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第三章 アップデートしてゆこう
第18話 ウォ、ウォ、ウォータ~
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仁海の釣具屋さんの店員としての第一日目は、早朝の慌ただしさがまるで夢であったかのように、午前同様に午後も問題なく過ぎ去り、客の流れも、空が暗くなり始めた午後五時には止まっていた。
そして午後六時、なんとか初日をやり切った気持ちになった仁海は、胸を撫で下ろしながら、閉店前の夕方のモエビの水替えに取り掛かる事にしたのであった。
店の最奥のクーラー室までは、来客を知らせる〈ピンポン〉の音が届かない。そこで、クーラーで長時間の作業をする場合には、クーラーを何度も出入りして、客の有無を確かめねばならない。
だから、研修の際に、クーラーでの作業に集中したいので、この間に店を閉めるのはどうか、と、仁海は叔父に提案したのだが、仁海の具申は、すげなく却下されてしまった。
叔父曰く、店を開けてさえいれば、お客さんが来る〈かもしれない〉からだそうだ。
「オヤジもよく言っていたんだけど、店を閉めようとするそのタイミングにこそ、お客がやってくるものなんだよね」
こんな風に叔父から言われてはいたものの、流れが完全に切れている夕方のこの時間帯に客が来るとは思えず、仁海は、クーラー内での作業に没頭していたのだった。
すると、ジーンズ製のエプロンの前ポケットに入れていたスマフォの着信音が鳴った。
「ひゃっ!」
電話なんてほとんどかかってきた事がなかったので、仁海は思わずビクッとしてしまった。
「ったく、ヒトミ、一体どこで何やってんだよっ!」
電話が繋がると、いきなり叔父が怒鳴ってきた。叔父の声は少し苛立っているようであった。
「そんなに怒鳴んないでよ。『何やってる』って、モエビの水の入れ替えだよっ!」
叔父は仁海がさぼっていると思って、怒りをぶつけてきたのかもしれない。しかし、仁海は、叔父から言われた仕事を愚直にやっていたので、いきなり怒鳴りつけられる筋合いはない、と思い、仁海もカチンときて、つい叔父に言い返してしまったのだ。
「クーラーに入っている時は、時々外に出ろって言ったろ。店でお客さんずっと待っているんだよ。待っても待っても誰も出てこないんで、大洗の店に電話を入れたんだって」
大洗の店への電話は、叔父の携帯に全て転送される手続きをしてあるので、大洗の店にいるお客さんからの電話を受けた鹿島にいる叔父から、大洗にいる仁海に連絡という〈三角連絡〉になってしまったのだ。
客を待たせている、と叔父から指摘された仁海は、頭に上っていた血の気が一気に引いて、スマフォを握ったまま、慌てて店に飛び出したのであった。
「たいへんお待たせしてしまい、申し訳ありません」
「こっちこそ、電話しちゃってすみませんね、お嬢さん」
そう初老の客は応じてくれた。
「わたし、前橋から来ているんですけれど、おじいちゃんの頃からこちらのお店でお世話になって、感染症の頃には全然来れていなかったんですけど、久々に大洗に来たんですよね」
「それは、ありがとうございます」
「あれっ! おばあちゃんは?」
「実は、祖母は八月の末に……」
祖母の不在について尋ねてくる客に対して、このくだりを何度も繰り返している。そのたびに、仁海の胸の奥がチクリと痛んでいた。
祖母の死について、こちらから積極的に口にはしないのだが、常連の客に問われた場合には応えないわけにはいかない。
「それはご愁傷さまです」
「恐れ入ります」
仁海は、悔やみの言葉に返答しながら、頭を下げたのであった。
「ところで、明日の朝って何時からやってますか?」
「朝五時開店の予定です」
「日の出のちょっと前ですね。その頃には朝釣りにいっちゃってるな。この後、夕まずめでやって、明日も、朝まずめにやるつもりだから……、そうだな、アオイソメを二パックいただく事にします」
初老の客は、夕に一パック分やって、朝に一パック分やる事にしたらしい。
手慣れてきたのか、仁海も、アオイソメ二パックの準備をさっと終えた。
アオイソメを渡した後で、初老の客が仁海に訊いてきた。
