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第三話 癒しを求めて
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気が付けば、そこは僕の家の自室だった。窓からは朝焼けが差し込んでいる。僕はベッドから起き上がると、普段から殺風景な自室を見回した。
「裏乃」
サナトリウムにいるはずの、彼女の名を呼ぶ僕。無論返事など返ってくるはずもない。もし裏乃が僕の家にいたら、サナトリウムは今頃大騒ぎであろう。
あの海で見せた裏乃の愛らしい笑顔。僕はもう一度見て見たかった。まるで可愛い妹でもできたような気分に浸る僕だが。その刹那。あることに気が付く。
(どうやって帰ったんだ・・・・・・?)
それは当然の違和感だ。昨日、体調を崩し眠っていたのにもかかわらず、どうやってサナトリウムに行ったのかも覚えていない。そして今現在、どうやって自宅に帰ったのかも不明だった。
「裏乃が僕に笑いかけて、その後は・・・・・・」
必死で、あの海での記憶を辿る僕だが。記憶に決して晴れない霧が邪魔していた。
駄目だ、どうしても思い出せない。
「歩夢? 起きてるの?」
突然、僕の部屋に入ってきた人物。珍しくエプロン姿の母だった。
「起きてるよ」
息子の部屋にノックもしないで、入ってきた母を注意したいところだが。どうせ言うだけ無駄だ。注意したところで、きっと笑ってはぐらかされる。母はそういう人だ。それにしても・・・・・・
「仕事はいいの? いつもならとっくに出かけてる時間じゃ?」
怪訝な表情で僕は口にする。
「今日はお休みしたの」
母は目を閉じて、僕に告げた。しかも少し呆れているかのように。滅多なことでは仕事を休まない母。一体どうしたというのか?
「昨日、夜遅くに詩織ちゃんから電話があったの。歩夢が体調を崩したみたいで心配だって。看病しようと思って仕事を休んだのに」
若干ため息混じりの母。当然だろう。目の前には、至って何ともなさそうな息子の姿がある。
「あの、母さん」
「何?」
「昨日、何時に帰ったか覚えてる?」
「え? いつもと同じよ」
母は答える。いつもと同じということは、母が帰ったのはつまり真夜中だ。
「そのとき、僕は、ちゃんと部屋にいた?」
「いたわよ。少し寝汗を掻いて寝ていたから心配したのよ」
つまり僕は、真夜中には家に帰っていたということだ。しかし、寝汗を掻いて寝ていたこと以外、何もわからなかった。どうして思い出せない? 沙羅や裏乃が告げたとおり、壊れそうになっているのだろうか?
「それにしてもいい子よね、詩織ちゃんは。電話でね、私と一緒に歩夢を看病するって」
母にとっては僕の疑問などどうでもいい様子で。実に簡単に、詩織の話題に話を変えられた。詩織が、母に憧れを抱いていることを思い出す。
「歩夢にいい友達がいて母さんも嬉しい。志保ちゃんもきっと喜んでいるわね。きっと歩夢を見守っているのよ」
見守っている? 僕を? まったく志保の正体も知らないで・・・・・・
「体調は悪くなさそうだけど、今日は大事を取って、学校はお休みしなさい。いいわね」
そう言葉にすると、母は僕の自室を後にする。一人窓から朝の風景を見る僕。
「志保は・・・・・・ああ、畜生・・・・・・馬鹿、馬鹿・・・・・・」
いつだってそうだ。僕は自分にとって忌まわしいこの記憶を、頭の中にある絵具で塗りつぶしていた・・・・・・
時刻は昼を少しだけ回っている。母が僕に用意した昼食は、お粥一杯だけだ。それも少し焦げていて、ほとんど味がしない失敗作。思わず氷室先生のシチューが、頭に浮かんでしまう。
「また体調が悪くなりそうだよ」
お粥を食べ終わった僕の言葉に、母の右クロスが炸裂していた。
「はぁー・・・・・・」
一人自室でベッドに横になり、痛む頬を押さえながら、僕はあの二人のことを思っている。
「沙羅と裏乃、今頃どうしているんだろうな・・・・・・?」
僕はあの二人に今すぐ会いたかった。心から・・・・・・
そして・・・・・・
ピンポーン
自宅のインターホンが鳴る。数分後。僕の自室を勿論ノックなしで、母がズカズカと入って来るやいなや。
「歩夢、可愛いお友達が来てくれたわよ」
可愛いお友達? そう悪戯っぽく口にする母。歳を考えろよ。僕は思う。
「あ、あの、歩夢君。何だか元気そうだね・・・・・・」
詩織がどこか恥ずかしそうに、僕の自室に入ってきた。可愛いお友達の正体だ。まさか沙羅ではないかと思ったが。
「学校はどうしたんだ?」
当然の質問を僕は訊ねる。どういう理由かは知らないが、詩織はまだ恥ずかしそうだ。
「あ、うん、あのね、歩夢君が心配で・・・・・・その・・・・・・早退したんだよ。頭が痛いって嘘ついた」
頬を少し赤くさせ、満面の笑顔の詩織。優等生なのに、そんな嘘をついて大丈夫なのか? 僕がそう思ったときだ。
「ごゆっくり」
僕の自室を後にする母。待て。僕たちはそんな関係じゃない。
「私、緊張しちゃってた」
詩織は苦笑する。
「緊張?」
怪訝な表情を見せる僕。緊張する必要がどこにあるというのだろうか?
