一條の夢

真朱 栞 (まそを しおり)

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出会い

朱の姫君

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 目に鮮やかな梅がこぼれ、桜の花びらにあたたかな陽射しが透けるようになったころ。
時の権門右大臣家に、新たな命が生まれた。
興風おきかぜ様、元気な女の子にございます」
真っ白な袿に身を包んだ女房が告げる。
その声に応えるかのようにどたどたと大きな足音をたてながら廊下を駆けてきたのが、この家の主人・藤原興風である。このめでたい日にぴったりな福福しい顔は、見ているだけでご利益がありそうなほどだ。
「あぁ、女、女であったか。男の子が欲しかったのだが…、いや、女の子でも男の子でもどちらでもよいわ。可愛い萌黄もえぎとわしの子だ、麗しい姫に育ってくれるだろう」
傾いた烏帽子もそのままに、彼は妻と生まれた子が待つ西の対へと駆け込んでいった。

 「これはこれは…、こんなに可愛らしく育つとは思わなかったな…。
この子はきっと小野小町にも勝るほどの姫君になるだろう」
赤子が生まれてからというのは早いもので、興風によって五十日いかの祝いが執り行われていた。つぶつぶと肥えた姫君は既に将来が楽しみな程に可愛らしい成長を見せており、幾分か酒に飲まれた彼の言葉が過言だとは誰も思わない。
この日姫君は、庭に咲いた薄紅の美しい花の名から「棠棣はねずの姫君」と名付けられた。

 そしてその祝いの席から16年、飛ぶように歳月は過ぎ、彼女は都で一番と謳われるほどの美しい姫君へと成長していた。
烏の濡れ羽よりも深く黒いかと思われる、漆をこぼしたような髪。小柄な身の丈よりもまだなお余り、きらきらと艶めくさまは星を灯しているかのようだ。その黒髪に引き立つ肌は舶来の陶器を思わせる透きとおるような白。長いまつ毛がその頬に影を落とし、熟れた果実の如き唇が笑みをこぼせば魅了されぬ者はいないとまで言われていた。
 さて、右大臣家にはもうひとり姫がおり、こちらは既に女御として宮中に出仕、梅壺うめつぼを賜り帝からの寵愛を一身に受けている。帝の御心を掴んでしまえばもう権力は安定というものと興風は考え、この美しい姫君の嫁ぎ先をずっと考えあぐねていた。
「左大臣家の頭中将…?いや、この若君はいくらか浮気性だと聞く。棠棣を愛してくれる男のもとに嫁がせたいものだ。
だからと言って、左近の少将のようなまだ身分の低い男の元にやるのもなぁ…。身分といえば兵部卿宮様、しかしこのお方も御年30、棠棣の婿としては少し…」
いろいろな男から毎日届く恋文を前に、興風は頭を抱えた。
それを心配そうに見守るのは萌黄もえぎの宮、棠棣の母だ。
「どの公達も、欠点ばかり見えてしまいますわねぇ…。
けれど興風様、棠棣の幸せを願うのなら、身分も年頃もぴったりな近衛中将このえのちゅうじょう惟征これゆき様がいらっしゃるじゃありませんか?」
その名前を聞いて、興風は首を横に振った。
「だめだだめだ。惟征殿のもとにはもう式部卿しきぶきょうの宮の姫御・浅葱あさぎの君からの縁談が来ていると言うじゃないか」
「でも、家柄で言えば右大臣家の方が格段に上ではありませんこと?
いくら宮家の者と言っても式部卿の宮様は更衣腹のお子、浅葱の君の母君だって少納言家からの成り上がりと聞きますわ。身分も家柄も美貌も全て、ひとつだって棠棣にかなうはずがありませんもの」
萌黄の宮は、ふっさりと削がれたびんを指で触りながら言った。梅壺女御を産んだ北の方より後に興風の妻となった彼女は、北の方よりずっと若い、黒髪が自慢の女人であった。先の帝がお年を召されてから成した姫である萌黄の宮のもつ矜持は普通のそれではない。我が娘棠棣を尋常な男の元に嫁がせるのでは気が済まないのだ。
「帝のもとへは北の方様の娘御が行ってらっしゃいますし、惟征様なら帝の御覚えもめでたいですから出世も間違いないじゃありませんか」
嬉しそうに言う萌黄の宮に、興風は渋い顔だ。
「しかし問題が‥‥」
「棠棣と惟征様が、幼馴染みなこと?」
「‥‥うむ‥‥」
ここで出てきた近衛中将惟征とは、今をときめく内大臣道宣みちのぶの嫡男。今年で18になる目にも爽やかな青年で、元服して間もないのに異例の昇進を遂げていた。幼い頃から右大臣家に童として出入りし、棠棣ともずっと仲良くしているのだ。
「幼馴染みなぁ‥‥。棠棣が一番幸せな結婚は惟征殿を迎えることなのだろうか‥‥」
そうつぶやいた興風を、萌黄の宮は優しく、しかし鋭く諌めた。
「興風様、女の結婚は父親の意によって決まるもの。迷っていては結局誰を迎えることもできないかもしれないんですのよ」
妻にそう言われた興風は小さく肩をすくめ、内大臣から渡された文を手に取った。


 「惟征様と、わたくしが、結婚‥‥?」
几帳の影から囁かれた母の言葉に、棠棣はその整った唇を大きく開いた。
「こら、棠棣。姫君らしくなさい」
そう母親に言われても、彼女は首を傾げている。
ほのかに紅が透ける桜襲さくらがさねの着物を身にまとい、女房に髪を梳かせていた棠棣に届けられた一通の文。そこに綴られていたのは幼馴染みの思いがけない気持ちだった。

「ぼくの小さな棠棣。
ずっと君は子どものままだと思っていたけれど、いつの間にか、都に聞こえる美しい姫君に育っていたようだね。
ぼくにはまだ妻がいないのだが、さて、君はぼくを結婚相手に選んでくれる気はないだろうか。ずっと一緒にいたぼくたちだ、きっとうまくやっていけるはずだよ。」

「いかが?棠棣。惟征様なら、あなたの結婚相手にぴったりだと思うのだけれど」
萌黄の宮が嬉しそうに言うのを見ても、棠棣の胸に実感はわかない。
「いやよ母上、私にとって惟征様は大好きなお友だちでしかないんですもの。」
ふてくされたような顔をしてもこの姫君は美しい。立ち上がり、背に余る髪をうるさがりながら彼女は庭の方へと歩いた。
都を囲む柔らかな稜線はあたたかな光をたたえ、この右大臣家に優しい光を注ぎ込む。髪を撫でながら流れる陽光を棠棣は愛おしそうに眺め、雪のように白い手をその光にかざした。
「母上、おわかりになりまして?私はずっと惟征様と一緒にいたのよ。女の子なのに蹴鞠だってしたし、流鏑馬も同じ牛車から見たの。今更結婚相手になんて言われたって、いくら好きでも愛することは出来ないわ」
笑いを含んだその声に、萌黄の宮はため息をついた。
「あなたって人は本当に‥‥。そんなに美しいのに、なぜ女になりきれないのかしらね」
そう言って、文を開けて文机に置くと彼女は部屋を出ていった。
残された棠棣は目を伏せ、文を押しやる。
「‥‥父上のことだからきっと、きっと私の気持ちなんか顧みずに結婚を決めてしまうのでしょうね」
長いまつげをしばたかせながら棠棣は格子を下ろさせた。
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