三条瀬人の捜索ファイル

西野低気圧

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case.1 自転車の鍵

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 稽音館(けいねかん)高校は、一般的な公立高校としてはかなり広い土地を有している。そのため、蔵書数が十万を超えている我らの図書館は、本校舎とは別の場所に建てられているのだ。しかし、何の意図があってか、その図書館と本校舎の間には、校庭に体育館、サッカー場とテニスコート二面、さらに来客専用駐車場が整備されている。よって、稽音館生は本の貸借をする場合、曲がりくねった長い道を往復する必要がある。徒歩での移動だと軽く十五分が経過してしまうため、ほぼ全ての生徒が自転車を使うようにしている。
 新入生である因幡(いなば)改成(かいせい)は既にその習慣を理解し、従っていた。今日中にカウンターへ返却しなければならない本が四冊もあるのだ。図書館の閉館時刻は午後五時ちょうどなので、四時二十三分である今現在はまだ余裕がある時刻だ。そう思った改成は、ゆっくり駐輪場へ向かっていた。何気なく左手をポケットに入れる。
 ここで問題が起きた。いつもは鳴る筈の、鈴の音が聞こえなかった。左手が、そこに入れておいた筈の自転車の鍵に触れなかったのだ。慌てて、右のポケットや、学校指定の鞄の中まで確認したのだが、果たして無かった。
 しかし、朝登校する時に自転車を使っているのだから、家にあることは有り得ない。つまり、この学校で落としたのだ。土地が広いことで有名なこの学校のどこかに。
「……嘘だろ。」
 

 稽音館高校では『落とし物ボックス』と呼ばれる棚が存在する。校内で見つかった落し物は、一度はここに届けられるのだ。
 もしかしたらと期待して来たものの、財布や水筒、異臭を発する弁当箱に、破られた教科書類、あと、なんかエビフライのキーホルダーとかどうでもいいものは置いてあったが、改成の望む物はそこには無かった。まあ、簡単には見つからないよな。
 落胆するも、探さない訳にはいかないので、とりあえず教室に向かって歩き出す。その時だった。
 凛として華麗な、しかし、威厳と温柔さが入り混じったような、そんな柔らかい声が通った。この表現は自分でもどうかと思うが、不思議な魅力を持つ彼女の前では、そんなことは忘れてしまう。
「あれ、カイセー、何してるの?」
 夏に近付いているというのにもかかわらず、いつも通りの緑色のジャージを着て、明るく染めている栗色のポニーテールを揺らしながらこちらに視線を送る女子生徒の姿が見えた。
 改成の幼馴染みであり、クラスメートでもある三条(さんじょう)瀬人(せと)がそこに居た。漫画のように頭上に『?』がつきそうな顔をしたまま止まっている瀬人の方に向き直り、改成は返事をする。
「あー、落とし物を探して……あ。」
 しまった、やってしまった。
 硬直していた瀬人の眉がピクリと動く。驚いたように目を開き、好奇心が視認できるのではないかと思うほどの笑みを浮かべた。
 改成は今、瀬人の前で言ってはいけない単語ランキング上位に位置する『落とし物』を口にしてしまったのだ。
「落とし物、探してるんだ。」
「いや、えっと、その。」
「探してるんだ?」
「はい。」
 急速に接近し身を乗り出してきた瀬人の圧に押され肯定する。相変わらず距離が近い。普通、個人的な関心や関係を持たない人同士が緊張せずにいられる距離は、大体一メートル、よほど親しいとしても五十センチ前後だと聞いたことがある。無意識のうちにそれ以上の距離を取るというのが一般人の感覚らしいのだが、やはり世の中というものは広く、そういったことを気にしない、もしくはその距離が普通よりも近いという人が稀に存在する。今改成の目の前にいる少女はその一人であった。
 改成の返答に満足したのか、一歩引き下がり腕を組む瀬人。なぜか上から目線でこんなことを言い出した。
「よろしい、ではこの三条瀬人が見つけてあげましょう。」
「いやいや、セトに手伝ってもらわなくても大丈夫だから、気持ちだけ貰っておくよ。」
「気にしないで、私が探したいだけだもん。」
「でもこんなことでセトの手を借りるのは悪いからさ。」
「大丈夫だってば。カイセーは素直に任せていればいいの。」
「本当に申し訳ないから。これは俺の問題……」
「返事は?」
「よろしくお願いします。」
 再び距離を詰めてきた瀬人に押し負けてしまう。自分は思っていた以上に押しに弱かったことに気づかされ、改成は肩を落とす。
 その一方で瀬人は先程と同じように一歩引き、可愛らしく小躍りしている。小躍りって本当に踊るものだっけ?
「それじゃあ、捜索始めよっか!」
 元気一杯にそう言った瀬人の目には、やる気が満ち満ちていた。


