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虐めていた元同級生が再会したらヤクザになっていた件1

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 思わずといったように、眞白の肩が揺れ、視線は下へと泳がされた。
 元いる喧騒の中に意識を戻した眞白は、肌膚をしっとりとさせた、滲んだ汗を気にする余裕なく、へらりと、下手な作り笑いを浮かべ、「え、えっと……聞こえなかった、な、何?ご、ごめん」とこぼし、軽薄な愛想笑いをこれでもかというほど添えた。
 「だーかーら、あれ!放っておいてもいいのかよって!お前、利執さんの恋人だろ?」
 店内に流れる旋律を掻き消すかのように耳許で声張を披露され、鼓膜を揺する振動に、気付かれぬように静かに、眞白の双眸は伏せられた。
 耳奥で残響し、やがて耳鳴りとなって残留する不快な音に悩みながら、配慮からではなく、憫笑と嗤笑を入り混じらせ、眞白の反応を確かめる為だけに態々丁寧に知らせてきた、右隣に座る男が示す恋人の方へと視線を向けた。
 眞白の位置から左側にあたるソファ席で、壮麗でありながら、威圧感のない柔和な男が、撓垂れ掛かるように崩れた大輪の花のように派手な佳人を支え、水をすすめる仕草をしていた。
 アルコールに支配されてしまった佳人を介抱するその男こそ、紛れもない眞白の恋人だった。
 妍麗な男は、やや弱ったように眉を下げていても、その麗色が霞むことはない。
 佳人を支え、グラスを持ち上げているだけでも誘われるように視線を奪ってしまう、洗練された身のこなし。
 眞白の恋人は視線を奪うことに長けた、非常に魅力的な人物で、こうして男の周りに人が集うのは、何も今に始まったことではなかった。
 男にとって、男を見てきた恋人友人にとって、取るに足らない日常であった。
 ───日常なのだ。
 側に寄ってきた相手を無下に扱うことなく、受け入れてしまうのも。
 「……り、利執は優しいから」
 そう、眞白の恋人は非常に懇篤で、温厚な性格をしていた。故に、男の行動は深い意味など含まれない完全なる善意によるものだった。
 優しい、その言葉で幾度と眞白は恋人の行動をなんとか正当化し、納得させていた。
 下卑た慾などなく、ただ純然なる善意の行動と理解はしていても、それを受け入れられるかと聞かれれば、それはまた話が違ってくるというのが、赤裸々な本音であった。
 しかしどうしてその本音を、ともすれば眞白の独り善がりの独占欲のようなその本音を、一つと瑕疵のない善行の否定に繋がるような真似が出来ただろう。
 決して不義をしているわけではないのだ。
 眞白にとって到底受け入れがたく、掻き乱される行動であっても、異を唱えるほどの愚行をしている訳では無い。困っている人に救いの手を伸ばし、甲斐甲斐しく介抱しているのだから、寧ろ恋人のその行動は称讚に値し、誇るべきことですらあった。───素晴らしいと。
 しかし眞白に讃賞するような寛容さが湧き起こることはなく、かと言って咎めるような真似もまた出来ずにいる。
 狭隘だと恋人の心が離れてしまうのを恐れ、厭うとともに、眞白には異を唱える資格を、そもそも持ち合わせていなかったからである。
 二人の非対称な身体が重なるのを、視界から追い出し、まだ並々とジントニックが残る自身のグラスに移す。
 何杯目になるかも分からなくなったグラスが歪む。眞白自身も随分と酔いが回っているようだった。
 〝お酒を嗜むのが好きだから、こうして対等に付き合ってくれる人がいるのは嬉しい。いつも最後は一人になってしまうから〟
 恋人があまりにも眩しい喜悦を照れたようなはにかみと共に浮かべ、そう明かしてきたものなので、元々は男と出逢うまでさして嗜んでくることのなかった眞白にとって馴染みのないアルコールという存在であったものの、努力と意地と忍耐でなんとか意識を繋ぎ止めては、いつも強がって見せていた。
 佳人を支える腕を、眞白も恋しく必要としていたが、それをどうにかジントニックで胃奥まで流し、余計な事を口走らないように口を固く噤む。
 とろりとまた脳と視界が溶けるような、乖離するような感覚が襲う。
 脳がアルコールを摂取することに、警鐘を鳴らしていたものの、呑まずにはいられまいと、眞白の手はグラスに添えられたままになっていた。
 「でもあんな美人、流石の利執さんでも放っておかないかもしれないぞ。今までで、一番美人だ」
 悪魔のような囁きだった。
 男の揶揄う口調が、言葉が、頭の中でなぞるように何度も反芻される。
 男が何を言いたいのかは手に取るように理解出来た。
 からりと、グラスの中で音を立てた氷が与えた振動により、液体がささやかな波紋をうみだし揺れる。その揺れのように、眞白の胸中も不安定で、不規則に、揺れ動く。
 ゆらゆら、ゆらゆらと。
 眞白の事を認めていない男が態と、不安感を煽るようなことを吹き込んでいる───そう頭では理解しているが、恋人を良く知っているからこそ、余計に眞白の胸中は掻き乱される。
 こんな風に少しのことで、揺れたくも、揺らされたくもない気持ちは強くあったが、しかし揺らがず、強く凛といるには、眞白は恋人を知りすぎていた。
 グラスの奥に置かれた硝子の灰皿に、歪み映る、凡庸な貌。
 艶があるわけでもない黒髪に、吊り上がった一重の黒瞳、生まれつきの褐色肌に鼻や頬の上に散らされた雀斑。過去、鴉みたいだと揶揄された程の見目は、特別目を惹くようなものは何も無い。
 ───何故、その疑問は幾度となく眞白の脳裏に浮かべられた。
 容姿も才も、これといって秀でたものなど持ち合わせてはいない眞白が何故、器量好きと周知されているはずの男の恋人になれたのか。
 誰もが男の伸ばす手を欲しがり、その手に何かしらに秀で特化したもの達が群がった。しかし今回その手を見事取ってみせたのが、何の変哲もない平凡な眞白。
 眞白自身が疑問を抱いたように、眞白よりも男と時間を共にした周囲も勿論その違和感に驚き、疑問符を浮かべた。
