サナトリウム~夕暮れの沙羅~

天倉永久

文字の大きさ
3 / 5

第三話 癒しを求めて

しおりを挟む
気が付けば、そこは僕の家の自室だった。窓からは朝焼けが差し込んでいる。僕はベッドから起き上がると、普段から殺風景な自室を見回した。

「裏乃」

サナトリウムにいるはずの、彼女の名を呼ぶ僕。無論返事など返ってくるはずもない。もし裏乃が僕の家にいたら、サナトリウムは今頃大騒ぎであろう。
あの海で見せた裏乃の愛らしい笑顔。僕はもう一度見て見たかった。まるで可愛い妹でもできたような気分に浸る僕だが。その刹那。あることに気が付く。

(どうやって帰ったんだ・・・・・・?)

それは当然の違和感だ。昨日、体調を崩し眠っていたのにもかかわらず、どうやってサナトリウムに行ったのかも覚えていない。そして今現在、どうやって自宅に帰ったのかも不明だった。

「裏乃が僕に笑いかけて、その後は・・・・・・」

必死で、あの海での記憶を辿る僕だが。記憶に決して晴れない霧が邪魔していた。
駄目だ、どうしても思い出せない。

「歩夢? 起きてるの?」

突然、僕の部屋に入ってきた人物。珍しくエプロン姿の母だった。

「起きてるよ」

息子の部屋にノックもしないで、入ってきた母を注意したいところだが。どうせ言うだけ無駄だ。注意したところで、きっと笑ってはぐらかされる。母はそういう人だ。それにしても・・・・・・

「仕事はいいの? いつもならとっくに出かけてる時間じゃ?」

怪訝な表情で僕は口にする。

「今日はお休みしたの」

母は目を閉じて、僕に告げた。しかも少し呆れているかのように。滅多なことでは仕事を休まない母。一体どうしたというのか?

「昨日、夜遅くに詩織ちゃんから電話があったの。歩夢が体調を崩したみたいで心配だって。看病しようと思って仕事を休んだのに」

若干ため息混じりの母。当然だろう。目の前には、至って何ともなさそうな息子の姿がある。

「あの、母さん」

「何?」

「昨日、何時に帰ったか覚えてる?」

「え? いつもと同じよ」

母は答える。いつもと同じということは、母が帰ったのはつまり真夜中だ。

「そのとき、僕は、ちゃんと部屋にいた?」

「いたわよ。少し寝汗を掻いて寝ていたから心配したのよ」

つまり僕は、真夜中には家に帰っていたということだ。しかし、寝汗を掻いて寝ていたこと以外、何もわからなかった。どうして思い出せない? 沙羅や裏乃が告げたとおり、壊れそうになっているのだろうか?

「それにしてもいい子よね、詩織ちゃんは。電話でね、私と一緒に歩夢を看病するって」

母にとっては僕の疑問などどうでもいい様子で。実に簡単に、詩織の話題に話を変えられた。詩織が、母に憧れを抱いていることを思い出す。

「歩夢にいい友達がいて母さんも嬉しい。志保ちゃんもきっと喜んでいるわね。きっと歩夢を見守っているのよ」

見守っている? 僕を? まったく志保の正体も知らないで・・・・・・

「体調は悪くなさそうだけど、今日は大事を取って、学校はお休みしなさい。いいわね」

そう言葉にすると、母は僕の自室を後にする。一人窓から朝の風景を見る僕。

「志保は・・・・・・ああ、畜生・・・・・・馬鹿、馬鹿・・・・・・」

いつだってそうだ。僕は自分にとって忌まわしいこの記憶を、頭の中にある絵具で塗りつぶしていた・・・・・・

時刻は昼を少しだけ回っている。母が僕に用意した昼食は、お粥一杯だけだ。それも少し焦げていて、ほとんど味がしない失敗作。思わず氷室先生のシチューが、頭に浮かんでしまう。

