放棄、あるいは解放のとき

T女

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放棄、あるいは解放のとき

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 野を駆けるきつねを見たことがあるだろうか。雪の中、荒涼とした色のない世界を切り裂くこがね色。自由で、寂しくて、力強くて、物悲しくも美しいその姿への憧憬は、私の心に在り続けている。


 お母さん、私がそう呼ばれるようになった頃、白髪をよく見つけるようになった。美しさは若さではない、しかし若さは美しい、というどこかで読んだ一節が頭を過る。十代の頃は、自分があのきつねのようにこの社会を閃くように駆けることが出来ると心から信じていたけれど、気づけば鏡にはくたびれて歳より老けて見える顔が映っている。もう、とうに己のつまらなさを受け入れているがしかし、やはりその光景はひどく落ち込むものだった。
 そこはかとない寂しさと虚しさの中で見つけた白髪をぷつりと抜いたそのとき、なぜか心が軽くなったように思った。


 ひと月経つ頃には、白髪を抜く作業にすっかり夢中になっていた。髪をかきあげて探し、指で丁寧にかき分けて慎重にそれを抜く。ぷつり。ぷつり。ぷつり。少しずつ、少しずつ、日々の積み重ねで生まれる心の淀みを、抜いて、捨ててゆく。
 ただひたすら、夫と子供から与えられる快味をありがたく受け取り、大事に大事に舐めている日々。そんな中で、虚脱の喜びを白い髪が教えてくれた。
 色んなものを捨てゆくのはなんて心地がいいのだろう!余計な逡巡や腹立ちや見栄なんかを脱ぎ捨てて、ただ無心に、穏やかに。愛さえも煩わしくて、あのきつねのように孤独になりたくて、私はどんどん抜き続けた。夫や子への後ろめたさなんてものは、とうの昔に抜いてしまった。
 ありがとうね、要らない貴方よ、ありがとう。ああ私は生きている。そうして私を殺している。








 真新しい綺麗な戸建ての多い住宅街に、一軒、似つかわしくない荒れた家がある。女がそこで孤独に息絶えたとき、誰もその事に気づかなかったし、その夜が明けたとき、夢の中で見たこがね色を覚えている者も、語ろうとする者もいなかった。
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