 何故、と。
 そして疑問とともに、強烈な拒絶を。その拒絶は常に嘲笑となって眞白に向けられていた。
 今の状況のように。
 眞白が男の、利執の恋人であることを、周囲の誰も認めてはいなかった。恋人である、男以外は。
 安定しない視界でぐるりと見渡した、男の持ち物の一つである店内は、華やか且つ賑やかで、男と再会しなければ、踏み入れることもなかったはずである。
 この世界が眞白の踏み入れるべきところでは無いこと、平々凡々な眞白に似つかわしくないことも、自分が取るに足らない存在であることをしかと自覚していたからこそ、とりわけ誰よりも深く理解していた。
 それでも、相応しくないと、分不相応であると自覚しながら、身を置き続けるのは───眞白が利執を心から恋慕しているからに他ならない。
 グラスをなんとか空け、無心で串の通ったカプレーゼを回転させることに専念していれば、肩に調節のされた柔らかな刺激がトントンと二度ほど与えられた。
 振りかえると、壮麗な恋人が眞白を見下ろしていた。
 「……あ、あれ、女の人は?」
 「タクシーまで送ってきたよ。それそろ僕達も帰ろうか」
 小首を傾げた眞白に、恋人は柔らかな目許をさらにゆるめた、やわらかな微笑みを浮かべ云った。
 眞白よりも一回り大きな手が差し出され、その手を受け取れば、自然な流れで腰を抱き、店内を後にする。
 元は本家に身を寄せていたものの、眞白との交際を機に移ったという、これもまた眞白が足を踏み入れることはなかったであろう夜景の美しいマンションに到着する。
 恋人は煙草を、眞白はミネラルウォーターを飲み一休みしてから、シャワールームに移る。
 温水が二人の対照的な肌を濡らす。
 出逢った頃、眞白の方が伸びていた長身は、今や恋人が優に超えており、並び立つとそれがより一層際立ち、その度に眞白は月日の流れを突きつけられた。
 「じ、自分で出来るから」
 そう伝えても恋人の手は眞白の髪に、そして肌膚に触れ、清めていき、湯槽に浸かるように促した。
 ほどよい温度が眞白の体躯を包み込む。アルコールで上昇した熱とは違い、じんわりと徐々に肌膚を溶けさせるような温かさに、自然と眞白の双眸は細められる。
 乳白色の湯気が立ち込めた浴室は、眞白の現在の脳のようだった。
 意識を羽根よりも軽くふわふわとさせていると、眞白を後ろから抱きしめる形で、恋人も浴槽へ沈む。
 かさが増した浴槽は溢れ返り、小波を少しばかり作り、揺れ流れた。
 「眠い?」
 「べ、別に、眠くない、か、勝手に決めつけるな」 
 眞白を脚の隙間へ誘い、指先を絡めてきた恋人の問いに、眞白は間を置かずに答えた。本音は恋人の指摘通りだったものの、酩酊していると、悟られたくない為だけの些細な強がりだった。
 「そう?」
 「う、うん」
 後ろから抱き締める恋人から、先程香ってきた可憐な香りは洗い流されたようで、眞白の鼻腔を掠めることはしなくなった。
 はふりと、眞白の口許から一縷、安堵の呼吸がもらされる。
 男の指が眞白の手の甲を滑り、揃いのペアリングを撫で、指同士がきつく絡まる。
 男はやわらかな風貌に反し強力だった。
 「そう言えば、伊達とは何を話していたの?」
 不意に思い出したように問われた質問。 
 伊達、眞白は復唱したのち、それは一体誰だと、鈍い思考をなんとか働かせ、眞白の隣で悪魔の囁きをしていたあの男かと検討をつける。
 「……お、憶えてない。だから、詰まらないことだったんだろ」
 勿論、忘れられる訳もなく、酔っている状態でさえ、きちんと憶えていたものの、あの会話をまさか恋人本人に伝えられるはずもなく、眞白はお酒は美味しかった、などと違う話題を提供した。
 「そう?気になるなぁ」
 「お、思い出したら、言うって……」
 「思い出したら、絶対ね、約束だよ」
 「分かったってば」
 そんな日は一生来ないだろうと心の中で呟きながら、眞白は上がろうと提案した。
 身体から水分を拭き取り、髪を乾かす。
 やわらかなベッドに沈めば、恋人の大きな掌が、眞白の筋肉も脂肪もない、面白みに欠けた腹部を撫でた。
 性的な触れ方だった。
 「あ、あ、今日は……」
 ───お酒呑んだし、うまくできない、かも、多分……消え入りそうな聲で、眞白はこぼした。
 暗闇の中で、透き通った白藍だけは闇に潜めることなく鮮明にさせ、恋人が微笑う。
 「触れていたいだけだから、出来る出来ないは重要ではないよ」
 ───貴方を感じていたいだけ、そう囁き、恋人は眞白に触れはじめる。
 いつだって眞白は恋人に触れられることに緊張していた。もう何度も膚を重ねてはいるものの、それでもなれることはない。決して拒絶している訳では無い。ただ利執という美しく、魅惑的な恋人に触れられる、その事実が常に現実離れしていて、実感が湧かないでいたからであった。
 やわらかな唇が首筋に触れ、それは徐々に肩、鎖骨、───と下っていき、やがて胸許の飾りへと口付けられる。
 「……ふっ、ぅ」
 佳人と消えることだって出来た。あの親密な様子からも、恋人にとってそれは可能なことであったはずである。
 それでも佳人を帰し、眞白を連れ立って、眞白を求める。
 緊張し、気恥ずかしかったものの、それでもこうして求められ、触れられている事実に、漸く身構え、凝り固まった気持ちが弛緩する。
 まだ、求めてもらえる程度には、恋人の関心は自分にあるのだと。
 伊達と呼ばれた男の云うことは戯言であったのだと。
 漸く安堵し、与えられる享楽に雪崩るように呑まれていく。
 「───好きだよ」
 たったその一言で、波濤のように揺らいでいた心はなだらかな鎮まりをみせる。
 「……う、う、ん」
 「眞白くんは」
 「……す、すき、だよ」
 男の行動に、一喜一憂してしまうほどに。
 死んでも、云えないけれど。
 眞白はそう思いながら熱に浮かされ、微かに潤んだ眸子を伏せる。
 けれども、それ程までに眞白は利執という恋人を───愛し、惑溺にまで陥っていた。
 佳人を選ぶことなく、今日も凡庸な眞白に触れる恋人を抱き締め、その存在を噛み締める───。
 

