積層世界の物語

choko's

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知らない世界で私を知らない

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第一話 知らない世界で私を知らない
 頭痛がする。眠っていた体が、その痛みによって起こされる。気分のいい目覚めではない。昨日はそんなにお酒を飲んだわけでもないし、夜更かしをしたわけでもない。それならどうしてこんなに頭が痛いのだろうか。寝起きから不機嫌さが最高値のまま目を開く。ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。そして、最初に見えたものは鉄骨と配管が剥き出しのまま張り巡らされた、私の知らない天井だった。配管の鉄パイプのあちこちで水滴が垂れている。鉄骨は錆が目立っているが、しっかりと組み合わされている。
「………、ん?」
 頭が完全に起きていない。寝ぼけているからだろうか、状況を理解できない。
「天井、こんなのだった?」
 とりあえず起きよう。むくり、と体を起こし、部屋全体を眺める。灰色の壁以外には何もない。ベッド以外には何一ついない殺風景な部屋。ちょうど頭の真上で、小振りな電球がぶら下がったまま光っている。窓が無いので、光源はその薄暗い電球ひとつだけ。まるで倉庫みたいなこの部屋はたとえベッドが置いてあろうと、人間の居住区域には不適切過ぎる。ではなぜ、私はこんなところにいるのだろうか。なにも思い出せない。物忘れはあまりしないのだが。
「あたま、痛い」
 こちらもすっかり忘れていたが、私はこの頭痛で目が覚めたのだ。ガンガンと脳全体に響くような痛みに顔をしかめる。何日も連続で徹夜した後のような、思考力を根こそぎ奪っていく痛みだ。こっちは忘れていたかった。もしかしたら、この痛みと寝惚けで思考が鈍っていたおかげでパニックを起こさずにすんだのかもしれない。頭痛はだんだん激しくなっていく。硬くなった脳をハンマーで直接叩いているかのようだ。もはや私にこの状況を考察するほどの余裕はない。激しい痛みでできそうにない。それならば、いっその事もう一度寝てしまおう。次に起きたら、ちゃんと私の部屋で起きられるはずだ。これはきっと夢の中だ。明晰夢みたいなものを見ているのだ。きっとそうだ。
 目を閉じてタオルを目深にかける。頭痛はまだまだ酷くなっていく。せっかくの明晰夢もこんな頭痛付きではまともに明晰できないだろうに。起きたら毬藻に日光浴をさせて、プランターのミニトマトに水を上げないと。そんなことを考えているうちに、再び眠りに就いた。

 どれくらい寝ていたのだろうか。休日に昼過ぎまで寝ていたときのような、心地よいだるさがある。寝ころんだままあくびをして、ぐぅっと体を伸ばす。背骨や肩がポキポキと鳴る。ああ、気持ちいい。起きてご飯食べよう。そういえば、起きたら何かしようとしていた気がする。そう思いながら目を開けると、目の前で、知らない男が私の顔を覗き込んでいた。
「やっと起きたね」
 目の前の男が、鼻息がかかりそうな距離で少し呆れたように言った。目元が髪で隠れそうな、黒髪の男だった。
「うわぁっ!」
 びっくりして悲鳴を上げた。寝起きに突然知らない人が目の前にいれば誰だって驚く。心臓が飛び跳ねるように動いているが、体は硬直して動かない。だが、目の前の男は私の悲鳴にも反応せず、私の顔を覗き込んだままである。
「やっぱり、見覚えはないなぁ」
 男はそう独りごとを言いながら、顔を離す。視界いっぱいに広がっていた男の顔が離れていくと、鉄骨と配管が剥き出しの天井と、窓ひとつない壁が見えた。さっきと変らない、倉庫のような部屋。どう考えても、もうこれは夢ではない。私は何が起きたのか理解できずに固まっている。男はまだこちらをじっと見ている。私がまだ頭がうまく働かず、ただ呆然としている。すると、
