皆がいる皆の居場所

たくうみ

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第一話 樋山家の日常 ~夜~

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 新学期が始まって2週間ほどが経った。
 人によっては変わった環境に順応するために、少々苦労した2週間だったかもしれないが、こと俺と言ったら特段変わった様子も無く黙々と仕事を熟していた。
 言い忘れていたが、俺は1階にある仕事場で、「樋山医院」と言う診療所を運用している。
 元々は俺の親父である樋山幸助が初代医院長を務めていたのだが、3年ほど前だったか親父が鬼籍になり、俺がここを継いだのだ。
 その前までは、東京の病院で働いていて親父が亡くなると同時にこの故郷に帰って来たと言うわけだ。
 従業員は俺一人。
 本当は看護師の一人でもいれば良いのだが、人一人を雇えるだけの収入も無いため俺一人で切り盛りしている。
 それに、ここはあくまで地域の診療所なので俺一人でも十分に回していけるのだ。
 今日の患者さんのカルテを見ていると、ふと壁掛けされた時計に目をやる。
 時刻にして16時30分過ぎ、そろそろ学生は学校が終わって帰ってくる頃だろう。
 現に外からは小学校から帰って来たのか幼子の溌溂とした声が二重三重と重なり合い楽しさがこちらまで伝わって来た。
 アナログ時計のカチッカチッと言う秒針を刻む音を聞いていると、医院とは別の自宅用のスライドドアが開いた音が聞こえた。どうやら帰って来たらしい。
 「「ただいま!」」
 制服に身を包んだ結と由紀の声が部屋中に広がった。
 「お帰り2人とも、今日は随分と早いのな?」
 「うん、今日は部活も無かったし、友達との約束も無かったから真っ直ぐ帰って来たの」
 結と由紀は部活動をしており、帰って来る時間は決して早くは無い。
 また、見た目通りの性格の為2人供友達が多く、それも相まってこの時間に帰って来るのは意外に珍しかったりする。
 「そか、なら今日はもう家に居るわけだな?」
 「うん! だから一緒に遊ぼ、兄ちゃん!」
 語尾に!マークを付けて、結が白衣の裾を引っ張ってくる。
 「生憎と今はまだ仕事中。ってか帰って来たんならまずは手を洗ってこい、その後は宿題をやる。はい以上」
 「え~宿題なんてすぐ終わるよ~」
 「昨日の夜、宿題が終わらない~って真夜中に叩き起こしてきたのは何処のどいつだったかな?」
 「ビクッ……で、でも今日はまだ少ないし、きっと大丈夫」
 「ふ~ん」
 余裕だと豪語する割に由紀の目は泳ぎまくっていた。
 見れば結の方も同じリアクションをしておりどんだけ仲良いんだお前ら、と内心呆れてしまった。
 「ったくお前らは、始めれば早いのに始めるまでが遅い」
 「だってやる気で無いんだもん~」
 「やる気が出ないからってやらずに泣くのはお前らだからな?」
 「分かってるけどさ~」
 結と由紀は決して勉強が出来ないわけでは無い。
 成績が専ら良いわけでは無いが、学年の中間くらいにはいた筈だ。
 しかし、やる気あることにはトコトン熱中する性格故か、勉強嫌いが幸いして宿題に対するエンジンの掛かりが悪いのだ。
 結果、昨日のように夜通し教科書を並べることになる。
 「良いからさっさと宿題終わらせて来い。お前らが終わる頃には俺の仕事も終わってるかもしれんから」
 「う~ わ、分かった……」
 「絶対、絶対遊んでよねこの鬼!」
 最後まで悪態を付きながらも嫌々ながら2階へと上がっていった。
 普段の掛け合いは大体こんな感じだ。
少々扱いが雑に感じるかもしれないが、それがお互いの距離感なのだと俺は思っている。
 喧しい2人が居なくなった仕事場は患者さんがいないこともあって非常に和やかだ。時間帯も時間帯で、穏やかな時間が流れていた。
 こんな時には、コーヒー片手に文庫本でも嗜みたいところだが今は診療中なので我慢だ。
 しかし、三度、この平穏を脅かす足音が聞こえてきた。
 「「やっぱり下にいる!」」
 「はぁ~またお前らか……」
 ガシャと開かれた廊下と仕事場を隔てる扉の前には案の定結と由紀が立っていた。
手にはテキストと思しき厚みのある紙の束と、学生の頃大変お世話になった大学ノートが抱えられていた。
「それで、2人だと捗らなさそうだしここでしても良い?」
「一応言っておくがここ仕事場だぞ?」
「良いじゃんお客さんいないんだし」
「いや、そう言うことじゃ無くてだな? 後、患者さんだ」
俺の声など聞こえない風に、2人はさっさと移動して、戸棚の影から2人分のパイプ椅子を取り出してきた。
ここは一応仕事場で、患者さんがいないからと言って安易に立ち入るべきではないと諭すのだが一切聞く耳持たずと言った感じだ。
 よいしょよいしょと椅子などを移動させて俺の作業台にそれぞれ並べた。
 「いや、此処でやらなくても良くないか?」
 「良いじゃん別に、大事な物触るわけじゃあるまいし」
 「それに分からない所教えて貰えるし、一石二鳥!」
 「お前らな……」
 俺の発言には一切聞く耳を持ってくれない2人は既にテキストを並べ始めている。ここまで俺に発言権無し、一応この家の家主であるはずなのに立つ瀬が無い。
 溜息交じりに2人を見れば、もうすでに宿題に取り掛かっている。
 もうどうすることも出来ないと諦めて、俺も自身の作業に目を移す。
 暫しの沈黙が流れる。