 虐めていた元同級生が再会したらヤクザになっていた件


 「お疲れ様っス」
 眞白がアルバイトを終え、ピザ屋の裏口から出た途端、焼けた赫みの目立つ焦茶の色が目に入った。
 「た、田原くん、お疲れ様。ごめん、い、いつから待ってたんだ?」
 「そんなに待ってないっスよ、俺今日遅れたんで!じゃあ行きますか」
 田原は屈託のない笑みを浮かべ、路上駐車された車へと、眞白を促した。
 田原は恋人、利執の部下の一人だった。
 何かあっては遅いからと、交際を機に紹介され、付けられた、用心棒の役割を担った男。
 見た目こそ軽薄そうであるものの、田原は眞白を揶揄ったり、好戦的な態度で接しない、たった一人の珍しい人物だった。
 出逢ったときから、頭を深々と下げ、誰よりも眞白を利執の恋人として認め、敬い、欠かすことなく律儀に仕事をこなした。
 恋人が田原を傍に置いたことは、あまりにも杞憂で、それに巻き込まれてしまった田原を眞白は常々憐れんでいた。
 こんなに無駄な時間はないだろうと。
 美しく、誰もが手を伸ばす男が恋人だという以外、何の特徴も、弱みもない、取るに足らない平凡な男、それが眞白なのだ。
 過去、恋人が傍に置いていた群を抜いた秀でた者達ならいざ知らず、平凡の眞白に熱を上げているなどと、誰も信用してはいないのだ。
 ───気紛れだと。
 眞白が男の弱点となるとは、大概、莫迦げたことだと周知されている。
 この目の前で焼けた髪を揺らす田原という男を除き。
 眞白さえも弱点に成り得ている訳はないと自負していたというのに、田原という男は本当に、良く言えば無垢だった。
 「こ、コインパーキング……に、停めればいいのに」
 「勿体ないっスよ!そりゃ、金は貰ってますけど、その分貯金に回せますもん」
 「そ、……えっと、つ、捕まらないようにな」
 秘密っスよと、細い双眸をさらに細め笑う田原に、眞白も笑って頷き、車内へと入る。
 「今日は本家の方へ送って行くっス。そっちで利執さんがお待ちしてるンで」
 「あ、あ、うん、ありがとう」
 窓から外に視線を何気なく向ければ、煩わしい程のネオンと人の波が視界を掠めていく。
 今迄は徒歩で最寄り駅まで向かい、そこからは満員とはならずとも、そこそこに溢れた密度の濃い車内に肩を窄めながら揺られ、息を潜めるようにして帰宅していたというのに、今では周りに気を遣うことも無い快適な車内で、ぼんやりと変わる景色や行き交う人々を追えるとは、大した出世だった。
 大した出世ではあったが、それが眞白の実力からでは無いのだから、微苦笑ものでもあった。
 掠める景色は変わり、やがて長く続く板塀を追っていくと、立派な日本家屋へと辿り着く。
 田原は甲斐甲斐しく、右側の後部座席のドアを開けてくれるが、それも眞白には慣れず、気恥しいものがあった。
 「あ、ありがとう、本当に」
 礼を伝えれば、田原はやはり変わらない笑顔で仕事ッスから、礼なんて要らないんスよなんて言うのだ。

 「眞白くん」
 
 いつもよりも強い口調を感じ、眞白は肩を揺らし、入口の方へと振り向く。
 丈夫そうな木製の門扉から出てきた恋人は、何処か雰囲気が固く、眞白は不思議に思いながら、気圧され、身構えた。
 「り、利、執?」
 近づいてくる恋人に、眞白は少し後退りをしたが、詰める距離は恋人のほうが遥かに秀でていたため、直ぐに追いつかれ、───抱き締められる。
 抱き締め、眞白の頬に唇を落とし、恋人は相好を崩した。
 「お帰り。いつもより遅いから心配していたんだ」
 そう云った恋人はいつも通りで、眞白は気の所為かと、構えていた身をゆるめ、頷いた。
 「わ、悪い。新人の子がミスして、そ、それ一緒に教えながら直してたから」
 「……そう。お疲れ様。それじゃあ、行こうか」
 「う、うん」
 恋人に促され、今度は恋人の車に乗り込む。恋人は慣れた手つきで車を発進させた。
 「新人の子とは仲良いの?」
 「ま、まだ、事務的な会話しかしたことないし……仲良い、とは言えないんじゃないか」
 眞白はどの程度の関係ならば親しいと呼んで良いのか、口にして良いのかすら分からない。
 「仕事だし、それくらいの距離感で良いと思うよ」
 「ま、まぁ、うん……そ、そうだな」
 幾分聲を沈ませながら、眞白は頷いた。
 器用にも、恋人は運転しながら、指を絡め、眞白と手を繋ぐ。じんわりとひろがる温もり。
 「田原とは?」
 「……あ、え?」
 「楽しそうに会話してたでしょう?何を話していたの」
 「……?え、えっと、お礼を言ってただけだけど」
 「礼なんて。田原は仕事をしただけだよ」
 「そ、そうだ、けど。送ってくれたことに変わりはないだろ」
 「気にしなくていいのに」
 それは無理だろうと、内心苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
 田原は実質無駄な労働を強いられているようなものだったのだから、それを素直に見守る真似は出来なかった。
 「お、俺に護衛なんて……要らないと思うけど」
 赤信号で、車が停止し、二人の肌膚を赫いライトが同色に照らし染めあげる。
 透き通る白藍の眸子が、普段とは違う色を纏い、眞白に向けられていた。
 「眞白くんはそのままでいて」
 鷹揚な口調で、恋人は意味深な事を言い放ち、眞白を混乱させた。
 「ど、どういう意味?」
 「そのままの意味」
 信号が変わる。
 繋いでいた手を強く握られ、車がまた発進する。
 切り上げられてしまった会話。
 車内にはエンジン音だけが響いていた。その沈黙に耐えかね眞白は備え付けられていたテレビの画面を指先で操作し、音楽を流す。
 流れ出すクラシック。眞白はクラシックには馴染みがなく、とんと興味がなかったが、態々Bluetoothに繋ぎ自分好みの曲を流す勇気はなかったし、音楽がないよりはマシだと、聴いたことあるような、無いような旋律に耳を傾ける。
 眞白は思う。
 同じ状況下ならば、男だって拝謝していたことだろうと。
 いつもの人好きのする莞爾を浮かべ、やわらかな聲で口にするのだろうと。
 それでも眞白には、やんわりと必要ないと知らしめる。人の上に立つ人にしか分からない拘りでもあるのだろうか。
 しかし眞白は二十八というこれまでの人生の中で人の上に立つような身分になったことは無いので、分かるはずもなく、やはり恋人とは住む世界が違うと痛感する。
 数分後恋人とともに何度か訪れた事のある日本料理店へと到着し、食事を終える。
 帰宅し、身を清めれば、愛される。
 「愛してる」
 呼吸を整える最中、耳許で囁かれた言葉。
 行為中も何度も贈られた言葉。
 「眞白くんは?」
 「……っ、あ、あい、あいしてる」
 眞白は自分の気持ちを言葉にするのが得意ではない。
 問われても聲を出せない時もあるが、問われなければ言葉に出せない時もある。
 だからこうしていつだって眞白が言い易くしてくれることに感謝していた。
 男が微笑む。花が綻ぶように。───あまく、やさしく、なめらかに。
 男が微笑うと、眞白の心は擽ったいような妙なものを常に感じとった。
 「───ふふ、嬉しい」
 耳介の外側を啄まれ、抱き締められる。
 眞白も抱き締める。
 「眞白くん、もっと言って」
 「……す、すきだよ、ほんとうに、あい、愛してる」
 ───何故、眞白を受け入れてくれたのか。眞白を選ぶことは、厳しかったはずであるのに。
 疑問は常にあった。
 けれど大切にされていると、愛されていると、実感があった。
 時たま不安に揺さぶられることはあっても、手に取るまでには至らず、恋人は常に眞白の元へ戻ってくる。
 必ず、特徴のない平凡な眞白の元へ。
 ───愛されていた。

