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第1話 ご覧ください、この惨状!
「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」
寝室から漏れ聞こえる、怪しげな言葉。それは夫である、ロシェの声で間違いない。けれど、いつも素っ気ない冷たい声色をしている彼からは想像もつかない甘ったるさで、耳を舐める。
「……まだ欲しいのか? 本当に、欲張りだな……」
やはり、聞き間違いなどではなかった。一人しかいないはずの夫の寝室。いつも冷たい夫が、この壁の向こうで誰かと愛し合っている──シャノン・サヴァティエは、人生で一番立ち会ってはいけないところに立ち会ってしまっていた。
気持ち悪い。もっとまともな形で知りたかったです……ロシェ様。
ハーブティーと小さなメレンゲ菓子を乗せたトレイをしっかりと持ち、シャノンは音を立てないように足早に屋敷の離れへと戻った。
様々な感情が、頭と胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。自室に戻る気にもなれず、ラウンジのテーブルにトレイを置くと、そのまま星空のお茶会をひとりぼっちで開催することにした。
そもそもサフィールって誰ですか? 愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに! 私のこれまでの苦労は一体なんだったのですか!?
ロシェはシャノンの夫であり、国境を守る辺境伯家の当主だ。前妻が駆け落ちし、傷心の彼の下へ嫁いでほしいと王命を受けてここへ来た。いわゆる政略結婚だった。
傷ついているロシェに無理をさせないようにと、適度な距離は常に意識してきた。妻としての当たり前の日常の会話も、触れ合いも全て諦めて、屋敷の離れで別々で暮らしてきた。
それでも出会えば挨拶は欠かさずしていたし、妻としての役目を果たそうと公務への同伴も積極的に申し出ていた。少しだけで構わないから、たまに会話がしたいとも訴えた。そんなシャノンに対し、ロシェの反応はといえばこうだ。
『……おはよう』
『政務が忙しいから難しくて』
『今日はもう疲れているから』
『公務は僕一人で十分だよ』
『僕への気遣いはいらないよ』
『君は自由にしてていい』
冷たく淡々とあしらう声。俯き気味で合わない視線。迷惑そうに微かに寄せられた眉根。あからさまな態度で、ずっと遠ざけられてきた。
たとえ迷惑だとしても、このままというわけにもいかないのが夫婦という関係なわけで、毎日毎日挫けず努力してきた。今日だって会話ができなくとも、せめて彼を労れたらとハーブティーを持って部屋を訪ねようとしたところだった。
前妻に裏切られて、人間不信になってしまったのかもしれない。そんなふうに考えながら、ずっと距離感に悩んできたのに。
──この仕打ちである。
「愛する人がいるなら、正妻の座なんていくらでも譲ってあげるわよ。本っ当、失礼な方!」
淑女としてあるまじき暴挙、メレンゲ菓子三粒を鷲掴みにし、口の中へと放り込む。誰かに見られたら絶対に「はしたない」と叱られるだろうが、今日はもうそんなこと気にしている気分ではない。そうしてむしゃくしゃとした感情ごとハーブティーを飲み干そうとカップに手をかけると、「にゃあ」と小さな声がシャノンを咎めた。
「あら……こんばんは、アンブル。お散歩?」
窓から差し込む月明かりの下に、白くて愛らしいお客さんがやって来る。アンブルはロシェの愛猫であり、シャノンがここへと嫁いでくる前から住んでいる大先輩だ。琥珀色の瞳が美しい白猫で、『アンブル』という名前もそこからつけられたと“侍女が”言っていた。
「良かったら、お茶会に付き合ってくれると嬉しいわ。それに今は、ご主人様のところに帰らない方がいいと思うの。“げげー”な感じですから」
アンブルはトコトコと近づいてくると、シャノンの隣の椅子に飛び乗ってきた。新たなお茶会の参加者は、ちょこんとお行儀よく座り、じっとこちらを見つめてくる。
この屋敷の離れはロシェの住む屋敷と廊下で繋がっており、アンブルはそこを通って散歩がてら会いに来てくれる。そのおかげか、アンブルはシャノンにも心を許してくれていた。
「アンブル、あなたのご主人って、ちょっと酷い人よね。私はずっと、この離れから心配して気にしてたのに。はぁ……それもただ迷惑なだけだったんでしょうね」
白くてサラサラの毛並みを撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。隅々まで手入れの行き届いた艶感に、アンブルがどれほどロシェに愛されているのかが伝わってきて……キュッと小さく胸の奥が疼いた。
「ねぇ、この可愛いお手々で、私の代わりにベシッとおしおきしてやってくれないかしら……なんてね?」
力なく漏れた笑いは、空虚という泡に包まれて爆ぜ消える。開いた窓から吹き込む静かな夜風が、何事もなかったかのように髪を梳いて吹き抜けていった。
「冗談よ、ごめんね。でもね、うん……もしかしたら、もうすぐアンブルともお別れかもしれない。そのときは、あなただけでもお見送りに来てね」
ロシェに愛する人がいる以上、ここに居場所はない。とはいえ黙って引き下がるのは癪だ。思いきりロシェの有責で離縁してやろう。
アンブルは何も言わず、ゆらゆらと気ままにしっぽを揺らしている。けれど月光を浴びた琥珀色の瞳が、一瞬だけ閃いたような気がした。
「おやすみなさい、アンブル。話を聞いてくれてありがとうね」
耳の後ろを一撫でしてから、別れを告げる。アンブルに打ち明けられたおかげか、心なしか胸の内がスッキリとしていた。
動き出すにしても明日からだ。そうしてその日は思いきり寝ることにした。何をするにも、一に体力、二に体力だ。そう頭で唱えれば、あんな嫌なこともすっかり忘れて深い眠りに落ちた。
寝室から漏れ聞こえる、怪しげな言葉。それは夫である、ロシェの声で間違いない。けれど、いつも素っ気ない冷たい声色をしている彼からは想像もつかない甘ったるさで、耳を舐める。
「……まだ欲しいのか? 本当に、欲張りだな……」
やはり、聞き間違いなどではなかった。一人しかいないはずの夫の寝室。いつも冷たい夫が、この壁の向こうで誰かと愛し合っている──シャノン・サヴァティエは、人生で一番立ち会ってはいけないところに立ち会ってしまっていた。
気持ち悪い。もっとまともな形で知りたかったです……ロシェ様。
ハーブティーと小さなメレンゲ菓子を乗せたトレイをしっかりと持ち、シャノンは音を立てないように足早に屋敷の離れへと戻った。
様々な感情が、頭と胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。自室に戻る気にもなれず、ラウンジのテーブルにトレイを置くと、そのまま星空のお茶会をひとりぼっちで開催することにした。
そもそもサフィールって誰ですか? 愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに! 私のこれまでの苦労は一体なんだったのですか!?
