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初芽の季節(物語が始る前の世界)

雨宿り

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 客先がら出たら雨がポツリポツリと降っていた。傘なしで耐えて歩いていたが、その勢いは増していく。
 流石にコレ以上は無理と近くにあった庇の下に逃げ込む。その途端にズザザーと降るというより激しく落ちるかのような雨へと変化した。
 お陰でそこから出るに出られない状況になってしまった。よりにもよって本日定休日の小さな薬局の前。店の中に逃げる事も出来ない。
 梅雨入りしたとはいえ、雨が降る気配がまだなかった事で傘を車に置いてきたのが悔やまれる。しかも今日は客先のあるビルの駐車場ゲート装置が点検中とかで使えず、少し遠くに停めていた。走ったとしてもそこまでいくとびしょ濡れになるだろう。
 ハンカチで濡れたスーツを拭いて待つしかない。
 隣で同じように足止めを喰らったと思われる人物が大きく溜め息をつく音が聞こえた。
 ソチラに眼をやると、ショートヘアーで、ビジネススーツをカッチリ着こんだ女性が立っている。彼女も俺の気配と視線に気が付いたのかコチラを見てくる。
 猫を思わせるつり上がったクッキリとした瞳にスッした形の良い鼻と唇。
 美人と言えるその女性だったが、俺の中に沸きおこったのは参ったなという感情。
 相手も『あっ』という顔をしたことからコチラの正体はバレているようだ。顔を見合わせて、互いに気まずさを感じる。
「こんにちは、カイノさんでしたっけ? お互いこんな事になって災難ですよね」
 俺は内心の戸惑いを営業スマイルで隠し挨拶をする。こう言う時は、先手をとって話しかけ気まずさを下げておくに限る。
 どんな漢字を書くのかは分からないが、そういう名前であることだけは知っているそんな相手。
 俺の勤める会社『マメゾン』の、珈琲サーバを置かせてもらっている会社に勤めている人。顔をあわせた事はあるが、まともに話をした事はない。
 俺が名前を出して挨拶したことに相手は苦笑を返す。
「ホントに、嫌になっちゃうわよね。この状況」
 カイノさんはそう言い捨てるようにつぶやき、雨へと視線を戻す。俺も倣って風景に視線を向ける。顔を見合わせない方が色んな意味で話しがしやすい。
 視線の先では景色を溶かすかのように大量の雨が降り続いている。
 余りに激しい雨のため、路上から人は消えている。気が付けば俺とカイノさんだけが此処に取り残されたかのようになっていた。
 二軒隣が喫茶店であるのに今更のように気が付き、ソチラに避難すれば良かったと後悔する。
「貴方も可哀想に。ウチの会社で馬鹿相手に油売ってなければ、この雨も填らずに済んだかもしれないのに」
 やっぱりキツい女性だ。
 この状況で俺にも噛み付いてくるような事を言ってくる。
 さっきも部下である歳上の男性をかなり厳しい言葉で叱っていたのを見たばかり。その現場を俺に見られていただけに、俺とこうしているのは気恥ずかしいし居心地は悪いのだろう。
 彼女の会社の人と珈琲を飲みながらずっと陰口言っていた相手の話を聞いていたのも彼女は見ていた。
「私が売っているのは油ではなく珈琲ですよ」
 冗談で言ってみただけなのに、睨まれた。
 俺は肩をすくめる。
「分かっているわよ! マメゾンさん! 