 *.。.:*・゚*.:*・゚

 週末、男に連れられて訪れた裏カジノは、盛況をみせていた。
 最初こそ恋人と廻っていたものの、大事な話がある、と話しかけてきた男性とともに消えてしまった。
 遊んでていいよとチップを渡されたものの、賭け事なんてした事がなかった眞白は、見回り、結局併設されたバーに逃げ込み、ウーロンハイを啜っていた。
 テレビで見たことある人もいるんだなと、複雑な気持ちで呑んでいると、席を一人分空け、カップルが着席した。
 最初こそ気にせず一人でちびちび呑んでいた眞白だったが、視線を感じにわかに顔を上げると、カップルの女性の片方が眞白を凝視していた。
 驚き、眞白はすぐに視線を下げ、ウーロンハイを流し込み、それから頼んでいた生ハムを頬張り、興味のないアピールをして見せた。
 しかし隣から聞こえてきたクスクスという笑い声に、眞白の心臓は跳ね上がった。
 この種類の笑い声を、眞白は恋人と付き合うようになり、何度も経験していた。
 きっと今回も恋人関係かと、身構える。
 「ねぇ、あなた」
 嗚呼、呼ばれてしまったと眞白は人知れず覚悟を決める。どうか、穏便にと願いながら。
 「は、はい」
 「利執の今の恋人って本当?」
 問いかけに、眞白は頷いた。
 「そ、そう、です」
 ああ、やっぱりなと眞白は目を伏せた。
 恋人であることを認めた瞬間、女性はより一層笑みを深め、肩を震わせた。
 「彼が、今までとは随分と毛色の違う人を恋人にしたって煩いから仕方なく見に来てみたら、こんな面白いもの見れるなんて」
 女性は恋人に凭れ掛かりながら、それでもまだ足りないと言うように笑っていた。
 それを濁すように深呼吸をして、それから女性は眞白の手に触れた。
 ビクリと、眞白の身体が揺れる。
 「私もね、昔利執の恋人だったのよ。二週間で破局したけれどね」
 女性の言葉は眞白に衝撃を与えたが、確かに女性は非常に美しく、恋人の審美眼にもかなう貌をしていた。疑う余地すらない。
 「その時に、面白い話を聞いたの。昔、一人の人に裏切られた時期があったって」
 女性の言葉に、眞白の顔から血色が抜ける。
 蒼白いを通り越した顔色は非常に悪く、今にも倒れてしまいそうなほどだった。
 「恨んでる?って質問したら、あの人、頷いてた。今思い出しても、腸が煮えくり返るって。あの、穏やかな人がよ?」
 女性は赫い液体を飲み干してから、眞白をじっと見つめ、休めていた口を開く。ほんのりと色付かせた頬が、妙に色香を放ち、印象付かせる。
 「あなた、その裏切ったって人でしょう?だって聞いていた通りの見た目だもの。ピンときたわ。どうして突然毛色が違う人を恋人にしたのかと思えば、簡単な話だったのね」
 ───復讐する為、心底面白くて堪らず、唄うように女性は云った。
 「そうじゃなければ、あなたと付き合う訳ないものね。珍しくあなた長く続いてるらしいんですってね。彼は優しい?でも気をつけなきゃ駄目よ。忿怒しているのだから。優しく優しく接して、あなたが彼に心を許していけばいくほど、彼はね、心の中で嘲笑って最後は簡単にあなたのこと捨てるわよ。だってそれが、一番の復讐になるでしょう?」
 ───ふふ、でもその様子じゃもう遅いかしら。
 顔色を失くす眞白を見て、女性は大輪の花のような微笑みを浮かべる。
 「彼も悪い人ね。でも折角彼と付き合えたんだもの、捨てられるその日まで、楽しまなきゃね。偽りの優しさの中で、頑張ってね」
 頑張れよ、なんて女性の現在の恋人らしい男性にも励まされる始末。
 「気付けなかったのね。可哀想だから、ここは私たちが持ってあげる」
 伝票が奪われ、眞白が制す前に去っていく男女。
 何かを言いたかったが、その通りのような気がして、眞白は動けなかった。指先ひとつ、動かせなかった。
 女性の言葉は妙な説得力があるように思えた。
 再会した時、利執は赦すよと言った。
 そんな簡単に赦されないことは自覚していたはずなのに。
 それでも赦すというものだから、眞白はその言葉を信じてしまっていた。
 女性は恨んでると言った。腸が煮えくり返るほど。
 それが恋人の、利執の本音。
 その通りだ。そう思われても仕方がないほど酷いことを、かつて眞白は恋人に対して行ってしまっていた。
 目も当てられないほど、凄惨なことを。
 
