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第一話 冬の夕暮れ
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『・・・・・・愛してくれるの・・・・・・?』
寒い冬の朝、まだ朝も早いというのに僕、冴島歩夢は目を覚ます。どうやら懐かしい一人の少女の夢にうなされ、目を覚ましたらしい。その証拠に僕の右手は酷く震えていた。まだ眠気の残るのを我慢し、僕はベッドから立ち上がる。学校に行くまではまだ時間があった。しかし、二度寝する気には到底なれない。また、あの子の夢を見るのではないかと、不安だったからだ。自室の椅子に座り、すぐ目の前にある机の引き出しを開けた。引き出しの中には、一枚の写真だけが納められている。黒髪の長いポニーテールをした少女の写真。背景には海が見える。季節は今と同じ一年前の冬だったのを思い出す。写真の中の少女も白いコートを着ていた。永瀬志保。写真に写る少女の名前だ。写真の中の彼女は笑っていた。楽しそうに・・・・・・そう、会うたびに楽しそうな笑顔だった。
「君がいなくて寂しいよ・・・・・・」
写真の中の志保に話しかけたとき、僕は苦笑する。当然だ。返事などしてくれるわけがない。志保はもうこの世にいないのだ・・・・・・あの日、たった一人の友達を僕は失った・・・・・・
「いいんだ。一人でも・・・・・・僕は構わない・・・・・・」
僕は志保の写真を、机の引き出しにしまう。恐らくもうすぐ鳴り響く、目覚まし時計の電源をオフにし、僕は朝食が用意されているはずの一階へと階段を下りる。食卓のテーブルにはパンと、紙パックに入ったフルーツミルクだけが置かれていた。いつもの朝食の光景だ。別に驚きはしない。僕がまだ小さかった頃、父親は浮気相手と家を出た。捨てられた母はその日以来、女手一つで僕を育て毎日働き通しだ。まだ日が昇る頃に会社に出かけ、いつも夜遅くに帰ってくる。そんな甲斐もあってか。多額の寄付金のおかげで、母は僕を私立の高校に入学させることができた。周りには金持ちの家の子供ばかり。母子家庭の貧乏人の僕が、無視されるのは当然の結果だ。母は僕が、楽しい学園生活を送っているとばかり思っている。しかし実際は、憂鬱で孤独な日々だった。貧相な朝食をすませ、身支度を整えると、僕は学校へと向かう。
朝の挨拶が飛び交う通学路で、僕は一人孤独に歩いた。おはようなんて言葉は、もうずいぶんと長い間口にしていない。口にしていないつもりなのだが・・・・・・
「あ、歩夢君、あの、おはよう・・・・・・」
(飽きもせずに・・・・・・よくも毎朝・・・・・・)
僕は心の中で深いため息をついた。目の前にいた値段の高そうな灰色のコートを着た少女に、いつもの朝と同じように怪訝な表情を見せた。
「もうすぐ雪が降りそうだね」
満面の笑顔を見せる少女。名前は当然知ってる。永瀬詩織、死んだ志保の双子の妹だ。黒いロングヘアーを背中まで伸ばした美少女。成績も優秀で男子からも人気が高い。もしも、彼女がポニーテールなら志保に瓜二つの容姿だ。それでも彼女は志保じゃない。志保はもっと活発的だった。
「ああ・・・・・・」
僕は詩織を無視して、何もなかったかのように通り過ぎようとする。
「もうすぐテストだね、勉強はしてる?」
詩織は何事もなかったかのように、僕の隣を歩く。
「いや、してない」
僕は正直、詩織に迷惑していた。志保が亡くなって以来、彼女は僕を付け回している。志保の代わりにでも、なろうというのだろうか? 毎朝のように、取り留めのない話しばかり勝手にしてくる詩織。僕は心の底から彼女を嫌っていた。
「歩夢君、テストが終わったら一緒に映画観に行こう。駅前の映画館で楽しそうな恋愛映画がやってるんだよ。主人公の男の人が恋人に浮気してるって疑われるの。テレビの予告編だけで私、笑っちゃったんだよ」
目を細め笑う詩織。
(どうか一人で笑ってくれ)
学生服のポケットに両手を入れ、僕は歩く。
「歩夢君、もしかして、映画嫌い・・・・・・?」
隣で歩く詩織は、どこか落ち込んだ瞳で僕を見た。テレビすらろくに見ないのに、どう答えればいいんだ? 嫌々ながら、僕は少し考えた挙句、口を開く。
「都合が悪い」
拒絶する僕。それでも詩織はめげなかった。
「それじゃあ、歩夢君が好きな映画でいいよ。勿論都合がいいときで」
ニッコリと詩織は笑う。好きな映画なんて思いつかない僕。何も答えず僕は通学路を進む。知ってか知らずか? 詩織は話を続ける。きっと約束をしたものだと思っているに違いない。
「何だか楽しみだね」
結局、詩織の強引な誘いは学校に着くまで続いた。まだ授業も始まっていないというのに、どっと疲れた気がする。
「それじゃあ、またお昼休みに」
詩織とは下駄箱でおさらばだ。同じクラスでないことが唯一の救い。思わず僕は、来年のクラス替えを気にしてしまう。もしも詩織と同じクラスになったらと。僕はそれが怖かった。詩織は決して志保ではない。僕は、志保になろうとする彼女に嫌悪していた。
「おはよう」
上履きに履き替えた後、詩織が同じクラスの友人に話しかけている。それを僕は思わず横目で見ていた。
「詩織、あんたまた冴島と一緒に来たの?」
「あんなビンボー人、ほっときなよ」
詩織の友人たちの心無い言葉。いつものことだが僕の心は傷つく。
「歩夢君は大切な友達だよ」
笑顔で言う詩織。それも迷惑だ。足早に僕は自分のクラスへと向かう。
自分のクラスへと入る僕。クラスメイトたちはみんな僕を空気のように扱う。まるで透明人間が入ってきたかのように。僕は一人自分の席に座り、ただうつむいた。これが僕の長い一日の始まりだ。周りには社長令嬢や、金持ちのお坊ちゃまが、僕には理解不能な会話をしていた。
「日曜日に見た劇団は素晴らしかったよ」
「お前、本当に気に入ってるんだな」
「この前、パパが連れて行ってくれた美術館でね・・・・・・」
「テストが終わったら家族で海外に行くんだ・・・・・・・」
劇団、美術館、海外、僕には縁のない言葉だ。このクラスで、いやこの学校で唯一の母子家庭の僕。そんな貧しい家庭の僕が、周りから無視されるのは当然。僕が不登校にならない理由は一つ。毎日働きづめの母を、悲しませないため。それだけだ。
しばらくすると担任の教師が教室に入って来る。そこでいきなり小テストをやらされた。別段動じないクラスメイト達。スラスラと問題を解いている。成績の悪い僕は、殆ど白紙で小テストを終える。その後すぐに英語の授業が始まり、担当の教師が鮮やかな発音で英文を読み上げていた。憂鬱で退屈な僕。唯一の楽しみといえば、彼女を思い出すこと。志保との楽しかった過去を、思い出すことだけだった・・・・・・
『それにしても怖い映画だったねー』
実に楽しそうな志保。そう、あれは二人で映画を見に行ったときだ。今流行のホラー映画を見たいと志保が言ったのだ。僕は嫌だと言ったのだが、志保が永遠と駄々をこねたので、殆ど無理矢理行くことになった。
『歩夢はずっとスクリーンから目を逸らしてたよね』
小悪魔のように微笑む志保。彼女の自慢のポニーテールが揺れる。狼狽える僕を志保は笑う。たった一人の友達である志保。彼女と一緒のときは、僕は孤独を忘れ人生を楽しむことができたのだ。中学に入学して人付き合いが苦手な僕は、すぐにクラスから孤立した。そんなときに話しかけてくれたのが志保だ。
『少し話そうよ』
休み時間、志保は僕とつまらない雑談をしてくれた。テレビや映画、ファッションの話し。当然僕はその話についていけない。僕はただ単に相槌を打つ。志保は時代遅れで世間知らずな僕を心配したかのように、休み時間や昼休みにはいつも話しかけてくれた。志保と僕は段々とかけがえのない友達になっていく。当然、孤独を思い出す日もあった。志保が友達の女子と楽しく談笑しているときだ。僕はいつも遠くから彼女を寂しく見つめていた。談笑が終わると志保は必ず僕を慰めてくれる。
『歩夢、寂しかったよね』
志保は僕を抱き締め慰めてくれた・・・・・・あの温もりは今でも忘れない。そして、決して忘れられない冬の夕暮れのあの日。ある海沿いの町で。
『冬は孤独を感じやすい季節だから』
冷たい砂浜から冷たい海を見つめる。その日は酷く寒かったのをよく覚えていた。
『・・・・・・愛してくれるの・・・・・・?』
気が付けば授業は四限目の終わり。面識のないクラスメイト達は、続々と食堂に向かう。僕はいつものように教室に残った。
(腹なんて空かないんだ。こんな学校で・・・・・・)
それが僕の本音。息が詰まるようなこの学校。僕は好きになれない。昼食はいつも抜きにしようと思うのだが。
「歩夢君。食堂行こうよ」
志保の生き写しの登場だ。毎日のように僕は嫌になる。
「腹は減ってない」
そう、だからどうか仲のいい友達と昼食をとってくれ。
「えー、ちゃんとお昼を食べないと体に悪いよ」
僕を心配するかのような詩織の表情。
(こんな奴、嫌いだ)
心の中で僕は言う。当然彼女には聞こえてないらしく、僕をしつこく食堂に誘う。そしてそのとき、救世主が現れた。
「あ、あの、永瀬さん・・・・・・」
詩織に声を掛ける人物が現れる。振り返る詩織。僕もふと目をやると、そこには男子の優等生である野上が立っていた。
「お昼、一緒にどうかな? そ、その、二人で一緒に・・・・・・」
あきらかに照れながら、詩織を昼食に誘う野上。僕は心の中で彼を応援していた。
(いいぞ野上。それでこそ救世主だ。早くその女を連れてどこかに消えてくれ)
しかしそんな僕の心の応援を知らない詩織は、
「ごめんなさい。お昼はいつも歩夢君と一緒なの」
申し訳なさそうに野上の誘いを断る。残念そうな野上の表情。その表情は一瞬僕を睨んだかに思えた。きっとこの野上は、詩織に気があるに違いない。その思いを僕というこの学校でも空気同然の存在が、邪魔しているのだ。そして僕は渋々と口を開くことにした。
「いいじゃないか、こんないい男に誘われたんだぞ? だったら行かない手はない」
空気である僕が喋る。しかもまったく面識のない優等生の彼をフォローしたのだ。野上は驚きにも似た怪訝な表情を見せていた。
「え、でも・・・・・・」
浮かない表情を見せる詩織。志保がいなくなって、彼女が僕に付きまとうようになってから、もう何度も見ている表情だ。僕が気にしたことは一度もない。
「いつも歩夢君と食べてるし・・・・・・」
このとき詩織が僕には、駄々をこねる子供のように見えた。
「いつもお前が無理矢理誘いに来るんだろう?」
的を得ている僕の言葉に、詩織は言葉を失い、目を見開きショックを隠し切れない表情だ。
「永瀬さん、彼もそう言ってるんだ。行こう」
野上は立ち尽くす詩織の手を取る。随分と大胆な男だ。
「・・・・・・歩夢君・・・・・・」
野上に手を引っ張られる詩織。教室を後にする瞬間、悲しそうな瞳をした彼女と目があった。
「おい、よせよ・・・・・・」
思わず僕は顔を伏せてしまう。ときどき詩織が志保に見えてしまうときがある。嫌な錯覚だ。
(あいつは志保じゃない・・・・・・わかってるだろ・・・・・・?)
時間は午後三時半。優雅な音色の金の音が、僕の退屈で憂鬱な一日の終わりを告げる。まるで教会の鐘の音だ。僕は学校の職員室へと向かっていた。現代社会の教師に呼び出されたのだ。その教師は職員室に入って来る僕を見て、嫌な表情を浮かべる。そして第一声がこれだ。
「成績が悪い」
(だからってどうした)
僕は気にしない。
「君みたいな劣等生には正直迷惑している。勉学に励む気がないのなら、退学するか、不登校にでもなってくれ」
まさか現役の教師に、退学と不登校を進められるとは。このとき正直驚いていた。苦労してこの学校に入学させた母は悲しむに違いない。
「それと、永瀬詩織のことなんだが、君のような生徒が仲良くするのはやめなさい。成績優秀な彼女も酷く迷惑しているはずだ」
(おい、何を言い出すんだこいつは?)
