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選択のゆくえ
女達の作り出す風景
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目の前で、シックで上品なデザインの紺色のブラウスに身を包んだ美しい女性が涙を流している。俺に先程から必死に夫婦の愛について訴えかけている。
上質な素材ので細かい所に配慮のなされたそのブラウス、妻の香織も好きなブランドの洋服である。その女性にも似合ってはいたが、俺に貞淑な妻であるかのように演じるために態々用意してきたのが見えるだけに、ちぐはぐな感じがした。
涙を流しながらも、化粧があまり乱れていない所は逆に感心してしまう。
たぶん状況をまったく知らずに見たら、ずっと陰ながらに支えてきた夫に突然一方的に離婚を言い渡されたかわいそうな女に見えるだろう。でもその実態は逆で、世間知らずのボンボンに、恵まれた容姿と口の上手さでうまく取り入り結婚にこぎ着け、セレブの生活を手に入れた女である。贅沢な生活で満足していれば良かったのに、男遊びまで派手に行ったことで、彼女としては非常に困った事態に陥っているわけである。
「私は、哲さんを愛しています。哲さんもそれは同じ筈です。それなのに離婚なんて不条理過ぎます。お願いです! 鈴木さんの方からも説得して頂けませんか? 離婚は誰も幸せにしません」
俺は微笑んでから口を開く。
「残念ながら、斉藤氏は貴方とやり直すという気はまったくありません。貴方が離婚を拒絶しつづけても、コチラの結論に変更はありません。このまま貴方が長引かせるような事があれば、あなたに慰謝料を請求という事も考えています。今のうちに承諾したほうがあなたの損失は少ないかと思いますけど」
自業自得だろ! こんな事で時間を使ってないで、諦めてさっさと次のカモを探せ。こっちも忙しいのだ。そう内心で毒づきながらも、俺はニッコリと穏やかにその女に笑いかける。愚かだけど馬鹿な女ではないようで、俺側からは何も引き出せないと察したのか、しおらしい女の演技を続けたまま事務所から出て行った。
予定外の来客で思わぬ時間をとられた俺は、大きくため息をつく。
えてして、男より女の方が演技は上手い。それを信じられるかどうかは別として。男だとこうも自然に情に訴えつつ自分の意見を相手がうっかり納得しそうな言葉を言えないだろう。男性だとディベートのように理屈で攻めるか、声を荒らげ力業だけでいくかという感じで、無理な力が働く分そこには衝突といった要素を生み出すことが多い。
女は小さいときから、ごっこ遊びというのが好きで、それで鍛えられてきている。
香織も昔からそういった遊びがすきだった。小さい頃付き合わされたオママゴトでも、彼女が俺に与えた設定は夫であったり息子であったが、俺は俺のままでいることしか出来なかった。でも香織は、時には俺の妻だったり、俺の母だったり、俺の妹だったりと、その時々で見事にその役割を演じていた。
それは今でも同じなのかもしれない。香織は俺の妻でありながら、時には友となり、妹となり、母親となり、俺を受け入れ甘えさせてくれる。どの場面でも香織本人ではあるものの、彼女は場面で違う顔を見せてくる。
意地っ張りな俺が、彼女にだけ甘えられるというのも、それはその付き合わされてきたオママゴトでの訓練の成果があるのかもしれない。
最近では、香織はそのゴッコ遊びの相手は俺だけでなく、鈴木薫とも楽しんでいるようだ。この二人は親友といった関係をベースに、あるときは姉妹のような、そしてある時は母と娘といった感じに形を変え接し、交流を楽しんでいるようだ。別にそう設定して遊んでいるのではなく、何気ない会話の中で状況に合わせて役割を変え分担していくのだ。端からみていると、それは面白いものがある。
鈴木薫も、そういった遊びが上手く、寧ろノリノリで楽しんでいるという所は、さすが女性というべきだろう。
※ ※ ※
その夜、一緒に夕飯を食べている香織がどこか元気がないのに気がついた。
穏やかに笑みを作り、一見いつもの彼女であることを演じようとしているけれど、つきあいが長いだけに分かってしまう。何かに彼女が傷つき落ち込んでいるのが分かる。
「何かあったのか?」