「また体調が悪くなりそうだよ」

お粥を食べ終わった僕の言葉に、母の右クロスが炸裂していた。

「はぁー・・・・・・」

一人自室でベッドに横になり、痛む頬を押さえながら、僕はあの二人のことを思っている。

「沙羅と裏乃、今頃どうしているんだろうな・・・・・・?」

僕はあの二人に今すぐ会いたかった。心から・・・・・・
そして・・・・・・
ピンポーン
自宅のインターホンが鳴る。数分後。僕の自室を勿論ノックなしで、母がズカズカと入って来るやいなや。

「歩夢、可愛いお友達が来てくれたわよ」

可愛いお友達? そう悪戯っぽく口にする母。歳を考えろよ。僕は思う。

「あ、あの、歩夢君。何だか元気そうだね・・・・・・」

詩織がどこか恥ずかしそうに、僕の自室に入ってきた。可愛いお友達の正体だ。まさか沙羅ではないかと思ったが。

「学校はどうしたんだ?」

当然の質問を僕は訊ねる。どういう理由かは知らないが、詩織はまだ恥ずかしそうだ。

「あ、うん、あのね、歩夢君が心配で・・・・・・その・・・・・・早退したんだよ。頭が痛いって嘘ついた」

頬を少し赤くさせ、満面の笑顔の詩織。優等生なのに、そんな嘘をついて大丈夫なのか? 僕がそう思ったときだ。

「ごゆっくり」

僕の自室を後にする母。待て。僕たちはそんな関係じゃない。

「私、緊張しちゃってた」

詩織は苦笑する。

「緊張?」

怪訝な表情を見せる僕。緊張する必要がどこにあるというのだろうか?