 眞白がまだ八歳の頃、利執が転校してきた。
 透き通る亜麻色の髪に、光を取り込んだような輝く淡い白藍に加え、少し垂れ目がちな優しげな目許、その右下に配置された色気のある黒子、通った鼻筋に形の良い薄い唇、男は幼い頃から既に顔貌が完成しており、その異様めいた整い方は、子供の目を持ってしも理解できるほどであった。
 見慣れぬ色を纏った壮麗な子供。
 子供ながら、気安く話しかけるには、あまりにも利執は異質で、物怖じさせる迫力があった。
 視線は集めても、誰も傍によることはしなかった。
 しかしそれをものともせず話しかけた子供がいた。
 それが眞白だった。
 当時の眞白は子供ゆえの無邪気さを持ち、今とは比べ物にならないほどに、天真爛漫だった。
 利執を一目見た刹那、眞白は利執を気に入った。
 眞白は自我が芽生えた頃から既に、キラキラしたものや、美しいものが大層好きだった。
 ともすれば一般的に女性が好むとされるものに興味を持つ傾向があった。
 しかしそれは女性が身につける装飾嗜好に対して向けられる訳ではなく、装飾されるために使用される素材に対してであった。
 例えばネックレスやピアスに興味はないが、加工された宝石や真珠には驚くほど心が惹かれた。
 晴天の空にはあまり興味が無いが、夏の夜空の美しさには寝る間を惜しんで見る価値があった。
 ドライフラワーは好まなかったが、生花の美しさには目を見張るものがあった。特に雨に濡れた花は、気分を潤わせた。
 眞白は、キラキラとする美しいものに魅入られていた。
 そして利執はその光を取り込んだような輝く淡い白藍で、眞白を一瞬で掴んだ。
 利執を視界に入れた刹那、感じたことの無い高揚が湧き起こり、身体を震わせた。
 友達になりたい、ではなく、あの瞳を見つめて、あの瞳の中に映りたい、そう思わせる妖艶な白藍。
 その瞳を自分だけのにものにしたい、そんな私利私欲にまみれた欲望が眞白を包み、活発に動かした。
 「なぁ、友達になろう」
 眞白は持ち前の天真爛漫さで、互いの家を行き来し、遊び、利執との時間を増やした。
 聞けば転校ばかりで友達が出来たことがなかったと、利執は初めて出来た友達である眞白に、すぐさま心を許し、懐いた。
 また利執の家庭環境は良いとはいえず、何度か見かけた、ここが故郷ではないであろう母親は常に酩酊状態であり、それを憂慮し、眞白は遠慮する利執を何度も強引に夕餉の席に着かせた。
 心地が良く、優越感があった。
 眩しいほどに美しく、また気に入った瞳の男の子が、眞白にだけ心を許し懐き、白藍に眞白を映せばいの一番に傍に駆け寄ってくる。
 これ以上ないほど、鼻が高いものだった。
 羨ましそうに視線を送るだけで、口も利けない周りと違い、眞白の元には利執自身から自発的に側に寄ってくるのだと。
 眞白の性格は良く言えば天真爛漫だった。しかし悪く言えば傍若無人でもあった。それ故に、眞白も孤立していた。
 友達はいなかった。
 利執が現れるまで。
 互いに初めてできた友達に変わりはなかった。
 友達だと思っていた者達は、全員眞白の元から離れていってしまった。
 もう失いたくはなかった。あんな胸の張り裂ける想いは一度で十分だった。
 それも一等お気に入りで、大切な友達を。
 母親譲りの眞白の褐色の小さな手が、利執のなめらかな頬を包む。
 「りと、俺達はたった二人だけの友達だからな、だから俺の元から離れちゃいけないんだからな。俺もりとのそばを離れない。友達は何があってもずっと一緒にいないといけないんだ。うらぎったり、かなしませるようなこと、しちゃ駄目なんだぞ。わかったか?」
 刷り込むように、眞白は何度も同じことを告げては、利執に頷かせた。
 「友達ってことは、りとは俺のもので、りとの全部が俺のものだからな。ずっと何があっても一緒だからな」
 お気に入りの燦然と輝く白藍を覗き言えば、利執は「僕は眞白くんのもの」と綻ぶので、眞白の優越感はそれはもう溺れるほどに満たされていた。
 「約束だぞ」
 望んでいた白藍に自分の姿が映り込む。
 その時、眞白の人生の中で、一番幸福と呼んでも障りなかった。
 しかし利執は元々人を惹きつける、魔性のようなものを持っていた。最初こそ様子を伺っていた子供たちも、日に日に明るくなり、眞白と一緒にいる様子を見ていれば、一人、二人と聲を掛け始め、気付けば利執はクラスの中心となっていた。
 誰もが利執と呼び、いつしか利執を中心にクラスは回り始め、二人の時間は減ることを余儀なくされた。
 それでも利執は、どんなに他の子供に誘われても眞白を連れ、他の家に呼ばれても、眞白の家で一緒に食事を摂った。
 けれども二つとない白藍が、他の子を映し、微笑う。
 焦れ、耐えられなかったのは眞白だった。
 我慢ならなかった。今まで自分にだけ向けられていたはずの瞳が、自分以外に向けられるのが。
 許せなかった。一緒にいる時間が誰かのせいで減るのが。
 今まで利執の時間は全部眞白のものだった。
 恨めしかった。利執の全部は眞白のものだと頷いたにも関わらず、それを反故にし、眞白の知らない他人に時間を割く執自身が。
 壮絶なる裏切りだと思った。
 クラス中から必要とされる利執。それに比べ、利執を独り占めしようとしているとして、更に厭われた眞白。
 眞白には利執しかいなかった。
 利執にも眞白しかいなかった。
 ───はずだった。
 しかしそれは崩壊し、利執には眞白以外も沢山存在した。
 これを裏切りと呼ばずしてなんと呼ぶのか。

 「りとのうそつき」

 うらぎりもの、ばか、だいきらい、りとなんてもう友達じゃない、どっかいっちゃえ、激情が抑えられぬまま、赫怒の赴くまま、眞白は想いの丈を伝え、そして、利執に危害を加え始めた。
 眞白もまた利執を裏切った。
 眞白は孤立し、利執はクラス中から守られる存在と化したが、それでも眞白は激情に突き動かされるままに、利執へ嫌がらせを行った。
 沢山傷つけた。
 悪いとは思わなかった。
 裏切った利執の方こそ、眞白にとって凶悪であり咎人だった。
 裏切った報いだと、信じていた。
 
 ある寒さがいよいよ本格化してきた夜、眞白の転校が決まった。月の奇麗な夜だった。
 父親の単身赴任という話も上がったが母親が異議を唱え、家族全員での引越しとなった。
 その時は反発心が湧いたものの、しかし友達もいないこの土地に思い入れなどなく、次の日には眞白も賛成を示し、引越し作業は直ちに進められた。
 眞白は引っ越す前日も変わらず利執に嫌がらせをし、次の日、人知れず引っ越した。
 親から教師に口止めするよう頼み、眞白が引越すことを知る子供はいなかった。
 ざまあみろと、こんな所眞白こそ願い下げだと悪態をつき、街を去った。
 幼い頃は罪悪感とは無縁だった。
 幼いというのは鈍感で、自由だった。
 しかし大人になるにつれ、過去の自分の働いた狼藉に懊悩させられ、言葉が人を傷つける凶器にもなるという良識も身に付け始めれば、天真爛漫な性格は也を潜め、瞬く間に、消極的で内向的な暗い性格へと変化した。
 過去の愚行に後悔し、また人を傷つけてしまいやしないかと、人との会話にすら恐れるようになれば、吃音の症状が現れるようになった。
 過去の自分が如何に愚かだったか。
 眞白は自分を恥じ、そんな自分に友達が出来るはずもなく、友達を作って良いはずもないと、十字架を背負い、一人で生きていく決意をした。
 高校を卒業してからは、貯めていたバイト代で一人暮らしをはじめ、正規雇用に向け努力したものの挫折の果て、アルバイトで食い繋いでなんとか一人で生きていた。
 暗い、何考えているか分からない、そう囁かれ、親しい人物は作るつもりもなかったが、そもそも出来ることもなかった。

 男と再会したのは偶然だった。
 現在勤めるピザ屋の配達に出かけたところ、そこに男がいた。
 入ったことも無いクラブに入るのは勇気がいったが、仕事を棒に振る事も出来ずに意を決して入り、ピザを渡し精算していると、名前を呼ばれた。 

