君だけは思い出にしたくない

吉桜美貴

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1巻

1-3

 本を読み終わる頃には、この人はやっぱりすごいと本気で感動した。自己啓発本をどこかはすに見ていた凛花でさえこうなのだから、彼の考えに傾倒する読者が多いのもうなずける。
 マスコミは彼のファンを「若御門信者」と揶揄やゆしていたけど、信者になる気持ちもわかるというものだ。自己啓発本なんて小手先の誤魔化ごまかしだと思っていた。しかし、もっと精神の深いところに根差し、生きる意味にまで触れているんだと認識を改めた。
 凛花は読み終わった本を閉じて、目を閉じる。
 こうして考えると、例の事件は本当に残念だったと思う。あの事件さえなければ、彼は今でも第一線で人々のために活躍していたはずだ。
 彼の名前をネットで検索すれば、おびただしいニュースや動画や著書がヒットする。嘘か本当かわからない、女優やモデルとの熱愛記事まである。ゴシップに興味はまったくないけれど、お客さまのことをある程度知っておくのは大切なので、ひととおり目を通した。
 例の事件については目をおおいたくなるほどひどい書かれ方をしていた。素人しろうとながら名誉毀損で訴えれば勝てそうだと思ったけれど、どこから湧いてくるかわからない有象無象うぞうむぞう匿名とくめい集団を相手にどう戦えばいいのか、まったく想像がつかなかった。

「遼介さんの事件は、冤罪えんざいなんですか?」

 ここへ来る前に凛花がそう尋ねると、礼子は厳しい表情で答えた。

冤罪えんざいかどうかなんて質問自体がナンセンスなのよ。遼介は少し目立ち過ぎたのね。知らずに嫉妬しっとを買い、前もって用意された罠にめられたの。証拠はかなり用意周到に準備されている。冷静に見ても、遼介に勝ち目はないでしょうね」
「そんな……、どうにかならないんですか? 相手を逆に訴えるとか……」

 礼子は首を横に振り、力なくこう答えた。

「私も遼介も、何人ものプロの手を借りてとことん検討したわ。でも、結果は〝いな〟よ。今回は相手の策が周到すぎた」
「そんな……そんなのってあんまりです!」
「凛花ちゃん、よく覚えておいて。これは裁判で無罪を勝ち取ればいいという単純な話じゃないの。この世はおおむね多数決で動いている。だから、多数の人がこの人は犯罪者に違いないと思えば、おのずとその流れになっていくのよ。さらに残念なことに、世間の人々は、誰かを裁きたいという暗い衝動を抱えているわ。よほど慎重に進めたとしても、まずこちらに勝ち目はない。暴力の本質ってそういうものよ」
「けど、なら、どうすれば……」
「私たちが信じて支えるしかないわ。だから、凛花ちゃんもあの子を信じて欲しいの。なにが正しいかじゃなくて、あなたがなにを信じるかよ。どう? あなたは遼介を信じられそう?」
「もちろんです。私は社長を信じてます。だから……社長の信じる遼介さんも信じられます」
「それで結構よ」

 礼子はうれしそうにニッコリ笑った。

「やっぱりあなたを選んで正解だったわ。今の遼介に必要なのは、彼の無実を信じる人を一人でも多く傍に置くことよ。そしてなにより三食きちんと取って、しっかり眠ることだわ。それが人間の基本だもの。そうでしょう?」
「そうですね。そのとおりだと思います」
「メンタルケアをしてくれなんて言わないから安心して。ただあの子にご飯を食べさせてあげて欲しいの」

 かくして、凛花はここにきた。礼子の言を借りれば、遼介にご飯を食べさせるために、こうして山奥までやってきたのだ。今のところ仕事は順調にいっている。良好な関係には程遠いけれど、とりあえず追い返されることなく毎日が問題なく過ぎていた。
 凛花は閉じていた目を開き、ふーっと息を吐く。
 社会の評価がどうであれ、彼がすごい人であることは変わらない。
 凛花は立ち上がって灯りを消し、布団に入る。特にやることもないし、今日は早めに眠ってしまおう。
 目を閉じると、雨の音が耳に心地よく響いた。