「だって、歩夢君のお母さんと一緒だったんだもん」

なるほど、憧れの人を前にして、照れていたのか。どうやら僕の体調は、二の次らしい。

「綺麗な人だよね。私もあんな風になれるかな?」

「実の息子に右クロスした母親だぞ」

「え? それはいつのこと?」

「三十分ほど前かな」

起こった出来事を、僕は正直に告げるのだが。

「歩夢君も人が悪いよ。変な冗談なんか言って」

僕が告げたことを、ただの冗談だと思っている詩織。そんな嬉しそうな彼女を見て、僕は考えてしまう。ここで真実を話すべきかと。僕が志保にしたことを。

「いや、駄目だ・・・・・・」

僕は思わず否定していた。詩織に知られたくない。いや、知られては駄目だ。

「歩夢君?」

不思議そうに小首を傾げ、僕を見つめる詩織。

「その、母さんと話しでもしてこいよ。きっと下でテレビでも見てるだろうし」

僕がそう口にすると

「わかった」

詩織は笑顔で返事をする。

「もしかしたら私、凄く甘えちゃうかも」

再び頬を赤らめる詩織。

「そうだな。膝枕でもしてもらえばいい」

冗談で僕が口にすると、詩織は

「うん、してもらう!」

喜んで僕の部屋から出て行った。どうやら詩織は、本気で甘えるらしい。
自室に一人残る僕。この部屋は静寂に包まれている。そう思ったときだ。

『詩織・・・・・・相変わらず嫌な妹・・・・・・』

いつ現れたのか? 志保が当然のように僕の自室にいた。僕の瞳を見つめ、当たり前のように立っている。

『ずっと嫌いだった。詩織のことが。いつだっていい人間でいようとする。本当は弱いくせに・・・・・・』

詩織への嫌悪感を露わにする志保。その表情は同じだ。あのときと・・・・・・

『まさか詩織が好きなの? あれは偽善者だよ、歩夢。きっとまた裏切られる。私と同じ血が流れているから』

妖しい笑顔を見せる死んだはずの志保。僕は呆然と見つめるしかなかった。息苦しく。

『歩夢は可哀想だね』

その言葉に僕は、震えあがる。額からは冬だというのに、冷や汗が流れた。一刻も早くこの場から逃げたいところだが、体が動かない。まるで金縛りのように体が硬直している。

『私に守られていればいいのに・・・・・・』

歩きだし、僕に近づいてくる志保。情けなく悲鳴を上げたいが、声が出ない。志保は僕に何をする気だ? まさか呪いでもかけるつもりか? 僕がそう思ったときだった。

『・・・・・・歩夢、君は弱くない・・・・・・』

柔らかく、優しい少女の声が聞こえる。これは沙羅の声だ。

『偽善者な女。詩織と同じ・・・・・・』

嫌悪な表情を浮かべ、志保は消える。空気に溶けるように。

「沙羅」

息苦しい金縛りが解け、僕は体の自由を取り戻す。狭い自室を見回し、沙羅の姿を探すが。当然の如く、自室には僕一人しかいない。

「そうだ。そうだよ・・・・・・」

少し放心状態でありながら、納得する僕。沙羅がここにいるはずがない。志保がこの世にいるはずがない。

「・・・・・・もう壊れよう・・・・・・」

これ以上あがいても無駄だということは、僕が一番よく知っている・・・・・・

「腹ペコだ・・・・・・」

苦笑しながら、僕は自室を後にした。昼食が味のないお粥一杯だけでは、空腹なのも当然だ。僕は一階へと下りた。冷蔵庫の中を確かめに。

「あら、詩織ちゃんは甘えるのが上手ね」

「えへへ、もっと甘えていいですか?」

「いいわよ」

楽しそうで嬉しそうな詩織と僕の母。その光景を目の当たりにしたとき、僕は唖然とした。

「歩夢君。膝枕してもらったよ」

満足気な詩織。彼女はソファの上で、僕の母に膝枕されていた。僕が冗談で提案したことを、詩織は実行しているのだ。

「何だか幸せだなー」

「私も娘ができたみたいで嬉しい」

詩織の頭を撫でる母。実に幸せそうだ。僕はこんな母を見るのは久しぶりだ。父と離婚して以来、疲れて眠そうな顔しか見たことがない気がする。詩織の存在が母の疲れを吹き飛ばしているのか。だとしたら僕は素直に喜べる。

「明生、ところでどうしたの? ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」

「腹が減ったから、冷蔵庫に何かないかと思って」

「お粥、食べたばかりでしょ?」

「あんな焦げた・・・・・・」

言葉の途中で、僕は口を閉じた。なぜなら母の目が、鋭く変貌を遂げたからだ。

「え? どうしたんですか?」

膝枕される詩織は、母の左手で目隠しされていた。まさか憧れの人は料理が下手で、こんな鋭い視線で実の息子を睨み付けている光景など、普通見せたくないだろう。

「あのお粥、美味しかったけど、まだ足りてないんだ」

作り笑顔で僕は母に告げる。母は目隠ししている詩織の目から左手をどけると、慈悲深い笑顔を見せた。

「しょうがない子ね。でも食欲が出たから、母さん安心した。ずっと歩夢の体調が心配だったから」

嘘つけ。右クロスを浴びせたくせに。

「あ、そうだ」

突然、詩織が思いついたかのように声を出す。

「私と料理しませんか?」

詩織が母に提案する。それを聞いた母は苦笑いを浮かべた。ざまあみろ。僕は素直にそう思う。

「私たちで、歩夢君に美味しいものを食べさせてあげましょうよ」

ソファで膝枕される詩織は立ち上がる。

「せっかくだけど、また歩夢の体調が悪くなったら、私、心臓発作でも起こすかも・・・・・・」

これは演技だ。息子の僕にならわかる。

「そうですか・・・・・・それは残念ですね・・・・・・」

浮かない表情を見せる詩織。ここでこいつを諦めさせるわけにいかない。

「大丈夫。僕ならもう平気だ。詩織と母さんの手料理が食べてみたいよ」

溢れんばかりの笑顔を見せる僕。詩織は穏やかな表情を浮かべ、僕に頷いて見せる。

「歩夢君、本人自らの希望ですよ」

「そ、そうね・・・・・・」

母は随分と引きつった笑顔だ。きっと僕にもう一度、右クロスをお見舞いしたいに違いない。

「一緒にお買いものしましょうよ。帰りに喫茶店でココアでもどうです?」

確かコーヒーは飲めなかったな。頬を少し赤くさせ、まるで猫のように甘える詩織。こんな彼女を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。猫のような詩織を見て、僕は不思議と微笑んだ。

