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LV1.2 パンデミック下のヲタ活模様
第18イヴェ 絶許、ライヴ・ハウス不要論
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なんだとぉぉぉ~~~、ライブ・ハウスを絶滅に、だとっ!
これだ。
まさに、これこそが、〈現場〉を知らない、そうゆう〈在宅〉一般が抱きがちな考えなのだ。
なるほどたしかに、二〇二〇年前半、世界規模の感染症の影響下、いわゆる〈三密〉、密閉、密集、密接の三つが、感染症対策として避けるべき三つの要素とされ、その結果、数多くのイヴェントやライヴは延期・中止を余儀なくされた。特に、緊急事態宣言発令の後に、三密禁止は、ライヴ・ハウスだけではなく、大衆が集う大部分の空間にも適用された。
つまり、だ。
密集し易い空間は、なにもライヴ・ハウスだけではないのだ。
だから、今さっき、SNSで見かけたツイートのように、密集・密接空間だからといって、ライヴ・ハウス〈だけ〉が、社会的悪であろうはずはない。
もし仮に、緊急事態宣言が解けた後に、三密禁止の名の下に、ライヴ・ハウスだけを閉鎖させたとしたら、それは極めて不平等な話だ。
しかし、人という集合体は、犠牲の羊を求める生き物だから、ライヴ・ハウスがスケープ・ゴートにされる可能性はゼロではないかもしれない。
とまれ、先の感情的なライヴ・ハウス閉鎖のツイートは全くもって暴論で、いわゆる三密は、このツイート主に利用されたようにさえ思われる。
おそらくは、この意見を述べた人は、感染症流行の以前から、ライヴ・ハウスに対して負の感情を抱いていて、今回の事態によって、大義名分を得たとばかりに、自分の考えを拡散させようとしただけのような印象さえ受けるのだ。
そもそもの話、自宅でコンテンツを享受するだけでは全く満足できないからこそ、イヴェンターは、演者に逢い、生のパフォーマンスを楽しむために、わざわざ時間と金を対価に〈現場〉にまで足を運ぶのだ。
たしかに、音楽は〈生〉でなくとも聴けるし、CD音源こそが完璧という意見もある。もちろん、演者の歌唱がノーミスであるに越した事はないのだが、〈現場〉にイヴェンターが求めているものは、必ずしも演技や歌唱の完璧さではないのだ。
こう言ってよければ、演者と観客、そして裏方も含めた三者が、三位一体になって作り上げる〈生〉ならではの熱狂、その時その場でしか現出し得ないライヴ的〈時空間〉を味わうために、イヴェンターは〈現場〉に通うのだ。
無論、そのような時空間は、いつもいつでもうまく創れる保証はどこにもなく、至上の〈現場〉の創出は、ある意味、奇跡的現象である。しかし、こういった最高のライヴを一度でも体験してしまうと、もう後戻りはできない。かくして、イヴェンターは、完全な三位一体が生み出す奇跡を再び体感したくて、〈現場〉に通うようになるのだろう。
だからこそ、ライヴ・ハウスに初めて来た〈在宅〉が、〈現場〉によって生み出される〈熱さ〉に耐えられず、〈熱中症〉になって、帰宅後にSNSで否定的な意見を述べ、演者に対する無自覚なネガティブ・キャンペーンを展開したり、あるいは、〈現場〉に来たことがない〈在宅〉が、〈現場〉初体験の〈在宅〉のSNSの呟きだけを情報ソースにして、〈現場〉を否定する事なども許せるものではない。
あまつさえ、こういった社会的状況にかこつけて、ライヴ・ハウス不要論を唱えるなど言語道断である。
もちろん、〈在宅〉全員に、このような心理傾向があるわけではない。〈在宅〉の中には、こう言った輩もいるという話である。
ここで、ハッと気が付いた。
これまで、〈在宅〉と〈イヴェンター〉は、同じ趣味・趣向を有しているにもかかわらず、否、興味対象を同じくしているが故に、〈ヲタ種〉として、同族嫌悪する傾向があるものだ、と秋人は考えていた。
しかし、である。
そうした嫌悪感の原因は、実は、同族嫌悪とは異なるものなのかもしれない。
例えば、演者の歌唱に静かにじっと耳を傾けたいのに、クラップやコールで、それを邪魔してきたり、あるいは、音楽にノって昂まって、身体を揺すってぶつかったりしてくる者が、ライヴ・ハウスには存在しているのだ。
