一條の夢

真朱 栞 (まそを しおり)

文字の大きさ
6 / 10
薄紅の想い

片恋の聲

しおりを挟む
「姫様…?もう日が高う昇っております」
 御帳台の外から棠棣を呼ぶ女房の声がした。棠棣が薄く目を開けて几帳から出ると、なるほど外はもうすっかり朝だった。
(あれ…?私、昨夜御帳台に戻ったかしら?)
 何も考えずに御帳台から出ようとした時、そんな思いが棠棣の頭をよぎった。昨晩、夜刀神という神を見て……、南廂で彼が姿を消したところで記憶が途絶えている。
 何故だろうと考えこもうとしたけれど、棠棣は思い出そうとしている自分を思わず笑ってしまった。
(神様に会うなんて、あるはずがないじゃないの。夢見なんだから記憶がなくて当たり前だわ、何を考えているのかしら)
 軽く頭を振って彼女はそのことを忘れた。蛇の神なんて実際見られる筈がない。
 そうだ、なにより今は惟征に会いに行くことを考えなければならないのだ。思わず忘れてしまいそうだった大事なことを思い出し、棠棣は御帳台からすべり出た。

 急な方違えを受け入れてくれた礼を言おうと棠棣が晴明のいる寝殿を訪ねると、彼は人形を風に靡かせて遊んでいた。
 「晴明殿、昨夜はお世話になりました。急な方違えをお受けいただき、また晴明殿のようなお方とお近づきになれたことを光栄に思います」
 棠棣の声に晴明はふっと笑い、顔を向けた。
 「昨晩のこと……夜刀神とのことは聞き及んでおります。小町のことも聞いたのですね」
 その言葉に棠棣が少したじろぐと、晴明は一瞬懐かしむような目で彼女を見つめたが、また普段通りの爽やかな笑みを浮かべた。
 「気にしないでください。夜刀神は貴女が気に入ったからその姿を見せたのでしょう。私も貴女に会えて嬉しいと思っています。小町の生まれ変わりだとかいうのを抜きにしてね。また一條へおいでなさい、夜刀神も呼んで一度酒でも酌み交わしましょうぞ」

 「まぁ、右大臣家の棠棣の姫君ではございませんか、ひとりでここへいらっしゃったのですか?」
 内大臣家の門扉を叩いて迎え入れられた棠棣に、そう言って驚きながら対応したのは惟征の母・紫苑しおんの君だった。先帝の四の宮の娘である彼女は優しくおおらかで、ふくふくと肥えたその顔にはいつも笑が浮かんでいる。
 「ええ、突然お邪魔したのは申し訳ないのですけれど、どうしても惟征様にお会いしたくて、それで誰にも内緒で‥‥」
 申し訳なさそうな顔を少し赤らめながら言う棠棣は、語尾を濁らせて顔を背けた。
 初夏の少し尖った陽射しを受け、柔らかな艶に変えて流す髪は小袿の裾にゆったりとたまっている。白の上にほんのりと紫に色づいた袿、そしてその上におうちの襲(表が淡紫、裏が薄青)の小袿を重ねた棠棣は絵巻物から出てきた姫君のようで、その姿は優しく垂れる藤の花の風情だ。紫苑の君はその棠棣の姿を見て、気後れするような心持ちになりながらも頷いた。
 「え‥‥えぇ、そうね、貴女たちはもう結婚を取り決めた幼馴染みの仲なのですものね。さぁ、惟征様は西の対にいらっしゃいます。式部、案内してさしあげて」
 そして、女房の式部に案内され、棠棣は惟征のもとへと向かった。