 膠着こうちゃく状態に変化が訪れたのは、翌日の朝だった。
 いつもどおり六時過ぎに凛花がキッチンへ行くと、遼介がダイニングチェアに座っているのが見えた。左ひじをテーブルに載せて頬杖をつき、視線は窓の外に注がれている。
 凛花は息をひそめ、彼の姿に見入った。
 遼介がそこにいるだけでキッチンの空気がガラリと変わる。雨天の早朝の鈍い光が彼のすっと通った高い鼻梁びりょうを縁取っていた。眉は凛々りりしく、雨を映す瞳はとても澄んでいる。しわくちゃの浴衣ゆかたを着てひげも髪も伸び放題なのに、静謐せいひつな美しさがあった。
 印象深い横顔だった。
 じっと押し殺した感情が、じわじわと空気を伝ってくる。
 それは、深い哀しみとあきらめのようなものだった。見ているだけで、胸が締めつけられるような苦しさを覚える。彼のまとっている空気が、物憂ものうげな瞳の色が、見る者を切なくさせるのだ。
 見てはいけないものを見てしまった気がして、凛花はすぐさまきびすを返す。
 しかし、廊下に戻ろうとした背中に「ちょっと待ってくれ! 話があるんだ」という遼介の声が掛かった。

「……おはようございます。どうしたんですか?」

 凛花はキッチンのドアを少し開け、おずおずと聞いた。

「ちょっと話があるから、中へ入ってくれ」

 凛花はキッチンに入り、遼介にうながされてダイニングテーブルを挟んだ彼の向かいに座った。
 さきほどの静謐せいひつな雰囲気とは打って変わって、遼介の瞳は冷淡だ。しかし、よく見ると初めて会ったときより顔色がよく、少しふっくらした印象を受けた。毎日のご飯の効果が出てきたかなと、凛花はチラッと思う。
 ややあって、遼介がおもむろに切り出した。

「実は頼みたいことがある」
「はい。なんでしょうか?」
「その前にいくつか質問したいんだけど、この仕事はどれぐらいやっているの?」
「ちょうど六年目になります。介護職員初任者研修は修了しています」
「ふーん。いつも今回と同じような住み込みの仕事を?」
「いえ。普段は在宅介護の支援が多いですね。リハビリの援助ですとか、付き添いですとか」
「今、二十六歳だよね?」
「そうです」
「こう言ってはなんだけど、大丈夫なの? つまり……」

 遼介が言いにくそうにしているのを見てピンときた凛花は、言葉のあとを引き取る。

「つまり、私みたいな若い女性が独身男性の家に住み込みで働くのは、大丈夫かってことですか?」

 ズバリ言った凛花を、遼介は呆気に取られたように見たあと「そうだ」とうなずいた。

「住み込みの仕事はこれが初めてです。というか、ご依頼自体がほとんどありません。今回は本当に特別で、礼子社長に直接頼まれたので引き受けたんです」
「叔母さんのことだ。破格の報酬でもちらつかせたんじゃないか」
「そうですね。そのとおりです」

 格好をつけてもしょうがないので、凛花は正直に認めた。

「それなら安心だ。こんなに妙な条件の仕事、普通なら誰も引き受けないだろうからな」

 イエスと言うのも気が引けて、凛花は黙っていた。
 遼介は眉根を寄せ、親指でみずからの唇をなぞっている。
 薄くてとても綺麗な形をした唇だと思った。上唇の中心にある二つの山の形が美しく、唇の端に向かってキリッと引き結ばれている。ふと触れてみたいような気になって、胸の奥がうずいた。けど、彼の冷ややかな眼差まなざしを見て、凛花はその気持ちを打ち消す。こちらを好ましく思っていないことは明らかだった。

「ならば、僕が仕事を頼んでも問題ないわけだな。君は充分な報酬を受け取っているわけだから」
「もちろんです。できる限りサポートさせて頂きます」
「僕をふもとの病院に連れていって欲しい」
「通院介助ですね。かしこまりました。お日にちはいつですか?」
「明日の十三時に来いって言われてる」
「十三時ですね。ここから病院までどれぐらいかかりますか?」
「二時間以内で行ける。ナビがあるが道順は……」