「だって、歩夢君のお母さんと一緒だったんだもん」
なるほど、憧れの人を前にして、照れていたのか。どうやら僕の体調は、二の次らしい。
「綺麗な人だよね。私もあんな風になれるかな?」
「実の息子に右クロスした母親だぞ」
「え? それはいつのこと?」
「三十分ほど前かな」
起こった出来事を、僕は正直に告げるのだが。
「歩夢君も人が悪いよ。変な冗談なんか言って」
僕が告げたことを、ただの冗談だと思っている詩織。そんな嬉しそうな彼女を見て、僕は考えてしまう。ここで真実を話すべきかと。僕が志保にしたことを。
「いや、駄目だ・・・・・・」
僕は思わず否定していた。詩織に知られたくない。いや、知られては駄目だ。
「歩夢君?」
不思議そうに小首を傾げ、僕を見つめる詩織。
「その、母さんと話しでもしてこいよ。きっと下でテレビでも見てるだろうし」
僕がそう口にすると
「わかった」
詩織は笑顔で返事をする。
「もしかしたら私、凄く甘えちゃうかも」
再び頬を赤らめる詩織。
「そうだな。膝枕でもしてもらえばいい」
冗談で僕が口にすると、詩織は
「うん、してもらう!」
喜んで僕の部屋から出て行った。どうやら詩織は、本気で甘えるらしい。
自室に一人残る僕。この部屋は静寂に包まれている。そう思ったときだ。
『詩織・・・・・・相変わらず嫌な妹・・・・・・』
いつ現れたのか? 志保が当然のように僕の自室にいた。僕の瞳を見つめ、当たり前のように立っている。
『ずっと嫌いだった。詩織のことが。いつだっていい人間でいようとする。本当は弱いくせに・・・・・・』
詩織への嫌悪感を露わにする志保。その表情は同じだ。あのときと・・・・・・
『まさか詩織が好きなの? あれは偽善者だよ、歩夢。きっとまた裏切られる。私と同じ血が流れているから』
妖しい笑顔を見せる死んだはずの志保。僕は呆然と見つめるしかなかった。息苦しく。
『歩夢は可哀想だね』
その言葉に僕は、震えあがる。額からは冬だというのに、冷や汗が流れた。一刻も早くこの場から逃げたいところだが、体が動かない。まるで金縛りのように体が硬直している。
『私に守られていればいいのに・・・・・・』
歩きだし、僕に近づいてくる志保。情けなく悲鳴を上げたいが、声が出ない。志保は僕に何をする気だ? まさか呪いでもかけるつもりか? 僕がそう思ったときだった。
『・・・・・・歩夢、君は弱くない・・・・・・』
柔らかく、優しい少女の声が聞こえる。これは沙羅の声だ。
『偽善者な女。詩織と同じ・・・・・・』
嫌悪な表情を浮かべ、志保は消える。空気に溶けるように。
「沙羅」
息苦しい金縛りが解け、僕は体の自由を取り戻す。狭い自室を見回し、沙羅の姿を探すが。当然の如く、自室には僕一人しかいない。
「そうだ。そうだよ・・・・・・」
少し放心状態でありながら、納得する僕。沙羅がここにいるはずがない。志保がこの世にいるはずがない。
「・・・・・・もう壊れよう・・・・・・」
これ以上あがいても無駄だということは、僕が一番よく知っている・・・・・・
「腹ペコだ・・・・・・」
苦笑しながら、僕は自室を後にした。昼食が味のないお粥一杯だけでは、空腹なのも当然だ。僕は一階へと下りた。冷蔵庫の中を確かめに。
「あら、詩織ちゃんは甘えるのが上手ね」
「えへへ、もっと甘えていいですか?」
「いいわよ」
楽しそうで嬉しそうな詩織と僕の母。その光景を目の当たりにしたとき、僕は唖然とした。
「歩夢君。膝枕してもらったよ」
満足気な詩織。彼女はソファの上で、僕の母に膝枕されていた。僕が冗談で提案したことを、詩織は実行しているのだ。
「何だか幸せだなー」
「私も娘ができたみたいで嬉しい」
詩織の頭を撫でる母。実に幸せそうだ。僕はこんな母を見るのは久しぶりだ。父と離婚して以来、疲れて眠そうな顔しか見たことがない気がする。詩織の存在が母の疲れを吹き飛ばしているのか。だとしたら僕は素直に喜べる。
「明生、ところでどうしたの? ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」
「腹が減ったから、冷蔵庫に何かないかと思って」
「お粥、食べたばかりでしょ?」
「あんな焦げた・・・・・・」
言葉の途中で、僕は口を閉じた。なぜなら母の目が、鋭く変貌を遂げたからだ。
「え? どうしたんですか?」
膝枕される詩織は、母の左手で目隠しされていた。まさか憧れの人は料理が下手で、こんな鋭い視線で実の息子を睨み付けている光景など、普通見せたくないだろう。
「あのお粥、美味しかったけど、まだ足りてないんだ」
作り笑顔で僕は母に告げる。母は目隠ししている詩織の目から左手をどけると、慈悲深い笑顔を見せた。
「しょうがない子ね。でも食欲が出たから、母さん安心した。ずっと歩夢の体調が心配だったから」
嘘つけ。右クロスを浴びせたくせに。
「あ、そうだ」
突然、詩織が思いついたかのように声を出す。
「私と料理しませんか?」
詩織が母に提案する。それを聞いた母は苦笑いを浮かべた。ざまあみろ。僕は素直にそう思う。
「私たちで、歩夢君に美味しいものを食べさせてあげましょうよ」
ソファで膝枕される詩織は立ち上がる。
「せっかくだけど、また歩夢の体調が悪くなったら、私、心臓発作でも起こすかも・・・・・・」
これは演技だ。息子の僕にならわかる。
「そうですか・・・・・・それは残念ですね・・・・・・」
浮かない表情を見せる詩織。ここでこいつを諦めさせるわけにいかない。
「大丈夫。僕ならもう平気だ。詩織と母さんの手料理が食べてみたいよ」
溢れんばかりの笑顔を見せる僕。詩織は穏やかな表情を浮かべ、僕に頷いて見せる。
「歩夢君、本人自らの希望ですよ」
「そ、そうね・・・・・・」
母は随分と引きつった笑顔だ。きっと僕にもう一度、右クロスをお見舞いしたいに違いない。
「一緒にお買いものしましょうよ。帰りに喫茶店でココアでもどうです?」
確かコーヒーは飲めなかったな。頬を少し赤くさせ、まるで猫のように甘える詩織。こんな彼女を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。猫のような詩織を見て、僕は不思議と微笑んだ。
「それじゃあ、僕は留守番してるよ」
二人だけにしてあげたかった。きっとそのほうが、母も詩織も楽しいに違いない。
「駄目だよ。歩夢君も一緒だよ」
いつもの詩織だ。こんな僕を誘ってくれる優しい詩織。
「あ、その、見たいテレビ番組があるんだ。だから僕は家で待ってる」
僕は嘘を吐いた。二人に楽しんでもらいたくて。テレビ番組などろくに見ないくせに僕は。
「わかった」
詩織は、少しだけ小首を傾げて微笑む。まるで僕の嘘を見抜いているかのように。
「それじゃあ、歩夢。母さん、詩織ちゃんと出かけるから、夕飯楽しみにしていてね」
圧倒的な作り笑顔の母に、僕も同じく嫌味な作り笑顔で返した。僕は夕飯が楽しみだ。
「歩夢」
僕の名を口にし、すると母は突然、作り笑顔をやめる。そしてただ、僕の瞳だけを見つめた。
「歩夢にいい友達ができて、母さん嬉しい。これからは安心した日々が過ごせそう」
母はそう口にすると、微笑む詩織と二人で出かけて行く。一人自宅に残る僕。
「これからは・・・・・・?」
僕は母のその言動に違和感を覚える。
「知っていたんだ・・・・・・」
きっと詩織も、何かしら感づいたに違いない。母は、僕が孤独で浮いた学校生活を送っていたことを、前から知っていたのだ。父に捨てられ、女手一つで毎日泥のように働いている母。多額の寄付金でいい学校に入学させたのも。それは僕の将来を、少しでも明るくしようと考えたからなのだろうか?
