八卦は未来を占う

ヒタク

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一章 遭遇①

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 七月十日。夏休みが近くなり、うかれた学生の増えてくる時期。夜になっても、昼の暑さを色濃く残す路上に俺は一人で歩いていた。
 俺はこの時間に外へ出る気なんてなかった。自分でも気怠そうな顔をしているのが分かる。

「うるさい蝉だなあ……」

 夜になったというのに、元気に鳴いている蝉に向かって八つ当たり気味に愚痴をこぼす。苛立ちを紛らわすように周囲を見回した。道路の隅に捨てられていたアイスの棒が目に入った。

「はあ。アイスさえ切れていなければ……」

 言いながら、こうして俺が外を歩く羽目になった理由を思い出した。



 あれは食後の出来事だ。
 俺はいつもデザートとして食べているアイスを取り出そうと冷蔵庫を開けた。
 しかし、そこには買い置きしていたアイスはなく、ただ紙が置いてあるだけだった。

『ハハハ。アイスはもらったのだよ、圭くん。by千歳』

 またか。思わず、その紙を見て、ため息をついた。幼馴染である直江千歳なおえちとせは、我が家に来ても俺の妹である上杉雫うえすぎしずくに見咎められない地位を利用し、時折、このような悪戯を仕掛けるのだ。
 千歳が笑っている姿が目に浮かぶ。

 悪戯をしてもなぜか憎めない。今回も、ご丁寧に名前まで書き、自分であることを主張して他の人に矛先が向かわないようにしているのが、実に千歳らしい。
 でも、今回の悪戯がそこまで大きなことではなくて良かった。あの衣装棚総入れ替え事件と比べれば本当に助かった気さえする。いや、あの妙に艶めかしい俺の絵が描かれていた本があった時の方が――

「あら? 兄さん、アイスがないんですか。……というか、どうしたんです? やけに憔悴しているように見えますけど」

 いつの間にか、隣で洗い物をしていた雫が見つめていた。
 雫は身に着けていたエプロンを脱ぎ始める。三角巾を外すと、仕舞われていた肩ほどまである黒髪が広がった。

「私が買いに行ってきますよ」

 雫は友人からクールだ、なんて言われているらしい顔を微笑みの表情へ変えて言った。
 思えば、雫には家事をほぼ全部任せてしまっている。今日も料理を作り、洗い物をしてくれていたのだ。両親が家を空けているとはいえ、任せすぎているのかもしれない。

「いや、俺が行くよ。いつも任せきりになって悪いからな」

「えっと……、兄さんに任せるのは……。やっぱり私が行きますよ」

「いつも雫は家事をしてくれているだろう? たまには俺が行くよ」

「でも……。兄さん、ちゃんと買い物できますか……? 女の人がいたらまともに買い物できないんじゃないですか?」

 雫は俺のことをなんだと思っているんだ。

「今世紀最大の女たらしでは?」

「そんなわけないだろ!」

 軽く首を傾げながら言った雫の言葉に思わず叫んでしまった。
 今までに告白されたことなんて一度もないのに一体どうしてそんな評価をされているんだ、と小一時間言いたくなってしまった。
 俺の言葉に目を丸くする雫。そこまで信用がないのか。……あれ、こいつさりげなく俺の心を読んでやがる……。

「……すぐに帰ってくるさ」

「…………そうですか? なら、お願いします。……信じていますからね」

 ずいぶんと間が開いたように感じたが、一度だけ頷いて言った。

(そんなに俺って信用ないのか……)

 雫の反応に少しだけ悲しくなりつつも家を出た。
 絶対に雫の考えを変えねばならない。そう俺は誓うのだった。



 暗い夜道。街灯が照らすとはいえ、完全に闇を払拭することはできず、遠くまで見ることは難しい。ただでさえ、前も見づらい状態に夏の蒸し暑さが加わり、俺の気力を奪っていく。
 早く買って帰ろう。いつまでものんびりしていると雫が心配するかもしれない。
 俺は先ほどよりも少し速く歩き出した。

