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第7話(1)
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綾史が帰宅すると、美舞の態度に違和感を覚えた。
礼良も心なしか落ち込んでいるようで、いつもの元気がない。
「どうした礼良? 学校で何かあったのか?」
「……なんにもない。おやすみなさい」
尋ねてみても、彼女は静かに首を振った。
壁の時計を見ればまだ眠る時間には早かったが、大人しく礼良の布団がある寿真の部屋に入っていく。
その後ろ姿を見て、綾史はソファに座ったまま首を傾げた。
いつもなら「まだ寝たくない!」と駄々をこねて、きゃっきゃと笑いながらソファーの上を飛び跳ねたり、「一緒に寝て!」と添い寝を強要してくるのに。
「…なあ、本当に今日学校で何もなかったのか?」
キッチンに立つ美舞に尋ねた綾史は、振り返った彼女が神妙な顔をしているのを見て、礼良が嘘を言ったのだと確信を持った。
そして美舞が両手に持っていた湯気の立つマグカップをローテーブルに置き、隣に座るのを待った。
「何があったんだ?」
「………十和子さんが来たの」
「あ?」
「夕方くらいに十和子さんが家に来て。ちょうどそのタイミングで礼良も帰って来て、鉢合わせして…」
「ちょっと待て。十和が帰って来たのか?!」
綾史はひどく動揺して立ち上がった。
十和子から連絡がないことが当たり前になってきていた彼は、着信を見落としていたかも知れないと思い、スマホを確認する。
十和子からは電話もメールも届いていなかった。
つまり突然、綾史に黙って十和子は帰って来た。
だが帰って来たはずの彼女は、いまこの家にいない。
「なんですぐ俺に知らせない! というか十和は?どこにいるんだよ?!」
「出て行ったわ」
「はぁ?!」
「これを…綾史に書いて欲しいって」
美舞はローテーブルの下の引き出しに仕舞っておいた紙を取り出した。
それは日中に十和子が彼女に手渡したものだった。
その時のやり取りは、彼女にとっても予想外な結果に終わった。
『あんたと違って、私と綾史はお互い愛し合ってるの。だから早く離婚してよ。こんな小細工なんかしたって無意味だから。綾史が私よりもあんたを好きになることなんて絶対ないから!』
『――ええ、そうみたいですね』
『へ、え?わかってるんなら潔く出て行きなさいよ。綾史のことは心配しなくていいわ。これからは私が、本当の妻としてサポートするから』
『それじゃあこちらをご主人に渡していただけますか?』
美舞の挑発にも動揺することなく、十和子は鞄から取り出したものを美舞に差し出した。
それが離婚届だとわかると、美舞の方が動揺した。
『 私の欄は記入してありますので、残りの欄を記入して近日中に提出するように伝えてください』
美舞は手の中にある離婚届と、淡々と話す十和子の顔を交互に見やった。
彼女は十和子が意地を張っているだけだと思ったが、よほど演技が上手いのかそんな様子は全く見られない。
『あんた…本気?』
『どういう意味でしょうか?』
『だって…このまま離婚したらシングルマザーになるのよ?あんたにその覚悟はあるの?天涯孤独で頼れる親戚もいないって聞いたけど』
『おかしいですね。あなたは離婚して欲しいのでは?まさか、私を心配してくれてるんですか?』
『はっ、そんなわけないでしょ。綾史が言ってたのよ。『あいつは俺しか頼る人間がいないから、俺がちょっと浮気したからって絶対あいつから離婚を切り出すことはないだろうな』って』
十和子の目が一瞬見開かれた。
それは純粋に驚いているようにも感じたし、憤っているようにも感じられた―――。
テーブルの上に置かれた記入済みの離婚届を目にした綾史は、混乱した。
突然失踪した十和子が自分との離婚を望んでいたとは、露ほども想像していなかった。
もしかしてこの家出騒動は、離婚したくてやったことなのか。
それとも家出をした後に、離婚したくなったのか。
今日まで十和子の口から「離婚」と言われたことも、仄めかされたこともなかった。
夫婦関係は良好で、意見の食い違いで言い合いをすることも、険悪な雰囲気になったこともなかった。
(なんで急に離婚したくなったんだ…?他に頼るあてもないだろうに…)
離婚届にはっきりと記載された十和子の名前を指でなぞる。
それは間違いなく彼女の筆跡だった。