 「……眞白くん?」

 振り返ればそこには、昔の名残りはありつつも更に大人の魅力を加え成長した利執がいた。横には液晶越しでしか見たことの無いような女性も複数人見受けられた。
 眞白は直ぐに過去自分が愚行を働いた利執だと気付いた。
 「……え、え……り、利執、くん?」
 名前を呼んだことで確信を得たのか、利執が破顔し、声を上げた。
 「やっぱり眞白くんだ!久しぶりだね。何年振りだろう?こうしてまた会えるなんて、なんて偶然、驚いた」
 ソファに腰掛けていたはずの利執は立ち上がり、眞白の手を掴み、眞白を覗き込んだ。
 変わらない瞳だった。
 「え、え、あ、あぁ、うん、久しぶりだな」
 自分の人生の中で最も重罪に及ぶ、罪の象徴である相手が目の前にいた。
 「僕のこと、憶えている?」
 忘れられる筈もなかった。忘れてはいけなかった。張り付いて、同化してしまったかのように、眞白の中でずっと居続けた存在。
 「……ぁ、……り、り、とくんだろ」
 「やだな、利執でいいよ、昔はそう呼んでくれていたでしょう?でも憶えていてくれたんだね、嬉しいな」
 変わらないやわらかな微笑み、変わらない穏やかな口調。
 記憶よりも優男そうな男。
 こんな人畜無害そうな相手に虐めをしていたかと思うと、眞白の心はさらに重いものとなった。
 謝らなければ、そう思えば思うほど、口は重くなり、眞白の声帯を締め付け苦しめる。
 「眞白くん今時間は?せっかく逢えたんだからもっとお話したいな」
 さらりと、男は云った。
 「……い、いや、あの、俺、俺っ、勤務中だから……っ」
 絞り出し漸く言えたのはそんなことだった。そんなことよりも謝罪しなければいけないというのに。
 しかし予想もしない再会は、眞白を動転させ、怯えはさせても、謝罪する勇気は与えてくれなかった。
 「……じゃ、じゃあっ。ご利用ありがとうございましたっ」
 気持ちそこそこに、余裕もなく、逃げるように去ってしまった。
 その日の夜は罪悪感で胃が痛み、眠れず、眞白は胃薬壜を片手に布団を被っていた。
 睡眠不足が祟り、いつも以上に暗いと囁かれながら勤務していると、パートの眞白よりも二十も三十も年上の淑女達が色めきだった為、不思議に思いながら入口に視線を向けた。
 入口には昨日再会したばかりの凄艶な男が、堅気そうな黒髪の男を一人連れて、眞白の立つカウンターへと近づいてくる。
 「ご、御注文はお決まりでしょうか」
 接客態度としては褒められたものではなかったものの、眞白は視線をレジに向けたままマニュアルの言葉を口にした。
 注文をしたのは厳格な雰囲気を纏う男の方で、凄艶な男は支払いだけを済ませた。
 「で、では出来上がりましたらお呼び致しますので、お待ちください」
 この異様な空間から逃げ出すため、厨房に回り早く手伝いに参加したかったものの、しかし顔見知りの男だけが動じず、直立したままの為、眞白も動けず、見慣れたメニューを見る羽目に陥った。
 「仕事中にごめんね。昨日、頼んだっていう相手に聞いたら、ここだって言っていたから。折角逢えたのに、あのまま終わりなんてなんだか寂しいなって思って来ちゃった。───この後時間あったりするかな?」
 「え、え?いや……でも、俺……」
 「なにか予定、あった?」
 予定など何一つ無かった。
 孤独の時間を埋めるようにシフトを入れ、残りの時間は食事と睡眠に充てる。変わらないルーティンの中で生きる眞白に、今日に限って予定があるはずもない。
 けれども罪の象徴と対峙する余裕はまだなかった。
 心臓が速度を上げ、眞白は汗を滲ませた。
 この場から逃げてしまいたかった。
 大人になるにつれ臆病になっていった性格は、逃げることばかり選択するようになっていた。
 しかし逃げたらまた昨日と同じように後悔に苛まれ、まともに眠ることもできず、また嫌な人間に成り下がる。
 自分がしたことなのだ。
 眞白は葛藤し、喉が硬直してしまいそうだったものの、何とか絞り出し、上がる時間を伝えた。
 「そ、そのあとなら、なにも、ない」
 男は眞白の記憶にあった笑顔と同じ笑顔を覗かせた。
 「そっか。じゃあその時間になったらまた来るね」
 男はそう言って、眞白が勤務を終えた頃、本当に現れ、眞白を食事へと誘い連れ立った。
 食事が喉を通るはずもなく、眞白はおびただしい量の水を飲み、それから場所を顧みる余裕なく、支離滅裂に夜景が一望できるレストランにて、過去の醜行について詫びた。
 せめてもの救いはそこが個室であった、という一点のみであった。
 眞白の顔色は今にも倒れそうなほど悪いものだった。
 男は頭を下げる眞白へ、顔を上げるように言葉を添え、戸惑ったような瞳を向けた。
 「虐めって、あんなの、幼い頃の戯れの一つでしょう?」
 「い、いや、でも、沢山酷い行為や……酷いこと、言った。本当に申し訳ないってお、思ってるんだ……っ。悪かった、ごめ、ごめんなさい」
 男は思慮するように一度視線を外すと、深い色合いの葡萄酒が入ったグラスのステム部分を撫でた。
 眞白は今までにないほど心臓を動かし、断罪のその瞬間を覚悟していた。
 「そうだね、確かに約束を反故にされた時は哀しかったかな」
 「……ほ、本当に、ご、ごめんな、さい」
 男は視線を戻し、落ち着かせるような表情をみせた。
 「反故にしないと、今度こそ約束してくれるなら、もう気にしないで」
 眞白からしてみれば、それは青天の霹靂のような、思ってもいない言葉だった。
 信じられないというように、男を凝視する。
 「……え、え、赦して、くれるのか」
 「うん、───赦すよ」
 ほら、食べてと男は続け、それから酷く悩ましげに、影を落とした。
 「僕こそごめんね。眞白くんに逢いにきたのは、そんな事を求めていた訳ではなくて、純粋に再会が嬉しかったからなんだ。だけどそれが眞白くんを苦しめていたんだね。眞白くんがそんなに真摯に過去に向き合ってくれていたのに、気付いてあげられなくて本当に申し訳なく思うよ」
 「……い、や、利執……くんが謝る必要は、ない、だろ……」
 「悩ませていたのは、事実でしょう。ねぇ、お互い様ってことで、今日は再会を楽しもう?」
 コツリ……とグラスを、重ねられ、眞白は一度も口にした事の無い葡萄酒に一瞬怯んでみせたものの、赦すと言ってくれた寛大な男の機嫌を損ねることはしたくないと本能が警告し、へらりと笑って口をつけた。
 それから酔ったまま交換したのであろう連絡先でやりとりを重ね、何度か顔を合わせている内に、男から告白され、関係は再会した同級生から、恋人へと昇格した。
 男は眞白を好きだと言った。
 聞き間違いだと、眞白とて初めこそ信じられないと、受け入れらず、無言になってしまった。
 けれども男は、表情こそ普段通りの余裕めいた微笑みだったものの、ほんのりと耳を桜色に染め上げていた。
 それが本当に照れている時に現れる癖であることを、眞白は憶えていた。
 長きに渡り、眞白の中で生き続けた男。
 酷い後悔、罪悪感、そして───羞恥。
 手酷い裏切りだと、幼き男の極めて当然な行動を受け入れられなかったのは、初めて出来た友達を奪われるような焦燥のせいだと思っていた。このままではまた離れ、失ってしまうと。
 それも勿論あった。
 けれど幼すぎて気付けなかった感情もその攻撃的な行動には隠されていたことに、大人になるにつれ、何度も罪悪感に押しつぶされそうになりながら、気付いてしまった。
 お気に入りという感情は遥かに超えていたのだ。
 眞白は男が、利執のことが───好きだったのだ。
 その感情に気づいた時、あまりにも幼稚で、正当性の通らない自分の攻撃的な態度に、立っていられないほどの慚愧に見舞われた。
 眞白は男を虐めていた。
 そんな眞白をどうして好きになれるのか。
 それでも男は眞白を赦し、耳を染め、好きだと言った。
 付き合う資格などない、自制心が付き合うことを咎めた。
 けれども、今でも目の前にいる男が、心に棲み着いていた。
 夢のようだった。
 気付けば、眞白は頷いていた。
 