「そういえば、以前、おじいちゃんの頃に、潮見表をもらってたんですけど、いただけますかね?」
「えっ! 『シオミヒョウ』?」
いきなり、知らない事を言われてしまった。
仁海は、ついさっき、叔父と言い合ってしまったので、電話する事に気まずさを覚えたのだが、その『シオミヒョウ』の件は、叔父に訊かないと分からない問題だ。
「少々お待ちください。〈店長〉に訊いてみます」
鹿島にいる叔父の呼称をどうしたらよいか判断に迷った仁海は、思わず、叔父を「店長」と呼んでしまったのだった。
「あれ、お嬢さんは?」
「えっと、店長代理、店長(仮)です。今、鹿島にいる店長に訊いてみるので、少々お待ちください」
「あっ、潮見表はおいてないよ。今は作っていないんだ。そう伝えて」
「お客さま、申し訳ありません。店長に尋ねてみたところ、今は〈シオミヒョウ〉は作っていないそうです。申し訳ありません」
「そうですか。あれ、結構重宝していたのにな。無いなら仕方ないですね」
初老の客は、「また明日来ますね」と言いながら、アオイソメ二パックを持って、夕まずめの釣りに向かっていったのであった。
この後で再び電話して、叔父から「シオミヒョウ」を置かなくなった経緯を訊いてみたのだが、たしかに、祖父の時代には、潮見表を作ってお客さんに無料配布していたらしいのだが、二〇一一年三月の大震災の後、客の足が大洗から遠のいてしまって、結局、経費削減のために、潮見表の作成を止めてしまった、との事であった。
大震災か、もう十年以上も前になる。
その時には、仁海は未だ小学校に入る前で、その時の事は、あまりよく覚えてはいないのだが、海沿いで商売をやっていた、祖父の釣具店も叔父の店も大きな被害を受けたらしい。
震災の時の被害がどれ程であったか、本当のところは、仁海には分からない。でも、亡くなった祖父母も叔父も店の再建にどれだけ頑張ってきたかは想像できる。
そんな事を考えながら、仁海は、モエビの水の入れ替えを再開するために、クーラー室に戻った。
!
叔父からお客さんが待っている事を伝えられ、慌ててクーラー室から店に出た仁海は、水汲みポンプのスイッチを切り忘れていたのだ。
研修の際に、叔父から、水から目を離さないように、と言われていたのに……。
クーラー室は水害を被っていた。
ホースの先が排水口から外れて、クーラー室の床が水浸しになってしまっていたのである。
そして午後六時、なんとか初日をやり切った気持ちになった仁海は、胸を撫で下ろしながら、閉店前の夕方のモエビの水替えに取り掛かる事にしたのであった。
店の最奥のクーラー室までは、来客を知らせる〈ピンポン〉の音が届かない。そこで、クーラーで長時間の作業をする場合には、クーラーを何度も出入りして、客の有無を確かめねばならない。
だから、研修の際に、クーラーでの作業に集中したいので、この間に店を閉めるのはどうか、と、仁海は叔父に提案したのだが、仁海の具申は、すげなく却下されてしまった。
叔父曰く、店を開けてさえいれば、お客さんが来る〈かもしれない〉からだそうだ。
「オヤジもよく言っていたんだけど、店を閉めようとするそのタイミングにこそ、お客がやってくるものなんだよね」
こんな風に叔父から言われてはいたものの、流れが完全に切れている夕方のこの時間帯に客が来るとは思えず、仁海は、クーラー内での作業に没頭していたのだった。
すると、ジーンズ製のエプロンの前ポケットに入れていたスマフォの着信音が鳴った。
「ひゃっ!」
電話なんてほとんどかかってきた事がなかったので、仁海は思わずビクッとしてしまった。
「ったく、ヒトミ、一体どこで何やってんだよっ!」
電話が繋がると、いきなり叔父が怒鳴ってきた。叔父の声は少し苛立っているようであった。
「そんなに怒鳴んないでよ。『何やってる』って、モエビの水の入れ替えだよっ!」
叔父は仁海がさぼっていると思って、怒りをぶつけてきたのかもしれない。しかし、仁海は、叔父から言われた仕事を愚直にやっていたので、いきなり怒鳴りつけられる筋合いはない、と思い、仁海もカチンときて、つい叔父に言い返してしまったのだ。
「クーラーに入っている時は、時々外に出ろって言ったろ。店でお客さんずっと待っているんだよ。待っても待っても誰も出てこないんで、大洗の店に電話を入れたんだって」
