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老い楽の淫
古い甍(いらか)の上を、からからと木枯らしに吹かれた枯葉が落ちては舞い、落ちては舞っている。板葺きの壁の隙間に詰められた漆喰は、随分と前から隙間風が悪戯をするに任せているため、その部屋は室外と変わらぬ程に寒かった。
しかし、その男の背中は寒気に震えるそぶりもなく、男はランニングに開襟シャツを羽織っているだけでその部屋の隅に胡坐をかいている。男が座っているその前には、杉で造られた粗末な机があり、その机の周りは書籍で溢れていた。男の手が届く範囲にあるその煩雑に積まれた書籍以外、男の生活を感じさせるものは殆ど無い。
男は書いていた。護摩を焚いて、一心不乱に真言を唱える修行僧の様に、その粗末な場所で只管に文字を書いていた。男は、思い出した様に、その煩雑に積まれた書籍に手を伸ばす。その時男が手にしたのは、新しく改訂されたヨーロッパのとある拷問の歴史の資料だった。
それは巧な曲線美を小刀ひとつで生み出す彫刻師の様に、男の指は、その資料の写真の中の凡ゆる線をなぞっている。
男は考えている。今、此処に必要な、最も適した痛みとは何かを。男は次々とページを繰るしかし、一頻り資料に目を通した男の顔には、失望の色しか浮かばなかった。
「それも、使えませんか、先生」
「私はね、殺したいのではないんですよ、こんな物、どれも人殺しの道具でしかない」
宮崎は、彼を先生と呼んだ男を振り返る。男の座っている場所は、建て付けの悪い扉から容赦なく凍てつく隙間風が吹き荒び、男を責め苛んでいた。
「寒いですか、明智君」
「ええ、寒いです」
「君が寒いのは、君が寒さを知っているからです。だから寒いと思える」
宮崎は火鉢に炭をおこし、その火鉢を明智に差し出しながら話しを続けた。
「盲目にも二種類有ってね、後天的に盲目になった者は、記憶に、それまでの人生で得た色彩を留めている。だから彼らは共感性の中でなら、言葉を聞いただけで、不自由なく物事を想像する事が出来る」
「しかし、先天的に盲目な者は、この世界の凡ゆる色彩を知らない。だから、先天的に盲目な者はどう足掻いても、物事の色彩を想像する事は出来ないんですよ。」
宮崎は、明智が火鉢にかざしていた掌に、火箸で小ぶりな炭を摘み出し、ぽいと乱暴に乗せる。
「あつ、せ、先生」
「羨ましい、私はそれを知らないんです」
宮崎は、明智が払い落としたそれを右手の親指と人指し指で摘みあげた。辺りに肉の焦げる匂いが広がる。
「せ!先生!止めて下さい!」
指先が黒く焦げても尚、焼けた炭を離さない宮崎を明智が咎める。すると宮崎は、突然、狂った様に笑い始めた。
アッハッハ
明智君、
アッハッハ、
奇妙でしょう
気持ち悪いでしょう
イッヒッヒ、でもね、止まらない、アッハッハ、止まらないんですよ
痛いとね、これが止まらないんだ
まるで、擽られている様に笑いが込み上げて来て止まらなくなる
アッハッハ
イッヒッヒ
痛覚失象徴と呼ばれる、奇怪なシンドロームがある。驚いたことにこの患者は、痛覚刺激に対して「痛い」と反応せずに、声をあげて笑うのだ。体に針が刺さっても痛みを感じない。針が刺さっていることはわかるがそれに伴う情動反応が発生しない。痛みは感じるが痛くない。痛みを感じると、クスクスととめどなく笑い出してしまう。患者はこの様な症状を示す。
その患者の脳をCTスキャンで調べたところ、頭の側面にある島皮質と呼ばれる部位に近いところに損傷があった。島皮質は内臓や皮膚から痛覚の信号を受けとっている。つまりここは生の痛覚を経験する部位なのだが、痛みは多層性であって、一元的なものではない。メッセージは島皮質から扁桃体に送られ、次いでほかの辺縁系に、そして前部帯状回に送られて、痛みに対する情動的な反応が生まれる。我々はこのようにして、痛みのつらさを経験し、適切な行動を起こすのだ。