つまり、ライヴ・ハウスになじめない〈在宅〉は、これまで自宅において、独りで誰にも邪魔されずにコンテンツを楽しんできたのに、〈現場〉に行くと、思ってもみなかった楽しみ方をする他者に遭遇してしまうのである。
すなわち、〈在宅〉による現場否定とは、自分以外のヲタクとの価値観の相違によって生じる不快感に原因があるのだろう。
翻ってみると、イヴェンターの〈在宅〉に対する嫌悪は、〈在宅〉一般に向かっているものではないのだ。
イヴェンターだって、全ての演者の〈現場〉に行く分けではなく、中には、〈在宅〉して楽しむコンテンツだってある。つまり、イヴェンターの多くは、〈現場〉に行く時以外は在宅しているのだ。そんなイヴェンターが、〈在宅〉全てを嫌うとしたら、それこそ、まさに自己嫌悪の極みであろう。
つまるところ、イヴェンターが気に入らないのは、無理解なままに、イヴェンターやライヴ・ハウスを否定する、そんな〈在宅〉なのである。
ライヴ・ハウス不要論がまさに適例なのだが、そういった〈在宅〉は、自分の価値観とは異なる別の価値観の存在を認めない傾向がある。だから、脊髄反射的に、ライヴなどで不快に思った事をSNSで発散してしまうのだろう。
ライヴ・ハウスというのは、一つの同じ時・同じ場に群衆が集い、文字通り、精神的・物理的に多様な価値観がぶつかり合う時空間である。そのことを理解していないと、〈現場〉にそぐわず、そうした心理は、結果的に、イヴェンターやライヴ・ハウス否定に繋がってゆく。
つまるところ、イヴェンターが嫌悪する〈在宅〉とは、無自覚なまま〈現場〉を否定する、狭量な〈在宅〉なのである。
仮に、〈現場〉に来るのならば、自分以外の他者が異なる価値観を持っている事を先ずは知るべきだ。そして、〈現場〉を知らないのならば、自分の独善的な考えだけで、一方的に否定するべきではない。
このような意見を述べると、〈現場〉否定もまた一つの価値観だという反論を受けそうだ。
なるほどたしかに、多様な価値観の共存は認めよう。
だがしかし、仮に唯一つだけ認められない考えがあるとしたら、それは、独善的な意見を根拠に、一方的に他者が大切にしているものを〈否定〉するその姿勢ではなかろうか。
これだけは絶対に許せない。
件のライヴ・ハウス不要論は、まさにそのケースに当て嵌まろう。
これだ。
まさに、これこそが、〈現場〉を知らない、そうゆう〈在宅〉一般が抱きがちな考えなのだ。
なるほどたしかに、二〇二〇年前半、世界規模の感染症の影響下、いわゆる〈三密〉、密閉、密集、密接の三つが、感染症対策として避けるべき三つの要素とされ、その結果、数多くのイヴェントやライヴは延期・中止を余儀なくされた。特に、緊急事態宣言発令の後に、三密禁止は、ライヴ・ハウスだけではなく、大衆が集う大部分の空間にも適用された。
つまり、だ。
密集し易い空間は、なにもライヴ・ハウスだけではないのだ。
だから、今さっき、SNSで見かけたツイートのように、密集・密接空間だからといって、ライヴ・ハウス〈だけ〉が、社会的悪であろうはずはない。
もし仮に、緊急事態宣言が解けた後に、三密禁止の名の下に、ライヴ・ハウスだけを閉鎖させたとしたら、それは極めて不平等な話だ。
しかし、人という集合体は、犠牲の羊を求める生き物だから、ライヴ・ハウスがスケープ・ゴートにされる可能性はゼロではないかもしれない。
とまれ、先の感情的なライヴ・ハウス閉鎖のツイートは全くもって暴論で、いわゆる三密は、このツイート主に利用されたようにさえ思われる。
おそらくは、この意見を述べた人は、感染症流行の以前から、ライヴ・ハウスに対して負の感情を抱いていて、今回の事態によって、大義名分を得たとばかりに、自分の考えを拡散させようとしただけのような印象さえ受けるのだ。
そもそもの話、自宅でコンテンツを享受するだけでは全く満足できないからこそ、イヴェンターは、演者に逢い、生のパフォーマンスを楽しむために、わざわざ時間と金を対価に〈現場〉にまで足を運ぶのだ。
たしかに、音楽は〈生〉でなくとも聴けるし、CD音源こそが完璧という意見もある。もちろん、演者の歌唱がノーミスであるに越した事はないのだが、〈現場〉にイヴェンターが求めているものは、必ずしも演技や歌唱の完璧さではないのだ。