 二人は簡単に明日の打ち合わせをした。ひととおり確認が終わったあと、遼介は「以上だ」と言って立ち上がろうとする。

「あのっ!」

 凛花は思わず呼びとめてしまう。そして、遠慮しつつも思い切って彼に申し出た。

「あの、そのままで行かれますか?」
「は? そのまま?」
「ですから、その、お顔とか……」
「ああ。これ?」

 遼介は、左手で伸びたひげを撫で回した。

「仕方ない。電気シェーバーを持ってくるのを忘れてしまったんだ」
「なら、明日ふもとで買いましょう。この家に剃刀かみそりはないんですか?」
「いや、T字型の剃刀かみそりならある。ただ、左手しか使えないからうまくれなくてあきらめた」
「よかったら、お手伝いしましょうか?」
「手伝う? 君が?」
「はい。あ、本来ならお顔をるのは理容師の資格が必要なんですが……」
「あーいいよいいよ。そういうのは無視で。やってくれるなら、多少切れたって構わない」
「切ったりしませんよ。大丈夫です」
「ふーん、そういうのも契約に入ってるの?」
「はい。基本的にお客さまが快適に過ごせるよう、臨機応変に対応します」

 そう言った凛花を、遼介は不信感もあらわに眺めた。凛花はそれをポーカーフェイスで受け流す。失礼だとか態度が悪いだとか、いちいち怒っていたら身が持たない。もっとひどいお客さまなんて山のようにいるんだから。

「……なら、よろしく頼むよ」

 数秒ののち、遼介はボソボソ言った。
 こうして、凛花は遼介のひげをることになった。


 プラスチックの剃刀かみそりが、白い泡まみれのひげを巻き込みながら、滑る。
 剃刀かみそりが通った跡には、つるりとした皮膚が現れた。遼介の肌は褐色で、添えられた凛花の指がより白く見える。
 二人は若御門邸の脱衣所にいた。遼介は洗面台の前のスツールに腰掛け、凛花は立ったまま作業している。脱衣所は超モダンにリフォームされていて、どこかの旅館かと見まごうほどの広さがあった。二つある洗面台の壁一面に鏡が張られ、鏡に向かって左手は全面ガラス張りになっている。そこから渓谷けいこくに生い茂る緑の木立が見渡せた。
 凛花は皮膚を切らないよう注意しながら、T字型の剃刀かみそりを何度も滑らせていく。間もなく、ひげにおおわれていた左頬が全貌を現した。