仲良くなんかしていないし、酷く迷惑しているのは僕のほうだ。
「どうせ一線を越えたいだけなんだろう? 魂胆はわかっている」
詩織、永瀬詩織と一線を越える? 僕があの女の体に魅了されてるって? そんな思いは僕の心に一欠けらもない。心の底から怒りを覚える。
「ふざけるな!」
僕は偉そうに椅子に座る教師の顔面に、力いっぱいの拳をお見舞いする。椅子から転げ落ち、間抜けに鼻血を出しながら、驚いた顔で僕を見る現代社会の教師。それが気に入らず、僕はきつい足蹴りを何度も放つ。
「おい! この偉そうなクソ野郎! 勝手な言いがかりつけやがって!」
僕の足蹴りは、この教師が意識を失うまで続いた。続くはずだった。妄想の世界では・・・・・・
「悪い成績、迷惑している永瀬詩織。言いたかったのはそれだけだ。わかったら早く帰れ」
目の前にはさっきと変わらず、ゴミを見るような目をした教師。思わず妄想に耽っていたらしい。言われるがまま職員室を出って僕は下駄箱に向かう。そこで待っていた人物。優等生の野上だ。腕組みをして僕を睨み付けていた。
「おい、貧乏人。体が臭いぞ」
いきなり何を言い出すんだこいつは? それにしても失礼なやつだ。因みに毎日ちゃんと僕は風呂に入ってる。
「ここは貧乏人が通う学校じゃない」
完全に僕を見下した野上の言葉。僕は薄ら笑いを浮かべながら、下駄箱から自分の靴を取り出し、一刻も早く静かな自宅に帰ろうとする。それでも野上の言葉の暴力は止まらない。
「永瀬さんは僕と一緒にいるほうがお似合いだ。あんな美人は君に相応しくない」
先ほどの現代社会の教師といい、この優等生の野上。どういうわけだか今日は嫌味の連続だ。それもこれも全部永瀬詩織が絡んでいる。
「ああ、わかったよ。そんなにあの女が好きなら喜んでくれてやる。だからもう僕には構うな」
吐き捨てる僕。野上の表情は悪魔のように形を変えていく。僕が少し恐怖を覚えたそのときだ。
「歩夢君。今帰り?」
小首を傾げた詩織と、僕は下駄箱で再開した。こいつのせいで、ただでさえ憂鬱な一日が散々だったのだ。言ってやりたい文句は山ほどあるのだが。
「丁度良かった。永瀬さん。一緒に帰ろうと思ってたんだ」
ついさっきの悪魔の表情を隠し、優しい微笑みを浮かべながら、野上が僕と詩織の間に割って入る。
「ごめんなさい。いつも歩夢君と一緒に帰ってるから」
詩織は半ば強引に僕の手を取り、なぜだかわからないがその手を強く握った。
「おい、何だ?」
詩織の態度が少しおかしいと思う僕。
「帰ろう」
詩織はまるで僕を守るかのように、野上を後にし、昇降口の前まで僕を連れだす。その間、野上の突き刺さるような視線を、背中越しで嫌でも感じずにはいられなかった。
「避難完了だね」
詩織は満面の笑みで僕に言う。
「何が避難だ」
不機嫌丸出しに僕は詩織に吐き捨て、勝手に歩きだし、自宅に帰りだす。
「歩夢君、待ってよ」
詩織は勝手に後ろから着いてくる始末だ。毎日だ。毎日気が付けばどこか近くに詩織がいて、どうでもいい話題や、僕には到底理解不可能な話題を話しかけてくる。
「あの人って酷いよね。毎日歩夢君の悪口ばっかり言ってるんだよ」
詩織の言葉に謎が全て解けた。野上が詩織に好意を抱いているのは、誰の目から見ても明らか。けど詩織は僕が嫌悪しているにもかかわらず、毎日執着してくる。野上が僕を気に入らないのも当然だ。
「許せないよ、私・・・・・」
詩織は後ろから僕の肩に手をやる。今にも感情が爆発しそうだ。憂鬱な一日をさらに悪くした元凶、永瀬詩織。僕がいつも惨めなのは、いつもこいつのせいに他ならない。
「おい、二度は言わないぞ。僕にさわるな」
少し怒りをあらわにした僕。詩織は慌てて僕の肩から手をどける。再び僕は歩き出すのだが、当然のように後ろから着いてくる詩織に、僕の怒りは限界に達しようとしていた。
「ついてくるな」
僕が言うと、詩織は無理矢理作ったかのような笑顔で、僕の隣に並んで歩き出す。
「どうして? 一緒に帰ろうよ」
僕の怒りには気づいているはずだ。なのにこの女はどうして僕と一緒にいたがる?
「よせよ、お前とは一緒にいたくない」
無理矢理な詩織の笑顔は、一気に浮かない表情へと変化した。偽りの仮面がはがれた瞬間だ。
「歩夢君」
性懲りもなく詩織は僕の名前を呼ぶ。しかもそれは志保と同じ声で。それも当然だ。双子の姉妹なのだから。
(勝手に喋れよ)
僕が詩織の存在を無視したとき、彼女が言った言葉。それは押さえていた僕の怒りを引き出すのに、十分な言葉だった。
「私が志保になるから。だから甘えていいんだよ」
自分の頭に血が上るのがわかる。志保は死んだ。死んだんだ・・・・・・
「いつも抱き締めてあげる。だからもう寂しくないよ」
「やめろ・・・・・・」
慈悲に溢れた詩織の顔。志保が憑依したかのような錯覚を僕にさせる。
「歩夢君が望むなら、私を好きにしてもいいから・・・・・・」
「なんだそれ・・・・・・? ああああ・・・・・・」
何かを思い出すような感覚。これはなんだ?
「あなたは私の大切な人だから・・・・・・」
『・・・・・・私の大切な・・・・・・』
詩織と志保が完全に一体化した。これは幻覚か? 詩織に溜め込んだ僕の怒りは、どういうわけか深い絶望感へと変り果てる。あのときの感情。寒い冬の夕暮れに、志保に自分の気持ちを伝えたときと同じだ。志保は僕のことをただの・・・・・・
「一人にしてくれ!」
僕は詩織を置いて走り出す。いや、彼女の下から逃げ出したというほうが正しい。走り続ける僕。しばらくすると真冬だというのに、僕の額からは汗が滴り落ちる。冷や汗のような冷たい汗が・・・・・・志保との思い出が次々と頭の中を駆け巡った。
『歩夢、一緒に帰ろう』
『歩夢、今日も一人だね』
『歩夢、校外学習は私と二人で行動だよ』
『歩夢、映画観に行こう』
『歩夢、修学旅行は私と一緒だから、心配しなくていいんだよ』
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」
気が付けば、僕は自分の膝を抱え、酷く息を切らす。今にも失神して倒れそうだ。真冬だというのに、冷や汗にも似た夥しい汗をかき、辺りを見渡せば、微かに見覚えのある海沿いの町に僕はいた。僕はどれくらい走ったのだろうか? 空はすでに夕暮れに覆われていた。荒廃した世界に降り注ぐかのようなオレンジの光が、見覚えのある海沿いの町を覆っている。
(ここは、確か・・・・・・)
息を切らせながら、僕は今現在どこにいるのかすぐに思い出す。この町は美里町。僕が住んでいる町から、電車で二十分ほどの場所にある寂れた町だ。僕が子供の頃に一度だけ、この美里町にある旅館に泊まったことがある。今では浮気相手と結婚した父と、仕事に明け暮れている母と一緒に・・・・・・
「お前らは汚い大人だ・・・・・・」
額の汗を拭い、思わず本音が出た。
「あははは・・・・・・」
掠れた声で笑い声が出る。それにしても、よくもここまで走ってこれたものだ。詩織、あの女のせいで冬だというのに喉が渇いている。
「子供の頃の思い出か・・・・・・」
僕は歩く。寂れた美里町を。僕が子供の頃は、沢山の人で溢れた美里町。それが今ではどうだ? 軒の連ねていたみやげやのシャッターは全て閉り、活気のあった商店街にも同じくシャッターが閉まり、人の気配など微塵も感じない。まるで僕一人が美里町に存在しているような感覚だ。夕暮れの光が、この寂れた町をさらに空しく飾る。しばらく歩くと廃業した映画館があった。潮風で看板は錆び、ショーウィンドウには、一昔前の映画のポスターが何枚も飾られたままだ。
「随分とレトロだな・・・・・・」
なんとなく目に付いた映画のポスターを僕は眺める。白いドレスを着た、女性の写ったポスター。世間にうとい僕でも古い。レトロだと理解できる。
「ここで何してるの?」
不意に後ろから声を掛けられた。心臓が口から飛び出そうなくらい僕は驚く。ゆっくりと振り返ると、野菜の入った網籠を持った女性が、表情一つ変えずに直立不動で僕を見ていた。この衰退した美里町の住民だろうか?
「ああ、いや、すぐに帰るから心配しないで」
僕はその場を後にしようとするのだが・・・・・・
「これを届けて」
女性は僕に野菜が入った網籠を差し出す。
「え・・・・・・?」
訳が分からないのも無理はないだろう。見ず知らずの女性に網籠を差し出された。これだけでも十分変だ。
「受け取って」
「あ、ああ・・・・・・」
網籠を受け取る僕。いや、無理矢理渡された。受け取った途端、女性は夕暮れの美里町へと消える。
「あ、おい! 届けるってどこに!?」
僕はすでに、後ろ姿しか見せていない女性に叫ぶのだが、彼女はまるで僕の大きな声に気が付いている様子はない。
(普通、気が付くだろう)
心の中で僕はぼやく。女性から無理矢理渡された網籠の中には、ニンジン、ジャガイモ、キャベツ、それらに隠れるように少量のキノコが入っていた。これではまるでシチューの材料だ。
「知るか、訳がわからない」
当然の如く僕が途方に暮れたとき。
「うん?」
網籠にある少量のキノコに隠れるように、一枚の色あせた小さな紙切れがあった。僕は紙切れを手に取る。
「氷室サナトリウム病院・・・・・・? 午後五時のバスに乗れ・・・・・・?」
紙切れにはそう書かれていた。ご丁寧に午後五時のバスに乗るようにとも書かれている。僕は網籠に入った野菜を再び見つめる。投げ捨てれば、妙な罪悪感に蝕まれそうだった。
「・・・・・・わかったよ・・・・・・」
溜め息交じりに僕は、美里町にあるバス停へと向かう。すぐ近くに、昔家族と泊まった旅館があった。営業しているのかどうかは知らないが。確か旅館の近くにバス停があるはずだ。子供の頃一度だけ来ただけだが、バス停の場所は覚えていた。夕暮れの美里町を歩き、寂れたバス停へと僕はたどり着く。バス停にある時刻表に僕は目をやるのだが。時刻表の文字は黒ずんでいて、とても読めるような状態ではなかった。
「おい、おい・・・・・・」
本当にバスなんて来るのか? 僕がそう思うのも無理はないだろう。バス停にあるアナログの時計の針は、時刻二時ニ十一分で止まっていた。時計を持っていない僕。今現在、何時なのかもわからない。
「あいつのせいだ」
原因である詩織に僕は憎悪した。先ほどまで、額から滴り落ちていた汗は引いたものの。そのせいで酷く喉が渇いている。近くには自動販売機があったが、売ってているはずのジュースや缶コーヒーは、全て売り切れの文字がボタンに薄く点灯していた。
「嫌な日だな、今日はとくに・・・・・・」
僕が上を向き、夕暮れの空を見つめようとしたときだ。耳に車の大きなエンジン音が聞こえた。左を向き、道路の目をやると、そこには紛れもなく一台のバスが走っている。
「走ってたんだ。本当に・・・・・・」
本当にやってきたバスに僕は少し感心した。まさかこんなぼろいバス停に、停車するバスがあるとは。鈍いブレーキ音とともに、バスは停車する。運転手は自動扉を開けると、乗り込む僕を見て狐につままれたような表情をした。
「これは驚いた。ここで客を乗せるのは、もう何年も前だよ」
年老いた運転手が言う。本当に驚いた様子だ。
「あ、あの、氷室サナトリウム病院まで行きますか?」
掠れたような僕の声。喉が渇き、少し痛みを感じ始めていた。
「ああ、行くけど、何しに行くんだい?」
「い、いや、用を頼まれていて・・・・・・」
そう言いながら、僕はバスの空いている席に座る。どうやら乗客は僕一人らしい。運転手はバックミラー越しに僕に頷くと、自動扉を閉めバスを発進させた。走りすぎて疲れた体、渇いた喉、僕は少しぐったりとし、窓の外を見つめる。しばらくすると海が見えた。夕暮れの光に照らされた海。この海を見て綺麗だと思えた者は、きっと幸せな証拠だ。その証拠に、僕には空しい光景に思えて仕方ない。美里町にある海沿いの道路をバスは走り続ける。
(この野菜を届けたらすぐ家に帰ろう)
風呂に入って食事をして、ベッドに横になりたい気分だ。海沿いの道路を抜け、バスは山道を少し走った所に停車した。
「どうも、ありがとう」
僕は運転手にお礼を言うと、代金を払い、バスを降りる。
「いいんだ。サナトリウムは山を少し上った先にある。行けばすぐわかるよ」
この疲れきった体でまだ歩けというのか。野菜を届けるだけで、酷く安請け合いをしたものだ。
「ああ、ちょっと待って」
不意に運転手が僕を引き止める。僕が振り返ると、運転手が少し青ざめているのは、気のせいだろうか?
「ああ、その、もうすぐ夜だから気を付けるんだぞ」
僕は頷いて返す。そしてバスは自動扉を閉めて、走り去っていった。
(夜だから気を付けろって? えらく心配性な運転手だな)
僕は山道を歩く。ゴツゴツした石などはなく、比較的歩きやすい山道だったのだが、僕の喉の渇きはすでに限界に達していた。今にも倒れそうで、まるで脱水症状でも起こしたみたいだ。いや、その兆候だろうか? 視界が少しぼやけて見える。しばらく歩くと、白い大きな建物が見えてきた。まるで大きな洋館のような建物だ。入り口であろう西洋風の扉の横には、色あせた看板がある。氷室サナトリウム病院。看板にはそう書かれていた。
「ここか、助かった・・・・・・」
それにしても一目で医療施設とは、到底思えない建物だ。創りが西洋の洋館にしか思えないのである。まあいい。野菜を渡して、水を一杯もらったら帰ろう。僕は氷室サナトリウム病院の、西洋風の扉を開けると中に入る。サナトリウムの敷地には、大きな庭が存在していた。綺麗な白い花が咲き、無駄な雑草はすべて取り除かれているようだ。よく手入れされた庭。誰が見てもそう思う。そう思う・・・・・・
「畜生・・・・・・」
汚い言葉を口にした瞬間、僕はサナトリウムの庭に座り込んだ。
(誰か水をくれ・・・・・・誰でもいから・・・・・・)
もう限界だ。意識が朦朧としてきたそのときだ。
「君は誰?」
僕に声を掛ける人の声がした。声色から女の子のものだとわかる。
(誰だ・・・・・・?)
声の主は意外と近くにいた。それも僕の隣に腰を下ろしている。外見から同じ歳くらいの少女だ。
「ここの新しい患者さん? 誰かのお見舞い? それともお見送り?」
不思議そうに小首を傾げる少女。その口元が、少し微笑んで見えるのは気のせいか? サラサラとした薄赤色の長い髪に、それと同じく薄赤色をした瞳。透き通るような色白の肌が、綺麗で印象的だ。服装は白いワンピースを着て、その上には温かそうな栗色のセーターを羽織っていた。荒廃した世界から差し込むかのような夕暮れの光が、少女を幻想的に飾る。
(綺麗な子だな・・・・・・)
僕が最初に思った第一印象だ。この少女は美里町の住人だろうか?