 ───良く考えればわかりそうなもの。
 男が眞白を好きになるはずがないのに、昔の癖を信じ受け入れるなど、馬鹿げていた。
 恨まれていて当然の立場であるのに、何を舞い上がり、男の傍にのうのうといたのか。
 付き合ってから、今日まで、男は驚くほど甘く優しかった。
 男の周りは今も昔も、常に才能豊かな人に溢れ、男もそれを拒むことなく、眞白を不安にさせたものの、いつだって最後は眞白の元へきた。
 以前よりもずっと、深く、男は眞白の中へ侵食していた。
 果実が熟れていくように。じわじわと。
 ぞわりと、眞白の肌膚が粟立つ。
 好きと言われた。
 好きと言った。
 愛していると言われた。
 愛していると言った。
 愛される心地好さを知ってしまった。
 ───手遅れになる前に。
 そんな思いが、不意に思考を過る。
 女性の言葉通りならば。
 眞白はいつか骨抜きにされた後、易易と男に捨てられてしまうのだろう。
 その手に縋ることも赦されず、淡々と。
 男は眞白の深い部分へもう随分と沈んでいたけれど、けれど、全てではない。
 まだ間に合う。
 まだ傷が浅いうちに、再起不能になる前に、自分から男のそばを離れるのが賢明ではないか。
 男の復讐は果たされることなく、消化不良となってしまうかもしれないが、偽りの愛を囁くことも、腸が煮えくり返る程の相手も消えるのだから、男にとっても悪いことばかりではないはず。
 男に出会う前は、一人で生きてこれた。一人で生きてきた。
 ただ振り出しに戻るだけ。
 離れ難いが、いつか離れるならば、軽傷の方が良い。
 愛される安心感を失うのは不安だったが、それが最初から偽りで、元より無いものだったと思えば、その不安も解消されるはず。
 男と離れる選択をするのは、鋭利な刃物を突き立てられたようだったものの、痛む心臓がこれよりも更に痛む事態を避ける為にも、痛みとともに決断しなければならなかった。
 そもそも、眞白が過去の凶行さえ犯さなければ、このような痛みを背負うことすらなかったのだ。
 課せられた罪報としてしかと受け止め、耐えていかねばならないのだ。
 それだけが、眞白に許可された唯一のことなのだから。
 
 *.。.:*・゚*.:*・゚

 「眞白くん!」
 眞白をその澄んだ瞳で視界に捉えると、男は華やかな顔立ちに、さらに花を咲かせ、安堵したように微笑んだ。
 「良かった、怪我はない?」
 抱きしめられた拍子に、男の身につける、懐かしい香りが鼻腔を掠める。
 出ていったはずの、男のマンション。
 もう二度と足を踏み入ることはないと思っていた。
 男の性格を熟知していると、眞白は自負していた。
 清濁併せ呑む男は、来るもの拒まず、去るもの追わずである故に、何も言わずに去った眞白を追うことは決してしないだろうと、高を括っていた。
 断りなしに復讐の相手が消えたともなれば、流石の懇篤な男も、その時は目を据わらせるなどするかもしれないが、直ぐに興味を失うだろうと。
 しかし実際は、男が海外に赴いている間に必要な物だけを纏め、発送し、田原をなんとか躱し、部屋を見つけるまでという条件を自分に課し、実家へと身を寄せた眞白の元へ、明らかに異質な雰囲気を纏う男達が揃って現れた為に、眞白は促されるまま、男達に着いて行く他なかった。
 父親は仕事へ、母親はパートへ外出していたことに、眞白は心底胸を撫で下ろした。
 連れてこられたのは眞白が暮らしていた、あまりにも身の丈に合わない所謂タワーマンションと呼ばれる場所だった。
 もう戻るはずはないと思っていた場所にいることに、眞白は落ち着かず、挙動不審になるのがやめられなかったが、扉を守るようにして直立する男達の眼光に恐れ、息を潜めるようにソファに座り込み、己の手を眺めることしか出来なかった。
 そして数時間後、海外にいるはずの男が眞白の前へと現れた。
 「突然消えたっていうから、何かあったのかと思って心配していたんだ」
 労わるような聲は、どこまでも馴染むようなやわらかさだった。
 ───眞白は思い違いをしていたのだろうか。
 腸を煮えくり返らせ、偶然再会した眞白に復讐を誓い、同棲までする徹底ぶりだったのだ。
 その熱量は最早眞白には量りしれない程なのだろう。
 眞白を追い、心配する姿を見せる。
 まさしく恋人を思いやる理想の姿に、感服する他ない。
 これは偽りなのだから、真に受けてはいけない、そう思うものの、男に心奪われている眞白は、男の余裕を崩した姿に、やはり離れたくないと揺らいでしまう。
 「ご実家に帰省していたんだってね。言ってくれればよかったのに」
 眞白の両親二人の体調にまで気遣う男は、やはり優しかった。
 ゆらゆら。
 ぐらぐら。
 揺らぐ。
 眞白は乾いてしまった唇を潤すように、下唇を舐めた。
 一緒にずっと居たかったけれど、いつかは別れる関係且つ、幻想。
 こんな男に似合わない行為からは、早く解放してあげたかった。
 眞白は鬼にならなければならなかった。
 覚悟を決め、男の腕からやんわりと距離をとると、眞白は言った。
 「ち、ちが……っ、俺、俺……っ」
 「うん?ゆっくりで大丈夫だよ」
 「り、利執とはわか、別れるつもりで、ここを出たっ」
 沈黙が寥廓の部屋に落ちる。
 扉を守るように部屋に立ちはだかっていた男達と入れ替わりで壮麗な男が入り、部屋には眞白と利執の二人きりであった。
 「わ、わかれたいんだ」
 眞白はもう一度言った。自分の意志の固さを示すように。
 男は眞白を一瞥したのち、眞白から逸らすように顔を横へと背けた。
 亜麻色の髪がサラリと揺れ、耳許を少しだけ顕にした。
 男の視線は壁に向けられているだけで、その実何も映してはいないような空虚なものだった。
 「……ごめんね、眞白くん、煙草吸ってもいい?」
 脈絡の無さに眞白は戸惑いつつも、頷いた。
 男は内ポケットからシガレットケースを取り出すと、一本摘み、火を付けた。
 やがて音もなく紫煙が空中を泳ぎはじめる。
 「取り敢えず、座ろうか」
 男は先程まで眞白が座っていたソファを指した。
 「あ、ああ、うん」
 腰掛けるソファは臀部や腰を痛ませることはない。
 男は紫煙をくゆらすと、煙草を挟まない自由な指で卓子の上にあった灰皿を引き寄せた。
 「どうしてか、まず理由を聞きたいな」
 ───理由。
 別れる上で最も必要なものであるというのに、別れるということ自体初めてだった眞白は、理由が必要であることを問われるまで忘れており、問われることで初めて気付かされた。
 まさか男がまた眞白と接触してくれるとは思っていなかったので、内心かなり慌てていた。
 男の復讐の計画を知り、全てが偽りだったからだとは、口が裂けても言える訳もなく。
 「お、俺、は、その……、だから……っ!」
 「うん」
 「やっ、やっ、やっぱり女性がいいっ」
 「女性?」
 「そ、そう、女性だっ、女性!じょ、女性がいいっ」
 男は灰を落とし、弱ったように小首を傾げた。
 「それはつまり、僕への想いはこれ迄と変わらないけれど、僕が男だから別れたいと言うこと?」
 「お、男との将来性はないし、女性の、女性の好きな人ができたんだっ!」
 無我夢中で叫んだそれは、即興の口からでまかせの割には、理由としてそれなりに成立しているように思え、眞白は手応えを感じた。
 温厚な男は、じゃあ仕方ないねと眞白をこの後送り出すことだろうと考えていた。
 「───好きな人?」
 眞白は頷こうとしたが、温かみの消えた、人形のような無機質な眸子に竦み、身体が硬直した。
 こんな男の瞳を見たのは、初めてのことだった。
 「好きな人って誰のこと?」
 いつの間にか、短くなった煙草は消されていた。
 「眞白くん、好きな人ってだあれ?」
 男は双眸を細め、微笑んだ。
 いつものように。
 普段と何ら変わりはない───はずであるのに、眞白は膚を粟立たせた。
 微笑まれているにもかかわらず、抑圧されるような気迫があるようで、畏怖してならない。
 何が変化したのか、問われれば眞白は答えに窮したが、それでもいつもの雰囲気とは何かが違っているようだった。 
 ───怖い、眞白は恋人をそう思った。
 普段と変わらない口調が余計に現在の雰囲気と対比するように際立ち、ゾッと心臓が震えてならない。
 「まーしーろくん、言って?」
 肩が揺れる。
 喉は締められてしまったように、固まってしまっていた。
 しかし喉が機能したとしても、男の問いに対する答えをすぐに出すことは困難だった。
 誰。
 適当な名を出せば良いのだろうが、バイトとマンションの行き来をしているだけの眞白の狭い人間関係など、たかが知れているし、男は全て把握している。
 男の知らない名を出すことのほうが返って奇妙になってしまう。
 眞白は初めて触れる男の気配に怯みながらも、必死に頭を動かした。
 「眞白」
 男の聲は血が通っているのか疑い無くなるほどの、凍てついたものだった。
 「ひ、ひ、ひと、ひと、ひとめ、ぼれ、だから、名前は、し、しらないっ」
 「一目惚ねぇ……」
 「だ、だからっ、名前まではしら、知らないっ」
 「分かった。じゃあ取り敢えず、出掛けようか」
 男はそう云うと、眞白を立ち上がらせた。