「テレビ・・・・・・そうだテレビを見るんだったな・・・・・・」
ソファに座る僕。そして、真っ暗なテレビ画面だけを見つめる。リモコンのスイッチ。電源のボタンを押していないので当然だ。
時刻は午後三時を過ぎていた。
「遅いな・・・・・・」
僕はそう口に漏らす。きっと買い物を終えた母と詩織は、喫茶店で仲良く談笑しているに違いない。真っ暗なテレビ画面を見つめるのをやめ、僕はソファから立ち上がる。
「仕方ない・・・・・・」
溜め息交じりに僕は自室に向かうと、適当に温かそうな上着を羽織り、冷たい夕日が差し込む外へと出た。空腹も限界だ。いっそのこと、二人を迎えに行ったほうが早い。僕はそう考えたのだ。この町で喫茶店といえば、駅前にあるチェーン店。そこは女の子に人気の店だ。僕は今、そこに向かって歩いている。
「うん?」
ふと僕は違和感を覚え、夕日の空を見上げた。この冷たい夕日に、どこか暗いものを感じるのは気のせいだろうか?
駅前に到着する僕。周りには、下校途中の同じ学校の生徒たちが歩いている。ここで仮病を使って早退した、元気そうな詩織が目撃されれば大変であろうに。だから一刻も早く、母と一緒に連れ帰らなくては。僕が喫茶店へと向かい歩き出したときだった。
「暴れるな・・・・・・!」
「おい、頭を押さえろ・・・・・・!」
何やら喫茶店の前が騒がしい。野次馬のような人だかりができている。僕は野次馬たちに近づいていく。皆、口々に何か言っている。
「ねぇ、見てよ、あれ・・・・・・」
「刺されたのか・・・・・・?」
「あいつ、まだ暴れてるよ・・・・・・」
「救急車、まだなのか・・・・・・?」
何か事件があったらしい。僕は野次馬たちの間から、彼らが目にしているものを目撃した。
「母さん・・・・・・? 詩織・・・・・・?」
しばらくその場から動けなかった僕。状況がわからない。一体どうしてこうなったんだ? なぜ僕の母が、赤い血を流して倒れているんだ? なぜ詩織は、呆然と母の腹を手で押さえている?
「すみません通して・・・・・・すみません・・・・・・」
僕は少しふらつきながらも、野次馬たちをかき分け、倒れる母と詩織に近づいた。
「・・・・・・そんな・・・・・・」
僕の瞳から熱いものがこみ上げてくる。腹から血を流す母。もう息をしていないというのに流れ出る血を、呆然とした詩織が止めようとしていた。詩織の手は、母の血で真っ赤になっている。詩織は僕の姿に気づくと、目を見開いたまま、ただ首を左右に振った。
「おい! この貧乏人! 僕の永瀬さんに近づくな! お前も殺してやるぞ!」
それは聞き覚えのある僕を罵る怒声だ。視線を向けると、二人の警察官に取り押さえられている野上の姿があった。彼の顔や制服には、血が付着している。あきらかに返り血だ。
「詩織、詩織・・・・・・」
「え・・・・・・?」
僕に名前を呼ばれる詩織は、ハッと我に返ったようだった。僕は詩織の血だらけの手を掴み、母への無駄な止血をやめさせる。死んでいるのはあきらかだった・・・・・・
「・・・・・・もういい・・・・・・」
女手一つで僕を育ててくれた母は死んだ。いや、殺された。野上という同級生の男に。
その後、警察に色々と説明を受けた。下校途中だった野上は、駅前で僕の母と一緒にいる詩織を見つける。野上は詩織に言い寄り、自宅に誘ったのだという。詩織が嫌がるそぶりを見せたため、僕の母が止めに入った。しかし、そんなことは気にも留めず、野上は詩織に言い寄り続けたのだという。そして無視されることに、とうとう逆上した野上は、いつも護身用と称し持ち歩いていたナイフで詩織を襲おうとした。このとき母は詩織をかばった。向かってくる野上から詩織を守ったのだ。そして代わりに刺されて殺された。
灰色の空からは冷たい雨が降っている。母の葬儀を終えた僕は、待ってくれている者など誰もいない自宅へと歩いていた。胸の中で酷い息苦しさを感じる。帰って眠りたかった・・・・・・ずっと、いつまでも・・・・・・
「歩夢君・・・・・・! 歩夢君・・・・・・!」
後ろから僕を呼ぶ詩織の声がする。僕は一度足を止めたが、次の瞬間には構うことなく再び歩き出していた。
「歩夢君、もう、置いてくなんて酷いよ」
冷たい雨でびしょ濡れの詩織。葬儀場からずっと走ってきたらしく、息を切らせながらも、相変わらずの笑顔を僕に見せてくれた。僕も弱々しく微笑みながら返す。
「悪いのは詩織じゃない・・・・・・」
僕がそう告げたとき、彼女の笑顔が止まった。