「えーと、とりあえず」男がそう言いながら近づいてきた。そして、ゴンッと、私に頭突きをしてきた。
「これで起きたよね」
 顔の近くで男が何か言っている。けど、そんなこと今はどうでもいい。痛い。すごく痛い。頭を抱えてベッドにうずくまる。
「まだ寝惚けているの?」と、男が頭を振りかぶる。
「いや、起きましたから!」
 咄嗟に手で頭を隠す。あの石頭でもう一度頭突きなんてされたら、痛いなんてレベルではない。頭が割れてしまう。
「もうばっちりですから!」
 勢いよく体を起こしてお目覚めアピールをする。
「そう。それじゃ、改めて。やっと起きたね」
「お、おはようございます」
 また顔を覗き込んできた男に、やっと、それだけ返すことができた。ああ、頭が痛い。痛むおでこを撫でながら、周りを確認する。首がポキっと鳴った。やはりそこは、配管と鉄骨の倉庫のような、寒々しい部屋だった。ベッドの手触りも確認してみるが、スプリングのないゴワゴワしたマットが引いてあるだけだ。ああ、頭が痛い。
「あの、ここはどこですか?」
 ずっとこちらを見ていた男に聞いてみる。
「僕の部屋だよ」と男は答える。
 素直に答えてくれるのはありがたい。しかし、聞きたいのはそういうことではない。この部屋がいったいどこにあるのかということなのだ。どこというのはと考えたところで、ふと、違和感を覚えた。
「ちょっと待って」
 ここは、どこだ。私は今まで、いったいどこにいた。
「嘘でしょ」
 愕然とした。自分がいままでどこにいたのか、何をしていたのか、そんな自分に関する記憶を、私は覚えていなかった。手が震える。目眩がしてくる。
「ここはどこで私はどこから…、」
 顔から血の気が引いていく。パニックになりかけている。まともに思考ができないのが分かる。
「私は―」
「誰」と言いかけた瞬間、ゴンっと鈍い音とともに、額に痛みが走った。
「とりあえず、深呼吸」額をさすりながら男が言った。
 この石頭、また頭突きをしてきた。キッと睨みつけると、「深呼吸」と、もう一度言い、じっと見つめてくる。逆らうとまた頭突きされかねないので、深呼吸をする。
「落ち着いた?」
「はぁー。うん、たぶん大丈夫」
 首を傾げながら尋ねてきた。釈然としないが、たしかに落ち着いた。
「何も覚えてないの?」
 男の問いに首肯すると「そう」と一言つぶやいた。どうやら、彼なりに私のことを案じてくれているようだ。
「とりあえず、自己紹介はしておこうか」
 男は、自分を「この部屋に住んでいる人」と言った。とても簡素な自己紹介をされた。自己も何も、説明できていないと思う。
「私は…、えっと、実は名前も覚えてない。ここがどこで、なぜ私はここにいるのかも」
 なにか覚えていることはあるか、記憶を探ってみても成果はゼロである。
「自分のことの一切を覚えていないみたい」
 まさか彼よりも簡素な自己紹介しかできないとは、さすがに悲しくなる。
「何か飲んで落ち着こうか。落ち着いてゆっくりしていれば、何か思い出すかもしれない」
 そう言って、彼はベッドの下をゴソゴソと漁り始めた。何をしているのだろうかと見ていると、ベッドの下から木箱のようなものがいくつか出てきた。私は今の今までベッドの上から動いていないし、そこに収納しているとは考えていなかった。
 しばらく木箱をゴソゴソしていた彼から缶を受け取る。中身が分からないので少し躊躇していると、「ただの水だよ」と彼は言い、自身も同じような缶を飲み始めた。私も一口飲んで、ホッと一息ついた。
 半分ほど水を飲んで、深呼吸してみる。気分は落ち着いたし、ちゃんと頭も動きそうだ。
「改めて聞かせてほしいのだけど、ここはどこなの?」