「落とし物を探すときは、できる限りの記憶を引っ張り出すこと。」
 改成が落とし物に気づいた場所、つまりは駐輪場の前まで戻って来た途端、瀬人がそんなことを言い出す。
「ここに来るまで、どの道通って何をしたかを思い出してよ。なるべく細かく。例えば、北校舎四階の廊下を東に向かって進んだ。ちょうど吹部が外で練習していたため窓側によりそれを横目で見ながら歩いた。みたいに。」
「そんな細かくは難しいよ。考えて歩いてる訳じゃあないし……ああっ、分かった、分かったから離れろ!」
 言い訳をしている内に密着してきた瀬人を引っ剥がす。少しは意識して欲しい。顔の距離が二十センチも無かった気がする。
 とにかく、思い出してみることにした。

 
 「ほほう、生物準備室。」
 駐輪場に行く直前、担任の生物教師に頼まれていた資料を持ってきたのだ。教室を出たのが最後だったので、鍵を三階の職員室に持って行った後である。ちなみにここは二階。
「確か、ちょうどドアを開けようとしたら先生が東側の階段、あ、右の方ね。そっちから来たんで、そのままファイル渡しました。」
 ドアを開けようとするそぶりを見せながら説明した改成は瀬人の方へ振り返る。腕を組んだまま二、三度頷いた瀬人はゆっくりと口を開いた。
「……演技下手だね。」
「関係ないだろそれ!」
「特に変な所はなさそうだね。準備室の中に入ってないんだから可能性はゼロか……。」
「聞いてないなこいつ!」
 いつも一言多いからな、と言おうとしたが、どうせ耳には入らないのだから、と考え直し黙ることにした。
 それにしても、落とし物探しって腕組みして思考するようなものだろうか。そもそも何でこんなことに好奇心を抱けるのか分からない。自分の鍵という訳でも無いのに、真剣な表情で策を練っている。
 この三条瀬人という女は、基本的に「楽しく生きる」ことを目標にしている普通の高校生だ。しかし一点だけ、とても普通とは言えない性格がある。それこそが、この「探し物が大好き」という点だ。運動が得意で元気な、しかも中々に可愛い外見を持っていながらも、万年彼氏がいない理由はそこにあった。以前改成は何故探し物なのかと尋ねたことがあるのだが、「ふふふ、なんでだろうね。」と流されてしまい、結局、謎は謎のままで現在に至る。顎に人差し指を当て軽くしならせながらうんうん言ってる瀬人を見つめていると、ついこんなことを考えてしまった。今はそれよりも鍵だ。早く見つけなければいけない。そう思って、うんうんが継続している瀬人を現実に引き戻そうと右手を伸ばす。すると瀬人の体はそれを器用に避け、そのまま後方の階段へと向かっていった。何が起こっているのか把握するのに数秒かかった改成は、右手を突き出した前のめりの体制のまま停止した。その短時間に、瀬人は素早く角を曲がって行ってしまい、姿が認識できなくなる。
 目だけで追っていた改成だが、ようやく身体が動いたため、走ってついて行った。階段を上る少女の背を何とか発見し、声を掛ける。
「セト!」
「……。」
 案の定耳に届いていない。立ち止まってはくれないようなので改成の方から接近する。背後から声を掛ける。
「おい、セト!」
「……。」
「セトってば!」
「ひゃっ!?」
 両肩を掴んで強引に前に立つと、瀬人が驚き可愛らしい声を上げた。ほんの少し紅潮した頬を引きつらせ、元々大きな目を目いっぱい開いている。
「急にどうした?」
「え、あ、うん、ごめん。考え込んじゃって……。」
「その癖、いい加減直せよな……。」
「あ、あはは、そーだよね。ごめん。」
 瀬人は一度頭を使いだすと、外界から力尽くで止めなければ自分の世界に入りきってしまう。一人でいるときはいいのだが、先ほどのように誰かと会話しているときにもこうなるので、改成はかれこれ十年以上も同じ注意を繰り返している。
「それで、何考えてたんだよ。」
「ああ、えっとね……。」
「あれ、お前ら何してるんだ? こんな階段のど真ん中で。」
 台詞を遮った第三者の声により、自分がいまだに瀬人の肩に手を置いていたことに気付き、慌てて距離を取った。振り返った先には、担任の生物教師が立っていた。
「先生。」