「すみません。ちょっと唇を触ってもいいですか?」

 唇の横は毛穴の角度が横向きでりづらい。凛花が声を掛けると、遼介は目を閉じたまま「いいよ」と答える。凛花は左手の親指で、そっと彼の唇を押さえた。
 一瞬、触れた唇のやわらかさにドキリとする。けれどすぐに雑念を振り払い、剃刀かみそりに神経を集中させた。
 遼介は、はだけた浴衣ゆかたを腰の辺りまで落とし、きたえられた上半身をさらしている。凛花は作業に集中するためにかなりの努力が必要だった。
 体脂肪何パーセントぐらいだろ? 五パーセントとか!?
 つい意識が彼の裸体に向いてしまう。遼介はいわゆる細マッチョで、無駄な肉がすべてぎ落とされたかのように筋肉質な体をしていた。痩せているせいで鎖骨や喉仏のどぼとけ、肩の骨が浮き出ていて、極限まで節制した修行僧のごとく硬質な色気を放っている。腹筋は六つに割れて、胸筋は丸く盛り上がり、谷間に薄く体毛が生えていた。特にきたえているのか上腕だけが妙に太く、野性的ですごく素敵だ。
 凛花は速まる鼓動を抑えようと、懸命に「これは仕事だこれは仕事だ」と頭の中で何度も唱えた。仕事柄、入浴の介助をする機会も多く、男性の裸体なんて見慣れている。お客さまを支えるために抱き合ったこともあるし、場合によっては下の世話だってがっつりやっている。
 そのとき、凛花は皆川みながわしわだらけの顔を思い浮かべた。皆川とは顧客の一人で八十七歳の男性だ。食事と入浴の介助、病院への通院介助を希望された。皆川は寝たきりだけど意識ははっきりしていて、いろいろな話をする。彼は昔、不動産会社の社長をやっていて、あまたの土地売買契約の仲介で活躍したそうだ。三十代で今の奥さんと結婚し、三人の娘をもうけ、ささやかながらも幸せな結婚生活だったらしい。皆川と話をするのは楽しく、いつも笑顔で感謝されるので、凛花は充実感で幸せな気分になれた。
 皆川さんの裸体なら見慣れている。皆川さんも同じ男性。同じお客さま。遼介さんと変わらない。おんなじおんなじ……
 凛花は自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返す。
 思い返せば彼氏いない歴約七年、年代の近い男性にまったく免疫めんえきがない自分が情けなかった。どぎまぎする凛花をよそに、遼介は目を閉じてあごを軽く上げ、平然と身をゆだねている。ひげを落としたあとの顔は精巧な人形みたいに整っていた。しみ一つない肌はなめらかで、あごや頬はシャープなラインを描き、特にキリッと結ばれた唇の形が美しい。閉じたまぶたの先に、長くつややかなまつ毛が伸びていた。
 こんなに綺麗な人だったっけ……?
 テレビで見たときも美形だと思ったけど、実物はより洗練されていた。一時期より痩せたことで、鋭い刃物のような凄味が増している。それでいて、こうして目を閉じてじっとしていると、まるで神に祈りを捧げる信徒のように神秘的な美しさがあった。
 凛花は胸をドキドキさせながら右頬に取り掛かる。指先で彼の耳の横にそっと触れると、皮膚の表面はひんやりしていた。彼の肌の感触をなぜか心地よく思いながら剃刀かみそりを滑らせてゆく。
 そのとき、不意に遼介が目を開けた。
 とっさに凛花は動きを止める。
 遼介の目は細く、切れ長の目尻は少し吊り上がっていた。見る者を一切拒絶するような尖った印象を受ける。遼介は眼球だけギョロリと動かし、凛花を横目で見た。近くで見ると、彼の瞳は茶色よりさらに薄い澄んだあめ色だ。不機嫌なのを隠そうともせず、嫌悪に満ちた表情をしている。凛花が特別嫌いというより、人そのものを深く恨んでいるとかそういう感じがした。

「そこまで優しくやらなくていい」

 遼介は冷淡に言う。

「は、はい」
「少しくらい切れてもいいし血が出てもいいから、もっとガシガシやってくれ」
「わかりました」

 凛花は気を取り直し、彼の言葉どおり大胆に剃刀かみそりを動かし始める。遼介はそれ以上の会話は無用とばかりに、ふたたびまぶたを閉じた。
 親しみやすさってヤツが皆無だなぁと、凛花はしみじみ思う。
 まるで難攻不落の要塞ようさいに立てこもっているような人だ。周りをぐるりと高い壁で囲んで有刺鉄線ゆうしてっせんを張りめぐらせ、さらに高圧電流を流して近づく者を徹底的に遠ざけるレベルの気迫を感じる。絶対に余計な話をしないし、絶対に気を許さないし、絶対にプライベートへ踏み込ませない。
 仕事相手にここまでかたくなな態度を取られたのは就職以来初めてで戸惑ってしまう。必要以上に仲良くすることもないけど、あまりに不機嫌な態度を取られ続けるとやりづらいし、自信を失くしてしまう。
 ――元はそんなに悪い子じゃないのよ。頭もイイし、顔もイイし、とってもお茶目で優しい子なの。
 初日の礼子の言葉が思い返された。
 私はあなたの敵じゃないんだけどな。
 彼はたとえるなら手負いの野生獣みたいだ。毛を逆立てて牙をき出し、近づく者すべてを威嚇いかくする。敵じゃないと意思表示したくても言葉は通じないし、わかり合えることもない。こうして触れ合っているのに、心の距離は遥かに遠い。
 そうこうする内にひげを無事にり終えた。「終わりました」と言うと、遼介はパチッと目を開けて鏡を見つめる。

「さっぱりした」

 遼介は言葉どおりさっぱりした顔で言った。
 鏡にはひどく冷めた目をした、眉目びもく秀麗しゅうれいな男が映っている。ひげをっただけでガラリと雰囲気が変わり、テレビに出ていたかつての彼に近くなった。長身で筋肉質な体躯と印象的な美貌を持つ彼が、モデルや俳優じゃないのが不思議なぐらいだ。むしろ本業の人たちより独特のオーラがあって目を引くような気がする。