「詩織、君は本当にいい子だ。こんな僕をいつだって気にしてくれて・・・・・・」
詩織の瞳からボロボロと、大粒の涙が零れ落ちる。冷たい雨と混じりながら。
「悪いのは私だよ・・・・・・! 私だけだよ・・・・・・!」
自分を責める詩織。どうか恨んでくれとでもいうのだろうか? そんな真似は、僕にはできない。
「どうして・・・・・・? どうして歩夢君のお母さんが・・・・・・? こんなのあんまりだよ・・・・・・!」
僕と同様に、詩織の心には暗い思い出が残った。いつまでも残る暗い思い出が・・・・・・
僕は詩織に何をしてやれる? 壊れた僕が、この綺麗な人にできること。それは・・・・・・
「詩織、さぁ、これを受け取って」
ある物を僕は詩織に差し出した。それは、小指ほどのサイズをした透明な小瓶。中には白い砂が入っている。沙羅からの贈り物。
「これは・・・・・・?」
「ある人がくれたんだ。綺麗だろ? お守りだよ。これがあれば、もう詩織は悲しくない」
手のひらにある小瓶を見つめる詩織。僕はそんな詩織を見て微笑むと、誰もいない自宅ではなく、ある場所へと歩き出す。沙羅に会いたかった。彼女に、僕の悲しみを知ってほしい・・・・・・
「歩夢君、どこへ・・・・・・?」
「歩きたいんだ。ただ、一人で・・・・・・」
冷たい雨の降る中。眠りたい気持ちなど忘れ、僕は一人サナトリウムに歩き出していた。
雨がやみ、眩しいぐらいの冬の夕暮れが差し込んでいる。目の前にある建物は、サナトリウム。僕が敷地に入ると、沙羅が、まるで僕を待っているかのように、庭に立っていた。
「沙羅・・・・・・僕は・・・・・・」
僕はその場に崩れ落ちる。ただ、悲しい気持ちに支配された・・・・・・
「歩夢」
僕に駆け寄る沙羅。色々な言葉をかけてくる。
「どうしたの、歩夢? 体の具合が悪いの? それとも、悲しいことがあった?」
優しい言葉をかけてくれる沙羅。僕は、しばらくその場を動けなかった・・・・・・
「さぁ、立ち上がって・・・・・・」
沙羅は僕を抱き起そうとする。か弱い少女の力で。そんなのは無理だということは、悲しみに暮れる僕にも理解できる。しかし何故だか、僕は立ち上がることができた。ゆっくりと。
「ほら、私が目の前にいるから」
沙羅は微笑む。慈悲の笑顔で・・・・・・
僕はラウンジに案内された。窓からは、眩しい冬の夕暮れが差し込む。僕が座っているテーブル席の目の前には、沙羅がいてくれた。まるで僕を見守るように。
「歩夢、何があったの?」
沙羅は僕に問いかける。しかし僕は何も答えられなかった。ただ、母を殺されたと答えればいいのに。
「また黙るの? 志保を殺したときのように・・・・・・」
沙羅はどこか妖しい微笑みを浮かべた。僕の罪をどうして知っている?
「志保は誰かを愛せない人だった。だから何もない歩夢に近づいたんだよ」
志保。懐かしい。僕は本当の友達だと思っていた・・・・・・
だけど今は・・・・・・酷い悲しさだけが胸の底からこみ上げる・・・・・・
「イカレていた志保のことなんかどうだっていい・・・・・・! 母さんが・・・・・・僕の母親が、同じクラスの嫌味なやつに殺されたんだ!」
大粒の涙が瞳から零れ落ちた。悲しみ、怒り、悔しさが僕を支配する。ラウンジで休息していた医師たちや看護師たち。そして、患者たちが一斉に僕と沙羅に注目した。これだけ大きな声を出せば当然だ。沙羅は黙って僕だけを見つめていた。
「一体なんだったんだ?! 母さんの人生は?! 理不尽に離婚されて、僕を育てる為に毎日夜遅くまで働いて・・・・・・!」
僕は椅子から立ち上がり、哀れな怒声を上げる。
「あんまりじゃないか・・・・・・!」
恥ずかしく惨めだ。人前で涙が止まらない・・・・・・
「さぁ、こっちへ・・・・・・」
そのときだ。いつの間にか。僕の目の前にいた沙羅が、僕を優しく抱き締める。
「やりきれない人生でも、歩夢のお母さんはきっと幸せだった。私の言葉を信じて・・・・・・どうか今だけ・・・・・・」
離婚され惨めな人生でも、母さんは幸せだった。最後に、自分を慕ってくれる詩織と出会えたから? 僕にそう信じろというのか? いや、信じるしかない。そう信じないと耐えきれない・・・・・・僕は泣いた・・・・・・子供のように泣いてしまう。胸が苦しく、体が熱かった・・・・・・
「・・・・・・壊れた歩夢・・・・・・可愛そうに・・・・・・君は儚い人だね・・・・・・そして綺麗・・・・・・」
沙羅は歪んだ自らの思いを、僕の耳元で口にする。これが彼女の優しさなのだろうか?