 記憶がないというが、こうも不安を煽ってしまうものだとは知らなかった。せめてここがどこなのか分かれば、何かを思い出すかもしれない。
「どこといわれてもな」
 彼は思案するように首をかしげていた。
「実際に見るのが一番早いかな」そう言って、首をひねって後ろを見る。
「見るって、何を?」
 彼の視線の先には壁しかないように見えるが、私には見えない何かがあるのだろうか。すると彼は、私の座っているベッドのある部屋の角から対角側まで行くと、「外だよ」と答えた。
 彼が壁の端を押すと、ギギギギと軋むような音を立てながら、壁の一部が外側に開いていった。ここからでは外が眩しくて何も見えない。
「ほら、早く」
 そう言って、戻ってきた彼は私の手を引く。強引な人だなと苦笑いしながら、私も外に出る。
 部屋の外は、真っ青に広がる空だった。向こう側なんて存在しないみたいな、果ての果てまで真っ青な、空という空間があった。
「きれい――」
 ドアを出たところでその絶景に見とれ、固まっている私の手を、横から彼は引っ張る。
「あ、ごめん、今行くから―――」彼の方を振り向いた瞬間、また、私は固まった。目の前には、上も下も視界から見切れるほどの、果てしなく延びる鉄塔があった。左右の端も、首を限界まで振ってようやく見えるか否かというくらいの、巨大なものだ。
「なにこれ」
 それしか言えなかった。
「なにに驚いているのか分からないけど、君の失われた常識の中では、この景色は異常なのかな」
 彼は、驚きで身動きできない私を見ながら一人で納得していた。私はまだ、あ然としたまま動けずにいた。
「もうお昼だね。とりあえず、このままご飯を食べに行こう」
 そう言って彼はまた、私の手を引く。引かれるままに私は彼の後についていく。
 簡素な鉄板の足場と鉄パイプの柵でできた、あの部屋の天井を歩いているような道。キシキシと音を立てる道を、巨大な鉄塔に向かって進んでいく。天高く、太陽が浮かんでいる。雲は、遥か下に薄ぼんやりと漂っている。こんな光景、私は知らない。覚えていない。今までの私はどんな景色を見ていたのだろう。きっと、この先も私の知らないことばかりだろう、驚くことばかりだろう。でも、私は進むしかない。いつまでもあの部屋にいるわけにはいかない。あそこにいても、記憶は戻らない。何より彼が迷惑だろう。もっと情報を集めれば手掛かりがあるかもしれない。今は彼についていくしかない。そんなことを考えながら歩いて行くと、鉄塔の入り口が見えてきた。
 鉄塔は、幾万の配管と、その上に敷かれた鉄板が無数に積み重なり、絡まり合ってできていた。その隙間を縫うように、電飾が巻きついた鉄パイプの手すりが走っている。その手すりに沿って道が続いている。中心というか、奥は配管がひしめき合っていて見えそうにない。塔そのものの大きさに加えて迷路のような通路、道案内もなしに進めば迷子は必須だ。
「左、左、右、直進、左、右、直進、直進、ひだり…みぎ…、無念」
 部屋からの道順を覚えようと思ったが、代わり映えしない通路と、縦横無尽に繋がる道筋に敗北。ひとりでは出歩かないようにしようと思う。そんな私に構うことなく、彼はすいすいと進んでいく。時折、思い出したかのようにこちらを振り返り、私が付いてきているか確認する。
「もう少しだから」
 彼はこのセリフを既に数回言っている。
「もう少しって、どういう意味だろうね」
 かれこれ四、五十分は歩いている。たまに階段の上り下りもあったから、そろそろ足も疲れてきた。それにしても、景色は変わらない。配管と鉄板がどこまでも続いている。塔の内部に進んでいるようで、空が少し遠くに見える。
「もう少しって、この先に何があるの? ずっとこんな感じなの?」
 息が上がってきた。階段が増えてきたように感じる。
「この配管層を抜けたら、居住層だよ。とりあえずはそこでご飯にしよう」