仕事だったら、もう少し婉曲に相手が話しやすい空気を作ってから聞くのに、この世で一番俺が気を遣っているはずの香織には、ついこのようにストレートに聞いてしまう事が多い。コレもちょっと考えた方がいいのかもしれない。
案の定、香織の顔から笑みが引き、困ったような顔をする。
「いえ、何も……………………。
ちょっと私、今日……人に対して僣越な事をしてしまって」
ごまかそうとしたが、ジッと見つめる俺の視線に観念したかのように話し出す。引っ込み思案で、寧ろ想いがあっても行動を起こせない事に落ちこむ事が多い彼女にしては珍しい事態である。
「香織が、そういった事を人に出来るとは想わないけど。気のしすぎではないのか?」
香織はため息をつき、首を横にふる。
「私ね、昨日まで薫さんの、お母様に、怒りを感じていたの。なんで可愛い子供をあんなにも苦しめ傷つける事が出来るのか」
確かにあれほど気丈な鈴木薫を、ボロボロにするほど傷つけることができたのは、悪意ある世間でもなく、実の母親である。
しかし、俺の見解では鈴木薫の母親は、決して悪い母親ではない。寧ろ息子を性同一性障害にした事で、自分も責めている所もあり、ただ気が動転しているだけなのだろう。先日病院に来たという事からも、向き合おうという姿勢を示している事からも、良い母親だとは想う。
鈴木薫も、それは分かっているだろう。寧ろそんな母親の言葉だからこそ傷ついたのだ。
「で、今日病院まで行って、会ってきたの……」
香織がそこまでの行動を起こしたという事に、俺は少なからず驚いた。でも口を狭まず、彼女のペースでゆっくり話させることにした。
「……なぜ、母親でありながら、苦しんでいる子供を抱きしめてやれないのか、さらに傷つけることができるのかって」
香織はそこまで語り、顔を苦しげにゆがめた。
確かにそれは、あくまでも第三者である香織が言うには、言い過ぎの言葉である。俺はある程度、鈴木薫と距離をとって付き合っているから、推測できる鈴木薫の母親の心情。でも間近で鈴木薫だけを見て、彼女の苦悩や悩みを見守っていた香織にはそこまで見えなかった。
軽率すぎた香織の行動を諫めるべきなのだろうが、香織はすでにその間違いに気がついて苦しんでいるから、俺はあえて何も言わなかった。
「『あなたが抱きしめられないなら、私が抱きしめる、そして薫さんのすべてを受け入れ慈しむ』って啖呵まできって、馬鹿よね」
香織の瞳から涙があふれ、ポロリと垂らす。俺は近くのティッシュボックスから紙を取り出し、彼女に渡す。
「薫さんのお母さんは、君になんて言ったの?」
香織は涙をそっとふき、そして、小さく深呼吸をする。
「……お礼を言ってきた……『自分の息子の事をそこまで想ってくれて』と……私はあの人にひどい事を言って傷つけたのに……そして、『今の自分は、何一つ母親らしい事できないから、今だけ私に見守ってほしい』と」
涙を流したまま、会話を説明する香織を俺は静かに見つめた。
そのまま痛みを感じているかのような表情で黙り込む。苦しんでいる一人の女性をただ傷つけただけという事実が香織を悔やましているのだろう。
「香織、確かに、君は出すぎた真似をした。良かったのは、薫さんのお母さんが頭もよく、まだ冷静な方だった事」
その言葉に香織はビクっと肩をふるわせる。
「君は今回の事で、分かっただろ? 薫さんの問題で苦しんでいるのは薫さんだけでなく、家族みんなもなんだと。俺たちは性同一性障害の彼女を受けいれられるのは、やはりどこか無責任で無関係でもいい立場にあるからだ」
香織は、『無責任でも無関係でもいい』という言葉に、眉をひそめたが何も言わなかった。
香織も、鈴木薫が恋人という立場だったりしたらまた感情は別だっただろう。自分が愛した男が、たとえば俺が性同一性障害だったらどう想うというのだろうか? 鈴木薫にしたように受け入れ自然に接することが出来ないはずである。
「でも、君はあえてそこに関わったんだ。だったらちゃんと最後まで見守るべきだと俺は思う」
ジッと考えるように下をみていた香織は、その言葉に俺を静かに見あげた。そしてその瞳に力がこもる。
「でも、私に何が出来るというの?」
「薫さんのお母さんに、申し訳ないと想うなら、薫さんだけでなく、彼女も受け入れてあげるべきだ。もし出来ないなら、そっとしてあげろ」