「…他に何か言ってたか?」
「他にって?」
「俺に離婚届を書くように言えって言ってたんだろ?それ以外に、何か言ってなかったかって聞いてんだよ!」
「ちょっと、八つ当たりしないでよ!私は何にも聞いてないわ。彼女がそれを置いて出て行ったのよ」
「なんで離婚したいかとか、なんで家出してたのかも聞いてないのか?」
「聞いてないってば!なんで私がこの家にいるのかしつこく聞かれはしたけど、『綾史に頼まれた』って言ったら納得してた感じだったわよ」
「…お前、余計な事言ったんじゃないだろうな?」
美舞を射抜く綾史の眼光が鋭くなる。
「俺達の関係は十和子に秘密にする。絶対に隠し通すならって約束だっただろ?まさかバラしてないだろうな?」
「い、言うわけないでしょ。それに、彼女元々離婚届を持ってたのよ?初めから離婚の話をするつもりで帰って来たのよ。そうじゃなきゃこんなもの都合よく鞄から出てこないでしょ」
「……」
「ねえ、私、疑われて傷ついたんだけど?」
急降下した綾史のご機嫌を取ろうと、美舞は彼の腕に撓垂れ掛るように抱きついた。
いつものように「ごめん」と笑ってキスをしてくれることを期待したが、綾史は美舞の体を軽く押し返した。
「悪かったよ。だけど今はそういう気分じゃない」
美舞は不満そうに頬を膨らませたが、綾史の意識はずっと離婚届に向いていた。
(言いたいことがあるなら言えばよかっただろ。黙って居なくなったと思えば、一方的に離婚届だけ置いていくなんて…普通は話し合って決めるもんじゃないのか?警察にも迷惑かけて、俺の親にも心配かけて、何やってんだよ…)
綾史は十和子が離婚届を突き付けた原因が自分の行いであることを棚に上げ、妻への不満を募らせた。
それは次第に怒りへと変わり、彼は苛立ちに任せて手で弄んでいた離婚届を破り割いた。
突然の奇行に美舞は驚いて彼を見たが、無言で紙を引き裂く彼の姿を見て口を噤んだ。
綾史は無残に千切られ、テーブルの上に広がった離婚届を満足そうに眺め、メッセージと共に十和子に写真を送信した。
《今日帰って来たんだってな。
散々俺からの連絡無視しておいて、いきなり離婚届書けって、虫が良すぎると思わないか?
美舞に言伝ないで直接頼みに来い。
お前が帰って来て、頭下げて頼んでくるまで、俺は絶対に離婚しない。》
礼良も心なしか落ち込んでいるようで、いつもの元気がない。
「どうした礼良? 学校で何かあったのか?」
「……なんにもない。おやすみなさい」
尋ねてみても、彼女は静かに首を振った。
壁の時計を見ればまだ眠る時間には早かったが、大人しく礼良の布団がある寿真の部屋に入っていく。
その後ろ姿を見て、綾史はソファに座ったまま首を傾げた。
いつもなら「まだ寝たくない!」と駄々をこねて、きゃっきゃと笑いながらソファーの上を飛び跳ねたり、「一緒に寝て!」と添い寝を強要してくるのに。
「…なあ、本当に今日学校で何もなかったのか?」
キッチンに立つ美舞に尋ねた綾史は、振り返った彼女が神妙な顔をしているのを見て、礼良が嘘を言ったのだと確信を持った。
そして美舞が両手に持っていた湯気の立つマグカップをローテーブルに置き、隣に座るのを待った。
「何があったんだ?」
「………十和子さんが来たの」
「あ?」
「夕方くらいに十和子さんが家に来て。ちょうどそのタイミングで礼良も帰って来て、鉢合わせして…」
「ちょっと待て。十和が帰って来たのか?!」
綾史はひどく動揺して立ち上がった。
十和子から連絡がないことが当たり前になってきていた彼は、着信を見落としていたかも知れないと思い、スマホを確認する。
十和子からは電話もメールも届いていなかった。
つまり突然、綾史に黙って十和子は帰って来た。
だが帰って来たはずの彼女は、いまこの家にいない。
「なんですぐ俺に知らせない! というか十和は?どこにいるんだよ?!」
「出て行ったわ」
「はぁ?!」
「これを…綾史に書いて欲しいって」
美舞はローテーブルの下の引き出しに仕舞っておいた紙を取り出した。
それは日中に十和子が彼女に手渡したものだった。
その時のやり取りは、彼女にとっても予想外な結果に終わった。
『あんたと違って、私と綾史はお互い愛し合ってるの。だから早く離婚してよ。こんな小細工なんかしたって無意味だから。綾史が私よりもあんたを好きになることなんて絶対ないから!』
『――ええ、そうみたいですね』