 配管層、居住層、彼はそう言った。今は鉄塔を上って上層に向かっているようだ。この階段地獄の先に、居住区域がある。もっと上下に他の層もあるのだろう。でも今は置いておこう。さすがに疲れた。さっきからずっと階段を昇っている。
「少し、休憩しない?」
「あと少しで着くけど、まあ、息を整えるくらいはいいか」
 それを聞いて、その場に座り込む。汗が膝にぽたぽたと落ちる。
「あと少しって、どのくらい?」
「十分と少しかな」
 そう答える彼は汗もかかずに、涼しげなままだ。隣にきて、水の入った缶をくれた。
「ありがとう」
 そのまま一息で飲みきる。体の芯が冷えて汗も引いてきた。
「あ、半分もらおうかと思っていたのに」
 先に言ってくれ。この汗の量が目に入らぬか。
 来た道を振り返ると、景色は相変わらず、空がずっと遠くに小さく、配管の隙間から見える。
「どう、進めそう?」
「うん、大丈夫」
 立ちあがって屈伸する。きっと、明日は筋肉痛で歩けないかもしれない。先を行く彼はまったく疲れた様子がない。あんなところに住んでいるのだから、慣れているのだろう。そんなこと考えながら、サクサクと階段を上がる彼についていく。
 彼はあと十数分と言っていた。あと少しだと言っていた。事もなさげに言っていた。なのに、あの休憩からもう三十分は歩いている。私の感覚が狂っていなければ、延々と続く階段を上り続けている。
「だ、騙された」
 軽快に進む彼の背中を睨みながら、呪詛のようにつぶやく。たしかにもうすぐ着くのだろう。先ほどと違って周囲は完全に鉄板の壁になっている。電飾の手すりと、大ぶりの豆電球みたいな照明だけの暗い通路。後ろを見ても、外の光は見えなくなっていた。
「本当に、もうすぐなの?」
「もうすぐだよ。ただ、いつもより時間がかかっちゃったね」
 ちょっと申し訳なさそうな顔で、彼はそう答えた。うん、私が遅いから時間がかかったのか。文句は言えないのか。ならば、黙って進むしかないか。
 しばらく黙々と進んでいると、通路の先に光が小さく見えてきた。出口が見えた。しかし、すぐに喜んだりしない。さすがに私も学習した。出口に見えて、次の通路の入り口かもしれない。通路は続くよ、どこまでもねって感じなのかもしれないから。完全に疑心暗鬼になっている。信じたら負けなのだ。
「あそこを出たら居住層だよ」
 振り向きざまにそう言った彼は、私の顔を見て不思議そうに首をかしげる。そんなに表情にでていたのか。とりあえず、出口までもう少し。
「居住層もこんな感じの町並みなの?」
 なにひとつ記憶のない私には、世界の全てがこの鉄板と配管でできている状態だ。まったく想像できない。
「たしかに階段は多いけど、けっこう平面的に広いよ。あと、配管もうまく隠れているから、配管層よりもゴチャゴチャしてない」
 おお、新たな世界が見えるかもしれない。
「そもそも、配管層は人が住むようにはできてないからね」
 さらっと問題発言。じゃ、なぜ彼はあんなところに部屋があるのだろうか。
「いつもあの部屋に住んでいるわけじゃないよ。普段は居住層にいるよ」
「あ、そうなの。いつもこんな道を通っているのかと思った」
 それにしても、なぜあんなところに部屋があるのだろうか。
「昨日は偶然戻っていてね、その時に君をみつけたのさ」
「あ、そういえばその辺の話も聞いてなかった。どんな状況だったのか詳しく聞きたい。ほら、なにか思い出すかもしれないし」
 まさか、彼の知らない間にあの部屋に忍びこんでいたとか、そんなことはないとは思うけど。
「こんなところで話してもあれだから、ご飯食べながら話すよ」
「よろしくね」
 そう応えながら通路を出る。暗い通路から急に眩しいところに出て、目の奥がキュッと痛む。少し目をつぶり痛みが引くのを待って、ゆっくり目を開ける。
「ようこそ居住層へ」