本当は、あまり余計な事に深く関わってほしくないというのが本音だが、もうここまできたら、香織は無関係で生きていく事は出来ないだろう。ということは、俺もそれなりに鈴木薫とこれからも関わっていかいとならないという事実に内心苛立ちながらも――。
上質な素材ので細かい所に配慮のなされたそのブラウス、妻の香織も好きなブランドの洋服である。その女性にも似合ってはいたが、俺に貞淑な妻であるかのように演じるために態々用意してきたのが見えるだけに、ちぐはぐな感じがした。
涙を流しながらも、化粧があまり乱れていない所は逆に感心してしまう。
たぶん状況をまったく知らずに見たら、ずっと陰ながらに支えてきた夫に突然一方的に離婚を言い渡されたかわいそうな女に見えるだろう。でもその実態は逆で、世間知らずのボンボンに、恵まれた容姿と口の上手さでうまく取り入り結婚にこぎ着け、セレブの生活を手に入れた女である。贅沢な生活で満足していれば良かったのに、男遊びまで派手に行ったことで、彼女としては非常に困った事態に陥っているわけである。
「私は、哲さんを愛しています。哲さんもそれは同じ筈です。それなのに離婚なんて不条理過ぎます。お願いです! 鈴木さんの方からも説得して頂けませんか? 離婚は誰も幸せにしません」
俺は微笑んでから口を開く。
「残念ながら、斉藤氏は貴方とやり直すという気はまったくありません。貴方が離婚を拒絶しつづけても、コチラの結論に変更はありません。このまま貴方が長引かせるような事があれば、あなたに慰謝料を請求という事も考えています。今のうちに承諾したほうがあなたの損失は少ないかと思いますけど」
自業自得だろ! こんな事で時間を使ってないで、諦めてさっさと次のカモを探せ。こっちも忙しいのだ。そう内心で毒づきながらも、俺はニッコリと穏やかにその女に笑いかける。愚かだけど馬鹿な女ではないようで、俺側からは何も引き出せないと察したのか、しおらしい女の演技を続けたまま事務所から出て行った。
予定外の来客で思わぬ時間をとられた俺は、大きくため息をつく。
えてして、男より女の方が演技は上手い。それを信じられるかどうかは別として。男だとこうも自然に情に訴えつつ自分の意見を相手がうっかり納得しそうな言葉を言えないだろう。男性だとディベートのように理屈で攻めるか、声を荒らげ力業だけでいくかという感じで、無理な力が働く分そこには衝突といった要素を生み出すことが多い。
女は小さいときから、ごっこ遊びというのが好きで、それで鍛えられてきている。
香織も昔からそういった遊びがすきだった。小さい頃付き合わされたオママゴトでも、彼女が俺に与えた設定は夫であったり息子であったが、俺は俺のままでいることしか出来なかった。でも香織は、時には俺の妻だったり、俺の母だったり、俺の妹だったりと、その時々で見事にその役割を演じていた。
それは今でも同じなのかもしれない。香織は俺の妻でありながら、時には友となり、妹となり、母親となり、俺を受け入れ甘えさせてくれる。どの場面でも香織本人ではあるものの、彼女は場面で違う顔を見せてくる。
意地っ張りな俺が、彼女にだけ甘えられるというのも、それはその付き合わされてきたオママゴトでの訓練の成果があるのかもしれない。
最近では、香織はそのゴッコ遊びの相手は俺だけでなく、鈴木薫とも楽しんでいるようだ。この二人は親友といった関係をベースに、あるときは姉妹のような、そしてある時は母と娘といった感じに形を変え接し、交流を楽しんでいるようだ。別にそう設定して遊んでいるのではなく、何気ない会話の中で状況に合わせて役割を変え分担していくのだ。端からみていると、それは面白いものがある。
鈴木薫も、そういった遊びが上手く、寧ろノリノリで楽しんでいるという所は、さすが女性というべきだろう。
※ ※ ※
その夜、一緒に夕飯を食べている香織がどこか元気がないのに気がついた。
穏やかに笑みを作り、一見いつもの彼女であることを演じようとしているけれど、つきあいが長いだけに分かってしまう。何かに彼女が傷つき落ち込んでいるのが分かる。
「何かあったのか?」
仕事だったら、もう少し婉曲に相手が話しやすい空気を作ってから聞くのに、この世で一番俺が気を遣っているはずの香織には、ついこのようにストレートに聞いてしまう事が多い。コレもちょっと考えた方がいいのかもしれない。
案の定、香織の顔から笑みが引き、困ったような顔をする。
「いえ、何も……………………。
