻撃を受けた時に彼女を助けたというだけの事だが。
皆が散り散りに逃げ回る中、建物の影で逃げあぐねている彼女を見つけた。どうやら腰が抜けて立てないでいたらしく、俺は彼女を背負って安全な所まで走った。俺の背中で彼女は落っこちないようにぎゅっと制服を握りしめていた。
ここなら敵の死角で安全だろうと思われる所でようやく彼女を地面に下ろした。
「無事か?ケガは?」
俺が問いかけると、
「あ、あの大丈夫です。す、すみません…立てなくなってしまって…」
今まで緊張していたんだろう。ほっとして、我慢していただろう涙がぽろぽろとこぼれた。ぎゅっと胸の前で握りしめていた手が白くなっている。それでも腕でこぼれた涙をぐいっと拭い、深く息を吸った。そして、覚悟を決めるように顔を俺の方に向けて、はじけるような笑顔を見せてくれた。
「あの、ありがとうございました!斉藤さんはケガはないですか?」
俺の手が、考えるより先に彼女の方へ伸びていた。自分の胸の中に力いっぱい抱きしめたい衝動が生まれていた。
彼女の笑顔が自分に向けられていることがこれほどうれしいことなのかと自分の心の動きに驚いた。その気持ちをねじ伏せて、手を彼女の頭にぽんっと乗せた。
「自分は大丈夫です。あなたにケガがなくて良かった。」
女性と言葉を交わすことなどなかった俺は、いつも無愛想な顔しか出来ないことを自覚していた。せめて笑顔のお返しをしよう。俺は柔らかく笑えているだろうか?彼女は俺のそんな心中までは知らないだろう。怖い顔で訓練しているこの俺のせめてものこの笑顔を覚えていてほしい。湧き上がったこの気持ちには名前を付けてはいけない。このわずかな時間(とき)を胸に旅立とう。短い人生の中の数少ないこの素敵な時間(とき)を身に付けて飛ぼう。
「一度だけ個人的な笑顔を見たことがあるのよ。からかわないでよ、こんなおばあちゃんを。」
紗彩は祖母の一人の女の子みたいなはにかんだ笑顔を見て微笑んだ。
「だっておばあちゃん女の子みたいで可愛いんたもん」
「もう、さや。やめてちょうだい」
眼鏡の奥からいたずらっ子のようなキラキラした目で紗彩は見つめられた。まるで恋する10代の女の子みたいな祖母を見て、なぜだかすごく胸が熱くなった。
「おばあちゃん、その人とはどうなったの?」
「ん?そうね。さやになら話してもいいかな」
祖母の目は何もない空間を見つめ、意識を70年前にタイムトラベルさせたようだった。
ほんとにその一度だけだったの。私に笑顔を向けてくれたのは。私が空襲で腰が抜けて走れなくなっていたとき、あの兵隊さんが私を負ぶって逃げてくれてね、安全な所で下ろしてくれたの。
怖くても泣いちゃいけないって教えられていたのに、どうしても我慢出来なくて涙がこぼれてしまった私に、あの人はとても優しい笑顔で頭に大きな手をぽんっとのせてくれた。
自分だってケガするかもしれないし、死んでしまうかもしれないのに、ただの女学生だった私を助けてくれたの。
おばあちゃんその時に心がぽかっと温まったと感じて幸せな気分になったんだけど、その気持ちに名前を付けてはいけないと思ったのよ。今思えば、それが初恋だったのにね。この兵隊さんのお嫁さんになれたらすごく幸せになれそうだなって思ったのにね。その時おばあちゃんは初恋だと思う事をやめてしまったの。私がそう思ったら、この兵隊さんが困ってしまうだろうと思ったから。
その一度きり。個人的に彼に会うことは叶わなかった。掃除をしたり、食卓を整える時に姿を見ることはあっても、出撃するその日まで彼が私を見ることはなかったし、私も盗み見ることも出来なかった。
飛行機を見送るとき、一度だけ手を振ってくれたように見えただけ。それでもたった一つ、私の下駄箱に一輪の花を置いていってくれたの。とても綺麗なヒナゲシの花。手紙も何もなかったけれど、私はあの兵隊さんだと思ったの。彼が飛び立った日にあったから。
彼は飛行機の不調もなく、突入するという信号を残して逝ってしまったの。あれは八月三日。あと二週間も経てば戦争は終わっていたのにね。
「ヒナゲシってポピーのこと?おばあちゃんの庭に夏になるといろんな色のポピーが咲いてるよね?」
「小さい頃から大好きなの。色がぱきっと鮮やかで茎が細くて風にゆらゆら揺れて。黄色、白、オレンジ、赤…」
「でもおばあちゃんがヒナゲシの花が大好きって何でその兵隊さんは知ってたの?」
祖母は紗彩に柔らかな笑顔を見せた。
「このお話には続きがあるのよ。」
そのヒナゲシの花を薄紙に包んで、本に挟んで押し花にしていたの。時々薄紙を開いてそのオレンジ色を眺めてはその兵隊さんを想って誰にも見られないように泣いていたの。
彼が飛び立って三日後、寮母のハルさんが私を呼び止めた。
「奈津さん。あとで私の部屋にいらっしゃい。少しお話があるの。」
私部屋に呼ばれた事なんて初めてだったから、きっと何か不手際があって叱られるんだろうなって。少し不安な気持ちで寮母さんの部屋に行ったわ。
