命綱

mikka123

文字の大きさ
上 下
1 / 1

命綱

しおりを挟む
 左折し、暫く行って右折する。後は、道なり。


 私は今、『死』へと向かっている。


 数年連れ添った妻と別れて、半年。その刹那の間に友も職も全て失った。残ったのは、このローン完済済みの軽自動車と「痴漢」の悪評。

 仄聞《そくぶん》してはいたが所詮、他人事だった──自分事だと留意していても、結果は変えようがなかっただろうが──今となっては総じて後の祭り。もう救われる術《すべ》などない。


──目的地まで後、数十キロメートル。まだ先は長い。

 急き立てる心胸と裏腹、信号に停止させられる。赤信号なのだから、致し方ない。ついでに何処か寄って行こうか。腹ごしらえにファーストフード店、縄を買いにホームセンター、ガソリンスタンドでガソリンでも──

 漠然と巡る頭が、赤と入れ替わり点灯する青にリセットされる。些《いささか》か忌々しく思いながらアクセルを踏む。目的地へ走り出すと共に、信号に堰き止められていた思考も幽冥《ゆうめい》へと加速する。

 人は死んだら何処へ行くのか。「天国へ行き、生まれ変わる」等と言う輩もいるが、私に言わせればそんなものはまやかしだ。人はみな等しく死に絶えた瞬間、俗に言う魂は霧散する。その瞬間思考は途絶え、意識を永遠に手放す。『死』に明暗はない。あるのは無だ。
 即ち、私の目的地はそこにある。


 私は今、『無』へと向かっている。


──目的地まで後、数キロメートル。

物思いに耽けている間に殊《こと》の外《ほか》、深山幽谷《しんざんゆうこく》まで来ていた様だ。

 着実に『無』へ近づいている、実感。早鐘を打つ心臓に共振する様にハンドルを小突く。今まで等閑視《とうかんし》していたトンネルが黒を増す。呑まれそうなほど暗く冷たい。しかし、暗闇に私が望むものはない。纏わり付く闇を祓う様に、アクセルを踏み込んだ。


 昔から考え込む性格ではあった。だが、ここまで千思万考する様になったのは何もかも失ったからだろう。

 仏教では、悟りを開く為に悟りへの欲以外を全て消し去るらしいが、一種それと近い状態なのかもしれない。我欲に塗れた女の"おかげ"でそこに近づくとは何とも皮肉なものだ。強いて欲があるとすれば、自身が消え失せる事への欲求か。心を掻き乱す、と言う意味ではこれも煩悩なのだろうか。

 生憎、その辺りの知識は持ち合わせていない。教養のない者はいくら思考しようとも無意味なのだろう。出てくるのは安っぽい言葉と、限られた知識だけだ。結局の所、私はこの道を進み『無』へと向かう。もう、それしか、ないのだろう。


──目的地まで後、数百メートル。

不意に家の事が気になった。外出前に施錠はしたか、どうにも確証がない。ここまで来たが仕方ない、心残りがあっては仕方がない。短わい脳内会議は全会一致で直ぐに終わる。


 己の体一つ乗せた車を転回させ、共に目的地へと向かう。ああ、仕方がない。


 私は今、『生』へと帰っていく。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

触手召喚士

BL / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:8

大根踊りー徳島県立太刀野山農林高校野球部与太話

青春 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

冤罪で国外追放される様なので反撃して生き地獄に落とします

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:39

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

愛の宮に囚われて

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:31

処理中です...