ロシェはシャノンの夫であり、国境を守る辺境伯家の当主だ。前妻が駆け落ちし、傷心の彼の下へ嫁いでほしいと王命を受けてここへ来た。いわゆる政略結婚だった。
傷ついているロシェに無理をさせないようにと、適度な距離は常に意識してきた。妻としての当たり前の日常の会話も、触れ合いも全て諦めて、屋敷の離れで別々で暮らしてきた。
それでも出会えば挨拶は欠かさずしていたし、妻としての役目を果たそうと公務への同伴も積極的に申し出ていた。少しだけで構わないから、たまに会話がしたいとも訴えた。そんなシャノンに対し、ロシェの反応はといえばこうだ。
『……おはよう』
『政務が忙しいから難しくて』
『今日はもう疲れているから』
『公務は僕一人で十分だよ』
『僕への気遣いはいらないよ』
『君は自由にしてていい』
冷たく淡々とあしらう声。俯き気味で合わない視線。迷惑そうに微かに寄せられた眉根。あからさまな態度で、ずっと遠ざけられてきた。
たとえ迷惑だとしても、このままというわけにもいかないのが夫婦という関係なわけで、毎日毎日挫けず努力してきた。今日だって会話ができなくとも、せめて彼を労れたらとハーブティーを持って部屋を訪ねようとしたところだった。
前妻に裏切られて、人間不信になってしまったのかもしれない。そんなふうに考えながら、ずっと距離感に悩んできたのに。
──この仕打ちである。
「愛する人がいるなら、正妻の座なんていくらでも譲ってあげるわよ。本っ当、失礼な方!」
淑女としてあるまじき暴挙、メレンゲ菓子三粒を鷲掴みにし、口の中へと放り込む。誰かに見られたら絶対に「はしたない」と叱られるだろうが、今日はもうそんなこと気にしている気分ではない。そうしてむしゃくしゃとした感情ごとハーブティーを飲み干そうとカップに手をかけると、「にゃあ」と小さな声がシャノンを咎めた。
「あら……こんばんは、アンブル。お散歩?」
窓から差し込む月明かりの下に、白くて愛らしいお客さんがやって来る。アンブルはロシェの愛猫であり、シャノンがここへと嫁いでくる前から住んでいる大先輩だ。琥珀色の瞳が美しい白猫で、『アンブル』という名前もそこからつけられたと“侍女が”言っていた。
「良かったら、お茶会に付き合ってくれると嬉しいわ。それに今は、ご主人様のところに帰らない方がいいと思うの。“げげー”な感じですから」
アンブルはトコトコと近づいてくると、シャノンの隣の椅子に飛び乗ってきた。新たなお茶会の参加者は、ちょこんとお行儀よく座り、じっとこちらを見つめてくる。
この屋敷の離れはロシェの住む屋敷と廊下で繋がっており、アンブルはそこを通って散歩がてら会いに来てくれる。そのおかげか、アンブルはシャノンにも心を許してくれていた。
「アンブル、あなたのご主人って、ちょっと酷い人よね。私はずっと、この離れから心配して気にしてたのに。はぁ……それもただ迷惑なだけだったんでしょうね」
白くてサラサラの毛並みを撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。隅々まで手入れの行き届いた艶感に、アンブルがどれほどロシェに愛されているのかが伝わってきて……キュッと小さく胸の奥が疼いた。
「ねぇ、この可愛いお手々で、私の代わりにベシッとおしおきしてやってくれないかしら……なんてね?」
力なく漏れた笑いは、空虚という泡に包まれて爆ぜ消える。開いた窓から吹き込む静かな夜風が、何事もなかったかのように髪を梳いて吹き抜けていった。
「冗談よ、ごめんね。でもね、うん……もしかしたら、もうすぐアンブルともお別れかもしれない。そのときは、あなただけでもお見送りに来てね」
ロシェに愛する人がいる以上、ここに居場所はない。とはいえ黙って引き下がるのは癪だ。思いきりロシェの有責で離縁してやろう。
アンブルは何も言わず、ゆらゆらと気ままにしっぽを揺らしている。けれど月光を浴びた琥珀色の瞳が、一瞬だけ閃いたような気がした。
「おやすみなさい、アンブル。話を聞いてくれてありがとうね」
耳の後ろを一撫でしてから、別れを告げる。アンブルに打ち明けられたおかげか、心なしか胸の内がスッキリとしていた。
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