僕は自らが流し続ける涙で目が見えず。きっとサナトリウムのラウンジにいる者達は、僕と沙羅に注目しているに違いない。その証拠に。
「素敵ね・・・・・・」
「ええ、本当に」
僕たち二人を祝福する声が聞こえる。
「・・・・・・ここにいればいい・・・・・・もう外の世界には戻らないで・・・・・・私のために・・・・・・私だけを見つめて・・・・・・」
沙羅の囁く声に僕は、癒されて彼女を、静かに受け入れることにした・・・・・・
「裏乃」
サナトリウムにいるはずの、彼女の名を呼ぶ僕。無論返事など返ってくるはずもない。もし裏乃が僕の家にいたら、サナトリウムは今頃大騒ぎであろう。
あの海で見せた裏乃の愛らしい笑顔。僕はもう一度見て見たかった。まるで可愛い妹でもできたような気分に浸る僕だが。その刹那。あることに気が付く。
(どうやって帰ったんだ・・・・・・?)
それは当然の違和感だ。昨日、体調を崩し眠っていたのにもかかわらず、どうやってサナトリウムに行ったのかも覚えていない。そして今現在、どうやって自宅に帰ったのかも不明だった。
「裏乃が僕に笑いかけて、その後は・・・・・・」
必死で、あの海での記憶を辿る僕だが。記憶に決して晴れない霧が邪魔していた。
駄目だ、どうしても思い出せない。
「歩夢? 起きてるの?」
突然、僕の部屋に入ってきた人物。珍しくエプロン姿の母だった。
「起きてるよ」
息子の部屋にノックもしないで、入ってきた母を注意したいところだが。どうせ言うだけ無駄だ。注意したところで、きっと笑ってはぐらかされる。母はそういう人だ。それにしても・・・・・・
「仕事はいいの? いつもならとっくに出かけてる時間じゃ?」
怪訝な表情で僕は口にする。
「今日はお休みしたの」
母は目を閉じて、僕に告げた。しかも少し呆れているかのように。滅多なことでは仕事を休まない母。一体どうしたというのか?
「昨日、夜遅くに詩織ちゃんから電話があったの。歩夢が体調を崩したみたいで心配だって。看病しようと思って仕事を休んだのに」
若干ため息混じりの母。当然だろう。目の前には、至って何ともなさそうな息子の姿がある。
「あの、母さん」
「何?」
「昨日、何時に帰ったか覚えてる?」
「え? いつもと同じよ」
母は答える。いつもと同じということは、母が帰ったのはつまり真夜中だ。
「そのとき、僕は、ちゃんと部屋にいた?」
「いたわよ。少し寝汗を掻いて寝ていたから心配したのよ」
つまり僕は、真夜中には家に帰っていたということだ。しかし、寝汗を掻いて寝ていたこと以外、何もわからなかった。どうして思い出せない? 沙羅や裏乃が告げたとおり、壊れそうになっているのだろうか?
「それにしてもいい子よね、詩織ちゃんは。電話でね、私と一緒に歩夢を看病するって」
母にとっては僕の疑問などどうでもいい様子で。実に簡単に、詩織の話題に話を変えられた。詩織が、母に憧れを抱いていることを思い出す。
「歩夢にいい友達がいて母さんも嬉しい。志保ちゃんもきっと喜んでいるわね。きっと歩夢を見守っているのよ」
見守っている? 僕を? まったく志保の正体も知らないで・・・・・・
「体調は悪くなさそうだけど、今日は大事を取って、学校はお休みしなさい。いいわね」
そう言葉にすると、母は僕の自室を後にする。一人窓から朝の風景を見る僕。
「志保は・・・・・・ああ、畜生・・・・・・馬鹿、馬鹿・・・・・・」
いつだってそうだ。僕は自分にとって忌まわしいこの記憶を、頭の中にある絵具で塗りつぶしていた・・・・・・
時刻は昼を少しだけ回っている。母が僕に用意した昼食は、お粥一杯だけだ。それも少し焦げていて、ほとんど味がしない失敗作。思わず氷室先生のシチューが、頭に浮かんでしまう。
「また体調が悪くなりそうだよ」
お粥を食べ終わった僕の言葉に、母の右クロスが炸裂していた。
「はぁー・・・・・・」
一人自室でベッドに横になり、痛む頬を押さえながら、僕はあの二人のことを思っている。
「沙羅と裏乃、今頃どうしているんだろうな・・・・・・?」
僕はあの二人に今すぐ会いたかった。心から・・・・・・
そして・・・・・・
ピンポーン
自宅のインターホンが鳴る。数分後。僕の自室を勿論ノックなしで、母がズカズカと入って来るやいなや。
「歩夢、可愛いお友達が来てくれたわよ」
可愛いお友達? そう悪戯っぽく口にする母。歳を考えろよ。僕は思う。
「あ、あの、歩夢君。何だか元気そうだね・・・・・・」
詩織がどこか恥ずかしそうに、僕の自室に入ってきた。可愛いお友達の正体だ。まさか沙羅ではないかと思ったが。
「学校はどうしたんだ?」
当然の質問を僕は訊ねる。どういう理由かは知らないが、詩織はまだ恥ずかしそうだ。
「あ、うん、あのね、歩夢君が心配で・・・・・・その・・・・・・早退したんだよ。頭が痛いって嘘ついた」
頬を少し赤くさせ、満面の笑顔の詩織。優等生なのに、そんな嘘をついて大丈夫なのか? 僕がそう思ったときだ。
「ごゆっくり」
僕の自室を後にする母。待て。僕たちはそんな関係じゃない。
「私、緊張しちゃってた」
詩織は苦笑する。
「緊張?」
怪訝な表情を見せる僕。緊張する必要がどこにあるというのだろうか?