ちょっと私、今日……人に対して僣越な事をしてしまって」
ごまかそうとしたが、ジッと見つめる俺の視線に観念したかのように話し出す。引っ込み思案で、寧ろ想いがあっても行動を起こせない事に落ちこむ事が多い彼女にしては珍しい事態である。
「香織が、そういった事を人に出来るとは想わないけど。気のしすぎではないのか?」
香織はため息をつき、首を横にふる。
「私ね、昨日まで薫さんの、お母様に、怒りを感じていたの。なんで可愛い子供をあんなにも苦しめ傷つける事が出来るのか」
確かにあれほど気丈な鈴木薫を、ボロボロにするほど傷つけることができたのは、悪意ある世間でもなく、実の母親である。
しかし、俺の見解では鈴木薫の母親は、決して悪い母親ではない。寧ろ息子を性同一性障害にした事で、自分も責めている所もあり、ただ気が動転しているだけなのだろう。先日病院に来たという事からも、向き合おうという姿勢を示している事からも、良い母親だとは想う。
鈴木薫も、それは分かっているだろう。寧ろそんな母親の言葉だからこそ傷ついたのだ。
「で、今日病院まで行って、会ってきたの……」
香織がそこまでの行動を起こしたという事に、俺は少なからず驚いた。でも口を狭まず、彼女のペースでゆっくり話させることにした。
「……なぜ、母親でありながら、苦しんでいる子供を抱きしめてやれないのか、さらに傷つけることができるのかって」
香織はそこまで語り、顔を苦しげにゆがめた。
確かにそれは、あくまでも第三者である香織が言うには、言い過ぎの言葉である。俺はある程度、鈴木薫と距離をとって付き合っているから、推測できる鈴木薫の母親の心情。でも間近で鈴木薫だけを見て、彼女の苦悩や悩みを見守っていた香織にはそこまで見えなかった。
軽率すぎた香織の行動を諫めるべきなのだろうが、香織はすでにその間違いに気がついて苦しんでいるから、俺はあえて何も言わなかった。
「『あなたが抱きしめられないなら、私が抱きしめる、そして薫さんのすべてを受け入れ慈しむ』って啖呵まできって、馬鹿よね」
香織の瞳から涙があふれ、ポロリと垂らす。俺は近くのティッシュボックスから紙を取り出し、彼女に渡す。
「薫さんのお母さんは、君になんて言ったの?」
香織は涙をそっとふき、そして、小さく深呼吸をする。
「……お礼を言ってきた……『自分の息子の事をそこまで想ってくれて』と……私はあの人にひどい事を言って傷つけたのに……そして、『今の自分は、何一つ母親らしい事できないから、今だけ私に見守ってほしい』と」
涙を流したまま、会話を説明する香織を俺は静かに見つめた。
そのまま痛みを感じているかのような表情で黙り込む。苦しんでいる一人の女性をただ傷つけただけという事実が香織を悔やましているのだろう。
「香織、確かに、君は出すぎた真似をした。良かったのは、薫さんのお母さんが頭もよく、まだ冷静な方だった事」
その言葉に香織はビクっと肩をふるわせる。
「君は今回の事で、分かっただろ? 薫さんの問題で苦しんでいるのは薫さんだけでなく、家族みんなもなんだと。俺たちは性同一性障害の彼女を受けいれられるのは、やはりどこか無責任で無関係でもいい立場にあるからだ」
香織は、『無責任でも無関係でもいい』という言葉に、眉をひそめたが何も言わなかった。
香織も、鈴木薫が恋人という立場だったりしたらまた感情は別だっただろう。自分が愛した男が、たとえば俺が性同一性障害だったらどう想うというのだろうか? 鈴木薫にしたように受け入れ自然に接することが出来ないはずである。
「でも、君はあえてそこに関わったんだ。だったらちゃんと最後まで見守るべきだと俺は思う」
ジッと考えるように下をみていた香織は、その言葉に俺を静かに見あげた。そしてその瞳に力がこもる。
「でも、私に何が出来るというの?」
「薫さんのお母さんに、申し訳ないと想うなら、薫さんだけでなく、彼女も受け入れてあげるべきだ。もし出来ないなら、そっとしてあげろ」
本当は、あまり余計な事に深く関わってほしくないというのが本音だが、もうここまできたら、香織は無関係で生きていく事は出来ないだろう。ということは、俺もそれなりに鈴木薫とこれからも関わっていかいとならないという事実に内心苛立ちながらも――。
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