 惟征は、自室でひとりだというのにしっかりと薄緑の直衣をまとっていた。首元から覗くあこめは濃紫で、洒落た色遣いに彼の趣味の良さが感じられる。どこまでも柔らかい表情はほのかに凛々しく、夏の風に心を洗いながら書に向かっていた。
 「惟征様、御客人がお見えでございます」
 そう告げる女房の声にちらと目を上げると、几帳の影からほのかに淡い紫の小袿がのぞいているのが見えた。
 「姫君の御客人……?はて……通せ」
 訝しがりながらそう言った惟征に、その客人である棠棣はくすくすと笑った。
 「しばらくお会いしない間に、随分とよそよそしくなってしまわれたのね」
 「……棠棣……!」
 几帳からいざり出てきた幼馴染みに、惟征は頬に薄紅を浮かべながら喜びの表情を見せた。書をたたんでほとんど投げるように床に捨て置き、棠棣のもとへ駆け寄った。
 「本当に久しぶりだね、棠棣。
しかしどうして今更ひとりでこんなところへやってきたんだい?君のお父様がよく許してくれたね」
 しばらく会わぬ間にあまりに美しく育った棠棣を目の前に、惟征は少し照れながらもそう言った。
 「お父様になんて言ってるはずがないではありませんか。そんなことしたら私はここへは来られないわ。今ではもう許婚の間柄なのですから」
 目を伏せて棠棣は言う。許婚、という言葉を背負うにはまだ少し幼い彼女が口にするとなんだかちぐはぐなのだが、それでもやはり、急に突きつけられた現実は惟征を圧倒するに足るものだった。
 「あ、あぁ、そうだったね。…でも棠棣、本当にぼくでよかった?君ならもっともっと素敵な殿方じゃないと釣り合わないんじゃないかな…」
 消極的な言葉を零す惟征に、棠棣は頬をふくらませた。いつもの絵のように美しいかんばせが少し剽軽ひょうきんに崩れ、少女のように愛らしい表情を作り出す。
 「惟征様は私と結婚するのが嫌なのですか?」
 「……え、えぇ……?」
 棠棣の様子に気圧されて身を引く惟征の胸に、彼女は白い指をつん、と突き立てた。
 「私はそれを問いに参ったのです。あの文を頂いて以来惟征様があんまりなにも言ってくださらないから、もしかしたら、お気持ちが消えてしまったのではないかと思って」
 その言葉に、惟征はその形の良い唇をふっと緩ませた。
 「そんなことはないよ、棠棣。ぼくの気持ちはきっと10年前から変わりはしないんだ、それは帝にも天帝にも、誰よりもまず君にだって誓えるさ。ただ少し忙しかったのと、やはり結婚というのは家同士の取り決めだからぼくが口を挟むところがなかったというだけだ」
 今度は棠棣が顔を赤らめる番だ。若いふたりの恋の押し問答はどこまでも柔らかく繊細だった。
 しかし、そうして惟征と笑い合いながらも、棠棣の心のどこかには引っかかるものがあった。
 昨夜見た神のことだ。夜刀神と名乗ったあの恐ろしいほど美しい男のことがどうも気にかかり、それとともに頭の中を晴明と小野小町が行き来する。だめだと思いながらも、棠棣は心の底からこの幸せに浸ることができない。勿論、そのことは惟征には言えなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる

アルカス
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。 でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。 でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。 その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。 そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。

だから言ったでしょう?

わらびもち
恋愛
ロザリンドの夫は職場で若い女性から手製の菓子を貰っている。 その行為がどれだけ妻を傷つけるのか、そしてどれだけ危険なのかを理解しない夫。 ロザリンドはそんな夫に失望したーーー。

処刑された王女、時間を巻き戻して復讐を誓う

yukataka
ファンタジー
断頭台で首を刎ねられた王女セリーヌは、女神の加護により処刑の一年前へと時間を巻き戻された。信じていた者たちに裏切られ、民衆に石を投げられた記憶を胸に、彼女は証拠を集め、法を武器に、陰謀の網を逆手に取る。復讐か、赦しか——その選択が、リオネール王国の未来を決める。 これは、王弟の陰謀で処刑された王女が、一年前へと時間を巻き戻され、証拠と同盟と知略で玉座と尊厳を奪還する復讐と再生の物語です。彼女は二度と誰も失わないために、正義を手続きとして示し、赦すか裁くかの決断を自らの手で下します。舞台は剣と魔法の王国リオネール。法と証拠、裁判と契約が逆転の核となり、感情と理性の葛藤を経て、王女は新たな国の夜明けへと歩を進めます。

処理中です...