ジャズの森

桐山密

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ジャズの森 8

 ドアが開かれ、車内に熱気と共にセミの大合唱が流れ込んできた。
「本当にここでいいのかい?」
 運転手が代金を受け取りながら、怪訝な顔で聞いた。
「古い友人がこの近くにいます。ご親切にありがとう」
 私は日本語で答えた。
 お釣りを断り、リュックサックと共に車外に出る。タクシーは砂埃を上げながら来た道を帰っていった。
 三十年ぶりにヤンバルの地に私は降り立った。
 昔と変わらない濃緑の森が目の前に広がっている。
 リュックから地図とコンパスを取り出す。空を見上げ、大きく息を吸い、私は森の中に分け入っていった。
 三十年前、一昼夜かけ森を歩き辿り着いた場所は、幸運にも友軍が占領した集落だった。 
 そこで保護され本国に送還された私は軍を辞め、大学に復学した。建築から生物学に専攻を変更し大学院まで進学した。博士号を取得した後母校の教授職に就いた。
 その傍ら黒岩のノートを読み解く為、日本語も学んだ。
 飛び去るように時は過ぎ、齢が五十を超えた時、長年の宿願を叶える為大学を辞め、沖縄へ向かった。黒岩の遺志を継ぎ、ヤンバルの森に住むためだ。
 目を見張る復興を遂げていた沖縄は、万博の熱狂の中だった。私はその熱気を横目で見ながら、もうひとつの宿願の場所へ向かった。そこは黒岩の地図に記されていた場所だ。
 ヤンバルの険しい山の中にあるその場所へ行くため、詳細な沖縄の地形図を入手し、慎重に登山ルートを計画した。
 藪をかき分け道なき道を歩き、立ち止まり、地図とコンパスで現在位置を確認する。
 目的地に確実に近づいている。だがその場所が本当に目的地なのか分からない。
 それでも私は進む。
 老人になった私を突き動かしているのは、ノスタルジーではなく、黒岩と同じく知的好奇心だけだ。
 知る事への渇望を原動力に、道標なき荒野を行く姿は科学者そのものだ。
 肩で息をするようになり、適当な所で私は足を止めた。額に流れる汗を拭い、空を見上げる。木々で切り取られた空色の空に、薄い三日月が浮かんでいた。
 人類は月に到達したのに、戦争はまだ続いている。人はまだ無知で愚かな大人だった。
 大きく深呼吸をして再び足を動かす。目的地まで、もう少しの距離だ。
 しばらく進むと突然視界が開け、木立に囲まれたテニスコート二面ほどの広場が現れた。
 その奥には崖のようなそそり立つ巨木がある。その巨木から伸びる無数の枝が空を覆い、そこからの木漏れ日が数多の光芒になり、広場に差し込んでいた。
 黒岩が地図に書き込んだ文字の中に、家と書かれた場所があった。そこは黒岩が赤丸で囲んだ黒岩の小屋よりも遥か北の森の中だった。
 そして黒岩は、ブナガヤの家を数回訪れた事をノートに書き残していた。そこに書かれている風景は、まさに私が見ているこの場所だ。
 そして最後のノートに、この言葉があった。

『四月二十三日。ブナガヤが負傷した米兵を運んできた。あの子の家の近くに飛行機が墜落し火災が発生した模様』
 
 広場の中に、ツタに覆われたこんもりとした小さな丘が見えた。私は焦る気持ちを抑え、丘に向かった。
 幾重に絡まったツタを引き千切ると、黒く煤焦げた壁が現れた。
 震える手で煤を払う。銀色の地肌と黄色い星が見えた。
 間違いない、私が乗っていた機体の翼だ。
 私はあの日、この場所に墜落した。
 
 ……奇妙な縁だ。黒岩の言葉を思い出す。
 
 自然と巨木を見る。
 あれがブナガヤの家だ。
 私は巨木のもとに向かい、あの日と同じように根本に座り込み、幹にもたれた。
 ヤンバルの森に住んでも即座にブナガヤと会い、親しくなれるとは限らない。
 黒岩と同じく時間をかけブナガヤとの距離を縮めていくしかない。それが残り少ない人生全てを費やしても後悔はしないが、この場所だけはどうしてもこの目で見たかった。
 そして私が帰って来た事を伝えたかった。
 どこからともなく柔らかく涼しい風が吹いてくる。その心地よさに疲れが和らぐ。 
 いつまでもこうしていたかったが、しばらくして私は立ち上がった。
 巨木を見上げその勇姿を目に焼き付ける。
 そしてリュックから包み紙を取り出し、根元に置いた。その中には数種類のチョコレート菓子が入っている。私はリュックを担ぎ直し、そこから離れた。
 残骸の丘を過ぎた時、音が聞こえてきた。
 ジャズだ。
 あの時と同じ、自由に飛び跳ねる無邪気な音が流れてくる。
 立ち止まり、目を閉じて、その心躍る音をしばし聞き入る。
 
 ……ブナガヤ、お前のよく知っている場所に私は居るから、いつか遊びにおいで。
 まだお前の知らない素敵な音楽がこの世にはたくさんある。それを一緒に聴こう。
 
 心の中でそう呟き、私は森の中へ帰って行った。
                                      終 
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