 こちらを向いて両手を広げる彼。その後ろに、巨大モールのように大量の出店が広がり、高く積み重なっていた。建物の空間を繋ぐ様に、階段や陸橋が張り巡らされている。
「奥の方によく行く丼屋があるから、そこに行くよ」
 スタスタと歩き出す彼に遅れないようについていくが、ついついキョロキョロとよそ見をしてしまう。さっきまでの配管層とはうって変わって、老若男女の賑わいを見せている。
「居住層って言っていたけど、お店ばっかりじゃない?」
 辺り一面いい匂いで包まれている。ぱっと見た限りでは、半分以上が飲食店のようだ。
「この辺りは居住層の中心部だからね、住居はもっと奥にあるよ」
 前を行く彼が「あそこはあれがオススメ」「あの路地を抜けると云々」と、いろいろ説明してくれている。この居住層はいままでの鉄骨やら鉄パイプやらで構成されていた配管層とは違い、木材をメインに成り立っているようだ。立ち並ぶお店も、広さや奥行きがバラバラの箱状のスペースに、うまくそれぞれ納まっている。
「さ、ここでお昼にしよう」
 彼が立ち止ったのは、飲食街の端の細い路地を抜けた先の壁際にある、小さくボロボロなお店だった。暗いし、人がいる気配がない。それに何の匂いもしない。言われなければお店には見えない。お店だとしても営業しているようには見えない。
「ここ、ほんとにお店なの?」
 行きつけのお店なら場所を間違えたりしないだろうし、閉店するなら知っているはず。それでもここに連れて来られたからにはお店なのだろう。
「空き家にしか見えないけど、ちゃんとお店だよ。丼屋」
 何丼なのだろうか。ちゃんと食べられるのだろうか。そもそも、何も知らないところの食事なんて考えても分かるわけない。私の後ろは行き止まりなのだから、前に進む以外に手段はないのだ。
「とりあえず、普通なものが食べられればいいや」
 彼にそう告げると、「大丈夫だと思うよ」と言って、お店のドアを開けた。案の定、中は無人で真っ暗だった。数人分の長さのカウンターがあり、カウンターの内側には調理場がある。食器も棚に並んでいる。汚れている感じでもない。しかし、人がいない。私たち以外の誰もいない。
「あの、ご飯を食べるためにこのお店に入ったんだよね?」
「そうだよ。ご飯を食べながらいろいろ話をしよう」
 彼は「そうだよ」とか、「もう少しだから」とか、いまひとつ答えにならない返事しかしない。他に頼るあてもないし、従うしかないが、もう少し気の利いたことを言ってほしいものだ。この男は本当に信用していいのだろうかと、今更になって思い始めたところだった。
「いらっしゃい」
 どこからか声が聞こえた。突然のことだったので、びっくりして椅子から落ちそうになる。
「今の声って」
 隣にいる彼の方を見ると、「僕じゃないよ」と、首を振っている。では、誰の声だ。
「いらっしゃい、ご注文は」
 もう一度、さっきの声が聞こえた。「ご注文は」と言っていた。何のことはない、お店の人だ。お店に入って数分、ようやく気が付いたらしい。しかし、どこにも姿は見えない。
「えっと、どこにいるんですか?」
 返事はない。人はいるらしいが、人影もなくどこから声をかけているのか分からない。ちらっと彼を見ても、平然と座っている。すると、調理台の下から「ここにいるだろう」と白髪の男が現れた。地面から突然生えてきたような動作で、ぬぅっと天井近くまで伸びてきた。
「わわっ……、びっくりした」
 このお店は私を驚かせてばかりだ。
「いつものやつ、ふたつお願い」
 彼は慣れた様子で注文する。それで通じるくらい常連なのだろうか。さっきの登場にもまったく驚いた様子はないし、いつものことなのだろうか。もう疑問ばかり増えていく。
「お前さんはいつもそれだな。たまには他のも作りたいんだがな」
 低く、太い、あまり抑揚のない声で話す白髪の男。