「また伸びてきたら、いつでもお申しつけください」

 凛花がそう言うと、遼介は鏡をにらみつつ黙ってうなずいた。
 凛花は後片付けを始める。タオルを洗濯かごに放り込み、使い終わった剃刀かみそりを洗い、自分の手も洗った。洗面台周りをスポンジで軽く磨き、毛の落ちた床にフローリングワイパーをかける。ふと顔を上げると、すでに遼介の姿はなかった。

「まったく。一言のお礼もなしですか」

 とはいえ、お礼や優しい言葉を期待するのは贅沢ぜいたくというものだ。仲良くなるために仕事をしているわけじゃない。報酬をもらってここにいるんだから。彼が怒ろうがわめこうが宇宙語を話そうが、分けへだてなく常に同じサービスを提供するのがプロというものだ。
 わかってるんだけど、やっぱりちょっと寂しいんだよね……
 そう感じてしまう理由が自分でもよくわからないまま、脱衣所の灯りを落とした。


     ◇ ◇ ◇


 翌日、若御門遼介はふもとの集落にある室生むろう整形外科医院を訪れていた。
 室生虎雄とらお医師は今年七十一歳になる大ベテランだ。五十歳まで都内の国立医療センターにいて整形外科部長まで務めた人物だが、少々変わり者で都会の生活を嫌い、晩年はここで小さな診療所を開いて暮らしている。若御門家とは昵懇じっこんの間柄で、特に礼子とはプライベートで食事に行くほど仲の良い友人関係だ。遼介を子供の頃からよく知っており、まるで息子のように接してくれる。
 古い診察室で、遼介は室生医師の前に座っていた。丸々と太った室生は窮屈きゅうくつそうに白衣を着こみ、横に広がった丸い鼻頭に眼鏡を引っ掛け、ふくふくした顔に穏やかな笑みを浮かべている。頭頂部まで禿げ上がり、その周辺をふさふさした白髪がおおっていた。肌つやもよく、頬には赤味が差して元気そうだ。
 この人はなんだか昔から変わらないなと、遼介はぼんやり思う。

「相変わらず、入院は絶対拒否なの?」

 ひとしきり診察が終わったあと、室生が聞いてきた。

「入院だけはちょっと……」

 遼介は正直に答える。

「うちの医院もド田舎いなかだけど、患者がいるっちゃいるしね。まあ、逆に田舎いなかだからこそ君みたいな有名人がウロチョロしてたら騒ぎになるかなぁ」

 室生はそう言って椅子をぐるりと半回転させ、遼介のほうを向いた。

「さっきトイレ行くとき見ちゃったんだけど、あの可愛い女性は何者? ふんわりした長い髪に色白でアンニュイな雰囲気をただよわす、あのほっそりした清楚美人は? 遼介君の奥さん?」
「奥さんだって!? とんでもないっ!!」

 遼介は焦って全否定する。

「ただの家政婦ですよ。住み込みで食事を作ってもらってるだけです。叔母さんが寄越した人で……」
「遼介君、いいなぁ~。うらやましーよ。わしもあんな美人家政婦と一夜の過ちを犯してみたい……」
「するわけあるかっ!!」

 遼介はイライラしながらツッコミを入れる。
 室生医師が優秀なのは間違いないのだが、かなりおちゃらけた性格が玉にきずだ。たまに話が脱線しすぎて、なにをしに来たのか忘れそうになる。しかし、集落では絶大な人気を誇っているらしい。

「探してるよぉ~君のこと。まだまだ沈静化したとは言えないね」

 室生は不意に真顔になって言った。

「探してるって、テレビをご覧になったんですか?」
「うん。ワイドショーとかネットでも、まだまだ君のトピックは熱いよ。誰もが血眼ちまなこになって君の行方ゆくえを探してるんじゃないか。特にマスコミは。君のネタは金になりそうだし」