「それじゃあ、僕は留守番してるよ」

二人だけにしてあげたかった。きっとそのほうが、母も詩織も楽しいに違いない。

「駄目だよ。歩夢君も一緒だよ」

いつもの詩織だ。こんな僕を誘ってくれる優しい詩織。

「あ、その、見たいテレビ番組があるんだ。だから僕は家で待ってる」

僕は嘘を吐いた。二人に楽しんでもらいたくて。テレビ番組などろくに見ないくせに僕は。

「わかった」

詩織は、少しだけ小首を傾げて微笑む。まるで僕の嘘を見抜いているかのように。

「それじゃあ、歩夢。母さん、詩織ちゃんと出かけるから、夕飯楽しみにしていてね」

圧倒的な作り笑顔の母に、僕も同じく嫌味な作り笑顔で返した。僕は夕飯が楽しみだ。

「歩夢」

僕の名を口にし、すると母は突然、作り笑顔をやめる。そしてただ、僕の瞳だけを見つめた。

「歩夢にいい友達ができて、母さん嬉しい。これからは安心した日々が過ごせそう」

母はそう口にすると、微笑む詩織と二人で出かけて行く。一人自宅に残る僕。

「これからは・・・・・・?」

僕は母のその言動に違和感を覚える。

「知っていたんだ・・・・・・」

きっと詩織も、何かしら感づいたに違いない。母は、僕が孤独で浮いた学校生活を送っていたことを、前から知っていたのだ。父に捨てられ、女手一つで毎日泥のように働いている母。多額の寄付金でいい学校に入学させたのも。それは僕の将来を、少しでも明るくしようと考えたからなのだろうか?

「テレビ・・・・・・そうだテレビを見るんだったな・・・・・・」

ソファに座る僕。そして、真っ暗なテレビ画面だけを見つめる。リモコンのスイッチ。電源のボタンを押していないので当然だ。

時刻は午後三時を過ぎていた。

「遅いな・・・・・・」

僕はそう口に漏らす。きっと買い物を終えた母と詩織は、喫茶店で仲良く談笑しているに違いない。真っ暗なテレビ画面を見つめるのをやめ、僕はソファから立ち上がる。

「仕方ない・・・・・・」

溜め息交じりに僕は自室に向かうと、適当に温かそうな上着を羽織り、冷たい夕日が差し込む外へと出た。空腹も限界だ。いっそのこと、二人を迎えに行ったほうが早い。僕はそう考えたのだ。この町で喫茶店といえば、駅前にあるチェーン店。そこは女の子に人気の店だ。僕は今、そこに向かって歩いている。

「うん?」

ふと僕は違和感を覚え、夕日の空を見上げた。この冷たい夕日に、どこか暗いものを感じるのは気のせいだろうか?

駅前に到着する僕。周りには、下校途中の同じ学校の生徒たちが歩いている。ここで仮病を使って早退した、元気そうな詩織が目撃されれば大変であろうに。だから一刻も早く、母と一緒に連れ帰らなくては。僕が喫茶店へと向かい歩き出したときだった。

「暴れるな・・・・・・!」

「おい、頭を押さえろ・・・・・・!」

何やら喫茶店の前が騒がしい。野次馬のような人だかりができている。僕は野次馬たちに近づいていく。皆、口々に何か言っている。

「ねぇ、見てよ、あれ・・・・・・」

「刺されたのか・・・・・・?」

「あいつ、まだ暴れてるよ・・・・・・」

「救急車、まだなのか・・・・・・?」

何か事件があったらしい。僕は野次馬たちの間から、彼らが目にしているものを目撃した。

「母さん・・・・・・? 詩織・・・・・・?」

しばらくその場から動けなかった僕。状況がわからない。一体どうしてこうなったんだ? なぜ僕の母が、赤い血を流して倒れているんだ? なぜ詩織は、呆然と母の腹を手で押さえている?