部屋を訪れると、きちんとお掃除されてこざっぱりとした部屋に机と本棚、小さなテーブルと粗末な椅子が二脚。テーブルには花瓶代わりのコップにヒナゲシが三本活けてあった。
「ゆっくり出来る時間に呼び出してごめんなさいね。」
「いえ、大丈夫です。それより私何かしてしまいましたか?」
よほど心配そうな顔をしていたんでしょうね。ハルさんは笑って、
「そんなに心配しないで。お話ししたいことは、斉藤さんっていう飛行機乗りの兵隊さんの事なの。」
ハルさんは彼からきつく口止めされていたのと言いながら優しく微笑んでいた。
「奈津さんは何が好きかって聞いてきたの。一週間くらい前だったかしら。寮母だからって何でも知ってる訳じゃないけれど、あなたがよく花を摘んで飾っていたのは見ていたから、お花かしらねって答えたわ。」
女の子が喜びそうな物など何もない時代に、身近で手に入りそうな物と言えば自然に咲いている花くらいのものだったから。
それから、斉藤というあの兵隊さんが語っていた言葉を一つ一つ宝箱から大切に取り出すようにゆっくりと話してくれたの。
自分はこれから死地に向かうこと、彼女がこれから先、自分の事など思い出すことなく、幸せな人生を歩んでいってもらいたいと思っていること、それでも本当はとても気になっていて、こんな状況でなければ自分がその子と一緒に人生を歩んでいきたかったこと。好きだったこと。
「斉藤さんには悪いけれど、奈津さんにも残酷かもしれないけれど、私は今まで生きてきて初めてこの約束は守れないと思ってしまったの。彼のこの想い、本当にまっすぐで美しいと思った。いつも何考えているか全然分からない風で、怖いくらい真剣に訓練に取り組んでいるこの青年が、初めて照れくさそうに話している姿を見て、本当なら私は墓場までこの言葉たちを連れていかなくちゃいけなかった。彼はもう私たちの手の届かない所にいってしまったけれど、これから先どんなにつらいことがあっても、このまっすぐな想いはあなたを勇気づけてくれるんじゃないかなって勝手に思ってしまったのよ。」
絶対に彼女に言わないでほしい。自分は墓場までこの気持ちを持って行き、悟らせるつもりは微塵もないと。それでも一度は言葉にしてみたかった。でもこの気持ちを彼女が知ることはとても残酷で、悲しませるだけで、何もしてやれない。自分が腑甲斐ない。黙っていれば良かったのだが、最期のわがままと思い話したかった。あなたなら黙って聞いてくれるだろうと勝手に思ってしまったと。
「話を聞いたその晩はあまりよく眠れなかったわね。こんな時代でなければ、違った状況であればどうなっていたんだろうって。お互いに何の障害もなく出会えていたら幸せになれたんじゃないのかしらって。」
私は声を上げて泣いてちゃったわ。あの時代、涙を流して兵隊さんの死を悼んだりすることは出来なかった。非国民ってね。寮母のハルさんは黙って私を抱きしめてくれたの。
「男ってのは自分勝手な生き物だわね。」と笑顔のまま涙をこぼしていたの。
出撃が明日に迫った前の晩、一緒に旅立つ戦友の勝治(かつはる)と草に寝転がって星空を眺めた。
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枯れてしまえば処分出来る。彼女の目の奥に、心に、鮮やかな色と鼻の奥をくすぐる香りを残して。それもいつかは薄れて消えていく。ならば、最期の俺のわがままで、ほんのひととき自分を思い出してくれるかもしれないな。
「あー、女々しいな。」
「なんだお前。弱音も吐けるんじゃないか。」
横に寝転がって寝ていたはずの勝治がしゃべった。
「お前になんか話しかけてない。」
「おーそうか。まあそう言うな。どうせ明日には消えてなくなる運命だろう?」
「まあな。」
そういう勝治も故郷に奥さんと子供を残してきている。まだ二十歳そこそこの奥さんと乳呑み児だ。
「お前、なんて言って出てきたんだ?」
「俺のことはあきらめてくれと。一緒に生きてやれなくてごめんなって。」
勝治もまた星空を見ながら、妻の姿を思い出し、彼女の手元にあった本に妻の名前と伝えたい言葉の分だけ文字を拾って丸を付けてきた。あいつは気付くだろうか。
それきり黙ってしまった二人は、この目で見られる最後であろう美しい星空を見て、それぞれの心に宿る女性に想いをはせていた。
生きてえな。死にたくねえな。幸せに生きていってくれ。俺のことは忘れてもいいから。
あの子はどんな女性になるんだろうな。きっと綺麗になるんだろうな。いつも笑顔を絶やさず、誰に対しても同じ態度で親身になって世話をしていた彼女。あの時の笑顔、俺だけに向けてくれた笑顔、うれしかったな。
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紗彩が発したその一言で、時が70年前に戻った。助けてもらったあの日の優しい笑顔と大きな手。出撃するときに一度だけ振られた手袋をした白い手が鮮やかによみがえった。
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