「そんな冷たい場所に座ってたら病気になるよ」
少女は微笑んだ。慈悲に溢れた微笑みで。どこか人を安心させる微笑み、閉ざされた人の心を開く力があるように、その微笑みは僕を安心させる。
「水を一杯貰えないかな? 頼むよ、死にそうなんだ・・・・・・」
僕は慈悲の微笑みを浮かべるこの見知らぬ少女に、甘えることした。
「少し待ってて」
少女は立ち上がると、サナトリウムの大きな庭にあるベンチへと歩き出す。
ベンチには何やら葉っぱの入った水差しと、グラスが置かれている。少女はグラスに水差しに入った水を注ぐと、今にも死にそうな僕の下へと駆け寄った。
「はい」
水の入ったグラスを差し出す少女。僕はグラスを受け取ると、その中に入った水を一気に飲み干した。それは不思議な感覚がする水だった。まるで喉と肺を癒すかのような清涼感がある。
「ミント水だよ。君も気に入った?」
ミント水。聞き覚えなど、世間にうとい僕など到底ない。もしかして今の流行なのか? 怪訝な僕だが、何とか立ち上がることができそうだ。
「ありがとう。生き返ったよ」
少し大げさだったか? 僕が口を開くと少女は笑った。
「私は沙羅、君は? 名前が聞きたい」
薄赤色の瞳で僕を見つめる少女。名前は沙羅というらしい。
「冴島歩夢」
僕の名前を教えた途端、沙羅は実に嬉しそうだった。
「あゆむ? 歩く夢って書くの?」
「ああ、そうだ」
「いい名前だね」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだ。
「それで、ここに何か用?」
少女は小首を傾げる。そうださっさと用件をすませて帰ろう。
「ああ、その、これを届けろって言われて」
僕は野菜の入った網籠を沙羅に見せる。
「これはシチューの材料?」
もっともな意見だ。見知らぬ女性から、この野菜とキノコを渡された僕もそう思う。
「あ、えーと、君に渡せばいいのかな?」
少女は柔らかそうな唇に、人差し指をあて何やら考え始める。
「君じゃなくて、沙羅って呼んで」
沙羅は言う。この子の名字は勿論知らないし、下の名前で呼ぶのもどうかと、遠慮を考えてしまう僕。
「さぁ、来て」
「あ、おい・・・・・・」
沙羅は突然に僕の手を取る。そしてどういうわけか、彼女はとても嬉しそうに笑うのだった。
「それ、先生に渡そう。料理が得意な人だから」
「先生・・・・・・?」
先生というだけに、このサナトリウムに務める医者だろう。沙羅は僕の手を引っ張り、少し強引に僕をサナトリウムの中に案内する。
氷室サナトリウム病院。その中は綺麗に清掃され、埃一つ落ちていないフローリングのホールに僕は驚く。ここでようやく沙羅は僕の手を離す。
「凄い、こんな場所は見たことがないよ」
壁には色々な絵画が飾られていた。サナトリウムというより、美術館に近い感じがする。実際、行ったことはないが。
「この絵が私のお気に入り」
「へー、そりゃ凄い・・・・・・」
これは、どこかの外国だろうか? 夕日の光に包まれた草原の絵画が、お気に入りだと言い出した沙羅。凡人以下である僕には、どうもこの絵画の魅力が理解できない。
「綺麗な草原」
沙羅は薄赤色の瞳で絵画を見つめる。
「いつかは行ってみたい場所・・・・・・」
どうやら完全に自分の世界に入り込んでいるようだ。確か志保にもそんなときがあった。沙羅がどこか志保と似た雰囲気を持つのは、僕の気のせいだろうか?
「イタリアかどこかに行けば見られるんじゃないか?」
冗談半分で僕は口にする。それだというのに沙羅は真剣に考え込む。
「イタリア・・・・・・」
ただの冗談を普通そこまで真に受けるか? 僕が心の中で苦笑したときだ。
「素晴らしい少年だ」
絵画を見つめるのをやめ、僕と沙羅は後ろを振り返る。そこには綺麗な黒いスーツに、その上から白衣を着た、中年の男性が立っていた。白髪のオールバックをした男性。白衣を着ている時点でここの医者だろう。僕と目が合うと、この男性は紳士的なお辞儀をした。まるで西洋の人がするようなお辞儀だ。
「先生」
沙羅はこの人物のことをそう呼ぶ。しかもニッコリとした笑顔で。
「沙羅にも友達ができたのかな?」
中年の男性、いや、先生は沙羅の顔を覗き込みながら微笑む。
「いや、僕は友達とかじゃなくて、これを届けろと・・・・・・」
「この絵画は、十八世紀初頭に無名の画家が南イタリアで描いたものです」
僕の言葉を殆ど強引に無視し、この先生は突然に語りだした。沙羅のお気に入りの絵画について・・・・・・しかし、本当にイタリアの絵だとは、僕は夢にも思わなかったけど。
「場所はプーリア、当時は美しい草原が数多く存在していた。無名の画家はイタリアを旅しながら、自分が本当に心から美しいと思える場所を探した。そして長い歳月の果てに探し当てたのが、この絵画に描かれた草原。無名の画家が最初で最後に世に送り出した作品。世界に一つ、この絵画はここにしか存在しない」
先生は僕の目を見つめると、静かに微笑んだ。
「この絵画の場所がイタリアだと当てた君は、実に素晴らしい観察眼を持っている」
まさか僕の適当な冗談が本当だったなんて、この先生は夢にも思わないだろう。
「紹介が遅れました。このサナトリウムの院長の氷室です。普段呼ぶときは先生と・・・・・・」
その名の通り、氷室サナトリウム病院の院長がこの人らしい。それだったら話が早い。
「これを届けるように言われたんですが」
僕は野菜が入った網籠を氷室先生に差し出した。
「一体誰に?」
「いや、知らない人に。全然知らない女の人に頼まれた」
少し取り乱す僕。隣では不思議そうに沙羅が僕を見つめる。少し恥ずかしい気分だ。
「そうですか。それでは今夜の沙羅の夕食はシチューにしましょう」
とくに詮索はせず、氷室先生は網籠に入った野菜を受け取る。誰もが思った通り、やはりシチューの材料だった。
(これで帰れる・・・・・・)
僕は一安心。家に帰ってベッドで一休みだ。
「沙羅、そろそろ検診の時間だ。病室に戻りなさい」
「大丈夫だよ。私は元気」
検診の時間? 病室? 沙羅はやはりここの患者なのか?
「病気を甘く見るのはいけないことだ。せっかくできた君の友人も心配するだろうし」
氷室先生は僕を見つめた。それもどこか不敵な笑顔で。まるで僕を無理矢理、沙羅の友人にしようと企んでいるかのように。
「わかった・・・・・・」
渋々と沙羅は、病室に戻ることを承諾したようだ。
「歩夢とは、もっと話がしたいのに・・・・・・」
実に残念そうに告げる沙羅。
「え? どうして僕と?」
こんな退屈な僕と話がしたい? 怪訝になるのも当然な僕。
「君は壊れた人だから」
僕に微笑む沙羅は、病室へと戻っていった。彼女の言ったことは図星だ。志保が死んで以来、僕は孤独の闇に支配されていた。苦痛を感じ、心に痛みが走る日々。まるで壊れた人形のようだ。それにしても、どうして沙羅は僕の抱える心境がわかったのだろうか? 考え込もうとしたとき、氷室先生が僕に話しかけた。
「さて、お名前のほうは、歩夢とお呼びしましょうか?」
「え、あ、別にかまわないけど・・・・・・」
「私も君と話がしたい。沙羅のことで」
僕と話がしたいという人物が、もう一人現れた。
「あの子のことで?」
「はい、きっとお腹がお空きでしょう。 ラウンジで何かご馳走しましょう」
この紳士的な氷室先生の申し出は、僕にとって願ってもないものだ。昼間から何も口にしていない。いや、沙羅が与えてくれたミント水なら口にしたが、腹に入ったのはそれだけ。僕は勿論空腹だ。
「いや、あの、実は腹ペコで・・・・・・」
困りながら僕が言うと、氷室先生は微笑む。
「そうですか。それではパンケーキはお好きですか? ラウンジで用意させましょう。ここのパンケーキはきっと気に入りますよ。さぁ、どうぞこちらへ」
氷室先生に案内され、僕はサナトリウムのつやのある木製の廊下を歩く。患者たちが皆、氷室先生に話しかける。
「氷室先生。こんな時間に珍しいですね」
本を読んでいた女性の患者が、氷室先生に話しかける。
「やぁ、灯里。読書のほうは順調かい?」
「はい、先生が選んでくれた本はとっても素敵です」
「それはよかった。君にとってその本はバイブルかもしれないな」
女性は本を抱き締め笑う。すると今度は男性の患者が氷室先生に近づいてきた。
「氷室先生。この前の料理はほんとに美味しかった」
「君に私の料理を評価されて嬉しいよ往人。いや、正直に。あのオードブルは私の自信作だ」
「今度は是非、調理の仕方を」
「君が元気になれば教えよう。それまではここで安静にしているんだ」
氷室先生は患者たちに微笑みを返す。
「先生、あの子、また薬を飲まなくて・・・・・・」
次に氷室先生に話しかけたのは、白いナース服を着た女性。
「沙羅の薬嫌いは今に始まったことじゃないだろ?」
どうやら沙羅のことで話をしているらしい。
「これで四日目ですよ。あの子が薬を残したのは・・・・・・」
「大丈夫。心配はいらないよ。解決策を用意した」
なぜか氷室先生は僕を見ながら言った。一緒にいたナースは、不思議そうな眼差しで僕を見る。当然僕は何も理解できず、ラウンジに案内された。
「では、どうぞ」
ラウンジのテーブル席に座る僕。窓からは夕暮れの光が差し込んでいる。氷室先生が、二枚のパンケーキが盛りつけられた皿をテーブルに置いた。イチゴジャムがのった美味しそうなパンケーキだ。
「自家製のイチゴジャムです。沙羅と私が作ったんですよ」
僕はフォークを手に取り、パンケーキを口にする。空腹な僕。ただのパンケーキなのに堪らなく美味しかった。沙羅と氷室先生の作った自家製のイチゴジャムが、ほんのりと甘い。
「さて、本題に入りましょう。どうぞ食べながら聞いてください」
パンケーキを飲み込む僕。慌ててフォークを皿に置く。流石に食べながら話を聞くのは失礼だ。僕の考えを察したのか、氷室先生はゆっくりと頷いた。
「実は折り入ってあなたに相談したいことがありまして」
「相談?」
今日初めて会った僕に相談? 思わず氷室先生に怪訝な表情を見せてしまう。
「あ、いや、その、僕にできることならどうぞ言ってください」
狼狽えながら、自分が友好的な人物であると象徴させる。
「相談したいのは沙羅のことです。もうご存知かもしれませんが、あの子はこのサナトリウムの患者です。しかもなにかと問題の多い患者でもあります」
「あの子が?」
信じ難い。それも当然だろう。沙羅はまるで慈悲に溢れた笑顔で、僕に接してくれた。
「ここには私を含めた六人の医師と、九人の看護婦。そして三十一人の患者がいます。その中で沙羅が心を開いた人間は私一人です」
氷室先生の表情は真剣そのものだ。
「そして今日、野菜を届けに現れたあなた。どういう心境だったのかは知りませんが、沙羅は見ず知らずのあなたに心を開いた。最初見たとき私も驚きましたよ、沙羅が私以外の人間に笑顔を見せるなんて」
わからない。そんな沙羅が、どうして僕に心を開いたのかが。沙羅は僕のことを、壊れた人と言った。もしかしたら、それが関係しているのだろうか?
「あなたには沙羅の友人になってほしい」
「え? 僕が?」
「ええ、そうです」
氷室先生は深く頷く。
「無理にとは言いません。ただ気が向いたときに、このサナトリウムに顔を出してくれればいいんです」
氷室先生の申し出に、僕は言葉を発することができなかった。誰かに接するのは得意じゃない。
「すぐに答えを出してくれとは言いません。よく考えてくれてからのほうがいい」
氷室先生は椅子から立ち上がる。
「さて、私は、沙羅が食べる夕食の支度をしなくてはなりません。材料は勿論あなたが持ってきてくれた野菜とキノコです」
氷室先生は笑う。そして西洋風のお辞儀をすると、ラウンジを後にした。
「友達か・・・・・・」
僕には縁のない言葉に思える。そのときだった。
「氷室先生は歪んだ人だよ」
驚いて椅子から立ち上がる僕。振り返ると、白い病院服を着た一人の少女が立っていた。肩まで伸びる金色の髪に、水色の瞳。歳は中学一年生くらい。
「そうは思わない」
見ず知らずの他人に、いきなり何を言うんだこの子は? 僕はそう思いながら再び椅子に座る。そしてまた考えに耽るのだが・・・・・・
「沙羅はいつも私を無視するんだよー」
「ああ、そうかよ・・・・・・」
僕も無視しよう。今は氷室先生に頼まれたことを考えたい。
「ねぇ、私と友達になろうよ。きっと楽しいよ」
氷室先生との会話を、この少女は聞いていたのか? 椅子に座りながら振り返る僕。それも年下の少女に向かって、酷く嫌悪感を見せた表情で。
「私は裏乃っていうの」
勝手に自己紹介をされた。少女、裏乃は目を細め笑っている。可愛らしい顔立ちの少女だ。きっと十代の男子はほっとかないだろう。けど僕は違う。
「悪いけど一人にしてくれないか?」
相手は年下の少女。言葉は選んだつもりだった。しかし、この裏乃という少女は呆然とした目で僕を見つめる。その刹那。
「えーん!」
裏乃はその場にうずくまった。
「おい、何だ?!」
驚く僕。当然だ。年下の少女を泣かしたのだ。ラウンジの机を整理していたここの職員が、僕を蔑んだ目で見ていた。僕は椅子から立ち上がり、裏乃に駆け寄る。
「あ、えーと、その・・・・・・」
こうなったら、かける言葉は一つだ。
「悪かったよ・・・・・・」
僕が裏乃の小さな肩に、手を触れようとしたとき。
「うわ!」
手の甲に鋭い痛みが走る。裏乃、彼女に爪でひっかかれた。そう思ったときにはもう遅い。裏乃の鳴き声を聞きつけた看護婦が、次々とラウンジにやってくる。
「この子に何をしたの?!」
一人の看護婦が僕に詰め寄ってきた。
「何もしてない! ただ、一人にしてくれって頼んだだけだ!」
必死に弁明する僕。看護婦は僕を睨み付けると、泣いてうずくまる裏乃に駆け寄る。
「さぁ、裏乃ちゃん。もう病室に帰りましょうね」
「今夜は一緒にラジオを聞きましょうね」
看護婦たちはまるで、幼い子供をあやすかのように裏乃に接した。そのとき裏乃が急に立ち上がり、その水色の瞳から涙を流しながら、僕を見つめる。まるで心が壊れた人間の瞳だ。僕はそう思った。
「やだ! その人と友達になる!」
今にも暴れ出しそうな裏乃を、看護婦たちが押さえる。
「友達がほしい! 友達がほしい!」
裏乃は看護婦たちによって、ラウンジから出された。
(一体何なんだ? あいつは・・・・・・?)