「すみません通して・・・・・・すみません・・・・・・」

僕は少しふらつきながらも、野次馬たちをかき分け、倒れる母と詩織に近づいた。

「・・・・・・そんな・・・・・・」

僕の瞳から熱いものがこみ上げてくる。腹から血を流す母。もう息をしていないというのに流れ出る血を、呆然とした詩織が止めようとしていた。詩織の手は、母の血で真っ赤になっている。詩織は僕の姿に気づくと、目を見開いたまま、ただ首を左右に振った。

「おい! この貧乏人! 僕の永瀬さんに近づくな! お前も殺してやるぞ!」

それは聞き覚えのある僕を罵る怒声だ。視線を向けると、二人の警察官に取り押さえられている野上の姿があった。彼の顔や制服には、血が付着している。あきらかに返り血だ。

「詩織、詩織・・・・・・」

「え・・・・・・?」

僕に名前を呼ばれる詩織は、ハッと我に返ったようだった。僕は詩織の血だらけの手を掴み、母への無駄な止血をやめさせる。死んでいるのはあきらかだった・・・・・・

「・・・・・・もういい・・・・・・」

女手一つで僕を育ててくれた母は死んだ。いや、殺された。野上という同級生の男に。
その後、警察に色々と説明を受けた。下校途中だった野上は、駅前で僕の母と一緒にいる詩織を見つける。野上は詩織に言い寄り、自宅に誘ったのだという。詩織が嫌がるそぶりを見せたため、僕の母が止めに入った。しかし、そんなことは気にも留めず、野上は詩織に言い寄り続けたのだという。そして無視されることに、とうとう逆上した野上は、いつも護身用と称し持ち歩いていたナイフで詩織を襲おうとした。このとき母は詩織をかばった。向かってくる野上から詩織を守ったのだ。そして代わりに刺されて殺された。

灰色の空からは冷たい雨が降っている。母の葬儀を終えた僕は、待ってくれている者など誰もいない自宅へと歩いていた。胸の中で酷い息苦しさを感じる。帰って眠りたかった・・・・・・ずっと、いつまでも・・・・・・

「歩夢君・・・・・・! 歩夢君・・・・・・!」

後ろから僕を呼ぶ詩織の声がする。僕は一度足を止めたが、次の瞬間には構うことなく再び歩き出していた。

「歩夢君、もう、置いてくなんて酷いよ」

冷たい雨でびしょ濡れの詩織。葬儀場からずっと走ってきたらしく、息を切らせながらも、相変わらずの笑顔を僕に見せてくれた。僕も弱々しく微笑みながら返す。

「悪いのは詩織じゃない・・・・・・」

僕がそう告げたとき、彼女の笑顔が止まった。

「詩織、君は本当にいい子だ。こんな僕をいつだって気にしてくれて・・・・・・」

詩織の瞳からボロボロと、大粒の涙が零れ落ちる。冷たい雨と混じりながら。

「悪いのは私だよ・・・・・・! 私だけだよ・・・・・・!」

自分を責める詩織。どうか恨んでくれとでもいうのだろうか? そんな真似は、僕にはできない。

「どうして・・・・・・? どうして歩夢君のお母さんが・・・・・・? こんなのあんまりだよ・・・・・・!」

僕と同様に、詩織の心には暗い思い出が残った。いつまでも残る暗い思い出が・・・・・・
僕は詩織に何をしてやれる? 壊れた僕が、この綺麗な人にできること。それは・・・・・・

「詩織、さぁ、これを受け取って」

ある物を僕は詩織に差し出した。それは、小指ほどのサイズをした透明な小瓶。中には白い砂が入っている。沙羅からの贈り物。

「これは・・・・・・?」

「ある人がくれたんだ。綺麗だろ? お守りだよ。これがあれば、もう詩織は悲しくない」

手のひらにある小瓶を見つめる詩織。僕はそんな詩織を見て微笑むと、誰もいない自宅ではなく、ある場所へと歩き出す。沙羅に会いたかった。彼女に、僕の悲しみを知ってほしい・・・・・・