「だって、歩夢君のお母さんと一緒だったんだもん」
なるほど、憧れの人を前にして、照れていたのか。どうやら僕の体調は、二の次らしい。
「綺麗な人だよね。私もあんな風になれるかな?」
「実の息子に右クロスした母親だぞ」
「え? それはいつのこと?」
「三十分ほど前かな」
起こった出来事を、僕は正直に告げるのだが。
「歩夢君も人が悪いよ。変な冗談なんか言って」
僕が告げたことを、ただの冗談だと思っている詩織。そんな嬉しそうな彼女を見て、僕は考えてしまう。ここで真実を話すべきかと。僕が志保にしたことを。
「いや、駄目だ・・・・・・」
僕は思わず否定していた。詩織に知られたくない。いや、知られては駄目だ。
「歩夢君?」
不思議そうに小首を傾げ、僕を見つめる詩織。
「その、母さんと話しでもしてこいよ。きっと下でテレビでも見てるだろうし」
僕がそう口にすると
「わかった」
詩織は笑顔で返事をする。
「もしかしたら私、凄く甘えちゃうかも」
再び頬を赤らめる詩織。
「そうだな。膝枕でもしてもらえばいい」
冗談で僕が口にすると、詩織は
「うん、してもらう!」
喜んで僕の部屋から出て行った。どうやら詩織は、本気で甘えるらしい。
自室に一人残る僕。この部屋は静寂に包まれている。そう思ったときだ。
『詩織・・・・・・相変わらず嫌な妹・・・・・・』
いつ現れたのか? 志保が当然のように僕の自室にいた。僕の瞳を見つめ、当たり前のように立っている。
『ずっと嫌いだった。詩織のことが。いつだっていい人間でいようとする。本当は弱いくせに・・・・・・』
詩織への嫌悪感を露わにする志保。その表情は同じだ。あのときと・・・・・・
『まさか詩織が好きなの? あれは偽善者だよ、歩夢。きっとまた裏切られる。私と同じ血が流れているから』
妖しい笑顔を見せる死んだはずの志保。僕は呆然と見つめるしかなかった。息苦しく。
『歩夢は可哀想だね』
その言葉に僕は、震えあがる。額からは冬だというのに、冷や汗が流れた。一刻も早くこの場から逃げたいところだが、体が動かない。まるで金縛りのように体が硬直している。
『私に守られていればいいのに・・・・・・』
歩きだし、僕に近づいてくる志保。情けなく悲鳴を上げたいが、声が出ない。志保は僕に何をする気だ? まさか呪いでもかけるつもりか? 僕がそう思ったときだった。
『・・・・・・歩夢、君は弱くない・・・・・・』
柔らかく、優しい少女の声が聞こえる。これは沙羅の声だ。
『偽善者な女。詩織と同じ・・・・・・』
嫌悪な表情を浮かべ、志保は消える。空気に溶けるように。
「沙羅」
息苦しい金縛りが解け、僕は体の自由を取り戻す。狭い自室を見回し、沙羅の姿を探すが。当然の如く、自室には僕一人しかいない。
「そうだ。そうだよ・・・・・・」
少し放心状態でありながら、納得する僕。沙羅がここにいるはずがない。志保がこの世にいるはずがない。
「・・・・・・もう壊れよう・・・・・・」
これ以上あがいても無駄だということは、僕が一番よく知っている・・・・・・
「腹ペコだ・・・・・・」
苦笑しながら、僕は自室を後にした。昼食が味のないお粥一杯だけでは、空腹なのも当然だ。僕は一階へと下りた。冷蔵庫の中を確かめに。
「あら、詩織ちゃんは甘えるのが上手ね」
「えへへ、もっと甘えていいですか?」
「いいわよ」
楽しそうで嬉しそうな詩織と僕の母。その光景を目の当たりにしたとき、僕は唖然とした。
「歩夢君。膝枕してもらったよ」
満足気な詩織。彼女はソファの上で、僕の母に膝枕されていた。僕が冗談で提案したことを、詩織は実行しているのだ。
「何だか幸せだなー」
「私も娘ができたみたいで嬉しい」
詩織の頭を撫でる母。実に幸せそうだ。僕はこんな母を見るのは久しぶりだ。父と離婚して以来、疲れて眠そうな顔しか見たことがない気がする。詩織の存在が母の疲れを吹き飛ばしているのか。だとしたら僕は素直に喜べる。
「明生、ところでどうしたの? ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」
「腹が減ったから、冷蔵庫に何かないかと思って」
「お粥、食べたばかりでしょ?」
「あんな焦げた・・・・・・」
言葉の途中で、僕は口を閉じた。なぜなら母の目が、鋭く変貌を遂げたからだ。
「え? どうしたんですか?」
膝枕される詩織は、母の左手で目隠しされていた。まさか憧れの人は料理が下手で、こんな鋭い視線で実の息子を睨み付けている光景など、普通見せたくないだろう。
「あのお粥、美味しかったけど、まだ足りてないんだ」
作り笑顔で僕は母に告げる。母は目隠ししている詩織の目から左手をどけると、慈悲深い笑顔を見せた。
「しょうがない子ね。でも食欲が出たから、母さん安心した。ずっと歩夢の体調が心配だったから」
嘘つけ。右クロスを浴びせたくせに。
「あ、そうだ」
突然、詩織が思いついたかのように声を出す。
「私と料理しませんか?」
詩織が母に提案する。それを聞いた母は苦笑いを浮かべた。ざまあみろ。僕は素直にそう思う。
「私たちで、歩夢君に美味しいものを食べさせてあげましょうよ」
ソファで膝枕される詩織は立ち上がる。
「せっかくだけど、また歩夢の体調が悪くなったら、私、心臓発作でも起こすかも・・・・・・」
これは演技だ。息子の僕にならわかる。
「そうですか・・・・・・それは残念ですね・・・・・・」
浮かない表情を見せる詩織。ここでこいつを諦めさせるわけにいかない。
「大丈夫。僕ならもう平気だ。詩織と母さんの手料理が食べてみたいよ」
溢れんばかりの笑顔を見せる僕。詩織は穏やかな表情を浮かべ、僕に頷いて見せる。
「歩夢君、本人自らの希望ですよ」
「そ、そうね・・・・・・」
母は随分と引きつった笑顔だ。きっと僕にもう一度、右クロスをお見舞いしたいに違いない。
「一緒にお買いものしましょうよ。帰りに喫茶店でココアでもどうです?」
確かコーヒーは飲めなかったな。頬を少し赤くさせ、まるで猫のように甘える詩織。こんな彼女を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。猫のような詩織を見て、僕は不思議と微笑んだ。
「それじゃあ、僕は留守番してるよ」
二人だけにしてあげたかった。きっとそのほうが、母も詩織も楽しいに違いない。
「駄目だよ。歩夢君も一緒だよ」
いつもの詩織だ。こんな僕を誘ってくれる優しい詩織。
「あ、その、見たいテレビ番組があるんだ。だから僕は家で待ってる」
僕は嘘を吐いた。二人に楽しんでもらいたくて。テレビ番組などろくに見ないくせに僕は。
「わかった」
詩織は、少しだけ小首を傾げて微笑む。まるで僕の嘘を見抜いているかのように。
「それじゃあ、歩夢。母さん、詩織ちゃんと出かけるから、夕飯楽しみにしていてね」
圧倒的な作り笑顔の母に、僕も同じく嫌味な作り笑顔で返した。僕は夕飯が楽しみだ。
「歩夢」
僕の名を口にし、すると母は突然、作り笑顔をやめる。そしてただ、僕の瞳だけを見つめた。
「歩夢にいい友達ができて、母さん嬉しい。これからは安心した日々が過ごせそう」
母はそう口にすると、微笑む詩織と二人で出かけて行く。一人自宅に残る僕。
「これからは・・・・・・?」
僕は母のその言動に違和感を覚える。
「知っていたんだ・・・・・・」
きっと詩織も、何かしら感づいたに違いない。母は、僕が孤独で浮いた学校生活を送っていたことを、前から知っていたのだ。父に捨てられ、女手一つで毎日泥のように働いている母。多額の寄付金でいい学校に入学させたのも。それは僕の将来を、少しでも明るくしようと考えたからなのだろうか?