したがってこの患者の場合は、おそらく島皮質は正常で、痛みを感じることはできるが、島皮質から辺縁系や全部帯状回につながる配線が切れてしまっている。そのような状況は、笑いやユーモアに必要とされる、二つの 重要な構成要素を生み出す。脳の一部位が危険信号を出しているのに、次の瞬間には、別の部位に確認の信号が入らないため、「これはまちがい」という結論が導かれる。そこで、患者は笑いだし、くすくすととめどなく笑いつづけるのだ。
宮崎は笑いながら自分のその指先の焦げた部分を食いちぎった。すると炭化した皮膚の下には白い骨が露出している。
「明智君、これだ、今回はこれでいこう」
宮崎はそい言うと明智に背を向け、一心不乱に続きを書き始めた。そんな宮崎の背中を、明智はただ見守っている。
やがて鴉がひとつ、ふたつ、と哭くと、夕闇が宮崎の姿を危うくし始め、明智には、もう、それが宮崎なのか、何なのか判別が出来なくなる。一切の苦痛を知らない男が、どうすれば人間を一番に苦しめられるかを自分の命を削りながら考え、具現化している。その鬼気迫る宮崎の姿は、明智に何時もの感慨を与える。
「美しい」
明智は自分のそれを握りしめた。
「明智君、もうすぐだ、もうすぐ出来上がる」
「先生」
宮崎も同様、その声の裏には淫靡な吐息が震え、二人の身体は小刻みに震えている。やがて宮崎は大きく痙攣し、そのまま机に身
預ける。
「出来たよ・・・明智くん
「あぁ、先生」
明智はその宮崎の声と共に果てる。漆黒の鴉が招きよせた暗闇は、二人が吐き出した白濁したそれを祝福するかの様に全てを包み込み、何もかもを見え なくした。
闇は罪を許す
私達の罪に
許しを与えてくれるのだ。
「先生・・・早速、明日の夜・・・始めましょう」
「あぁ、明智君、君は、素敵だ」
しかし、その男の背中は寒気に震えるそぶりもなく、男はランニングに開襟シャツを羽織っているだけでその部屋の隅に胡坐をかいている。男が座っているその前には、杉で造られた粗末な机があり、その机の周りは書籍で溢れていた。男の手が届く範囲にあるその煩雑に積まれた書籍以外、男の生活を感じさせるものは殆ど無い。
男は書いていた。護摩を焚いて、一心不乱に真言を唱える修行僧の様に、その粗末な場所で只管に文字を書いていた。男は、思い出した様に、その煩雑に積まれた書籍に手を伸ばす。その時男が手にしたのは、新しく改訂されたヨーロッパのとある拷問の歴史の資料だった。
それは巧な曲線美を小刀ひとつで生み出す彫刻師の様に、男の指は、その資料の写真の中の凡ゆる線をなぞっている。
男は考えている。今、此処に必要な、最も適した痛みとは何かを。男は次々とページを繰るしかし、一頻り資料に目を通した男の顔には、失望の色しか浮かばなかった。
「それも、使えませんか、先生」
「私はね、殺したいのではないんですよ、こんな物、どれも人殺しの道具でしかない」
宮崎は、彼を先生と呼んだ男を振り返る。男の座っている場所は、建て付けの悪い扉から容赦なく凍てつく隙間風が吹き荒び、男を責め苛んでいた。
「寒いですか、明智君」
「ええ、寒いです」
「君が寒いのは、君が寒さを知っているからです。だから寒いと思える」
宮崎は火鉢に炭をおこし、その火鉢を明智に差し出しながら話しを続けた。
「盲目にも二種類有ってね、後天的に盲目になった者は、記憶に、それまでの人生で得た色彩を留めている。だから彼らは共感性の中でなら、言葉を聞いただけで、不自由なく物事を想像する事が出来る」