僕は呆然と立ち尽くす。手の甲が酷く痛む。見て見ると爪でひっかかれた跡が、赤く腫れていた。仕方ない。氷室先生に診てもらおう。僕がラウンジを後にしようとしたときだ。
「あの子は孤独で今にも死にそうなの。暗い精神病棟でいつも泣いてる」
振り返ると沙羅が立っていた。彼女は僕と目が合うと、にっこりと笑う。
「あ、ああ、そうなのか・・・・・・」
ここには精神を病んだ人間までいるのか。いや、それより彼女は、いつの間にラウンジにいたのだろうか?
「ところでどうしたの? 君も何か食べにきたのかい?」
僕が聞くと、沙羅は首を横に振る。そして嬉しそうに口を開き、その訳を話すのだった。
「病室は相変わらずつまらない。だから君を探していたの」
柄にもなく僕の心臓は高鳴る。目の前にいるのは、歳もそんなに変わらないであろう女の子。しかも美人だ。
「ねぇ、一緒に話そう。君がどんな人か聞きたい」
微笑む沙羅は僕に手を差し伸べる。これは手を繋ごうという意味なのか? 先ほどは無理矢理手を取られたが。
「あ、あの、僕は退屈な人間だよ。ここでも充分話せる話題だろ?」
僕は自分がどんな人間か正直に伝えたつもりだ。それでも沙羅は目を細めて笑う。
「奇遇だね」
「え? 何が?」
「私も退屈な人間だから」
沙羅が言うと、僕は思わず笑ってしまった。勿論、目の前にいる沙羅も同様だ。
「いや、何年振りかな? 誰かと一緒に笑うのは?」
志保が死んで以来。そんなことが僕の脳裏を過ったとき。
「楽しい。もっと話そう。私の病室で」
沙羅は僕の手を取った。あろうことか、裏乃にひっかかれた手をだ。
「ああ、ちょっと!」
少し悲痛な声を上げる僕。我ながら情けない。
「裏乃がしたの?」
その薄赤色の瞳で、沙羅は僕の痛々しい傷を見つめる。
「それは・・・・・・」
どういうわけか僕は言葉に詰まった。別に正直に話せばいいことなのに。
「さぁ」
沙羅は無傷である僕の左手を握る。
「行こう」
僕は言われるがまま、沙羅と手を繋ぎ、ラウンジを後にした。サナトリウムの廊下を歩く僕たちを、患者と看護婦たちは、皆ジロジロと見ている。ある者は不思議そうに、またある者は優しく微笑む。
「みんな私たちを見ている」
沙羅は表情一つ変えずに言う。
「いや、冗談じゃない。顔から火が出そうだ」
僕の正直な気持ちが思はず口から出る。
「あら、それはどうして?」
「それは、その・・・・・・」
その言葉を正直に口にするか、それともしないか、僕は迷った。どうして迷ったのか、自分でもよくわからない。それでも、僕はその言葉を口にする。
「綺麗な女の子と手を繋ぐのは久しぶりなんだ・・・・・・」
きっと沙羅は、嫌な顔をするに違いない。僕はそう思ったのだが。
「久しぶり?」
横目で沙羅を見ると、彼女は不思議そうな表情で僕を見ていた。
「過去に好きな人がいた? それともその人は君の恋人?」
僕は質問されるのだが。
「友人、いや、親友だった人だよ、そう僕のね・・・・・・」
勿論これは志保のことだ。
「いい子だった?」
質問する沙羅。
「ああ、いい子だったよ。それも凄く元気な女の子」
「大切な人だったの?」
聞いてくる沙羅。確かに志保は大切な人だったのだが。
「この話しはもうよそう」
誰かに話すことじゃない。わかってるだろ? 誰にも話せないことなんだ・・・・・・
「ほら、見て」
その刹那。沙羅はある病室を指差す。
「201号室? 菊池あずさ?」
病室のプレートにはそう書かれている。
「お見送りをしている」
少し身を乗り出すと、病室の中が見て取れた。
「あずさ・・・・・・」
「苦しかったな・・・・・・」
病室のベッドの上には僕と同じ歳くらいの少女が、まるで落ち着いたかのように目を閉じて眠っている。
(いや、違う・・・・・・)
僕の直感がそう思わせた。あの少女は眠ってなどいない。亡くなったんだ・・・・・・
「向こうの世界で、幸せに暮らしてくれ・・・・・・!」
少女の父親と思われる男性が、泣き崩れるのが見えた。その隣で母親も静かに泣いていた。
「綺麗でしょ?」
突然、沙羅がそんなことを言う。不謹慎だ。僕はそう思う。
「いや、僕は見るに堪えない・・・・・・」
「あら、どうして?」
小首を傾げる沙羅。この子はどこか感情が欠落しているのか? 沙羅という存在を、思わずそう印象付けてしまう。
「大切な人が消えて、残された者が悲観する。残された者は悲しみに苦しむ」
沙羅は語る。まるで何かにとりつかれたように。
「残された者の悲しみはいつ見ても綺麗・・・・・・ずっと失った人のことを想いつづける・・・・・・」
僕の気のせいか? 沙羅はうっとりとその薄赤色の瞳を、少しだけ輝かせたように見えた。
「行こう」
満足気に、沙羅は僕の手を引く。誰かの死は、沙羅にとって芸術なのだろうか? まさかロマンがある? もしそうなら、それは歪んだ芸術に思える。
サナトリウムの三階にある沙羅の病室。綺麗に整った滲み一つない白いベッド。椅子が二つに、清潔な洗面所。レトロな木製のラジオ。そして窓際に山積みにされた本。どこか寂しげな病室だとおもうのは、僕の気のせいだろうか? それとも窓から差し込む冬の夕暮れが、そう錯覚させているだけか?
「こぢんまりとしているんだな」
これが僕の感想。沙羅の病室は妙に寂しげだ。そんなことは気にもしていないのか? 沙羅は目を細め笑顔になると、ベッドの上に座る。
「さぁ、聞かせて、君がどんな人なのか」
僕は困り果てた。今にも深い溜め息を吐いてしまいそうだ。
「ラウンジで言ったように僕は退屈な人間で・・・・・・」
思わず言葉に詰まってしまう。いや、この先は言葉にするのも嫌になる。情けなく床を見つめ、僕は苦笑した。
「歩夢」
「なに?」
床を見つめるのをやめ、僕は沙羅を見る。自分でも見苦しいと感じる作り笑顔で。
「隣に座って」
「あ、ああ・・・・・・」
言われるがまま、ベッドに腰掛ける僕。すぐ横を向けば綺麗な沙羅の横顔がある。
「裏乃がひっかいた手を見せて」
裏乃にひっかかれた手を僕は沙羅に差し出す。痛みはすでに引いていたが、腫れはまだ治まっていない。
「消毒しなきゃ」
ベッドの下から沙羅は、木製の救急箱を取り出した。中を開け、小さな茶色い小瓶と脱脂綿を取り出す。茶色い小瓶に入った液体を、沙羅は脱脂綿にたらした。
「痛くないから」
沙羅は濡れた脱脂綿を、腫れた僕の手に当てる。少しだけ沁みる傷口。これでわざわざ氷室先生に、裏乃につけられたひっかき傷を、診てもらう必要はなくなったのだが。僕は美しい沙羅の横顔に、思わず見惚れていた。
「はい、おしまい」
手当てを終える沙羅は、どこか妖しい微笑みで僕を見る。至近距離で彼女の顔があった。
「あ、その・・・・・・ありが」
僕が沙羅にお礼を告げようとしたときだ。
「沙羅、入るよ」
病室のドアを開けた人物。氷室先生だった。一つのベッドに寄り添って座る僕ら二人を見て、先生はニヤリと笑う。
「これは、随分と仲がよろしいようで」
氷室先生の僕らをからかうような言動。沙羅は笑っていたが、僕は狼狽えてしまい、自分の目のやり場に困っていた。
「そ、それじゃあ、僕はこれで失礼します・・・・・・」
狼狽えながら僕はベッドから立ち上がり、沙羅の病室を、このサナトリウムを後にしようとする。
「あ・・・・・・」
帰ろうとする僕を見て、沙羅が浮かない表情をしたのは気のせいだろうか?
「どうやって帰るつもりですか?」
氷室先生は不思議そうな顔で僕を見て、口を開く。
「え? それは勿論、バスを使って」
そう、バス停でバスを待っていればいいはなしだ。しかし・・・・・・
「それは残念です」
「え? 残念って、何が・・・・・・?」
「申し上げにくいのですが、今日最後のバスはもう行ってしまいました」
僕の心は絶望で支配される。いや、待て、これはまさか・・・・・・
「今夜は是非、泊まっていくといい。丁度開いている病室があります」
笑う氷室先生。これは全て彼の策略だと気づく。そうまでして僕と沙羅を一緒にいさせたいらしい。
「歩夢。夜になったら庭に出よう。綺麗だよ、冬の夜空は」
沙羅は嬉しそうだ。僕は初めて訪れたこのサナトリウムに、一夜を過ごすことになった。
「沙羅、今夜の夕食はシチューと白パンだ。私の自信作を君に披露するよ」
優しい笑顔で告げた氷室先生に、沙羅は笑う。甘えた子供のように。
夕食はラウンジに用意されていた。夜を勤務する数人の医者や看護師、職員たちが、楽しそうに氷室先生が作ったクリームシチューを、夢中になって口に運んでいる。勿論、沙羅も僕の隣に座っていた。
「先生の料理、とてもおいしいでしょ。とくにデザートのケーキが絶品なんだよ。カスタードクリームが・・・・・・」
沙羅は僕に話しかける。氷室先生が作ったせっかくのクリームシチューに、ほとんど手を付けることなく話し続けた。程よい甘さをしたカスタードクリームの話しを。まるで言葉に飢えた子供。そう、まるで今現在の僕のように。
「それにしてもよかった」
沙羅は目を細めて笑い僕に言う。
「あ、え? 何が?」
まろやかな味をしたクリームシチューを、僕は口に運ぶのをやめる。
「今夜はずっと二人でいられるから」
目を細めて笑う沙羅の顔を見て、僕はどこか不思議な感覚だった。渇いた僕の心に、水が流れ込むような感覚。前にもどこかで同じようなことが? そうだ。この感覚は志保と同じ。
「みなさん。こんなに美味なシチューを食べたのは、私自身も初めての経験です。世界一、美味な夕食。まぁ、作ったのは私ですが」
氷室先生の言葉に、ラウンジにいたものたちが笑う。人望がある証拠だと僕は思った。
「このサナトリウムに、材料を持ってきてくれた冴島歩夢君に感謝しましょう」
手のひらを開いて右手を伸ばし、僕に向かって掲げる氷室先生。
「最高の夕食をありがとう」
氷室先生がそう口にすると
「ありがとう歩夢」
ラウンジにいた皆が、一斉に僕にお礼を言う。ジュースの入ったグラスを掲げて。勿論、沙羅も同じように。
「ど、どういたしまして・・・・・・」
僕の中で恥ずかしさがこみ上げる。人に感謝されたのは何年振りだろう?