「テレビ・・・・・・そうだテレビを見るんだったな・・・・・・」
ソファに座る僕。そして、真っ暗なテレビ画面だけを見つめる。リモコンのスイッチ。電源のボタンを押していないので当然だ。
時刻は午後三時を過ぎていた。
「遅いな・・・・・・」
僕はそう口に漏らす。きっと買い物を終えた母と詩織は、喫茶店で仲良く談笑しているに違いない。真っ暗なテレビ画面を見つめるのをやめ、僕はソファから立ち上がる。
「仕方ない・・・・・・」
溜め息交じりに僕は自室に向かうと、適当に温かそうな上着を羽織り、冷たい夕日が差し込む外へと出た。空腹も限界だ。いっそのこと、二人を迎えに行ったほうが早い。僕はそう考えたのだ。この町で喫茶店といえば、駅前にあるチェーン店。そこは女の子に人気の店だ。僕は今、そこに向かって歩いている。
「うん?」
ふと僕は違和感を覚え、夕日の空を見上げた。この冷たい夕日に、どこか暗いものを感じるのは気のせいだろうか?
駅前に到着する僕。周りには、下校途中の同じ学校の生徒たちが歩いている。ここで仮病を使って早退した、元気そうな詩織が目撃されれば大変であろうに。だから一刻も早く、母と一緒に連れ帰らなくては。僕が喫茶店へと向かい歩き出したときだった。
「暴れるな・・・・・・!」
「おい、頭を押さえろ・・・・・・!」
何やら喫茶店の前が騒がしい。野次馬のような人だかりができている。僕は野次馬たちに近づいていく。皆、口々に何か言っている。
「ねぇ、見てよ、あれ・・・・・・」
「刺されたのか・・・・・・?」
「あいつ、まだ暴れてるよ・・・・・・」
「救急車、まだなのか・・・・・・?」
何か事件があったらしい。僕は野次馬たちの間から、彼らが目にしているものを目撃した。
「母さん・・・・・・? 詩織・・・・・・?」
しばらくその場から動けなかった僕。状況がわからない。一体どうしてこうなったんだ? なぜ僕の母が、赤い血を流して倒れているんだ? なぜ詩織は、呆然と母の腹を手で押さえている?
「すみません通して・・・・・・すみません・・・・・・」
僕は少しふらつきながらも、野次馬たちをかき分け、倒れる母と詩織に近づいた。
「・・・・・・そんな・・・・・・」
僕の瞳から熱いものがこみ上げてくる。腹から血を流す母。もう息をしていないというのに流れ出る血を、呆然とした詩織が止めようとしていた。詩織の手は、母の血で真っ赤になっている。詩織は僕の姿に気づくと、目を見開いたまま、ただ首を左右に振った。
「おい! この貧乏人! 僕の永瀬さんに近づくな! お前も殺してやるぞ!」
それは聞き覚えのある僕を罵る怒声だ。視線を向けると、二人の警察官に取り押さえられている野上の姿があった。彼の顔や制服には、血が付着している。あきらかに返り血だ。
「詩織、詩織・・・・・・」
「え・・・・・・?」
僕に名前を呼ばれる詩織は、ハッと我に返ったようだった。僕は詩織の血だらけの手を掴み、母への無駄な止血をやめさせる。死んでいるのはあきらかだった・・・・・・
「・・・・・・もういい・・・・・・」
女手一つで僕を育ててくれた母は死んだ。いや、殺された。野上という同級生の男に。
その後、警察に色々と説明を受けた。下校途中だった野上は、駅前で僕の母と一緒にいる詩織を見つける。野上は詩織に言い寄り、自宅に誘ったのだという。詩織が嫌がるそぶりを見せたため、僕の母が止めに入った。しかし、そんなことは気にも留めず、野上は詩織に言い寄り続けたのだという。そして無視されることに、とうとう逆上した野上は、いつも護身用と称し持ち歩いていたナイフで詩織を襲おうとした。このとき母は詩織をかばった。向かってくる野上から詩織を守ったのだ。そして代わりに刺されて殺された。
灰色の空からは冷たい雨が降っている。母の葬儀を終えた僕は、待ってくれている者など誰もいない自宅へと歩いていた。胸の中で酷い息苦しさを感じる。帰って眠りたかった・・・・・・ずっと、いつまでも・・・・・・
「歩夢君・・・・・・! 歩夢君・・・・・・!」
後ろから僕を呼ぶ詩織の声がする。僕は一度足を止めたが、次の瞬間には構うことなく再び歩き出していた。
「歩夢君、もう、置いてくなんて酷いよ」
冷たい雨でびしょ濡れの詩織。葬儀場からずっと走ってきたらしく、息を切らせながらも、相変わらずの笑顔を僕に見せてくれた。僕も弱々しく微笑みながら返す。
「悪いのは詩織じゃない・・・・・・」
僕がそう告げたとき、彼女の笑顔が止まった。
「詩織、君は本当にいい子だ。こんな僕をいつだって気にしてくれて・・・・・・」
詩織の瞳からボロボロと、大粒の涙が零れ落ちる。冷たい雨と混じりながら。
「悪いのは私だよ・・・・・・! 私だけだよ・・・・・・!」
自分を責める詩織。どうか恨んでくれとでもいうのだろうか? そんな真似は、僕にはできない。