 ……私の名前を、何故貴方は知っていたの?」
 確かに名乗りあった訳でもないのに、いきなり名前を呼んだのは不味かったかもしれない。
 メチャメチャ警戒をされている。
 俺は取り合えず笑みを浮かべ悪意は無いことを示す。
「カイノさんは有名ですから」
 あえて多くを語らず、ぼやかしておく。カイノさんはチラリと俺を見上げフッと嫌味っぽく笑い、顔を横にふる。
「どうせろくな噂をきいてないのでしょ? 可愛げない生意気な女とか、アイアンウーマンとか」
 確かにそういう事を言ってくる輩もいる。彼女はその性格のキツさから、結構社内では反感を買っている所があるようだ。
 単なる悪口を態々外部の俺に世間話のように言ってくる段階で言っているソイツの質が分かる。俺は頭を横にふる。
「棚瀬部長が貴女の事を誉めていたのを聞いた事あるもので」
 俺の言葉にカイノさんは、一瞬戸惑い少し照れたように顔を反らす。
 嘘ではない。カイノさんは責任感も強く仕事も出来る優秀な人物なようだ。だからこそ三十前後という若さで役職もついているのだろう。
 逆に彼女の仕事ぶりは、社内の様々な人の噂話から察すると、自分にも人にも容赦なく厳しい。
 言っている事も、やっている事も間違えてなく寧ろ最良の事。しかしそれを突きつけられ強要され『はい! 分かりました!』と従える人ばかりでないのが人間社会の面倒な所。
 こう言うタイプを受け入れられるかどうかで、人間の器のサイズが測れるから面白い。
 変に自尊心だけ高く器の小さい人達からやっかまれ煙たがれている。
 カイノさんからしてみたら、面白い状況でもないのだろう。
「貴方ってさ、なんとなく感じていたけど、かなりいい性格しているわよね」
 俺はチラリと見上げてくる彼女の言葉に首を傾げる。そんなに俺という人間が分かる程は、関わりあってもいない。
「そうですか? 初めて言われますが、そういう事」
 猫のような眼がスッと細まる。
「マメゾンさん。
 私の悪口に花を咲かせている集団の話を聞いている最中に、後ろを通りがかった私に笑顔で珈琲を勧めてきたわよね。
 私の名前を知らないならともかく、知っていてやったとはね」
 俺は恍けることにする。
 カイノさんにイタズラをしかけたというつもりはなかった。くだらない事で盛り上がっていたヤツラに若干ウンザリして、その口を塞ぎたかっただけ。
「貴女が喉が渇いているかなと思っただけで、他意はなかったのですが」
 疑わしそうに見てくるカイノさんに俺は、ニコリと笑う。
 まさかその直後にこんな事になるなんて。余計な事するべきではないな、と反省はする。
 素直に謝るのもこの場合どうなのだろうか? とも考える。
 謝ったら謝ったでこっぴどく叱られそうだ。
「それに、言いたい事がそれだけあるならば、本人同士で話し合ったほうが良いのかな? とも思いまして。
 あの人達は急に黙っていなくなってしまったので残念です」
 カイノさんは、呆れたように俺を見ている。
「そういう冷たい眼で見ないでくれませんか?
 ウチの会社の、いや職場のモットーでもあるんですよ。それが」
 大きく態とらしい溜め息をつかれてしまった。
「客先の人間関係を面白半分にかき回せって?」
 俺はビックリした顔を作り慌てたように頭をふる。横方向に。
「陰口は本人を前でその相手の眼を見て言え! というものですよ」

 フッ

 漸くカイノさんは笑ってくれた。このまま笑い話で逃げられるだろうか?