こう言ってよければ、演者と観客、そして裏方も含めた三者が、三位一体になって作り上げる〈生〉ならではの熱狂、その時その場でしか現出し得ないライヴ的〈時空間〉を味わうために、イヴェンターは〈現場〉に通うのだ。
無論、そのような時空間は、いつもいつでもうまく創れる保証はどこにもなく、至上の〈現場〉の創出は、ある意味、奇跡的現象である。しかし、こういった最高のライヴを一度でも体験してしまうと、もう後戻りはできない。かくして、イヴェンターは、完全な三位一体が生み出す奇跡を再び体感したくて、〈現場〉に通うようになるのだろう。
だからこそ、ライヴ・ハウスに初めて来た〈在宅〉が、〈現場〉によって生み出される〈熱さ〉に耐えられず、〈熱中症〉になって、帰宅後にSNSで否定的な意見を述べ、演者に対する無自覚なネガティブ・キャンペーンを展開したり、あるいは、〈現場〉に来たことがない〈在宅〉が、〈現場〉初体験の〈在宅〉のSNSの呟きだけを情報ソースにして、〈現場〉を否定する事なども許せるものではない。
あまつさえ、こういった社会的状況にかこつけて、ライヴ・ハウス不要論を唱えるなど言語道断である。
もちろん、〈在宅〉全員に、このような心理傾向があるわけではない。〈在宅〉の中には、こう言った輩もいるという話である。
ここで、ハッと気が付いた。
これまで、〈在宅〉と〈イヴェンター〉は、同じ趣味・趣向を有しているにもかかわらず、否、興味対象を同じくしているが故に、〈ヲタ種〉として、同族嫌悪する傾向があるものだ、と秋人は考えていた。
しかし、である。
そうした嫌悪感の原因は、実は、同族嫌悪とは異なるものなのかもしれない。
例えば、演者の歌唱に静かにじっと耳を傾けたいのに、クラップやコールで、それを邪魔してきたり、あるいは、音楽にノって昂まって、身体を揺すってぶつかったりしてくる者が、ライヴ・ハウスには存在しているのだ。
つまり、ライヴ・ハウスになじめない〈在宅〉は、これまで自宅において、独りで誰にも邪魔されずにコンテンツを楽しんできたのに、〈現場〉に行くと、思ってもみなかった楽しみ方をする他者に遭遇してしまうのである。
すなわち、〈在宅〉による現場否定とは、自分以外のヲタクとの価値観の相違によって生じる不快感に原因があるのだろう。
翻ってみると、イヴェンターの〈在宅〉に対する嫌悪は、〈在宅〉一般に向かっているものではないのだ。
イヴェンターだって、全ての演者の〈現場〉に行く分けではなく、中には、〈在宅〉して楽しむコンテンツだってある。つまり、イヴェンターの多くは、〈現場〉に行く時以外は在宅しているのだ。そんなイヴェンターが、〈在宅〉全てを嫌うとしたら、それこそ、まさに自己嫌悪の極みであろう。
つまるところ、イヴェンターが気に入らないのは、無理解なままに、イヴェンターやライヴ・ハウスを否定する、そんな〈在宅〉なのである。
ライヴ・ハウス不要論がまさに適例なのだが、そういった〈在宅〉は、自分の価値観とは異なる別の価値観の存在を認めない傾向がある。だから、脊髄反射的に、ライヴなどで不快に思った事をSNSで発散してしまうのだろう。
ライヴ・ハウスというのは、一つの同じ時・同じ場に群衆が集い、文字通り、精神的・物理的に多様な価値観がぶつかり合う時空間である。そのことを理解していないと、〈現場〉にそぐわず、そうした心理は、結果的に、イヴェンターやライヴ・ハウス否定に繋がってゆく。
つまるところ、イヴェンターが嫌悪する〈在宅〉とは、無自覚なまま〈現場〉を否定する、狭量な〈在宅〉なのである。
仮に、〈現場〉に来るのならば、自分以外の他者が異なる価値観を持っている事を先ずは知るべきだ。そして、〈現場〉を知らないのならば、自分の独善的な考えだけで、一方的に否定するべきではない。
このような意見を述べると、〈現場〉否定もまた一つの価値観だという反論を受けそうだ。
なるほどたしかに、多様な価値観の共存は認めよう。
だがしかし、仮に唯一つだけ認められない考えがあるとしたら、それは、独善的な意見を根拠に、一方的に他者が大切にしているものを〈否定〉するその姿勢ではなかろうか。
これだけは絶対に許せない。
件のライヴ・ハウス不要論は、まさにそのケースに当て嵌まろう。
応援ありがとうございます!
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