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69.白く混濁した眼
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チウはバテレスト家の人間だった。アーヘルゼッヘは剣の先を見つめた。黒い緞帳が下りている。その奥に使用人の為の廊下が見える。アーヘルゼッヘは剣の先を見て歩きだした。兵士がほっとしたのが分かった。歩きだすと、柱の陰から掃除をしていた人々がそっと覗いているのが見えた。
見上げると、中二階にはいつの間にか人だかりで、美しく着飾った女性たちの間に、先ほどの老人が、重い厚みのある長いマントを引きづって、付き人達に支えられながら立っているのが見えた。アーヘルゼッヘと眼が合うと、白く混濁した眼が返る。両側の男達が何か老人にささやいた。すると、片手を面倒くさそうに動かした。
男達の一人が、後ろを向いて、青年従者の一人に言った。
「飛び降りろ」
青年従者は青ざめた。すると、反対側の男が、
「何をぐずぐずしている。陛下の命令だぞ! バテレスト家の手を煩わせる暗殺者がいる。飛び降りてやつを殺せ!」
と怒鳴った。従者は真っ青になったまま動けない。
「誰か、ハインを突き落とせ! 何をぐずぐずしている。陛下の命令だぞ!」
信じられない命令のさ中。命令を出した老人は、白濁した眼で、緞帳の下に消えようとしたアーヘルゼッヘを見つめていた。中二階の廊下で、手足をばたつかせた青年が持ち上げられた。アーヘルゼッヘがまさかと思っていると、青年は手すりの上へ持ち上げられて、そのまま、大勢の人々の手で、恐怖の叫びの顔のまま、突き落とされた。
アーヘルゼッヘは信じられなかった。人間が、あの高さから、この高い床に落ちたらどう考えたって無事ではない。なのに、落として、捕まえさせよ、と命令している。実行させようと、寄ってたかって付き落している。アーヘルゼッヘは緞帳の下で固まって、ゆっくりとコマ落としように人が落ちるのを眺めていた。どうしても、この状況が信じられなかったのだ。
脇にいた兵士が、剣を捨てて駆け出していた。兵士の動きもゆっくりに見えた。投げ出した剣が、ゆっくりと床へ落ちて行くのが見えた。アーヘルゼッヘは中二階の老人を見上げた。老人は白濁した眼だと言うのに、まっすぐにアーヘルゼッヘを見下ろしていた。その目は、さぐるようだった。人間かどうか確かめている目だった。確かめたいがためだけに、自分の従者を突き落とした男が、好奇心に満ちた目で眺めているのだった。
アーヘルゼッヘは手を伸ばした。片手を老人の襟にかけた。掴もうとするとわざとなのか偶然なのか、老人はよろめいて隣の女性の腕の中に倒れこんだ。足がもつれたようだった。アーヘルゼッヘのもう片方は、剣を拾って投げていた。そんな長い手ではない。手の延長線上の空の手とでも言うのだろうか。緞帳の下に立ったまま、アーヘルゼッヘは途中で兵士が投げ落とした剣を拾って投げた。
剣の刃は、落ちてきた従者の上着に突き刺さり、後ろの柱にピンのように音を立てて突き立った。従者は落下が止まった反動で柱に頭があたって目を向いた。また、刃が上着の裾をびりっと破って、そこからゆっくり、人の頭くらいの高さから、再びがたっと下へ落ちた。ちょうど、兵士が駆けつけて両手を伸ばしていたところへ、重なるように落下した。
はたから見ると、兵士が一か八かで剣を投げたように見えた。皇帝がしゃがみこんだのは足が弱いからのようにも見えた。実際に、アーヘルゼッヘが動いたのが見えたのは、皇帝と、剣を投げなかったと知っている兵士と、落下してまるで永遠の時を落ち続けているように感じていた従者だけだった。
従者が無事で、ほとんどの人がほっとしていた。ほっとしていなかったのは、皇帝とその側近の二人で、その一方が惜しいように、
「そう簡単に、北の者が帝都へ来ることはありません、閣下」
とささやいているのが聞こえた。思ったよりも、広間は音が響くらしい。男はさらに、
「本物の能力者であれば、人間を落下させたりはしないでしょう。命の重さは、我らが感じる以上に大切に感じるそうです。長命ですのに」
と最後の方は、潔くない北の者への嘲笑、というような空気があった。
老人は白濁した眼でぼんやりと宙を見ているだけだった。豊満な胸の女性が、側近から引き放すように老人を抱え込むと、ねっとりした声で何かねだりごとを始めるのだった。老人はされるがままに引っ張られ、中二階の回廊を、まるで何事もなかったかのように戻って行った。
側近の一人はそこから静かに離れていった。
アーヘルゼッヘは側近の一人が、そばにいた皇帝の近衛の一人を招き寄せ指示を出し始めているのを見た。柱の傍で兵士は落ちた従者の手足を見ている。骨が折れていないか、傷は無いか、ひねっていないか確かめている。兵士は頭を押さえている手をどけて見つめていたが、壁を流れる滝へ近寄り、胸のスカーフを引き抜いて水にさらして戻ってきた。
従者は青ざめたまま、唇が震え続けてしゃべれない。ついさっきまで仲間だと思っていた人間達に、よってたかって落とされたのだ。兵士は従者の腕をそっと掴んで撫でつけた。腕がびくんと跳ねあがり、目が大きく見開いて、肩ががくがく動き出す。痙攣だった。兵士が痛ましい顔で、若者の額を濡れたスカーフで拭い、脇にしゃがんで肩を寄せる。従者は動きが治まってはいたが、視線は宙を見たままだった。アーヘルゼッヘは踵を返した。