 しばらく進み、目の前に十字路が見えてきた時だった。
 十字路の右手に何か黒い影のようなものが見える。ここにも今まで歩いてきた道と同様に街灯は設置されている。それにも関わらず、黒い影のように見えるのだ。

 俺は目を凝らした。だが、影は小さいということと右から左へゆっくり動いているということぐらいしか分からなかった。

「いったい、なんなんだ」

 不安が俺の中に膨れ上がる。こんな時に限って最近、通り魔事件が多発しているというニュースを思い出してしまった。
 しかし、店は十字路の先にある。早く買って帰りたい気持ちと不審者らしき影に対する不安がせめぎ合う。結果として、先ほどよりもゆっくりだが、少しずつ俺の足は動き出した。
 あわよくば、このまま通り過ぎてくれないだろうか。そんな気持ちを俺が抱いているのが分かったのだろうか。急に影が進行方向を変えた。よりにもよって、俺の方へと。

「……っ」

 驚きで息を飲んだ。同時に足を止めてしまう。
 どうするべきか。頭の中でそんなことを考える。しかし、心臓が激しく脈を打つだけで、考えがまとまらない。対する影は速さを変えずに近づいてくる。それほど速くないはずなのに、やけに速く感じられた。
 少しずつ影は俺との距離を詰めてくる。やがて、顔が見えるほどの距離になり、ようやく俺は影の正体を知ることができた。少女だった。俺と大して変わらないぐらいの年に見える。

 かすかに丸みを帯びた顔の輪郭にはまだ幼さを感じさせる。パーツは一つ一つが美しく、それぞれが絶妙なバランスを保ち、顔を構成している。その顔は目を見張るような美しさとかわいらしさを同居させていた。しかし、その表情は感情というものを封じ込めているかのようにまるで感じさせなかった。
 着ている服は黒一色だ。どうやら、この服のせいでよく見えなかったらしい。こんな変な服は見たことがない。

(いや、本当にそうか……?)

 頭のどこかで引っかかる。どこか見覚えのある服だった。一体、どこで見たのだろう。
 足元を見ると草履を履いている。やけに日本風だ。
 そう考えた時、俺の脳裏に該当する服が出てきた。巫女服だ。初詣ぐらいでしか見ないが、確かにその服だった。一線を画す色合いをしてはいたが。

 少女はゆっくりと歩いてくる。
 とうとう俺の目の前までやってきた。

「――ねえ……」

 顔を俺の方へ向け、小さな口から言葉が紡がれる。その声は注意して聞いていなければ、話しかけられたのか分からなくなりそうなほどか細かった。
 俺を見つめる少女の目が一瞬、赤みを帯びた。俺は驚いて目を瞬かせるが、色は消えていた。

「――気をつけなさい」

「え……。な、何を……?」

 俺の言葉を聞いた少女は視線をほんの少しだけ下げた。下げるほんの少し前に少女はその表情を悲しみの色に染めた。しかし、もう一度顔を上げた時には感情は見えなくなっていた。

「――あなたには死が見えたから……」

 驚きで自身の目が丸くなるのが分かる。しかし、少女は気にすることなく、俺の右隣を歩いていく。まるで、言うべきことは全て言ったとでもいうかのように。

 少女の背まである髪が風になびいた。少女の方を見ていた俺は髪が目に入りそうになり、咄嗟に瞑った。
 目に髪のあたる感触が届く。髪の匂いなのだろうか。どことなく甘い匂いが漂ってきた。

 感触がなくなり、目を開いたが、そこにはすでに少女の姿はなかった。
 一体、何だったのだろう。

――にゃあ。

 鳴き声のした方を見ると、そこには黒猫がいた。その姿を見て、自分が呆然としていたことに気が付いた。
 チカチカと街灯が点滅している。あれだけ暑かったのに今は肌寒い。
 考えても仕方がない。俺は思考を放棄し、足早に店へと向かった。
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