大洗の店への電話は、叔父の携帯に全て転送される手続きをしてあるので、大洗の店にいるお客さんからの電話を受けた鹿島にいる叔父から、大洗にいる仁海に連絡という〈三角連絡〉になってしまったのだ。
客を待たせている、と叔父から指摘された仁海は、頭に上っていた血の気が一気に引いて、スマフォを握ったまま、慌てて店に飛び出したのであった。
「たいへんお待たせしてしまい、申し訳ありません」
「こっちこそ、電話しちゃってすみませんね、お嬢さん」
そう初老の客は応じてくれた。
「わたし、前橋から来ているんですけれど、おじいちゃんの頃からこちらのお店でお世話になって、感染症の頃には全然来れていなかったんですけど、久々に大洗に来たんですよね」
「それは、ありがとうございます」
「あれっ! おばあちゃんは?」
「実は、祖母は八月の末に……」
祖母の不在について尋ねてくる客に対して、このくだりを何度も繰り返している。そのたびに、仁海の胸の奥がチクリと痛んでいた。
祖母の死について、こちらから積極的に口にはしないのだが、常連の客に問われた場合には応えないわけにはいかない。
「それはご愁傷さまです」
「恐れ入ります」
仁海は、悔やみの言葉に返答しながら、頭を下げたのであった。
「ところで、明日の朝って何時からやってますか?」
「朝五時開店の予定です」
「日の出のちょっと前ですね。その頃には朝釣りにいっちゃってるな。この後、夕まずめでやって、明日も、朝まずめにやるつもりだから……、そうだな、アオイソメを二パックいただく事にします」
初老の客は、夕に一パック分やって、朝に一パック分やる事にしたらしい。
手慣れてきたのか、仁海も、アオイソメ二パックの準備をさっと終えた。
アオイソメを渡した後で、初老の客が仁海に訊いてきた。
「そういえば、以前、おじいちゃんの頃に、潮見表をもらってたんですけど、いただけますかね?」
「えっ! 『シオミヒョウ』?」
いきなり、知らない事を言われてしまった。
仁海は、ついさっき、叔父と言い合ってしまったので、電話する事に気まずさを覚えたのだが、その『シオミヒョウ』の件は、叔父に訊かないと分からない問題だ。
「少々お待ちください。〈店長〉に訊いてみます」
鹿島にいる叔父の呼称をどうしたらよいか判断に迷った仁海は、思わず、叔父を「店長」と呼んでしまったのだった。
「あれ、お嬢さんは?」
「えっと、店長代理、店長(仮)です。今、鹿島にいる店長に訊いてみるので、少々お待ちください」
「あっ、潮見表はおいてないよ。今は作っていないんだ。そう伝えて」
「お客さま、申し訳ありません。店長に尋ねてみたところ、今は〈シオミヒョウ〉は作っていないそうです。申し訳ありません」
「そうですか。あれ、結構重宝していたのにな。無いなら仕方ないですね」
初老の客は、「また明日来ますね」と言いながら、アオイソメ二パックを持って、夕まずめの釣りに向かっていったのであった。
この後で再び電話して、叔父から「シオミヒョウ」を置かなくなった経緯を訊いてみたのだが、たしかに、祖父の時代には、潮見表を作ってお客さんに無料配布していたらしいのだが、二〇一一年三月の大震災の後、客の足が大洗から遠のいてしまって、結局、経費削減のために、潮見表の作成を止めてしまった、との事であった。
大震災か、もう十年以上も前になる。
その時には、仁海は未だ小学校に入る前で、その時の事は、あまりよく覚えてはいないのだが、海沿いで商売をやっていた、祖父の釣具店も叔父の店も大きな被害を受けたらしい。
震災の時の被害がどれ程であったか、本当のところは、仁海には分からない。でも、亡くなった祖父母も叔父も店の再建にどれだけ頑張ってきたかは想像できる。
そんな事を考えながら、仁海は、モエビの水の入れ替えを再開するために、クーラー室に戻った。
!
叔父からお客さんが待っている事を伝えられ、慌ててクーラー室から店に出た仁海は、水汲みポンプのスイッチを切り忘れていたのだ。
研修の際に、叔父から、水から目を離さないように、と言われていたのに……。
クーラー室は水害を被っていた。
ホースの先が排水口から外れて、クーラー室の床が水浸しになってしまっていたのである。
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