「マメゾンの営業部長は、癖あって面白いからね。
 上司も上司なら部下も部下というわけか……。
 友人がマメゾンにいるからそんな話も聞いてるのよ」
 まるでウチの部長をよく知っているかのような口振りだ。不思議そうな顔をした俺に、彼女はそう言葉を加えた。
「貴方って本当いい性格してる。若いくせに」
 事情が筒抜なのはお互い様のようで、うかつな事も話せなくなる。
「若いと言っても、もう二十五なのですが」
 彼女はどこか寂しげな顔をして、瞳に雨粒を映しながら眼を細める。
「若いわよ、いいわね一番仕事が楽しい時期でしょ」
 そう言いながら此方に向けてきた瞳が、思いの外柔らかく優しかったからドキリとする。
 俺は若干動揺しながら素直な感情を示してしまい首を横にふる。
「ま、働くって、色々面倒でままならぬ事も多くて大変よね」
 俺の反応を見て納得したようにそんな事を言ってくるカイノさん。俺は肩をすくめる。険悪なムードはなくなるが、後に微妙な空気と沈黙が残る。
「あの、良かったら彼方の喫茶店でお茶をしませんか?」
 カイノさんの眼が怪訝そうにつり上がる。
「今下手に動いても濡れるだけでしょ? かといって此処にいても無駄に足下を濡らし続けるだけですから。
 ならば多少雨の中を走っても店の中で珈琲を飲みながら待っている方が快適だと思いませんか?」
 俺の言葉に戸惑った反応を見せる。
「別に口説こうという訳ではありませんよ。
 私一人で走ってここから消えるのも薄情かなと思いまして」
 俺は爽やかに見える笑顔でそう言っておく。
 冗談めかして言う事で変な下心は無いことを示し、安心させようと思っただけである。
 カイノさんならフンと鼻で笑い俺の言葉を流し、喫茶店への誘いはのってくれるかと思っていた。しかしカイノさんはハッとした顔になり、顔を赤くして眼を反らす。
 俺に惚れたというのでは決してない。俺の誘いを変に裏読みしてしまった自分が恥ずかしくなったという所なのだと思う。
 思いもしなかった初な反応に、俺もシャラっと軟派な言動をした自分が恥ずかしくなる。お互いに何故か照れて今までとは違った気まずさが広がる。
「キツくて口煩い歳上なんて、ストライクゾーンに入りませんってことね」
 年の功なのか、先に立ち直った彼女が、そんな憎まれ口で会話を再開させる。
「くそ生意気なだけの年下男なんて、貴女のお目がねに叶うとは思えないですが」
 俺も言われたら、つい言い返す質なのでそんな言葉を、返してしまう。
「確かにね」
 ニヤリと笑うカイノさん。その後何故か二人で顔を合わせフフフフと笑いあってしまう。
「……しかし男と認めてもらえないのは仕方がないですが……。
 せめて人間としては認めて欲しいかなとは思いますが」
 俺の言葉にカイノさんは首を傾げる。
「俺はマメゾンさんでなく、清酒せいしゅ正秀まさひでといいます」
 カイノさんはキョトンとする。
「セイシュ?」
「清い酒と書いて清酒せいしゅです」
 軽く唖然とした表情のカイノさん。いい加減慣れた反応なので、俺はそう答える。
「その名前でなんで、珈琲売ってるの?」
 可笑しそうにカイノさんが、笑い出す。
「よく言われます。
 でも酒がまったく呑めなくて、珈琲が好きだから仕方がないです」
 この言葉がツボだったようで、カイノさんは笑い続けている。
 彼女のいる職場内では、絶対見る事の出来ないその表情、失礼だけど可愛いと思ってしまった。
 一頻り笑った後で、俺の方を真っ直ぐ見つめてくる。
「知っているかもしれないけど、私はカイノ ハジメ。灰皿の灰に野原で野で灰野かいの、初心の初に植物の芽で初芽はじめ、よろしく、清酒くん」
 灰野さんはそうハキハキと自己紹介して明るい笑顔を見せる。
 会社で眼を吊り上げて仕事をしているときとは異なり明るく魅力的な笑顔に何か眩しさを感じた。
 俺はそれに業務用でない素の笑顔で答える。
「それより喫茶店に行くんでしょ! 決まったとなれば急ぐわよ!」
 灰野さんは激しい雨の中へ飛び出していく。俺も慌てて追いかける。
 二人でくっついて抱き合うような体制で小さい喫茶店の庇の中へと入り込む。
 彼女が力強く扉を押し開けた。喫茶店の扉が軽快なベルの音が、暖かい珈琲の癒しのアロマに満ちた空間に僕らを誘ってくれた。
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