「歩夢。もしかして恥ずかしいの?」
どこか、小悪魔のような微笑みを浮かべる沙羅。
「ああ、恥ずかしいよ。もっと笑えよ。ほら」
沙羅と二人で僕も笑っている。こんなに楽しい夕食は・・・・・・初めてだ。そう、生れて初めて・・・・・・
夕食を終えると、僕は沙羅の約束通り、サナトリウムの庭に出る。
「綺麗だね・・・・・・」
沙羅が言うと、僕は冬の夜空を見上げた。
「星は一つも出てない」
僕は指摘する。夜空を飾る星がないにも関わらず、暗い夜空が綺麗だという沙羅。正直、僕には理解できない。
「星がないからいいんだよ」
ニッコリと笑う沙羅に、僕は苦笑する。
「暗い冬の夜空。見つめていると毎晩、不思議な気分になる。格別だよ・・・・・・」
どこかうっとりと表情の沙羅。あのときと同じだ。同じ・・・・・・
病室で死んだ少女を見ていたときと同じだ。僕はこのとき、はっきりと確信した。沙羅は暗いものに芸術を感じる性格なのだと・・・・・・
「歩夢、君はどう生きてる?」
すると突然沙羅が聞いてくる。そういえば、僕のことを知りたいと言っていたのを思い出す。
「私はここで退屈な日々を送っている。いつ治るかもわからない病気と一緒に」
「治るかもわからないって?」
笑顔の沙羅に、僕は訊ねるのだが。
「一人は苦しいでしょ? 君の中にある孤独に耐える勇気も底を突き始めている」
沙羅が言葉を発した瞬間、僕の動向は開く。
「・・・・・・寂しいんだ・・・・・・毎日が・・・・・・」
僕は心の底にある、正直な気持ちを沙羅に打ち明ける。
「・・・・・・おいで・・・・・・」
沙羅は妖しく笑い。ゆっくりとした力で僕を抱き締めてくれた・・・・・・
「君は私と一緒にいればいい・・・・・・それが答え・・・・・・」
僕の耳元で沙羅が囁く。暗い寒空の下で・・・・・・
沙羅、冬の夕暮れの、寒空の下で出会った少女・・・・・・
「バスタブに水を溜めてくれ」
「わかりました。氷室先生」
患者たちが寝静まった真夜中。私は、サナトリウムの精神病棟に足を運んだ。とても大事な客人を傷つけた患者に、罰を与える為に。その患者の名前は裏乃。まったく、何度トラブルを起こせば気が住む? 確か以前は、日々出される食事に不満を零していた
私は溜め息を吐きながら、薄暗い精神病棟を進む。裏乃の病室は十一号室。その病室は私の目の前にある。鉄製のドアの鍵を開けると、部屋の中は、ベッドと、年季の入った真空管ラジオが床に置かれているだけ。亀裂の入った厚いコンクリートの壁からは、水道管から漏れた水が流れ出ている。この状況を改善する気など、私には毛頭ない。この光景を芸術だと賛美する人がいるのだから。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
薄暗い部屋の隅で、謝罪する裏乃。
「やぁ、裏乃。ラジオは楽しいかな?」
私は真空管のラジオのチャンネルをいじってみる。しかし、聞こえるのは砂嵐の雑音ばかり。その音が不愉快で、私は嫌な表情だ。
「あの人が。歩夢が友達にならないから・・・・・・」
泣きながら、裏乃は私に訴える。当然、私が心変わりすることはない。精神病棟の患者の中でも、裏乃には特別な治療を必要としていたからだ。
「いつものバスタブに水を溜めておいた。きっと呼吸をすることが懐かしくなる・・・・・・」
裏乃の溺れるさまは、見ごたえがある。苦しそうに咳をする瞬間が・・・・・・
寒い冬の朝、まだ朝も早いというのに僕、冴島歩夢は目を覚ます。どうやら懐かしい一人の少女の夢にうなされ、目を覚ましたらしい。その証拠に僕の右手は酷く震えていた。まだ眠気の残るのを我慢し、僕はベッドから立ち上がる。学校に行くまではまだ時間があった。しかし、二度寝する気には到底なれない。また、あの子の夢を見るのではないかと、不安だったからだ。自室の椅子に座り、すぐ目の前にある机の引き出しを開けた。引き出しの中には、一枚の写真だけが納められている。黒髪の長いポニーテールをした少女の写真。背景には海が見える。季節は今と同じ一年前の冬だったのを思い出す。写真の中の少女も白いコートを着ていた。永瀬志保。写真に写る少女の名前だ。写真の中の彼女は笑っていた。楽しそうに・・・・・・そう、会うたびに楽しそうな笑顔だった。
「君がいなくて寂しいよ・・・・・・」
写真の中の志保に話しかけたとき、僕は苦笑する。当然だ。返事などしてくれるわけがない。志保はもうこの世にいないのだ・・・・・・あの日、たった一人の友達を僕は失った・・・・・・
「いいんだ。一人でも・・・・・・僕は構わない・・・・・・」
僕は志保の写真を、机の引き出しにしまう。恐らくもうすぐ鳴り響く、目覚まし時計の電源をオフにし、僕は朝食が用意されているはずの一階へと階段を下りる。食卓のテーブルにはパンと、紙パックに入ったフルーツミルクだけが置かれていた。いつもの朝食の光景だ。別に驚きはしない。僕がまだ小さかった頃、父親は浮気相手と家を出た。捨てられた母はその日以来、女手一つで僕を育て毎日働き通しだ。まだ日が昇る頃に会社に出かけ、いつも夜遅くに帰ってくる。そんな甲斐もあってか。多額の寄付金のおかげで、母は僕を私立の高校に入学させることができた。周りには金持ちの家の子供ばかり。母子家庭の貧乏人の僕が、無視されるのは当然の結果だ。母は僕が、楽しい学園生活を送っているとばかり思っている。しかし実際は、憂鬱で孤独な日々だった。貧相な朝食をすませ、身支度を整えると、僕は学校へと向かう。
朝の挨拶が飛び交う通学路で、僕は一人孤独に歩いた。おはようなんて言葉は、もうずいぶんと長い間口にしていない。口にしていないつもりなのだが・・・・・・
「あ、歩夢君、あの、おはよう・・・・・・」
(飽きもせずに・・・・・・よくも毎朝・・・・・・)
僕は心の中で深いため息をついた。目の前にいた値段の高そうな灰色のコートを着た少女に、いつもの朝と同じように怪訝な表情を見せた。
「もうすぐ雪が降りそうだね」
満面の笑顔を見せる少女。名前は当然知ってる。永瀬詩織、死んだ志保の双子の妹だ。黒いロングヘアーを背中まで伸ばした美少女。成績も優秀で男子からも人気が高い。もしも、彼女がポニーテールなら志保に瓜二つの容姿だ。それでも彼女は志保じゃない。志保はもっと活発的だった。
「ああ・・・・・・」
僕は詩織を無視して、何もなかったかのように通り過ぎようとする。
「もうすぐテストだね、勉強はしてる?」
詩織は何事もなかったかのように、僕の隣を歩く。
「いや、してない」
僕は正直、詩織に迷惑していた。志保が亡くなって以来、彼女は僕を付け回している。志保の代わりにでも、なろうというのだろうか? 毎朝のように、取り留めのない話しばかり勝手にしてくる詩織。僕は心の底から彼女を嫌っていた。
「歩夢君、テストが終わったら一緒に映画観に行こう。駅前の映画館で楽しそうな恋愛映画がやってるんだよ。主人公の男の人が恋人に浮気してるって疑われるの。テレビの予告編だけで私、笑っちゃったんだよ」
目を細め笑う詩織。
(どうか一人で笑ってくれ)
学生服のポケットに両手を入れ、僕は歩く。
「歩夢君、もしかして、映画嫌い・・・・・・?」
隣で歩く詩織は、どこか落ち込んだ瞳で僕を見た。テレビすらろくに見ないのに、どう答えればいいんだ? 嫌々ながら、僕は少し考えた挙句、口を開く。
「都合が悪い」
拒絶する僕。それでも詩織はめげなかった。
「それじゃあ、歩夢君が好きな映画でいいよ。勿論都合がいいときで」
ニッコリと詩織は笑う。好きな映画なんて思いつかない僕。何も答えず僕は通学路を進む。知ってか知らずか? 詩織は話を続ける。きっと約束をしたものだと思っているに違いない。
「何だか楽しみだね」
結局、詩織の強引な誘いは学校に着くまで続いた。まだ授業も始まっていないというのに、どっと疲れた気がする。
「それじゃあ、またお昼休みに」
詩織とは下駄箱でおさらばだ。同じクラスでないことが唯一の救い。思わず僕は、来年のクラス替えを気にしてしまう。もしも詩織と同じクラスになったらと。僕はそれが怖かった。詩織は決して志保ではない。僕は、志保になろうとする彼女に嫌悪していた。
「おはよう」
上履きに履き替えた後、詩織が同じクラスの友人に話しかけている。それを僕は思わず横目で見ていた。
「詩織、あんたまた冴島と一緒に来たの?」
「あんなビンボー人、ほっときなよ」
詩織の友人たちの心無い言葉。いつものことだが僕の心は傷つく。
「歩夢君は大切な友達だよ」
笑顔で言う詩織。それも迷惑だ。足早に僕は自分のクラスへと向かう。
自分のクラスへと入る僕。クラスメイトたちはみんな僕を空気のように扱う。まるで透明人間が入ってきたかのように。僕は一人自分の席に座り、ただうつむいた。これが僕の長い一日の始まりだ。周りには社長令嬢や、金持ちのお坊ちゃまが、僕には理解不能な会話をしていた。
「日曜日に見た劇団は素晴らしかったよ」
「お前、本当に気に入ってるんだな」
「この前、パパが連れて行ってくれた美術館でね・・・・・・」
「テストが終わったら家族で海外に行くんだ・・・・・・・」
劇団、美術館、海外、僕には縁のない言葉だ。このクラスで、いやこの学校で唯一の母子家庭の僕。そんな貧しい家庭の僕が、周りから無視されるのは当然。僕が不登校にならない理由は一つ。毎日働きづめの母を、悲しませないため。それだけだ。
しばらくすると担任の教師が教室に入って来る。そこでいきなり小テストをやらされた。別段動じないクラスメイト達。スラスラと問題を解いている。成績の悪い僕は、殆ど白紙で小テストを終える。その後すぐに英語の授業が始まり、担当の教師が鮮やかな発音で英文を読み上げていた。憂鬱で退屈な僕。唯一の楽しみといえば、彼女を思い出すこと。志保との楽しかった過去を、思い出すことだけだった・・・・・・
『それにしても怖い映画だったねー』
実に楽しそうな志保。そう、あれは二人で映画を見に行ったときだ。今流行のホラー映画を見たいと志保が言ったのだ。僕は嫌だと言ったのだが、志保が永遠と駄々をこねたので、殆ど無理矢理行くことになった。
『歩夢はずっとスクリーンから目を逸らしてたよね』
小悪魔のように微笑む志保。彼女の自慢のポニーテールが揺れる。狼狽える僕を志保は笑う。たった一人の友達である志保。彼女と一緒のときは、僕は孤独を忘れ人生を楽しむことができたのだ。中学に入学して人付き合いが苦手な僕は、すぐにクラスから孤立した。そんなときに話しかけてくれたのが志保だ。
『少し話そうよ』
休み時間、志保は僕とつまらない雑談をしてくれた。テレビや映画、ファッションの話し。当然僕はその話についていけない。僕はただ単に相槌を打つ。志保は時代遅れで世間知らずな僕を心配したかのように、休み時間や昼休みにはいつも話しかけてくれた。志保と僕は段々とかけがえのない友達になっていく。当然、孤独を思い出す日もあった。志保が友達の女子と楽しく談笑しているときだ。僕はいつも遠くから彼女を寂しく見つめていた。談笑が終わると志保は必ず僕を慰めてくれる。
『歩夢、寂しかったよね』
志保は僕を抱き締め慰めてくれた・・・・・・あの温もりは今でも忘れない。そして、決して忘れられない冬の夕暮れのあの日。ある海沿いの町で。
『冬は孤独を感じやすい季節だから』
冷たい砂浜から冷たい海を見つめる。その日は酷く寒かったのをよく覚えていた。
『・・・・・・愛してくれるの・・・・・・?』
気が付けば授業は四限目の終わり。面識のないクラスメイト達は、続々と食堂に向かう。僕はいつものように教室に残った。
(腹なんて空かないんだ。こんな学校で・・・・・・)
それが僕の本音。息が詰まるようなこの学校。僕は好きになれない。昼食はいつも抜きにしようと思うのだが。
「歩夢君。食堂行こうよ」
志保の生き写しの登場だ。毎日のように僕は嫌になる。
「腹は減ってない」
そう、だからどうか仲のいい友達と昼食をとってくれ。
「えー、ちゃんとお昼を食べないと体に悪いよ」
僕を心配するかのような詩織の表情。
(こんな奴、嫌いだ)
心の中で僕は言う。当然彼女には聞こえてないらしく、僕をしつこく食堂に誘う。そしてそのとき、救世主が現れた。
「あ、あの、永瀬さん・・・・・・」
詩織に声を掛ける人物が現れる。振り返る詩織。僕もふと目をやると、そこには男子の優等生である野上が立っていた。
「お昼、一緒にどうかな? そ、その、二人で一緒に・・・・・・」
あきらかに照れながら、詩織を昼食に誘う野上。僕は心の中で彼を応援していた。
(いいぞ野上。それでこそ救世主だ。早くその女を連れてどこかに消えてくれ)
しかしそんな僕の心の応援を知らない詩織は、
「ごめんなさい。お昼はいつも歩夢君と一緒なの」
申し訳なさそうに野上の誘いを断る。残念そうな野上の表情。その表情は一瞬僕を睨んだかに思えた。きっとこの野上は、詩織に気があるに違いない。その思いを僕というこの学校でも空気同然の存在が、邪魔しているのだ。そして僕は渋々と口を開くことにした。
「いいじゃないか、こんないい男に誘われたんだぞ? だったら行かない手はない」
空気である僕が喋る。しかもまったく面識のない優等生の彼をフォローしたのだ。野上は驚きにも似た怪訝な表情を見せていた。
「え、でも・・・・・・」
浮かない表情を見せる詩織。志保がいなくなって、彼女が僕に付きまとうようになってから、もう何度も見ている表情だ。僕が気にしたことは一度もない。
「いつも歩夢君と食べてるし・・・・・・」
このとき詩織が僕には、駄々をこねる子供のように見えた。
「いつもお前が無理矢理誘いに来るんだろう?」
的を得ている僕の言葉に、詩織は言葉を失い、目を見開きショックを隠し切れない表情だ。
「永瀬さん、彼もそう言ってるんだ。行こう」
野上は立ち尽くす詩織の手を取る。随分と大胆な男だ。
「・・・・・・歩夢君・・・・・・」
野上に手を引っ張られる詩織。教室を後にする瞬間、悲しそうな瞳をした彼女と目があった。
「おい、よせよ・・・・・・」
思わず僕は顔を伏せてしまう。ときどき詩織が志保に見えてしまうときがある。嫌な錯覚だ。
(あいつは志保じゃない・・・・・・わかってるだろ・・・・・・?)
時間は午後三時半。優雅な音色の金の音が、僕の退屈で憂鬱な一日の終わりを告げる。まるで教会の鐘の音だ。僕は学校の職員室へと向かっていた。現代社会の教師に呼び出されたのだ。その教師は職員室に入って来る僕を見て、嫌な表情を浮かべる。そして第一声がこれだ。
「成績が悪い」
(だからってどうした)
僕は気にしない。
「君みたいな劣等生には正直迷惑している。勉学に励む気がないのなら、退学するか、不登校にでもなってくれ」
まさか現役の教師に、退学と不登校を進められるとは。このとき正直驚いていた。苦労してこの学校に入学させた母は悲しむに違いない。
「それと、永瀬詩織のことなんだが、君のような生徒が仲良くするのはやめなさい。成績優秀な彼女も酷く迷惑しているはずだ」
(おい、何を言い出すんだこいつは?)