「店主さんの一番得意なメニューでしょ」
 隣で、どことなく楽しそうに話す彼の声は、高くも低くもないが、のんびりとした話し方。
「お前さんがそれしか頼まないから得意になったんだよ」
 店主と呼ばれた男はぶっきらぼうな話し方をしているが、それ以来会話が途切れていない。隣の彼とはそれなりに親しいのかもしれない。
「で、隣のは誰さんよ? お前さんが人連れなんて、珍しい事もあるもんだな」
 店主が私を見ながら彼に聞いている。店主の目は細くて、開いているのか閉じているのか分かりにくい。
「訳ありさん。この辺りを案内しているところさ」
 訳ありさんとだけ紹介されても、どうも、としか言えない。
「あてが付くまでは僕も休業かな」
「そうかい」
 それきり、私のことは聞いてこなかったが、店主さんが彼について少し教えてくれた。曰く、「彼は一人でいることが多く、人の世話ができるとは思えないが、訳ありさんならかえって丁度いい」とのこと。彼は私の面倒を見るのに適任らしい。いったいどこが適しているのだろうか。甚だ疑問ではあるが、細かい事は考えないようにしよう。どうせ分からないし。
「ほら、いつものやつ」
 カウンターにどんぶりが出てくる。白米の上に、炒めた肉と葉野菜を卵でとじたものがかかっている。ホカホカと湯気がたっている。それを見た途端、急にお腹が減ってきた。今まで緊張していたのか、空腹に気が付かなかった。
「じゃ、いただきます」
 隣で彼はスプーンのようなもので食べ始める。それを見て、私も食べ始める。
「いただきます」
一口食べると、卵の香りが口いっぱいに広がってくる。それからは夢中でご飯をかきこんだ。止まらなかった。ものの一分もしないうちに食べ終えてしまった。彼も店主も、呆気にとられている。
「もう一杯、食べるか?」
 店主が気を利かせてくれた。ありがたくもう一杯頂戴する。
「あ、僕ももう一杯欲しいな」
 少しご飯が残った状態で、彼もおねだりしている。
「訳ありさんの分はおまけにしてやるが、お前さんの分はしないからな。」
「あはは、じゃ、一杯だけでいいや」
 恥ずかしい。食い意地はっていると思われたかもしれない上に、私の分だけタダにしてもらってしまった。
「お腹減っていたし、仕方ないよ」
 彼が慰めてくれるが、これは追い討ちに他ならぬ。
「おまちどうさん」
 恵んでもらった一杯を、今度は味わいながらゆっくり食べることにした。
 店主と彼は世間話をしている。私にはまったくわからないが、追い追い理解できるようになると良いなと、最後のご飯をかきこむ。
「あ、そうだ」
 彼と店主の話に割り込むように、ご飯に夢中で忘れていた事を聞く。
「私がここに来たときのこと、教えてくれるんだよね?」
 ご飯を食べながら教えてくれることになっていた、私が彼の部屋にいた理由を。
「そうだね、お腹も腰も落ち着いたことだし」
 そう言って、彼はこちらを向く。
「まずは、君を最初に見つけたとこから話そうかな」
 ゆっくり、確認しながら、彼は私の始まりを話し始めた。
「君を見つけたのは、この居住層の端の端、層の基盤を作っている鉄骨やら配管配線がむき出しのところだったね。柵もないし、風も強いから誰も来ないようなところ」
 そう言って、「あっちの方の、一番端っこ」と指をさす。
「ちょうど、鉄骨から垂れ下がった配線がハンモックみたいになっているところに絡まっていたんだよ」
「お前さんはなんでそんなところに行ったんだ? あんな危ない場所によ」
 奥で器を洗っていた店主が手を拭きながらこちらに来る。そもそも、店主に聞かれても大丈夫なのだろうか。
「ただの散歩だよ」
 彼は店主に聞かれても困った様子はない。あれだけお店があるのに、わざわざここに来たってことは、この店主もそういったことに詳しいのだろうか。
「それで、私をそこからあの部屋まで運んだの?」
