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青い季節(恋すら始まっていない時代)

なんか申し訳ありません

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「キヨサカさん?」
 履歴書にちゃんとふりがなを書いておいたのに関わらず、面接官はそう聞いてくる。
 俺の名前は、小学生程度の語学力があれば読める筈。しかし名前を見た人は何故か捻りがあるのに違いないと特殊な読み方を試みる。
「いえ、セイシュです」
 流石に入社面接で、『履歴書をちゃんと読め! 書いてあるだろ!』とは言えないので、改めて名乗り笑顔をつくる。
「清酒正秀さんね……。面白い名前だよね。君なんで、この名前でウチに会社を応募したの? 酒造メーカーに行った方がウケたと思うけど」
 ニヤニヤ笑いながら、面接官の一人がとんでもない事を言ってくる。人生をかけた就職活動で、ウケ狙いで企業を選ぶ人が何処にいるというのだろうか?
「酒造メーカーだと、即効落とされると思います。下戸ですので。お猪口一杯で潰れしまうほど弱いんです」
 『下戸』『潰れる』ってあまり綺麗な言葉ではなかった事に気が付き内心慌てる。
 言ってしまった言葉は取り消せない。その言葉自体はウケたらしく面接官どころか、一緒に面接していた人までが笑いだす。
「ならば、ウチの会社であれば大丈夫で、君は活躍出来ると言うんだね」
 ニヤリと意地悪な笑いを浮かべ聞いてくる面接官に、アピールせねばと胸をはり、大きく頷く。
「叔父が喫茶店を経営していた事もあり、小学生から珈琲に慣れ親しんで育ちました。叔父から鍛えられてた事もあり、珈琲に関する事は自信があります! 同じ世代の中でも――」
 後で考えると、大風呂敷広げただけの良いアピールだったとは思えないもの。しかし珈琲への愛は分かってもらえたのか第一希望の珈琲飲料メーカーの会社に入社する事が出来た。

 配属先になったのは希望していた開発ではなく営業部。そこの部長は、面接の時に『酒造メーカーに行けば良いのに』と言ってきた佐藤さふじ部長。
 部長も俺の事覚えていたらしく、『来たか! 下戸の清酒くん』と笑顔で迎えてくれた。
 沢山いたであろう応募者の一人に過ぎなかった俺を忘れずにいてくれた事は嬉しい。その事を話すと部長は笑いだす。
「いいか、営業は人の記憶に残ってなんぼの所がある。
 その点、君はかなり恵まれているぞ!
 名前と名前を裏切るその性質! それは営業として美味しい才能なんだ。どんな相手でも初対面の人と仕事の事以外で話せる話題があるのは良い事なんだよ。これからそれを生かして、頑張ってくれ!」
 今までからかいの材料にしかならず、かなりウンザリもしていたこの名前。利点と言って貰えた事に俺は感動した。
 俺の中で勤労意欲がメキメキと燃えあがる。こういう話術で部下を鼓舞出来る所も、流石営業部長と言うべきかもしれない。そういう所も含めこの職場を好きになれたし、希望とは違っていても頑張り甲斐のある場所に感じた。
 この職場は、全員が取引先全体を把握し何かあったとき即対応出来るように。そういう意味からも、担当しない取引先までも顔見せがある。
 配属されると、かなりの数の会社を引き回される。会社と名前と顔を覚えるのは大変なもの。
 部長のいうように、逆にお客様は『ゲコの清酒』と言うことで一発で俺を覚えててくれたようだ。
 俺というキャラクターを売り込む事が出来たと思う。『清酒が珈琲豆を売っている』というのも面白かったようだ。
 挨拶回りも後数件という状況になった頃には、俺もすっかり人慣れもし、仕事もますます楽しくなった。
「そうそう、今日、春のご挨拶に、新しく入った清酒を伴って貴社に伺かわせて頂きたいのですか……。え、夕方五時前が良い……はい、では」
 部長が電話しているのを聞いて、今日は部長のお供をするのを察する。夕方と言うことはそれまでに仕事を終わらせようと先読みし、張り切って目の前の雑務に取り組み備えることにした。

 夕方、部長と共にその会社に行くと、相手も部長クラスの地位であろうオッサン三人が待っていた。弾けんばかりの笑顔で迎えてくれる。流石部長である、取引先から訪問を大歓迎される程に愛されているのだろう。
「いや~待ってたんですよ、コチラに場も用意してあるので、さ! さ! どうぞ! どうぞ!」
 応接室に案内されると、お猪口と、渇き系のおつまみが数種類袋のまま置かれていた。
 そこで、俺と部長は事態を察すた。部長は『参ったな』という顔で苦笑いをして、俺の顔はひきつる。何て言うか非常に名乗りにくい状況。
 ニコニコ笑う取引先の方に俺は 『初めまして』と頭を下げ名刺を出す。
「新しく入りました清酒と申します!
……あの、そして、なんか申し訳ありません、俺、人間で……」
 唖然とした後、あからさまにガッカリしている相手の表情にいたたまれなくなり謝った。
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