『へ、え?わかってるんなら潔く出て行きなさいよ。綾史のことは心配しなくていいわ。これからは私が、本当の妻としてサポートするから』
『それじゃあこちらをご主人に渡していただけますか?』
美舞の挑発にも動揺することなく、十和子は鞄から取り出したものを美舞に差し出した。
それが離婚届だとわかると、美舞の方が動揺した。
『 私の欄は記入してありますので、残りの欄を記入して近日中に提出するように伝えてください』
美舞は手の中にある離婚届と、淡々と話す十和子の顔を交互に見やった。
彼女は十和子が意地を張っているだけだと思ったが、よほど演技が上手いのかそんな様子は全く見られない。
『あんた…本気?』
『どういう意味でしょうか?』
『だって…このまま離婚したらシングルマザーになるのよ?あんたにその覚悟はあるの?天涯孤独で頼れる親戚もいないって聞いたけど』
『おかしいですね。あなたは離婚して欲しいのでは?まさか、私を心配してくれてるんですか?』
『はっ、そんなわけないでしょ。綾史が言ってたのよ。『あいつは俺しか頼る人間がいないから、俺がちょっと浮気したからって絶対あいつから離婚を切り出すことはないだろうな』って』
十和子の目が一瞬見開かれた。
それは純粋に驚いているようにも感じたし、憤っているようにも感じられた―――。
テーブルの上に置かれた記入済みの離婚届を目にした綾史は、混乱した。
突然失踪した十和子が自分との離婚を望んでいたとは、露ほども想像していなかった。
もしかしてこの家出騒動は、離婚したくてやったことなのか。
それとも家出をした後に、離婚したくなったのか。
今日まで十和子の口から「離婚」と言われたことも、仄めかされたこともなかった。
夫婦関係は良好で、意見の食い違いで言い合いをすることも、険悪な雰囲気になったこともなかった。
(なんで急に離婚したくなったんだ…?他に頼るあてもないだろうに…)
離婚届にはっきりと記載された十和子の名前を指でなぞる。
それは間違いなく彼女の筆跡だった。
「…他に何か言ってたか?」
「他にって?」
「俺に離婚届を書くように言えって言ってたんだろ?それ以外に、何か言ってなかったかって聞いてんだよ!」
「ちょっと、八つ当たりしないでよ!私は何にも聞いてないわ。彼女がそれを置いて出て行ったのよ」
「なんで離婚したいかとか、なんで家出してたのかも聞いてないのか?」
「聞いてないってば!なんで私がこの家にいるのかしつこく聞かれはしたけど、『綾史に頼まれた』って言ったら納得してた感じだったわよ」
「…お前、余計な事言ったんじゃないだろうな?」
美舞を射抜く綾史の眼光が鋭くなる。
「俺達の関係は十和子に秘密にする。絶対に隠し通すならって約束だっただろ?まさかバラしてないだろうな?」
「い、言うわけないでしょ。それに、彼女元々離婚届を持ってたのよ?初めから離婚の話をするつもりで帰って来たのよ。そうじゃなきゃこんなもの都合よく鞄から出てこないでしょ」
「……」
「ねえ、私、疑われて傷ついたんだけど?」
急降下した綾史のご機嫌を取ろうと、美舞は彼の腕に撓垂れ掛るように抱きついた。
いつものように「ごめん」と笑ってキスをしてくれることを期待したが、綾史は美舞の体を軽く押し返した。
「悪かったよ。だけど今はそういう気分じゃない」
美舞は不満そうに頬を膨らませたが、綾史の意識はずっと離婚届に向いていた。
(言いたいことがあるなら言えばよかっただろ。黙って居なくなったと思えば、一方的に離婚届だけ置いていくなんて…普通は話し合って決めるもんじゃないのか?警察にも迷惑かけて、俺の親にも心配かけて、何やってんだよ…)
綾史は十和子が離婚届を突き付けた原因が自分の行いであることを棚に上げ、妻への不満を募らせた。
それは次第に怒りへと変わり、彼は苛立ちに任せて手で弄んでいた離婚届を破り割いた。
突然の奇行に美舞は驚いて彼を見たが、無言で紙を引き裂く彼の姿を見て口を噤んだ。
綾史は無残に千切られ、テーブルの上に広がった離婚届を満足そうに眺め、メッセージと共に十和子に写真を送信した。
《今日帰って来たんだってな。
散々俺からの連絡無視しておいて、いきなり離婚届書けって、虫が良すぎると思わないか?
美舞に言伝ないで直接頼みに来い。
お前が帰って来て、頭下げて頼んでくるまで、俺は絶対に離婚しない。》
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