「しかし、先天的に盲目な者は、この世界の凡ゆる色彩を知らない。だから、先天的に盲目な者はどう足掻いても、物事の色彩を想像する事は出来ないんですよ。」
宮崎は、明智が火鉢にかざしていた掌に、火箸で小ぶりな炭を摘み出し、ぽいと乱暴に乗せる。
「あつ、せ、先生」
「羨ましい、私はそれを知らないんです」
宮崎は、明智が払い落としたそれを右手の親指と人指し指で摘みあげた。辺りに肉の焦げる匂いが広がる。
「せ!先生!止めて下さい!」
指先が黒く焦げても尚、焼けた炭を離さない宮崎を明智が咎める。すると宮崎は、突然、狂った様に笑い始めた。
アッハッハ
明智君、
アッハッハ、
奇妙でしょう
気持ち悪いでしょう
イッヒッヒ、でもね、止まらない、アッハッハ、止まらないんですよ
痛いとね、これが止まらないんだ
まるで、擽られている様に笑いが込み上げて来て止まらなくなる
アッハッハ
イッヒッヒ
痛覚失象徴と呼ばれる、奇怪なシンドロームがある。驚いたことにこの患者は、痛覚刺激に対して「痛い」と反応せずに、声をあげて笑うのだ。体に針が刺さっても痛みを感じない。針が刺さっていることはわかるがそれに伴う情動反応が発生しない。痛みは感じるが痛くない。痛みを感じると、クスクスととめどなく笑い出してしまう。患者はこの様な症状を示す。
その患者の脳をCTスキャンで調べたところ、頭の側面にある島皮質と呼ばれる部位に近いところに損傷があった。島皮質は内臓や皮膚から痛覚の信号を受けとっている。つまりここは生の痛覚を経験する部位なのだが、痛みは多層性であって、一元的なものではない。メッセージは島皮質から扁桃体に送られ、次いでほかの辺縁系に、そして前部帯状回に送られて、痛みに対する情動的な反応が生まれる。我々はこのようにして、痛みのつらさを経験し、適切な行動を起こすのだ。
したがってこの患者の場合は、おそらく島皮質は正常で、痛みを感じることはできるが、島皮質から辺縁系や全部帯状回につながる配線が切れてしまっている。そのような状況は、笑いやユーモアに必要とされる、二つの 重要な構成要素を生み出す。脳の一部位が危険信号を出しているのに、次の瞬間には、別の部位に確認の信号が入らないため、「これはまちがい」という結論が導かれる。そこで、患者は笑いだし、くすくすととめどなく笑いつづけるのだ。
宮崎は笑いながら自分のその指先の焦げた部分を食いちぎった。すると炭化した皮膚の下には白い骨が露出している。
「明智君、これだ、今回はこれでいこう」
宮崎はそい言うと明智に背を向け、一心不乱に続きを書き始めた。そんな宮崎の背中を、明智はただ見守っている。
やがて鴉がひとつ、ふたつ、と哭くと、夕闇が宮崎の姿を危うくし始め、明智には、もう、それが宮崎なのか、何なのか判別が出来なくなる。一切の苦痛を知らない男が、どうすれば人間を一番に苦しめられるかを自分の命を削りながら考え、具現化している。その鬼気迫る宮崎の姿は、明智に何時もの感慨を与える。
「美しい」
明智は自分のそれを握りしめた。
「明智君、もうすぐだ、もうすぐ出来上がる」
「先生」
宮崎も同様、その声の裏には淫靡な吐息が震え、二人の身体は小刻みに震えている。やがて宮崎は大きく痙攣し、そのまま机に身
預ける。
「出来たよ・・・明智くん
「あぁ、先生」
明智はその宮崎の声と共に果てる。漆黒の鴉が招きよせた暗闇は、二人が吐き出した白濁したそれを祝福するかの様に全てを包み込み、何もかもを見え なくした。
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