見上げると、中二階にはいつの間にか人だかりで、美しく着飾った女性たちの間に、先ほどの老人が、重い厚みのある長いマントを引きづって、付き人達に支えられながら立っているのが見えた。アーヘルゼッヘと眼が合うと、白く混濁した眼が返る。両側の男達が何か老人にささやいた。すると、片手を面倒くさそうに動かした。
男達の一人が、後ろを向いて、青年従者の一人に言った。
「飛び降りろ」
青年従者は青ざめた。すると、反対側の男が、
「何をぐずぐずしている。陛下の命令だぞ! バテレスト家の手を煩わせる暗殺者がいる。飛び降りてやつを殺せ!」
と怒鳴った。従者は真っ青になったまま動けない。
「誰か、ハインを突き落とせ! 何をぐずぐずしている。陛下の命令だぞ!」
信じられない命令のさ中。命令を出した老人は、白濁した眼で、緞帳の下に消えようとしたアーヘルゼッヘを見つめていた。中二階の廊下で、手足をばたつかせた青年が持ち上げられた。アーヘルゼッヘがまさかと思っていると、青年は手すりの上へ持ち上げられて、そのまま、大勢の人々の手で、恐怖の叫びの顔のまま、突き落とされた。
アーヘルゼッヘは信じられなかった。人間が、あの高さから、この高い床に落ちたらどう考えたって無事ではない。なのに、落として、捕まえさせよ、と命令している。実行させようと、寄ってたかって付き落している。アーヘルゼッヘは緞帳の下で固まって、ゆっくりとコマ落としように人が落ちるのを眺めていた。どうしても、この状況が信じられなかったのだ。
脇にいた兵士が、剣を捨てて駆け出していた。兵士の動きもゆっくりに見えた。投げ出した剣が、ゆっくりと床へ落ちて行くのが見えた。アーヘルゼッヘは中二階の老人を見上げた。老人は白濁した眼だと言うのに、まっすぐにアーヘルゼッヘを見下ろしていた。その目は、さぐるようだった。人間かどうか確かめている目だった。確かめたいがためだけに、自分の従者を突き落とした男が、好奇心に満ちた目で眺めているのだった。
アーヘルゼッヘは手を伸ばした。片手を老人の襟にかけた。掴もうとするとわざとなのか偶然なのか、老人はよろめいて隣の女性の腕の中に倒れこんだ。足がもつれたようだった。アーヘルゼッヘのもう片方は、剣を拾って投げていた。そんな長い手ではない。手の延長線上の空の手とでも言うのだろうか。緞帳の下に立ったまま、アーヘルゼッヘは途中で兵士が投げ落とした剣を拾って投げた。
剣の刃は、落ちてきた従者の上着に突き刺さり、後ろの柱にピンのように音を立てて突き立った。従者は落下が止まった反動で柱に頭があたって目を向いた。また、刃が上着の裾をびりっと破って、そこからゆっくり、人の頭くらいの高さから、再びがたっと下へ落ちた。ちょうど、兵士が駆けつけて両手を伸ばしていたところへ、重なるように落下した。
はたから見ると、兵士が一か八かで剣を投げたように見えた。皇帝がしゃがみこんだのは足が弱いからのようにも見えた。実際に、アーヘルゼッヘが動いたのが見えたのは、皇帝と、剣を投げなかったと知っている兵士と、落下してまるで永遠の時を落ち続けているように感じていた従者だけだった。
従者が無事で、ほとんどの人がほっとしていた。ほっとしていなかったのは、皇帝とその側近の二人で、その一方が惜しいように、
「そう簡単に、北の者が帝都へ来ることはありません、閣下」
とささやいているのが聞こえた。思ったよりも、広間は音が響くらしい。男はさらに、
「本物の能力者であれば、人間を落下させたりはしないでしょう。命の重さは、我らが感じる以上に大切に感じるそうです。長命ですのに」
と最後の方は、潔くない北の者への嘲笑、というような空気があった。
老人は白濁した眼でぼんやりと宙を見ているだけだった。豊満な胸の女性が、側近から引き放すように老人を抱え込むと、ねっとりした声で何かねだりごとを始めるのだった。老人はされるがままに引っ張られ、中二階の回廊を、まるで何事もなかったかのように戻って行った。
側近の一人はそこから静かに離れていった。
アーヘルゼッヘは側近の一人が、そばにいた皇帝の近衛の一人を招き寄せ指示を出し始めているのを見た。柱の傍で兵士は落ちた従者の手足を見ている。骨が折れていないか、傷は無いか、ひねっていないか確かめている。兵士は頭を押さえている手をどけて見つめていたが、壁を流れる滝へ近寄り、胸のスカーフを引き抜いて水にさらして戻ってきた。
従者は青ざめたまま、唇が震え続けてしゃべれない。ついさっきまで仲間だと思っていた人間達に、よってたかって落とされたのだ。兵士は従者の腕をそっと掴んで撫でつけた。腕がびくんと跳ねあがり、目が大きく見開いて、肩ががくがく動き出す。痙攣だった。兵士が痛ましい顔で、若者の額を濡れたスカーフで拭い、脇にしゃがんで肩を寄せる。従者は動きが治まってはいたが、視線は宙を見たままだった。アーヘルゼッヘは踵を返した。
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