「おう、帰宅部二人でまだ残ってたのか。勉強する訳でも無いならさっさと帰れよー。」
「はい、すいません……。」
「先生。」
 改成が話していることも気にせず、瀬人が割り込んでくる。
「カイセーと準備室で会う前に、職員室に居ましたか?」
「ああ。居たけど……。え、何? 俺怒られるの?」
 瀬人の真剣な表情を見て驚いたのか教師がそんなことを言い出した。確かに瀬人の圧はすごいが、怒るのはあなたの立場の方だろう。
「分かりました。行こ、カイセー。」
「お、おう。あ、失礼します。」
 礼すらせずに通り過ぎようとする瀬人を追いながら頭を下げる。何が起きたのかいまいち理解できていない教師は「……ん? 何だったの? 怒ってそうだったけど……なんかしたっけなあ……。」なんて呟いている。しっかりしてくれ、あなたは仮にも教師だぞ。
 改成の数メートル先を歩く瀬人はもう職員室の前まで行っていた。準備室に行く前に寄ったと伝えたからだろうか。
 その時ふと改正は思い出した。瀬人が職員室の扉へと向かう。それを引き止めようと改成が呼びかける。
「セトっ……。」
 しかし、改成の予想とは逆に、瀬人はその扉をスルーしていった。
「へっ?」
 素っ頓狂な声が出てしまい、それに瀬人が反応してこちらを向いた。
「え? どうしたの?」
「いや、なんで職員室スルーした?」
「だってカイセー、中入ってないんでしょ?」
「……なんでわかった?」
 改成は職員室に寄ったとしか伝えていない。そのことは今思い出したのだ。そのため、絶対に入っていくと思ったのだが。
 瀬人はすらすらと、解説を始めた。
「先生は職員室に居たって行ってたでしょ。カイセーは資料を渡しに行ったんだから、先生に会えばそれでいいはず。でも、職員室から生物準備室に行った。つまり、カイセーは先生とここで会ってない、見つけてないってことになる。一番奥の席とかの先生ならわからないけど、私らの先生の机は扉のすぐ近く。中に入ったんなら気付かない訳が無い。じゃあ、答えは一つでしょ?」
「……。」
「? 大丈夫?」
「あ、いや、何でもない。」
 洞察力の塊を前にして、一瞬気を失ってしまった。たったあれだけの会話でそこまで考えるなんて……。
「手間は省きたいからね。」
 にっと笑いながら言った彼女には、後光が差しているように、改成には見えた。
 

 「うーん、あとはここだけだよね。」
 さすがの瀬人も、少し悩んだ素振りを見せる。改成たちは今、四階の教室棟に居た。まだ探していない最後の場所だ。だが、一つの問題が二人に立ちはだかっていた。
「……広いよねえ。」
「……広いよなあ。」
 ここ教室棟は、その名の通り教室が並んでいる。四階には一年生全クラスと二年生の半数クラスが備わっているため、必然的に広くなってしまう。しかもそれだけではなく、改正たちの教室から職員室に行くためには、この階の廊下を端から端まで移動する必要があったので、捜す範囲だけを考えても、決して狭いとは言えない。
 こんなところを探さなければいけないのかと改成は肩を落とす。同じようにそれは嫌だと思っているのか、瀬人も暗い顔をしていた。
「まあ、でも探さない訳にはいかないよね。」
 早々に諦めた改成は右手で頭を掻きながら歩き出す。ところが、いつもなら積極的に前を歩いていく瀬人が、一歩も動かずに固まっていた。よほどいやだったのだろうか。
「セト、どうした?」
「……最初に聞いておけばよかった。」
 瀬人は思いついたように顔を上げ、一心に改成を見つめる。ちょっと照れる。
「覚えてる範囲じゃあ、鍵いつまで持ってたの?」
 本当に今更の質問である。それを考えずに探していたのはかなりの時間の無駄だったかもしれない。とにかく思い出してみる。
「昼休みまではあったと思うよ。お前が歩くとチャリチャリ鳴るって言われたからさ。」
「何で言われたの?」
「移動中だったからだと思う、ほら、外壁工事とかあったでしょ?」
「……ふ~ん……。」
 何かに納得したのか、全てを理解したような微笑みを浮かべた瀬人。そして彼女はくるりと身を翻し、引き返そうとする。
「え、セト?」
「もういいよ。」
 後ろ姿を見せながら落ち着いてこう言った。
「教室まで見る必要、無くなったから。」
 