「どうして・・・・・・? どうして歩夢君のお母さんが・・・・・・? こんなのあんまりだよ・・・・・・!」
僕と同様に、詩織の心には暗い思い出が残った。いつまでも残る暗い思い出が・・・・・・
僕は詩織に何をしてやれる? 壊れた僕が、この綺麗な人にできること。それは・・・・・・
「詩織、さぁ、これを受け取って」
ある物を僕は詩織に差し出した。それは、小指ほどのサイズをした透明な小瓶。中には白い砂が入っている。沙羅からの贈り物。
「これは・・・・・・?」
「ある人がくれたんだ。綺麗だろ? お守りだよ。これがあれば、もう詩織は悲しくない」
手のひらにある小瓶を見つめる詩織。僕はそんな詩織を見て微笑むと、誰もいない自宅ではなく、ある場所へと歩き出す。沙羅に会いたかった。彼女に、僕の悲しみを知ってほしい・・・・・・
「歩夢君、どこへ・・・・・・?」
「歩きたいんだ。ただ、一人で・・・・・・」
冷たい雨の降る中。眠りたい気持ちなど忘れ、僕は一人サナトリウムに歩き出していた。
雨がやみ、眩しいぐらいの冬の夕暮れが差し込んでいる。目の前にある建物は、サナトリウム。僕が敷地に入ると、沙羅が、まるで僕を待っているかのように、庭に立っていた。
「沙羅・・・・・・僕は・・・・・・」
僕はその場に崩れ落ちる。ただ、悲しい気持ちに支配された・・・・・・
「歩夢」
僕に駆け寄る沙羅。色々な言葉をかけてくる。
「どうしたの、歩夢? 体の具合が悪いの? それとも、悲しいことがあった?」
優しい言葉をかけてくれる沙羅。僕は、しばらくその場を動けなかった・・・・・・
「さぁ、立ち上がって・・・・・・」
沙羅は僕を抱き起そうとする。か弱い少女の力で。そんなのは無理だということは、悲しみに暮れる僕にも理解できる。しかし何故だか、僕は立ち上がることができた。ゆっくりと。
「ほら、私が目の前にいるから」
沙羅は微笑む。慈悲の笑顔で・・・・・・
僕はラウンジに案内された。窓からは、眩しい冬の夕暮れが差し込む。僕が座っているテーブル席の目の前には、沙羅がいてくれた。まるで僕を見守るように。
「歩夢、何があったの?」
沙羅は僕に問いかける。しかし僕は何も答えられなかった。ただ、母を殺されたと答えればいいのに。
「また黙るの? 志保を殺したときのように・・・・・・」
沙羅はどこか妖しい微笑みを浮かべた。僕の罪をどうして知っている?
「志保は誰かを愛せない人だった。だから何もない歩夢に近づいたんだよ」
志保。懐かしい。僕は本当の友達だと思っていた・・・・・・
だけど今は・・・・・・酷い悲しさだけが胸の底からこみ上げる・・・・・・
「イカレていた志保のことなんかどうだっていい・・・・・・! 母さんが・・・・・・僕の母親が、同じクラスの嫌味なやつに殺されたんだ!」
大粒の涙が瞳から零れ落ちた。悲しみ、怒り、悔しさが僕を支配する。ラウンジで休息していた医師たちや看護師たち。そして、患者たちが一斉に僕と沙羅に注目した。これだけ大きな声を出せば当然だ。沙羅は黙って僕だけを見つめていた。
「一体なんだったんだ?! 母さんの人生は?! 理不尽に離婚されて、僕を育てる為に毎日夜遅くまで働いて・・・・・・!」
僕は椅子から立ち上がり、哀れな怒声を上げる。
「あんまりじゃないか・・・・・・!」
恥ずかしく惨めだ。人前で涙が止まらない・・・・・・
「さぁ、こっちへ・・・・・・」
そのときだ。いつの間にか。僕の目の前にいた沙羅が、僕を優しく抱き締める。
「やりきれない人生でも、歩夢のお母さんはきっと幸せだった。私の言葉を信じて・・・・・・どうか今だけ・・・・・・」
離婚され惨めな人生でも、母さんは幸せだった。最後に、自分を慕ってくれる詩織と出会えたから? 僕にそう信じろというのか? いや、信じるしかない。そう信じないと耐えきれない・・・・・・僕は泣いた・・・・・・子供のように泣いてしまう。胸が苦しく、体が熱かった・・・・・・
「・・・・・・壊れた歩夢・・・・・・可愛そうに・・・・・・君は儚い人だね・・・・・・そして綺麗・・・・・・」
沙羅は歪んだ自らの思いを、僕の耳元で口にする。これが彼女の優しさなのだろうか?
僕は自らが流し続ける涙で目が見えず。きっとサナトリウムのラウンジにいる者達は、僕と沙羅に注目しているに違いない。その証拠に。
「素敵ね・・・・・・」
「ええ、本当に」
僕たち二人を祝福する声が聞こえる。
「・・・・・・ここにいればいい・・・・・・もう外の世界には戻らないで・・・・・・私のために・・・・・・私だけを見つめて・・・・・・」
沙羅の囁く声に僕は、癒されて彼女を、静かに受け入れることにした・・・・・・
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