 普段から喧しい2人だが、先にも言った通り真面目に取り組むところは真面目に取り組むのだ
その前に何度か鞭を振るわなければならないのはまあ御愛嬌だ。
「うん………うん…なるほど…」
「だから…これがこうなって……」
勉強中に不意に独り言が漏れてしまう光景に思わず表情が綻びそうになる。
「(俺も昔はこんな感じで勉強してたっけな?)」
その度に、この家に居候していた先輩たちに気色がられていたことを今も覚えている。
「ん? 兄ちゃん何笑ってるの?」
傍から見れば気色悪い表情を浮かべているであろう俺を見て由紀が訝し気な顔を浮かべてくる。
「すまんすまん何でも無いから、宿題に集中しておけ」
集中を妨げてしまったのは何を隠そう俺なのだが、心中を悟られないように自分のことに意識を戻す
そこから20分ほど集中してやり、その間、3人の間で交わされた会話はごく少々で皆、自分のことに集中し切っていた。
そして少し経った頃、久方ぶりに結が口を開いた。
「ねえ兄ちゃん、ここ分からないんだけど」
「ん? どこだ? あ~文字式か、俺も結と同じころは苦労したわ、マイナス+マイナスがプラス? は? って感じだったし」
「本当にそれ! 中学の算数わけわかんない!」
そう言い結は地団駄を踏む。
地団駄を踏んでしまう気持ちを、俺も何となく分かる気がする。中学最初の数学は何故
あんなにも難しく感じるのだろう、今でも不思議だ。
「まあ、分かれば簡単だから。この問題はまずはマイナスを―――」
シャーペンで問題をなぞりながら、出来るだけ分かりやすく教えていく。
「って感じだ、分かったか?」
「やった解けた!分かればすんごい簡単!やっぱり兄ちゃん天才!超天才!」
「ふはははは、そうだろそうだろ!」
「流石、高校生の頃、勉強ばかりしていただけあるね?」
「由紀、褒めてるのは分かるんだけど、言い方に悪意無か?」
いくら荒んだ心を持っている俺でも、こんな純粋な表情から発せられた言葉には来るものがある。
現に由紀は頭上に?を浮かべている。
「じゃあ兄ちゃん、これはどう訳すの?」
「ん?これはな、動詞がこれで主語がこれだから……」
そんな風に、聞けば分からない所を教え、2人も難問に悪戦苦闘しながらも確かに手応えを感じるのか、何処か楽しそうにしている。
「こんな風に、学校の勉強も真面目にしてれば良いのに……」
「学校で真面目じゃ無くても、家で真面目にやれば良いんだもーん」
「家の宿題も真面目にしない奴が一体何を言ってやがる」
「そんなに言うなら兄ちゃんは宿題を忘れたこと無いの?」
「そりゃあ忘れるどころか、宿題とは別に勉強してたから出した記憶すらない」
「それ真面目に取り組んでいないって言うことじゃん!」
ワイワイガヤガヤと大方勉強をする空気では無いのだが、張り詰めた空気での勉強には限界があると思っている。だから、こんな風にほんわかした空気下での勉強が我が家流なのだ。
そんなこんなで数時間勉強し、外はすっかり暗くなり時間にして6時30分を回ろうとしていた。その時だ、
ピロン
「ん? 何だ?」
手元の携帯の通知音がし、液晶を光らせる。
「ねえ、結、兄ちゃんに連絡する友達なんて居るのかな?」
「居ないんじゃない? 逆にいたらビックリだよ」
「おいお前ら、いきなり失礼だな」
コソコソと非常に聞き捨てならないことを言っているが、事実なので否定出来ないのがもどかしい。
「友達じゃ無くて、朱莉から。学校終わったから夕飯を買いに行かないかって」
そう言って会社での事務連絡と勘違いされそうなチャット画面を見せる。
「行く行く! 勿論行く!」
「兄ちゃんも勿論行くよね!」
「俺もか? まあ、良いけど」
「本当! やったー! なら早く着替えに行こう結!」
「うん!」
言うが早いか、開いたテキストもそこそこにそそくさと2階へと掛けていってしまった。
「ほんと、勉強以外のことになると早い奴らだな」
やる気あるないが激しすぎる2人に苦笑いを浮かべつつ、仕事場の後始末をする。
約束の時間は今から20分後だから少し急がなければならない。
後始末をしながら、ふと思った疑問を反芻する。
「何してんの兄ちゃん! 早く行くよ!」
しかし、その俺の思考を遮るようにドア越しに声がした。
 上がってまだ数分しか経っていないのだが、もう用意が出来たらしい、玄関から呼ぶ声が聞こえてくる。
 「分かった! 今行く!」
 「早くしてよー! じゃないとスーパーしまっちゃうよ!」
 「そんな急がなくても逃げてはいかんわ!」
 ただ4人で出掛けるだけなのだが、2人からしたら相当嬉しいことらしく、玄関でも早くしろと催促の声が止まない。
 こっちの事情など、心の底からあいつらには関係無いらしい。
 焦らせられるのは好きではなく、思わずため息が出る。
 しかし、こんなにも買い物と聞き、喜ばれてはこちらとしても悪い気はしない、あれだけ楽しそうなのだ、相当嬉しいのだろう。
 普段なら、俺か朱莉が買い出しに行くのがいつもだ。
 しかし、ほんのたまに家族総出で買い物に行く時があり、その時は、決まって今のようにお祭り騒ぎとなる。
 所詮買い物、されど買い物。
 他の皆が普通だと思っていることも、結と由紀にとっては、どこか特別なことだと思うのかもしれない。
 これだけ嬉しがってくれるなら、断るのも忍びない。
こんなごく小さなことの積み重ねでも、少しずつ少しずつ心の空白を埋めていってほしいと思う。
 
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