 改成は瀬人に言われるがまま、その後をついて行く。この階段を下りてしまえば、その先は駐輪場だ。まだ鍵は見つかっていない。何のつもりだろうか。足元を見たまま瀬人が話を始める。
「そもそもなんだけどさ、改成の鍵って落とす訳無いんだよね。」
「……え?」
「だってそうでしょ? 鍵に付けた鈴だって落としたとき気付く為のものじゃん。だから私は、置き忘れてきたものだって思って探してた。でもその可能性がある場所が話の中には全然なくてさー。最初から持ってないんならわかるけど、昼休みまではあったっていうからさ。もう私ができることないかなーって考えちゃった。」
 まだ沈む気配もない太陽の日差しが改成の顔に当たる。不意打ちを食らって目を細めた。気が付くと、既に階段を下りきっていた。
 校舎の外に出た瀬人は話を続行する。
「昼休みまであってその後には無くなってるんだから、その間に何かがあったっていうことはすぐわかる。その何かが問題なんだよ。でもその他に一つ気になることがある。最後に鍵を使ったのは、自転車を動かしたのはいつ? ってこと。」
 少しずつだが読めてくる瀬人の考え。改成は自分の記憶を引き出しながら、展開される洞察力を肌で感じていた。
「カイセーの言うことは大事なこと抜粋されてて分かりやすいからね、いいヒントだよ。昼休みには、そう、外壁工事があった。駐輪場のスペースの中にちゃんと自転車を押しこんどけーって先生言ってたでしょ。でも朝来るの遅いカイセーが最初から中に置けるとは思えないよね。ほら、昼休みに移動してた理由がもうわかった。」
 校門に続く大通りのすぐ左側、樹齢六百年以上だと言われている大木の立つ角を曲がった先に駐輪場はある。
「鍵の置き忘れってよくあるんだよね。特に、自転車の場所だけを移動させたときとかにさ。……あれ? 最後に鍵使ったのって動かすためだけだよね? ふふふっ、もう答え分かったでしょ?」
 自転車が乱雑に置かれているスペースの端の端、改成の自転車が無理に押し込まれているところに立った瀬人は、振り返ってにやにやとしている。
 彼女の人指し指の先、後輪の回転を止めている錠には、銀色の鈴がついた鍵が挿し込まれたままであった。

 
 「いやー、疲れたー!」
 改成が鍵を抜いたと同時に、瀬人がその場にぺたりとしゃがむ。一仕事終えて満足なのか、その顔は爽やかだった。梅雨入りもまだだが、暑さが厳しいため、改成の頬を撫でる風はどこか心地良いものだった。
 ふと足元に銀色の何かが落ちていた。座り込んで拾う。石ではない。
「誰かの家の鍵?」
 それは自転車のものよりは大きく、丈夫に作られていた。鍵であることに違いはない。
 突如改成は背中に熱を感じた。瀬人が身を乗せてきたのだ。ひょこりと肩の上に顔を出してくる。距離が近いのは相変わらずだ。
「何してんの?」
「ん、鍵落ちてて……あ。」
 しまった、本日二度目のやってしまった。
 恐る恐る首を回した先では、星のようにキラキラ輝く眼で瀬人がこちらを見ていた。持ち主を探すことも楽しいのかもしれない。トリガーが多くて本当に困る。気が抜けないではないか。
 そう思っていながらも、二人で校内に戻ったことは言うまでもないだろう。
 


 そうして、本の返却期限を破った改成は二週間、図書館からの貸し出しが禁止された。
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