 まだ僕を探しているのかと、遼介はうんざりする。マスコミはよっぽど暇なのか、他にネタはないのか。

「で、不起訴になったんでしょ?」
「はい。相手が被害届を取り下げたので」

 遼介が答えると、室生は呆れたように鼻で笑った。

「ふん、被害届なんてよく言うよね。デッチ上げたくせに。まったく、ひどいことする奴ほど声がデカくてかなわん。あちこちにデマをわめき散らして、うるさくてしょうがない。おまけに馬鹿が馬鹿のデマに流される」

 室生の言葉を、遼介は驚きを持って受けとめた。
 目を見開いて絶句している遼介を見て、室生はいぶかしげな顔をする。

「いや、すみません。ちょっとびっくりしてしまって。その……僕に近い人間でさえ、僕の無実を信じてくれる人はいなかったもので」

 そう言いながら、一連の事件に思いをせた。
 半年前、週刊誌やスポーツ紙に呆れるほど派手な見出しがおどった。

『イケメンタレント、酔ってマネージャーに暴行!』
『無抵抗のマネージャーを怒鳴りつけ、一方的に殴りつけた』
『暴行時の音声データを独占入手! 暴言、暴行、そして悲鳴!?』

 イケメンタレントとは、僭越せんえつながら遼介のことだ。マネージャーの名前は笠井かさい昭彦あきひこという。
 簡単に言えば、遼介はマネージャーにめられたのだ。
 昭彦はご丁寧に頬にあざまで作って「若御門遼介に暴行された」とマスコミに嘘の情報を流した。彼は、まったく別の件で激昂げきこうしたときの遼介の音声データと「暴行を目撃した」という関係者の証言を、暴行の証拠としてしっかり準備していた。もちろん遼介にはすべて身に覚えのないことだった。
 笠井昭彦はマネージャーである前に、遼介の親友だった。
 彼とは帝都大学の商学部時代からのつき合いだ。たまたま同じミネソタ州の大学院へ進学し、向こうですっかり意気投合した。一緒に日本のビジネスコンサルティングの分野で革命を起こそうぜと息巻き盛り上がった。思い返せば、あの頃が一番楽しくて、なにもかもが輝いていたのかもしれない。昭彦と途方もない夢を描き、論文に追われながらあれこれと起業計画を立て、目標に向かって一心に準備を進めていた。
 笠井昭彦は肩書こそマネージャーだが、実質は役員であり共同経営者だった。ともに事業方針を決めて起業にまつわる手続きをし、投資家集めに東奔西走とうほんせいそうした。株主や取引先は遼介ら二人がトップだと認識していたし、なにか問題があれば二人でとことん話し合って決めてきた。
 遼介が不本意ながらもタレント活動をするようになってからは、遼介が表舞台に立ち、昭彦が裏方の仕事をするという役割分担になった。テレビやラジオに出演するのを嫌がる遼介を、「会社の利益のためだから」と積極的にあと押ししたのは昭彦だ。今は歯を食いしばって客寄せパンダになれと。事業がもっと拡大すれば、ビジネスに専念できるからと言ったのだ。
 だから遼介は昭彦の言葉に従い、会社の名を売るために客寄せパンダに徹してきた。それが二人の会社の未来につながると信じて……
 ――いつからだろう? いつから、僕らは親友じゃなくなっていた? たぶん僕らの関係の崩壊はかなり前から始まっていたのだろう。すべては目に見えない領域で、言語化されないまま、音もなく進行していった……
「こうやって殴られた」と詳細に証言する昭彦。まるで実際に暴力を振るっているかのような音声データ。さらには「酔って一方的に殴っていた」と口を揃えて証言する、四人の目撃者たち。これだけの証拠が揃えば、大衆が遼介を加害者だと断じるのには充分だった。実際に逮捕や起訴をされていなくても、遼介は犯罪者のように扱われた。それまで遼介を「さわやかイケメン」などと言って持ち上げていたマスコミは一斉に手のひらを返し、「本性を現したクズ」とののしった。
 初めて週刊誌の記事を見たとき、驚きや怒りよりも先に「ああ、そういうことか」と妙にに落ちたのを覚えている。それまでに感じていた不審な一連の出来事や、昭彦の取っていた奇妙な行動、遼介に対する言動や周りの態度……それらがようやくつながったと思った。遼介がずっと感じていた違和感は、あながち間違いではなかったのだ。


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