仲良くなんかしていないし、酷く迷惑しているのは僕のほうだ。
「どうせ一線を越えたいだけなんだろう? 魂胆はわかっている」
詩織、永瀬詩織と一線を越える? 僕があの女の体に魅了されてるって? そんな思いは僕の心に一欠けらもない。心の底から怒りを覚える。
「ふざけるな!」
僕は偉そうに椅子に座る教師の顔面に、力いっぱいの拳をお見舞いする。椅子から転げ落ち、間抜けに鼻血を出しながら、驚いた顔で僕を見る現代社会の教師。それが気に入らず、僕はきつい足蹴りを何度も放つ。
「おい! この偉そうなクソ野郎! 勝手な言いがかりつけやがって!」
僕の足蹴りは、この教師が意識を失うまで続いた。続くはずだった。妄想の世界では・・・・・・
「悪い成績、迷惑している永瀬詩織。言いたかったのはそれだけだ。わかったら早く帰れ」
目の前にはさっきと変わらず、ゴミを見るような目をした教師。思わず妄想に耽っていたらしい。言われるがまま職員室を出って僕は下駄箱に向かう。そこで待っていた人物。優等生の野上だ。腕組みをして僕を睨み付けていた。
「おい、貧乏人。体が臭いぞ」
いきなり何を言い出すんだこいつは? それにしても失礼なやつだ。因みに毎日ちゃんと僕は風呂に入ってる。
「ここは貧乏人が通う学校じゃない」
完全に僕を見下した野上の言葉。僕は薄ら笑いを浮かべながら、下駄箱から自分の靴を取り出し、一刻も早く静かな自宅に帰ろうとする。それでも野上の言葉の暴力は止まらない。
「永瀬さんは僕と一緒にいるほうがお似合いだ。あんな美人は君に相応しくない」
先ほどの現代社会の教師といい、この優等生の野上。どういうわけだか今日は嫌味の連続だ。それもこれも全部永瀬詩織が絡んでいる。
「ああ、わかったよ。そんなにあの女が好きなら喜んでくれてやる。だからもう僕には構うな」
吐き捨てる僕。野上の表情は悪魔のように形を変えていく。僕が少し恐怖を覚えたそのときだ。
「歩夢君。今帰り?」
小首を傾げた詩織と、僕は下駄箱で再開した。こいつのせいで、ただでさえ憂鬱な一日が散々だったのだ。言ってやりたい文句は山ほどあるのだが。
「丁度良かった。永瀬さん。一緒に帰ろうと思ってたんだ」
ついさっきの悪魔の表情を隠し、優しい微笑みを浮かべながら、野上が僕と詩織の間に割って入る。
「ごめんなさい。いつも歩夢君と一緒に帰ってるから」
詩織は半ば強引に僕の手を取り、なぜだかわからないがその手を強く握った。
「おい、何だ?」
詩織の態度が少しおかしいと思う僕。
「帰ろう」
詩織はまるで僕を守るかのように、野上を後にし、昇降口の前まで僕を連れだす。その間、野上の突き刺さるような視線を、背中越しで嫌でも感じずにはいられなかった。
「避難完了だね」
詩織は満面の笑みで僕に言う。
「何が避難だ」
不機嫌丸出しに僕は詩織に吐き捨て、勝手に歩きだし、自宅に帰りだす。
「歩夢君、待ってよ」
詩織は勝手に後ろから着いてくる始末だ。毎日だ。毎日気が付けばどこか近くに詩織がいて、どうでもいい話題や、僕には到底理解不可能な話題を話しかけてくる。
「あの人って酷いよね。毎日歩夢君の悪口ばっかり言ってるんだよ」
詩織の言葉に謎が全て解けた。野上が詩織に好意を抱いているのは、誰の目から見ても明らか。けど詩織は僕が嫌悪しているにもかかわらず、毎日執着してくる。野上が僕を気に入らないのも当然だ。
「許せないよ、私・・・・・」
詩織は後ろから僕の肩に手をやる。今にも感情が爆発しそうだ。憂鬱な一日をさらに悪くした元凶、永瀬詩織。僕がいつも惨めなのは、いつもこいつのせいに他ならない。
「おい、二度は言わないぞ。僕にさわるな」
少し怒りをあらわにした僕。詩織は慌てて僕の肩から手をどける。再び僕は歩き出すのだが、当然のように後ろから着いてくる詩織に、僕の怒りは限界に達しようとしていた。
「ついてくるな」
僕が言うと、詩織は無理矢理作ったかのような笑顔で、僕の隣に並んで歩き出す。
「どうして? 一緒に帰ろうよ」
僕の怒りには気づいているはずだ。なのにこの女はどうして僕と一緒にいたがる?
「よせよ、お前とは一緒にいたくない」
無理矢理な詩織の笑顔は、一気に浮かない表情へと変化した。偽りの仮面がはがれた瞬間だ。
「歩夢君」
性懲りもなく詩織は僕の名前を呼ぶ。しかもそれは志保と同じ声で。それも当然だ。双子の姉妹なのだから。
(勝手に喋れよ)
僕が詩織の存在を無視したとき、彼女が言った言葉。それは押さえていた僕の怒りを引き出すのに、十分な言葉だった。
「私が志保になるから。だから甘えていいんだよ」
自分の頭に血が上るのがわかる。志保は死んだ。死んだんだ・・・・・・
「いつも抱き締めてあげる。だからもう寂しくないよ」
「やめろ・・・・・・」
慈悲に溢れた詩織の顔。志保が憑依したかのような錯覚を僕にさせる。
「歩夢君が望むなら、私を好きにしてもいいから・・・・・・」
「なんだそれ・・・・・・? ああああ・・・・・・」
何かを思い出すような感覚。これはなんだ?
「あなたは私の大切な人だから・・・・・・」
『・・・・・・私の大切な・・・・・・』
詩織と志保が完全に一体化した。これは幻覚か? 詩織に溜め込んだ僕の怒りは、どういうわけか深い絶望感へと変り果てる。あのときの感情。寒い冬の夕暮れに、志保に自分の気持ちを伝えたときと同じだ。志保は僕のことをただの・・・・・・
「一人にしてくれ!」
僕は詩織を置いて走り出す。いや、彼女の下から逃げ出したというほうが正しい。走り続ける僕。しばらくすると真冬だというのに、僕の額からは汗が滴り落ちる。冷や汗のような冷たい汗が・・・・・・志保との思い出が次々と頭の中を駆け巡った。
『歩夢、一緒に帰ろう』
『歩夢、今日も一人だね』
『歩夢、校外学習は私と二人で行動だよ』
『歩夢、映画観に行こう』
『歩夢、修学旅行は私と一緒だから、心配しなくていいんだよ』
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」
気が付けば、僕は自分の膝を抱え、酷く息を切らす。今にも失神して倒れそうだ。真冬だというのに、冷や汗にも似た夥しい汗をかき、辺りを見渡せば、微かに見覚えのある海沿いの町に僕はいた。僕はどれくらい走ったのだろうか? 空はすでに夕暮れに覆われていた。荒廃した世界に降り注ぐかのようなオレンジの光が、見覚えのある海沿いの町を覆っている。
(ここは、確か・・・・・・)
息を切らせながら、僕は今現在どこにいるのかすぐに思い出す。この町は美里町。僕が住んでいる町から、電車で二十分ほどの場所にある寂れた町だ。僕が子供の頃に一度だけ、この美里町にある旅館に泊まったことがある。今では浮気相手と結婚した父と、仕事に明け暮れている母と一緒に・・・・・・
「お前らは汚い大人だ・・・・・・」
額の汗を拭い、思わず本音が出た。
「あははは・・・・・・」
掠れた声で笑い声が出る。それにしても、よくもここまで走ってこれたものだ。詩織、あの女のせいで冬だというのに喉が渇いている。
「子供の頃の思い出か・・・・・・」
僕は歩く。寂れた美里町を。僕が子供の頃は、沢山の人で溢れた美里町。それが今ではどうだ? 軒の連ねていたみやげやのシャッターは全て閉り、活気のあった商店街にも同じくシャッターが閉まり、人の気配など微塵も感じない。まるで僕一人が美里町に存在しているような感覚だ。夕暮れの光が、この寂れた町をさらに空しく飾る。しばらく歩くと廃業した映画館があった。潮風で看板は錆び、ショーウィンドウには、一昔前の映画のポスターが何枚も飾られたままだ。
「随分とレトロだな・・・・・・」
なんとなく目に付いた映画のポスターを僕は眺める。白いドレスを着た、女性の写ったポスター。世間にうとい僕でも古い。レトロだと理解できる。
「ここで何してるの?」
不意に後ろから声を掛けられた。心臓が口から飛び出そうなくらい僕は驚く。ゆっくりと振り返ると、野菜の入った網籠を持った女性が、表情一つ変えずに直立不動で僕を見ていた。この衰退した美里町の住民だろうか?
「ああ、いや、すぐに帰るから心配しないで」
僕はその場を後にしようとするのだが・・・・・・
「これを届けて」
女性は僕に野菜が入った網籠を差し出す。
「え・・・・・・?」
訳が分からないのも無理はないだろう。見ず知らずの女性に網籠を差し出された。これだけでも十分変だ。
「受け取って」
「あ、ああ・・・・・・」
網籠を受け取る僕。いや、無理矢理渡された。受け取った途端、女性は夕暮れの美里町へと消える。
「あ、おい! 届けるってどこに!?」
僕はすでに、後ろ姿しか見せていない女性に叫ぶのだが、彼女はまるで僕の大きな声に気が付いている様子はない。
(普通、気が付くだろう)
心の中で僕はぼやく。女性から無理矢理渡された網籠の中には、ニンジン、ジャガイモ、キャベツ、それらに隠れるように少量のキノコが入っていた。これではまるでシチューの材料だ。
「知るか、訳がわからない」
当然の如く僕が途方に暮れたとき。
「うん?」
網籠にある少量のキノコに隠れるように、一枚の色あせた小さな紙切れがあった。僕は紙切れを手に取る。
「氷室サナトリウム病院・・・・・・? 午後五時のバスに乗れ・・・・・・?」
紙切れにはそう書かれていた。ご丁寧に午後五時のバスに乗るようにとも書かれている。僕は網籠に入った野菜を再び見つめる。投げ捨てれば、妙な罪悪感に蝕まれそうだった。
「・・・・・・わかったよ・・・・・・」
溜め息交じりに僕は、美里町にあるバス停へと向かう。すぐ近くに、昔家族と泊まった旅館があった。営業しているのかどうかは知らないが。確か旅館の近くにバス停があるはずだ。子供の頃一度だけ来ただけだが、バス停の場所は覚えていた。夕暮れの美里町を歩き、寂れたバス停へと僕はたどり着く。バス停にある時刻表に僕は目をやるのだが。時刻表の文字は黒ずんでいて、とても読めるような状態ではなかった。
「おい、おい・・・・・・」
本当にバスなんて来るのか? 僕がそう思うのも無理はないだろう。バス停にあるアナログの時計の針は、時刻二時ニ十一分で止まっていた。時計を持っていない僕。今現在、何時なのかもわからない。
「あいつのせいだ」
原因である詩織に僕は憎悪した。先ほどまで、額から滴り落ちていた汗は引いたものの。そのせいで酷く喉が渇いている。近くには自動販売機があったが、売ってているはずのジュースや缶コーヒーは、全て売り切れの文字がボタンに薄く点灯していた。
「嫌な日だな、今日はとくに・・・・・・」
僕が上を向き、夕暮れの空を見つめようとしたときだ。耳に車の大きなエンジン音が聞こえた。左を向き、道路の目をやると、そこには紛れもなく一台のバスが走っている。
「走ってたんだ。本当に・・・・・・」
本当にやってきたバスに僕は少し感心した。まさかこんなぼろいバス停に、停車するバスがあるとは。鈍いブレーキ音とともに、バスは停車する。運転手は自動扉を開けると、乗り込む僕を見て狐につままれたような表情をした。
「これは驚いた。ここで客を乗せるのは、もう何年も前だよ」
年老いた運転手が言う。本当に驚いた様子だ。
「あ、あの、氷室サナトリウム病院まで行きますか?」
掠れたような僕の声。喉が渇き、少し痛みを感じ始めていた。
「ああ、行くけど、何しに行くんだい?」
「い、いや、用を頼まれていて・・・・・・」
そう言いながら、僕はバスの空いている席に座る。どうやら乗客は僕一人らしい。運転手はバックミラー越しに僕に頷くと、自動扉を閉めバスを発進させた。走りすぎて疲れた体、渇いた喉、僕は少しぐったりとし、窓の外を見つめる。しばらくすると海が見えた。夕暮れの光に照らされた海。この海を見て綺麗だと思えた者は、きっと幸せな証拠だ。その証拠に、僕には空しい光景に思えて仕方ない。美里町にある海沿いの道路をバスは走り続ける。
(この野菜を届けたらすぐ家に帰ろう)
風呂に入って食事をして、ベッドに横になりたい気分だ。海沿いの道路を抜け、バスは山道を少し走った所に停車した。
「どうも、ありがとう」
僕は運転手にお礼を言うと、代金を払い、バスを降りる。
「いいんだ。サナトリウムは山を少し上った先にある。行けばすぐわかるよ」
この疲れきった体でまだ歩けというのか。野菜を届けるだけで、酷く安請け合いをしたものだ。
「ああ、ちょっと待って」
不意に運転手が僕を引き止める。僕が振り返ると、運転手が少し青ざめているのは、気のせいだろうか?
「ああ、その、もうすぐ夜だから気を付けるんだぞ」
僕は頷いて返す。そしてバスは自動扉を閉めて、走り去っていった。
(夜だから気を付けろって? えらく心配性な運転手だな)
僕は山道を歩く。ゴツゴツした石などはなく、比較的歩きやすい山道だったのだが、僕の喉の渇きはすでに限界に達していた。今にも倒れそうで、まるで脱水症状でも起こしたみたいだ。いや、その兆候だろうか? 視界が少しぼやけて見える。しばらく歩くと、白い大きな建物が見えてきた。まるで大きな洋館のような建物だ。入り口であろう西洋風の扉の横には、色あせた看板がある。氷室サナトリウム病院。看板にはそう書かれていた。
「ここか、助かった・・・・・・」
それにしても一目で医療施設とは、到底思えない建物だ。創りが西洋の洋館にしか思えないのである。まあいい。野菜を渡して、水を一杯もらったら帰ろう。僕は氷室サナトリウム病院の、西洋風の扉を開けると中に入る。サナトリウムの敷地には、大きな庭が存在していた。綺麗な白い花が咲き、無駄な雑草はすべて取り除かれているようだ。よく手入れされた庭。誰が見てもそう思う。そう思う・・・・・・
「畜生・・・・・・」
汚い言葉を口にした瞬間、僕はサナトリウムの庭に座り込んだ。
(誰か水をくれ・・・・・・誰でもいから・・・・・・)
もう限界だ。意識が朦朧としてきたそのときだ。
「君は誰?」
僕に声を掛ける人の声がした。声色から女の子のものだとわかる。
(誰だ・・・・・・?)
声の主は意外と近くにいた。それも僕の隣に腰を下ろしている。外見から同じ歳くらいの少女だ。
「ここの新しい患者さん? 誰かのお見舞い? それともお見送り?」
不思議そうに小首を傾げる少女。その口元が、少し微笑んで見えるのは気のせいか? サラサラとした薄赤色の長い髪に、それと同じく薄赤色をした瞳。透き通るような色白の肌が、綺麗で印象的だ。服装は白いワンピースを着て、その上には温かそうな栗色のセーターを羽織っていた。荒廃した世界から差し込むかのような夕暮れの光が、少女を幻想的に飾る。
(綺麗な子だな・・・・・・)
僕が最初に思った第一印象だ。この少女は美里町の住人だろうか?