「歩夢君、どこへ・・・・・・?」

「歩きたいんだ。ただ、一人で・・・・・・」

冷たい雨の降る中。眠りたい気持ちなど忘れ、僕は一人サナトリウムに歩き出していた。

雨がやみ、眩しいぐらいの冬の夕暮れが差し込んでいる。目の前にある建物は、サナトリウム。僕が敷地に入ると、沙羅が、まるで僕を待っているかのように、庭に立っていた。

「沙羅・・・・・・僕は・・・・・・」

僕はその場に崩れ落ちる。ただ、悲しい気持ちに支配された・・・・・・

「歩夢」

僕に駆け寄る沙羅。色々な言葉をかけてくる。

「どうしたの、歩夢? 体の具合が悪いの? それとも、悲しいことがあった?」

優しい言葉をかけてくれる沙羅。僕は、しばらくその場を動けなかった・・・・・・

「さぁ、立ち上がって・・・・・・」

沙羅は僕を抱き起そうとする。か弱い少女の力で。そんなのは無理だということは、悲しみに暮れる僕にも理解できる。しかし何故だか、僕は立ち上がることができた。ゆっくりと。

「ほら、私が目の前にいるから」

沙羅は微笑む。慈悲の笑顔で・・・・・・

僕はラウンジに案内された。窓からは、眩しい冬の夕暮れが差し込む。僕が座っているテーブル席の目の前には、沙羅がいてくれた。まるで僕を見守るように。

「歩夢、何があったの?」

沙羅は僕に問いかける。しかし僕は何も答えられなかった。ただ、母を殺されたと答えればいいのに。

「また黙るの? 志保を殺したときのように・・・・・・」

沙羅はどこか妖しい微笑みを浮かべた。僕の罪をどうして知っている?

「志保は誰かを愛せない人だった。だから何もない歩夢に近づいたんだよ」

志保。懐かしい。僕は本当の友達だと思っていた・・・・・・
だけど今は・・・・・・酷い悲しさだけが胸の底からこみ上げる・・・・・・

「イカレていた志保のことなんかどうだっていい・・・・・・! 母さんが・・・・・・僕の母親が、同じクラスの嫌味なやつに殺されたんだ!」

大粒の涙が瞳から零れ落ちた。悲しみ、怒り、悔しさが僕を支配する。ラウンジで休息していた医師たちや看護師たち。そして、患者たちが一斉に僕と沙羅に注目した。これだけ大きな声を出せば当然だ。沙羅は黙って僕だけを見つめていた。

「一体なんだったんだ?! 母さんの人生は?! 理不尽に離婚されて、僕を育てる為に毎日夜遅くまで働いて・・・・・・!」

僕は椅子から立ち上がり、哀れな怒声を上げる。

「あんまりじゃないか・・・・・・!」

恥ずかしく惨めだ。人前で涙が止まらない・・・・・・

「さぁ、こっちへ・・・・・・」

そのときだ。いつの間にか。僕の目の前にいた沙羅が、僕を優しく抱き締める。

「やりきれない人生でも、歩夢のお母さんはきっと幸せだった。私の言葉を信じて・・・・・・どうか今だけ・・・・・・」

離婚され惨めな人生でも、母さんは幸せだった。最後に、自分を慕ってくれる詩織と出会えたから? 僕にそう信じろというのか? いや、信じるしかない。そう信じないと耐えきれない・・・・・・僕は泣いた・・・・・・子供のように泣いてしまう。胸が苦しく、体が熱かった・・・・・・

「・・・・・・壊れた歩夢・・・・・・可愛そうに・・・・・・君は儚い人だね・・・・・・そして綺麗・・・・・・」

沙羅は歪んだ自らの思いを、僕の耳元で口にする。これが彼女の優しさなのだろうか? 
僕は自らが流し続ける涙で目が見えず。きっとサナトリウムのラウンジにいる者達は、僕と沙羅に注目しているに違いない。その証拠に。

「素敵ね・・・・・・」

「ええ、本当に」

僕たち二人を祝福する声が聞こえる。

「・・・・・・ここにいればいい・・・・・・もう外の世界には戻らないで・・・・・・私のために・・・・・・私だけを見つめて・・・・・・」

沙羅の囁く声に僕は、癒されて彼女を、静かに受け入れることにした・・・・・・
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

処理中です...