「そう。あのままだと配線が切れてしまうし、君だってそのまま鉄骨の隙間から落ちてしまうかもしれないからね。あそこはどの層よりも横に飛び出ているから、たぶん地上までまっしぐらかな」
 雲が遥か下にあるようなあの部屋より、さらに高いこの居住層から落ちる。想像したらいっきに寒気がしてきた。
「訳ありさんも運が良かったな」
 店主が苦笑いしている。
「まったくでございます。ありがとうございます」
 もう彼には頭が上がらないのか。
「それが、だいたい五日前くらいかな」
 口元に手を当てて、思い出しながら彼は話している。
「それから今日までずっと起きなかったね。お腹が減るのも仕方ないよ」
 五日間も私は眠っていたのか。普通の状況ではないことは明らかだ。そこでふと思い出す。
「そう言えば確か、一度起きた、と、思う。すぐにまた寝ちゃったから、いつ頃のことかは分からないけど」
 あのときの記憶を掘り起こすように探る。最初に目が覚めた時は、何か覚えていたような気がする。自分についての記憶がまだあったはず。
「何か思い出せそう?」
 彼が私に問いかける。
「えーっと、あの時はたしか……」
 ズキっと、思い出そうとすると少し頭痛がする。そういえば、あの時も頭痛がした。
「無理に思い出さない方がいいんじゃないか?」
 店主が水の入ったコップを手元に置いてくれた。
「顔、青いぞ」
「そうだね。そのうち思い出すかもしれないし、急ぐ必要はないかもね」
 そんなに顔色が悪いのだろうか。「飲みなよ」と、彼がコップを指す。
「ありがとう」
 一口、いつのまにか乾いた口を湿らすように水を飲む。
「もう少しでなにか思い出せそうだけど、うーん」
 あの時私はなにを考えたのだろうか。それを思い出せたら一歩前進する気がする。
「うっ、頭痛い」
 ズキっと、頭の奥に痛みが響く。
「うう、今日はもうやめておく」
「それがいいだろうね」
 彼も、私を見つけて部屋し運んだ以外のことは知らないみたいだし、地道に手掛かりを探すしか手はないようだ。「風にあたれば頭痛も治まるよ」と、彼の提案にのってお店を後にする。
「あの店主さんも、私みたいな訳ありに詳しいの?」
「別に詳しいわけじゃないよ。ただ、昔からあそこでお店をやっているから顔が広くてね、いろいろ便宜を図ってくれることもある。そのうち頼ることもあるかもしれないからね」
 お目通しということだろうか。頼りになるのかならないのか。
 ちなみに、ご飯の代金は彼が払ってくれた。私は見ての通り一文無しなので、払えと言われても無理だが。しばらくは彼の御厄介になるだろうし、今後は控えめにしておこうと思う。さっき見た貨幣は硬貨だったけど、見たことないものだった。
 少し歩いて腹ごなしをしつつ、私たちは飲食街の真ん中あたりの吹き抜けに腰かけている。この吹き抜けから四方八方に広がるように居住層は広がっているらしい。上を見れば青い空が見える。その空の隅に、鉄塔の一部が見え隠れしている。まだまだ上へと続いているようだ。
「そういえば、私のあてがつくまで休業するって言っていたけど、どんな仕事しているの?」
 彼もお金を稼がないことには生活はできないはずなので、何かしらの稼業があるのだろう。さっきの丼屋の店主が一人でいることが多いって言っていたから、お店をやっているわけではないだろうなと想像してみる。あんな辺鄙なところに部屋を持っているくらいだし、何かの職人とかやっているのだろうか。
「僕は観測屋だよ」
 彼は途中で買ったパンをかじりながら答えた。
「観測屋って、何を観測するの?」
 さすがに私はお腹いっぱいなので、お店や人を眺めながら聞いている。お昼時も過ぎたので、さっきより人数が減っているように見える。