「そんな冷たい場所に座ってたら病気になるよ」
少女は微笑んだ。慈悲に溢れた微笑みで。どこか人を安心させる微笑み、閉ざされた人の心を開く力があるように、その微笑みは僕を安心させる。
「水を一杯貰えないかな? 頼むよ、死にそうなんだ・・・・・・」
僕は慈悲の微笑みを浮かべるこの見知らぬ少女に、甘えることした。
「少し待ってて」
少女は立ち上がると、サナトリウムの大きな庭にあるベンチへと歩き出す。
ベンチには何やら葉っぱの入った水差しと、グラスが置かれている。少女はグラスに水差しに入った水を注ぐと、今にも死にそうな僕の下へと駆け寄った。
「はい」
水の入ったグラスを差し出す少女。僕はグラスを受け取ると、その中に入った水を一気に飲み干した。それは不思議な感覚がする水だった。まるで喉と肺を癒すかのような清涼感がある。
「ミント水だよ。君も気に入った?」
ミント水。聞き覚えなど、世間にうとい僕など到底ない。もしかして今の流行なのか? 怪訝な僕だが、何とか立ち上がることができそうだ。
「ありがとう。生き返ったよ」
少し大げさだったか? 僕が口を開くと少女は笑った。
「私は沙羅、君は? 名前が聞きたい」
薄赤色の瞳で僕を見つめる少女。名前は沙羅というらしい。
「冴島歩夢」
僕の名前を教えた途端、沙羅は実に嬉しそうだった。
「あゆむ? 歩く夢って書くの?」
「ああ、そうだ」
「いい名前だね」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだ。
「それで、ここに何か用?」
少女は小首を傾げる。そうださっさと用件をすませて帰ろう。
「ああ、その、これを届けろって言われて」
僕は野菜の入った網籠を沙羅に見せる。
「これはシチューの材料?」
もっともな意見だ。見知らぬ女性から、この野菜とキノコを渡された僕もそう思う。
「あ、えーと、君に渡せばいいのかな?」
少女は柔らかそうな唇に、人差し指をあて何やら考え始める。
「君じゃなくて、沙羅って呼んで」
沙羅は言う。この子の名字は勿論知らないし、下の名前で呼ぶのもどうかと、遠慮を考えてしまう僕。
「さぁ、来て」
「あ、おい・・・・・・」
沙羅は突然に僕の手を取る。そしてどういうわけか、彼女はとても嬉しそうに笑うのだった。
「それ、先生に渡そう。料理が得意な人だから」
「先生・・・・・・?」
先生というだけに、このサナトリウムに務める医者だろう。沙羅は僕の手を引っ張り、少し強引に僕をサナトリウムの中に案内する。
氷室サナトリウム病院。その中は綺麗に清掃され、埃一つ落ちていないフローリングのホールに僕は驚く。ここでようやく沙羅は僕の手を離す。
「凄い、こんな場所は見たことがないよ」
壁には色々な絵画が飾られていた。サナトリウムというより、美術館に近い感じがする。実際、行ったことはないが。
「この絵が私のお気に入り」
「へー、そりゃ凄い・・・・・・」
これは、どこかの外国だろうか? 夕日の光に包まれた草原の絵画が、お気に入りだと言い出した沙羅。凡人以下である僕には、どうもこの絵画の魅力が理解できない。
「綺麗な草原」
沙羅は薄赤色の瞳で絵画を見つめる。
「いつかは行ってみたい場所・・・・・・」
どうやら完全に自分の世界に入り込んでいるようだ。確か志保にもそんなときがあった。沙羅がどこか志保と似た雰囲気を持つのは、僕の気のせいだろうか?
「イタリアかどこかに行けば見られるんじゃないか?」
冗談半分で僕は口にする。それだというのに沙羅は真剣に考え込む。
「イタリア・・・・・・」
ただの冗談を普通そこまで真に受けるか? 僕が心の中で苦笑したときだ。
「素晴らしい少年だ」
絵画を見つめるのをやめ、僕と沙羅は後ろを振り返る。そこには綺麗な黒いスーツに、その上から白衣を着た、中年の男性が立っていた。白髪のオールバックをした男性。白衣を着ている時点でここの医者だろう。僕と目が合うと、この男性は紳士的なお辞儀をした。まるで西洋の人がするようなお辞儀だ。
「先生」
沙羅はこの人物のことをそう呼ぶ。しかもニッコリとした笑顔で。
「沙羅にも友達ができたのかな?」
中年の男性、いや、先生は沙羅の顔を覗き込みながら微笑む。
「いや、僕は友達とかじゃなくて、これを届けろと・・・・・・」
「この絵画は、十八世紀初頭に無名の画家が南イタリアで描いたものです」
僕の言葉を殆ど強引に無視し、この先生は突然に語りだした。沙羅のお気に入りの絵画について・・・・・・しかし、本当にイタリアの絵だとは、僕は夢にも思わなかったけど。
「場所はプーリア、当時は美しい草原が数多く存在していた。無名の画家はイタリアを旅しながら、自分が本当に心から美しいと思える場所を探した。そして長い歳月の果てに探し当てたのが、この絵画に描かれた草原。無名の画家が最初で最後に世に送り出した作品。世界に一つ、この絵画はここにしか存在しない」
先生は僕の目を見つめると、静かに微笑んだ。
「この絵画の場所がイタリアだと当てた君は、実に素晴らしい観察眼を持っている」
まさか僕の適当な冗談が本当だったなんて、この先生は夢にも思わないだろう。
「紹介が遅れました。このサナトリウムの院長の氷室です。普段呼ぶときは先生と・・・・・・」
その名の通り、氷室サナトリウム病院の院長がこの人らしい。それだったら話が早い。
「これを届けるように言われたんですが」
僕は野菜が入った網籠を氷室先生に差し出した。
「一体誰に?」
「いや、知らない人に。全然知らない女の人に頼まれた」
少し取り乱す僕。隣では不思議そうに沙羅が僕を見つめる。少し恥ずかしい気分だ。
「そうですか。それでは今夜の沙羅の夕食はシチューにしましょう」
とくに詮索はせず、氷室先生は網籠に入った野菜を受け取る。誰もが思った通り、やはりシチューの材料だった。
(これで帰れる・・・・・・)
僕は一安心。家に帰ってベッドで一休みだ。
「沙羅、そろそろ検診の時間だ。病室に戻りなさい」
「大丈夫だよ。私は元気」
検診の時間? 病室? 沙羅はやはりここの患者なのか?
「病気を甘く見るのはいけないことだ。せっかくできた君の友人も心配するだろうし」
氷室先生は僕を見つめた。それもどこか不敵な笑顔で。まるで僕を無理矢理、沙羅の友人にしようと企んでいるかのように。
「わかった・・・・・・」
渋々と沙羅は、病室に戻ることを承諾したようだ。
「歩夢とは、もっと話がしたいのに・・・・・・」
実に残念そうに告げる沙羅。
「え? どうして僕と?」
こんな退屈な僕と話がしたい? 怪訝になるのも当然な僕。
「君は壊れた人だから」
僕に微笑む沙羅は、病室へと戻っていった。彼女の言ったことは図星だ。志保が死んで以来、僕は孤独の闇に支配されていた。苦痛を感じ、心に痛みが走る日々。まるで壊れた人形のようだ。それにしても、どうして沙羅は僕の抱える心境がわかったのだろうか? 考え込もうとしたとき、氷室先生が僕に話しかけた。
「さて、お名前のほうは、歩夢とお呼びしましょうか?」
「え、あ、別にかまわないけど・・・・・・」
「私も君と話がしたい。沙羅のことで」
僕と話がしたいという人物が、もう一人現れた。
「あの子のことで?」
「はい、きっとお腹がお空きでしょう。 ラウンジで何かご馳走しましょう」
この紳士的な氷室先生の申し出は、僕にとって願ってもないものだ。昼間から何も口にしていない。いや、沙羅が与えてくれたミント水なら口にしたが、腹に入ったのはそれだけ。僕は勿論空腹だ。
「いや、あの、実は腹ペコで・・・・・・」
困りながら僕が言うと、氷室先生は微笑む。
「そうですか。それではパンケーキはお好きですか? ラウンジで用意させましょう。ここのパンケーキはきっと気に入りますよ。さぁ、どうぞこちらへ」
氷室先生に案内され、僕はサナトリウムのつやのある木製の廊下を歩く。患者たちが皆、氷室先生に話しかける。
「氷室先生。こんな時間に珍しいですね」
本を読んでいた女性の患者が、氷室先生に話しかける。
「やぁ、灯里。読書のほうは順調かい?」
「はい、先生が選んでくれた本はとっても素敵です」
「それはよかった。君にとってその本はバイブルかもしれないな」
女性は本を抱き締め笑う。すると今度は男性の患者が氷室先生に近づいてきた。
「氷室先生。この前の料理はほんとに美味しかった」
「君に私の料理を評価されて嬉しいよ往人。いや、正直に。あのオードブルは私の自信作だ」
「今度は是非、調理の仕方を」
「君が元気になれば教えよう。それまではここで安静にしているんだ」
氷室先生は患者たちに微笑みを返す。
「先生、あの子、また薬を飲まなくて・・・・・・」
次に氷室先生に話しかけたのは、白いナース服を着た女性。
「沙羅の薬嫌いは今に始まったことじゃないだろ?」
どうやら沙羅のことで話をしているらしい。
「これで四日目ですよ。あの子が薬を残したのは・・・・・・」
「大丈夫。心配はいらないよ。解決策を用意した」
なぜか氷室先生は僕を見ながら言った。一緒にいたナースは、不思議そうな眼差しで僕を見る。当然僕は何も理解できず、ラウンジに案内された。
「では、どうぞ」
ラウンジのテーブル席に座る僕。窓からは夕暮れの光が差し込んでいる。氷室先生が、二枚のパンケーキが盛りつけられた皿をテーブルに置いた。イチゴジャムがのった美味しそうなパンケーキだ。
「自家製のイチゴジャムです。沙羅と私が作ったんですよ」
僕はフォークを手に取り、パンケーキを口にする。空腹な僕。ただのパンケーキなのに堪らなく美味しかった。沙羅と氷室先生の作った自家製のイチゴジャムが、ほんのりと甘い。
「さて、本題に入りましょう。どうぞ食べながら聞いてください」
パンケーキを飲み込む僕。慌ててフォークを皿に置く。流石に食べながら話を聞くのは失礼だ。僕の考えを察したのか、氷室先生はゆっくりと頷いた。
「実は折り入ってあなたに相談したいことがありまして」
「相談?」
今日初めて会った僕に相談? 思わず氷室先生に怪訝な表情を見せてしまう。
「あ、いや、その、僕にできることならどうぞ言ってください」
狼狽えながら、自分が友好的な人物であると象徴させる。
「相談したいのは沙羅のことです。もうご存知かもしれませんが、あの子はこのサナトリウムの患者です。しかもなにかと問題の多い患者でもあります」
「あの子が?」
信じ難い。それも当然だろう。沙羅はまるで慈悲に溢れた笑顔で、僕に接してくれた。
「ここには私を含めた六人の医師と、九人の看護婦。そして三十一人の患者がいます。その中で沙羅が心を開いた人間は私一人です」
氷室先生の表情は真剣そのものだ。
「そして今日、野菜を届けに現れたあなた。どういう心境だったのかは知りませんが、沙羅は見ず知らずのあなたに心を開いた。最初見たとき私も驚きましたよ、沙羅が私以外の人間に笑顔を見せるなんて」
わからない。そんな沙羅が、どうして僕に心を開いたのかが。沙羅は僕のことを、壊れた人と言った。もしかしたら、それが関係しているのだろうか?
「あなたには沙羅の友人になってほしい」
「え? 僕が?」
「ええ、そうです」
氷室先生は深く頷く。
「無理にとは言いません。ただ気が向いたときに、このサナトリウムに顔を出してくれればいいんです」
氷室先生の申し出に、僕は言葉を発することができなかった。誰かに接するのは得意じゃない。
「すぐに答えを出してくれとは言いません。よく考えてくれてからのほうがいい」
氷室先生は椅子から立ち上がる。
「さて、私は、沙羅が食べる夕食の支度をしなくてはなりません。材料は勿論あなたが持ってきてくれた野菜とキノコです」
氷室先生は笑う。そして西洋風のお辞儀をすると、ラウンジを後にした。
「友達か・・・・・・」
僕には縁のない言葉に思える。そのときだった。
「氷室先生は歪んだ人だよ」
驚いて椅子から立ち上がる僕。振り返ると、白い病院服を着た一人の少女が立っていた。肩まで伸びる金色の髪に、水色の瞳。歳は中学一年生くらい。
「そうは思わない」
見ず知らずの他人に、いきなり何を言うんだこの子は? 僕はそう思いながら再び椅子に座る。そしてまた考えに耽るのだが・・・・・・
「沙羅はいつも私を無視するんだよー」
「ああ、そうかよ・・・・・・」
僕も無視しよう。今は氷室先生に頼まれたことを考えたい。
「ねぇ、私と友達になろうよ。きっと楽しいよ」
氷室先生との会話を、この少女は聞いていたのか? 椅子に座りながら振り返る僕。それも年下の少女に向かって、酷く嫌悪感を見せた表情で。
「私は裏乃っていうの」
勝手に自己紹介をされた。少女、裏乃は目を細め笑っている。可愛らしい顔立ちの少女だ。きっと十代の男子はほっとかないだろう。けど僕は違う。
「悪いけど一人にしてくれないか?」
相手は年下の少女。言葉は選んだつもりだった。しかし、この裏乃という少女は呆然とした目で僕を見つめる。その刹那。
「えーん!」
裏乃はその場にうずくまった。
「おい、何だ?!」
驚く僕。当然だ。年下の少女を泣かしたのだ。ラウンジの机を整理していたここの職員が、僕を蔑んだ目で見ていた。僕は椅子から立ち上がり、裏乃に駆け寄る。
「あ、えーと、その・・・・・・」
こうなったら、かける言葉は一つだ。
「悪かったよ・・・・・・」
僕が裏乃の小さな肩に、手を触れようとしたとき。
「うわ!」
手の甲に鋭い痛みが走る。裏乃、彼女に爪でひっかかれた。そう思ったときにはもう遅い。裏乃の鳴き声を聞きつけた看護婦が、次々とラウンジにやってくる。
「この子に何をしたの?!」
一人の看護婦が僕に詰め寄ってきた。
「何もしてない! ただ、一人にしてくれって頼んだだけだ!」
必死に弁明する僕。看護婦は僕を睨み付けると、泣いてうずくまる裏乃に駆け寄る。
「さぁ、裏乃ちゃん。もう病室に帰りましょうね」
「今夜は一緒にラジオを聞きましょうね」
看護婦たちはまるで、幼い子供をあやすかのように裏乃に接した。そのとき裏乃が急に立ち上がり、その水色の瞳から涙を流しながら、僕を見つめる。まるで心が壊れた人間の瞳だ。僕はそう思った。
「やだ! その人と友達になる!」
今にも暴れ出しそうな裏乃を、看護婦たちが押さえる。
「友達がほしい! 友達がほしい!」
裏乃は看護婦たちによって、ラウンジから出された。
(一体何なんだ? あいつは・・・・・・?)