「何って決まっているわけじゃないよ。たとえば、君を見つけた場所の様なところに、何か変化がないかとか、どこか通路の塞がっていることはないかとか。あとは、新しくできたお店や、そこに繋がる通路に問題なさそうかとか」
 この居住層や配管層の管理をしているってことなのだろうか。
「管理って程ではないよ。僕はただ様子を見て、知識屋に話すだけ」
 残ったパンを口に放り込んで、もぐもぐと咀嚼している。
「その知識屋さんってところが、ここの管理をしているってこと?」
 パンが大きかったのか、しばらくもぐもぐし続けている彼を見ながら、その知識屋というところを想像してみる。きっと、いろんな資料や機械があって、こんな塔を管理するくらいだから、さぞかし頭のいい人たちなのだろう。
「いや、知識屋はひとりだよ」
「え、ひとりだけでこの塔を管理しているの?」
 こんな非常識な建造物をひとりで管理するなんて可能なのだろうか。
「さすがの知識屋でも塔全体は把握できないと思うよ。他の階層だと誰もいない部分もけっこうあるみたいだし、放置されたままのところもあったし」
 彼の話では、知識屋と呼ばれる人は上下何層かの状態を把握、管理しているようだ。その知識屋の情報源は、私の隣で二つ目のパンを食べている彼の様に、広く階層を行き来する人物からの話をもとにしているらしい。
「その知識屋さんに行けば、なにか私に関して情報があったりする?」
 大量の情報が集積するところならば、たとえば行方不明者の情報があるかもしれない。その情報元にこちらからアプローチすれば、私の出自に辿りつけるかもしれない。
「人探しの依頼とかがあるかもしれないし、足掛かりに丁度いいかもしれないね」
「それなら、さっそく知識屋さんのところに案内してほしい」
 手掛かりを見つけたのだ、じっとなんてしていられない。善は急げと、兵は拙速を尊ぶと、急がば回れと言うではないか。最後のやつは違ったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。とにかくその知識屋に――、
「ちょっと待ってね。急ぎたい気持ちも分かるけど、その前にいろいろ準備しないと」
 パンを食べ終えた彼が、私の肩を押しなだめる。準備とはなにか。御心付けか、それとも粗品か。
「慌てない、慌てない。知識屋はいつでも行けるからさ。それよりも先に、あるでしょ、必要なもの」
「必要なもの? 思いつかないけど……」
 なんだろう、それほど重要なものがあるのだろうか。分からないでいる私に彼は、さも当たり前のことを言うように、私に説明してくれた。
「とりあえず、体を洗って、着替えたらどうかな」
「………、あ」
 考えてもみたまえ私さん。彼に発見されてから、数日間も私は眠り続けた。その上、ここに来るまでに汗だくになって階段を上がってきたのだ。それ以前に、彼に発見されるまでにどのくらい時間が経っているのだろうか。そう、考えてみれば当然なのだ。いままで頭がいっぱいで気が付かなかった。
 そう、私はいま、臭いのだ。
「僕はあんまり気にしないけどね」
 彼のフォローが胸に刺さる。がっくりとうなだれたままの私の手を引いて、彼は歩きだす。目的地はもちろん、服屋と銭湯だ。昼時の芳しい街中を、体臭を振りまきながら、キョロキョロしながら歩く自分の姿を想いおこし、もうこの近辺にはしばらく来れそうにないな、などと思いながら彼についていく。
 仕方ないことだったのだと自分に言い聞かせ、簡単なシャワーで体を清め、適当に買いそろえた服を着る。先程まで着続けていた服は捨ててしまおう。臭いし。
「さて、身も心もきれいになったところで、このまま知識屋に行きたい」
「そうだね」
 外で待っていた彼にそう告げ、後についていく。
 私の正体を探る第一歩を踏み出した。
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