僕は呆然と立ち尽くす。手の甲が酷く痛む。見て見ると爪でひっかかれた跡が、赤く腫れていた。仕方ない。氷室先生に診てもらおう。僕がラウンジを後にしようとしたときだ。
「あの子は孤独で今にも死にそうなの。暗い精神病棟でいつも泣いてる」
振り返ると沙羅が立っていた。彼女は僕と目が合うと、にっこりと笑う。
「あ、ああ、そうなのか・・・・・・」
ここには精神を病んだ人間までいるのか。いや、それより彼女は、いつの間にラウンジにいたのだろうか?
「ところでどうしたの? 君も何か食べにきたのかい?」
僕が聞くと、沙羅は首を横に振る。そして嬉しそうに口を開き、その訳を話すのだった。
「病室は相変わらずつまらない。だから君を探していたの」
柄にもなく僕の心臓は高鳴る。目の前にいるのは、歳もそんなに変わらないであろう女の子。しかも美人だ。
「ねぇ、一緒に話そう。君がどんな人か聞きたい」
微笑む沙羅は僕に手を差し伸べる。これは手を繋ごうという意味なのか? 先ほどは無理矢理手を取られたが。
「あ、あの、僕は退屈な人間だよ。ここでも充分話せる話題だろ?」
僕は自分がどんな人間か正直に伝えたつもりだ。それでも沙羅は目を細めて笑う。
「奇遇だね」
「え? 何が?」
「私も退屈な人間だから」
沙羅が言うと、僕は思わず笑ってしまった。勿論、目の前にいる沙羅も同様だ。
「いや、何年振りかな? 誰かと一緒に笑うのは?」
志保が死んで以来。そんなことが僕の脳裏を過ったとき。
「楽しい。もっと話そう。私の病室で」
沙羅は僕の手を取った。あろうことか、裏乃にひっかかれた手をだ。
「ああ、ちょっと!」
少し悲痛な声を上げる僕。我ながら情けない。
「裏乃がしたの?」
その薄赤色の瞳で、沙羅は僕の痛々しい傷を見つめる。
「それは・・・・・・」
どういうわけか僕は言葉に詰まった。別に正直に話せばいいことなのに。
「さぁ」
沙羅は無傷である僕の左手を握る。
「行こう」
僕は言われるがまま、沙羅と手を繋ぎ、ラウンジを後にした。サナトリウムの廊下を歩く僕たちを、患者と看護婦たちは、皆ジロジロと見ている。ある者は不思議そうに、またある者は優しく微笑む。
「みんな私たちを見ている」
沙羅は表情一つ変えずに言う。
「いや、冗談じゃない。顔から火が出そうだ」
僕の正直な気持ちが思はず口から出る。
「あら、それはどうして?」
「それは、その・・・・・・」
その言葉を正直に口にするか、それともしないか、僕は迷った。どうして迷ったのか、自分でもよくわからない。それでも、僕はその言葉を口にする。
「綺麗な女の子と手を繋ぐのは久しぶりなんだ・・・・・・」
きっと沙羅は、嫌な顔をするに違いない。僕はそう思ったのだが。
「久しぶり?」
横目で沙羅を見ると、彼女は不思議そうな表情で僕を見ていた。
「過去に好きな人がいた? それともその人は君の恋人?」
僕は質問されるのだが。
「友人、いや、親友だった人だよ、そう僕のね・・・・・・」
勿論これは志保のことだ。
「いい子だった?」
質問する沙羅。
「ああ、いい子だったよ。それも凄く元気な女の子」
「大切な人だったの?」
聞いてくる沙羅。確かに志保は大切な人だったのだが。
「この話しはもうよそう」
誰かに話すことじゃない。わかってるだろ? 誰にも話せないことなんだ・・・・・・
「ほら、見て」
その刹那。沙羅はある病室を指差す。
「201号室? 菊池あずさ?」
病室のプレートにはそう書かれている。
「お見送りをしている」
少し身を乗り出すと、病室の中が見て取れた。
「あずさ・・・・・・」
「苦しかったな・・・・・・」
病室のベッドの上には僕と同じ歳くらいの少女が、まるで落ち着いたかのように目を閉じて眠っている。
(いや、違う・・・・・・)
僕の直感がそう思わせた。あの少女は眠ってなどいない。亡くなったんだ・・・・・・
「向こうの世界で、幸せに暮らしてくれ・・・・・・!」
少女の父親と思われる男性が、泣き崩れるのが見えた。その隣で母親も静かに泣いていた。
「綺麗でしょ?」
突然、沙羅がそんなことを言う。不謹慎だ。僕はそう思う。
「いや、僕は見るに堪えない・・・・・・」
「あら、どうして?」
小首を傾げる沙羅。この子はどこか感情が欠落しているのか? 沙羅という存在を、思わずそう印象付けてしまう。
「大切な人が消えて、残された者が悲観する。残された者は悲しみに苦しむ」
沙羅は語る。まるで何かにとりつかれたように。
「残された者の悲しみはいつ見ても綺麗・・・・・・ずっと失った人のことを想いつづける・・・・・・」
僕の気のせいか? 沙羅はうっとりとその薄赤色の瞳を、少しだけ輝かせたように見えた。
「行こう」
満足気に、沙羅は僕の手を引く。誰かの死は、沙羅にとって芸術なのだろうか? まさかロマンがある? もしそうなら、それは歪んだ芸術に思える。
サナトリウムの三階にある沙羅の病室。綺麗に整った滲み一つない白いベッド。椅子が二つに、清潔な洗面所。レトロな木製のラジオ。そして窓際に山積みにされた本。どこか寂しげな病室だとおもうのは、僕の気のせいだろうか? それとも窓から差し込む冬の夕暮れが、そう錯覚させているだけか?
「こぢんまりとしているんだな」
これが僕の感想。沙羅の病室は妙に寂しげだ。そんなことは気にもしていないのか? 沙羅は目を細め笑顔になると、ベッドの上に座る。
「さぁ、聞かせて、君がどんな人なのか」
僕は困り果てた。今にも深い溜め息を吐いてしまいそうだ。
「ラウンジで言ったように僕は退屈な人間で・・・・・・」
思わず言葉に詰まってしまう。いや、この先は言葉にするのも嫌になる。情けなく床を見つめ、僕は苦笑した。
「歩夢」
「なに?」
床を見つめるのをやめ、僕は沙羅を見る。自分でも見苦しいと感じる作り笑顔で。
「隣に座って」
「あ、ああ・・・・・・」
言われるがまま、ベッドに腰掛ける僕。すぐ横を向けば綺麗な沙羅の横顔がある。
「裏乃がひっかいた手を見せて」
裏乃にひっかかれた手を僕は沙羅に差し出す。痛みはすでに引いていたが、腫れはまだ治まっていない。
「消毒しなきゃ」
ベッドの下から沙羅は、木製の救急箱を取り出した。中を開け、小さな茶色い小瓶と脱脂綿を取り出す。茶色い小瓶に入った液体を、沙羅は脱脂綿にたらした。
「痛くないから」
沙羅は濡れた脱脂綿を、腫れた僕の手に当てる。少しだけ沁みる傷口。これでわざわざ氷室先生に、裏乃につけられたひっかき傷を、診てもらう必要はなくなったのだが。僕は美しい沙羅の横顔に、思わず見惚れていた。
「はい、おしまい」
手当てを終える沙羅は、どこか妖しい微笑みで僕を見る。至近距離で彼女の顔があった。
「あ、その・・・・・・ありが」
僕が沙羅にお礼を告げようとしたときだ。
「沙羅、入るよ」
病室のドアを開けた人物。氷室先生だった。一つのベッドに寄り添って座る僕ら二人を見て、先生はニヤリと笑う。
「これは、随分と仲がよろしいようで」
氷室先生の僕らをからかうような言動。沙羅は笑っていたが、僕は狼狽えてしまい、自分の目のやり場に困っていた。
「そ、それじゃあ、僕はこれで失礼します・・・・・・」
狼狽えながら僕はベッドから立ち上がり、沙羅の病室を、このサナトリウムを後にしようとする。
「あ・・・・・・」
帰ろうとする僕を見て、沙羅が浮かない表情をしたのは気のせいだろうか?
「どうやって帰るつもりですか?」
氷室先生は不思議そうな顔で僕を見て、口を開く。
「え? それは勿論、バスを使って」
そう、バス停でバスを待っていればいいはなしだ。しかし・・・・・・
「それは残念です」
「え? 残念って、何が・・・・・・?」
「申し上げにくいのですが、今日最後のバスはもう行ってしまいました」
僕の心は絶望で支配される。いや、待て、これはまさか・・・・・・
「今夜は是非、泊まっていくといい。丁度開いている病室があります」
笑う氷室先生。これは全て彼の策略だと気づく。そうまでして僕と沙羅を一緒にいさせたいらしい。
「歩夢。夜になったら庭に出よう。綺麗だよ、冬の夜空は」
沙羅は嬉しそうだ。僕は初めて訪れたこのサナトリウムに、一夜を過ごすことになった。
「沙羅、今夜の夕食はシチューと白パンだ。私の自信作を君に披露するよ」
優しい笑顔で告げた氷室先生に、沙羅は笑う。甘えた子供のように。
夕食はラウンジに用意されていた。夜を勤務する数人の医者や看護師、職員たちが、楽しそうに氷室先生が作ったクリームシチューを、夢中になって口に運んでいる。勿論、沙羅も僕の隣に座っていた。
「先生の料理、とてもおいしいでしょ。とくにデザートのケーキが絶品なんだよ。カスタードクリームが・・・・・・」
沙羅は僕に話しかける。氷室先生が作ったせっかくのクリームシチューに、ほとんど手を付けることなく話し続けた。程よい甘さをしたカスタードクリームの話しを。まるで言葉に飢えた子供。そう、まるで今現在の僕のように。
「それにしてもよかった」
沙羅は目を細めて笑い僕に言う。
「あ、え? 何が?」
まろやかな味をしたクリームシチューを、僕は口に運ぶのをやめる。
「今夜はずっと二人でいられるから」
目を細めて笑う沙羅の顔を見て、僕はどこか不思議な感覚だった。渇いた僕の心に、水が流れ込むような感覚。前にもどこかで同じようなことが? そうだ。この感覚は志保と同じ。
「みなさん。こんなに美味なシチューを食べたのは、私自身も初めての経験です。世界一、美味な夕食。まぁ、作ったのは私ですが」
氷室先生の言葉に、ラウンジにいたものたちが笑う。人望がある証拠だと僕は思った。
「このサナトリウムに、材料を持ってきてくれた冴島歩夢君に感謝しましょう」
手のひらを開いて右手を伸ばし、僕に向かって掲げる氷室先生。
「最高の夕食をありがとう」
氷室先生がそう口にすると
「ありがとう歩夢」
ラウンジにいた皆が、一斉に僕にお礼を言う。ジュースの入ったグラスを掲げて。勿論、沙羅も同じように。
「ど、どういたしまして・・・・・・」
僕の中で恥ずかしさがこみ上げる。人に感謝されたのは何年振りだろう?
「歩夢。もしかして恥ずかしいの?」
どこか、小悪魔のような微笑みを浮かべる沙羅。
「ああ、恥ずかしいよ。もっと笑えよ。ほら」
沙羅と二人で僕も笑っている。こんなに楽しい夕食は・・・・・・初めてだ。そう、生れて初めて・・・・・・
夕食を終えると、僕は沙羅の約束通り、サナトリウムの庭に出る。
「綺麗だね・・・・・・」
沙羅が言うと、僕は冬の夜空を見上げた。
「星は一つも出てない」
僕は指摘する。夜空を飾る星がないにも関わらず、暗い夜空が綺麗だという沙羅。正直、僕には理解できない。
「星がないからいいんだよ」
ニッコリと笑う沙羅に、僕は苦笑する。
「暗い冬の夜空。見つめていると毎晩、不思議な気分になる。格別だよ・・・・・・」
どこかうっとりと表情の沙羅。あのときと同じだ。同じ・・・・・・
病室で死んだ少女を見ていたときと同じだ。僕はこのとき、はっきりと確信した。沙羅は暗いものに芸術を感じる性格なのだと・・・・・・
「歩夢、君はどう生きてる?」
すると突然沙羅が聞いてくる。そういえば、僕のことを知りたいと言っていたのを思い出す。
「私はここで退屈な日々を送っている。いつ治るかもわからない病気と一緒に」
「治るかもわからないって?」
笑顔の沙羅に、僕は訊ねるのだが。
「一人は苦しいでしょ? 君の中にある孤独に耐える勇気も底を突き始めている」
沙羅が言葉を発した瞬間、僕の動向は開く。
「・・・・・・寂しいんだ・・・・・・毎日が・・・・・・」
僕は心の底にある、正直な気持ちを沙羅に打ち明ける。
「・・・・・・おいで・・・・・・」
沙羅は妖しく笑い。ゆっくりとした力で僕を抱き締めてくれた・・・・・・
「君は私と一緒にいればいい・・・・・・それが答え・・・・・・」
僕の耳元で沙羅が囁く。暗い寒空の下で・・・・・・
沙羅、冬の夕暮れの、寒空の下で出会った少女・・・・・・
「バスタブに水を溜めてくれ」
「わかりました。氷室先生」
患者たちが寝静まった真夜中。私は、サナトリウムの精神病棟に足を運んだ。とても大事な客人を傷つけた患者に、罰を与える為に。その患者の名前は裏乃。まったく、何度トラブルを起こせば気が住む? 確か以前は、日々出される食事に不満を零していた
私は溜め息を吐きながら、薄暗い精神病棟を進む。裏乃の病室は十一号室。その病室は私の目の前にある。鉄製のドアの鍵を開けると、部屋の中は、ベッドと、年季の入った真空管ラジオが床に置かれているだけ。亀裂の入った厚いコンクリートの壁からは、水道管から漏れた水が流れ出ている。この状況を改善する気など、私には毛頭ない。この光景を芸術だと賛美する人がいるのだから。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
薄暗い部屋の隅で、謝罪する裏乃。
「やぁ、裏乃。ラジオは楽しいかな?」
私は真空管のラジオのチャンネルをいじってみる。しかし、聞こえるのは砂嵐の雑音ばかり。その音が不愉快で、私は嫌な表情だ。
「あの人が。歩夢が友達にならないから・・・・・・」
泣きながら、裏乃は私に訴える。当然、私が心変わりすることはない。精神病棟の患者の中でも、裏乃には特別な治療を必要としていたからだ。
「いつものバスタブに水を溜めておいた。きっと呼吸をすることが懐かしくなる・・・・・・」
裏乃の溺れるさまは、見ごたえがある。苦しそうに咳をする瞬間が・・・・・・
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