 *.。.:*・゚*.:*・゚

 二人が到着したのは、郊外に位置するお世辞にも外観が整っているとは言い難い、年季の入った小さなワンルームマンションだった。
 部屋に上がって直ぐに、眞白は絶句した。
 出迎えたスーツ姿の男二人の、後ろ中央あたりに、荷物らしきものを見た。
 しかし徐々にそれが───人であり、───田原だと気付くと、眞白は顔面蒼白にしながら、名前を呼んだ。
 「……あ、た、たはら、くん……?」
 「そう、田原だよ」
 身に付けていたピアスによって辛うじて田原だと推測できたが、しかしそれがなければ田原だと言われても眞白は信じられなかった。
 それほど床に力なく横たわった田原は、変わり果てた姿へと変化していた。
 肉付きの悪かった細い輪郭は、青紫色に変色しながら腫れ上がり、それは各パーツにも等しく見られ、原型を留めてはいなかった。
 局部以外剥き出しの裸体には、幾つもの火傷痕が見られ、やはり腫れ上がり、視覚からさえも、痛みを得るほどであった。
 足許からのぼるように確かに湧き起こる、恐怖。それが眞白を支配する。
 田原はいい人だった。
 反社会的勢力に属する男をいい人と称して良いものか定かではなかったが、それでも眞白のなかで田原は比較的話しやすく、いい人だった。
 吃音症の眞白に対して笑うことも、腹を立てることも無く、そういう人もいるんスねと受け止め、毎日無駄な眞白の送り迎えを担当してくれた、気のいい人物。
 「……な、なん、なんで……」
 そんないい人が何故、こんな変わり果てた姿にされてしまっているのか。
 何故こんな目遭わなければならないのか。
 眞白は初めて目にする光景と、残酷さ、そして親しい者の凄惨な姿に立っていられず、床に座り込んだ。
 何故、どうして、疑問が湧いては脳を混乱に巻き込んでいく。
 屈み、眞白の耳許へと唇を寄せ、男は囁いた。
 「何で?当然でしょう。田原は仕事に失敗したんだから、相応の罰を受けなければ。気が緩んでいたようだから仕事がどれだけ大切かを教えて、次は失敗しないようにしっかり躾、身を引き締めてあげないとね」
 男はこの日常から掛け離れた光景を、さも当然のように語った。
 「し、し、失敗、失敗って……っ」
 「眞白くんのことちゃんと見て護ってねってお願いしていたのに、見失っちゃったでしょう?」
 あれ、と男は付け足した。
 「だけど……僕と別れるつもりで出ていったってことは、意図して田原の目を盗んだってことなのかな、じゃあ田原がこんな目に遭っているのは、眞白くんが根源ってことだね。だって眞白くんが身勝手な行動さえ取らなければ、こんな事起こることはなかったのだから」
 おだやかで、なめらかな、普段と何ら変わらぬやわらかい口調で、男は眞白の耳へ、事由を沈みこませる。
 自分の行動の末の、田原の現状を知り、眞白は瞳孔を狭め、耐えきれず、無色透明な雫を眸子から流した。
 何故と思った。
 どうしてと思った。
 然しそれらは全て眞白の行動が原因だと、男は云う。
 眞白の行動で、田原が傷付いている。いい人である田原が。
 しかしどうして田原がこんなにも傷付き、被害に遭うなどと配慮できたろう。
 眞白は誰に言うでもなく、一人男の元を去っただけで、田原は勿論眞白が去るなどとは、露ほど思わず、知らなかった。知っていたなら共犯に値するかもしれないが、田原は知らなかったのだ。
 田原は全くの無辜だった。
 悪いのは田原の目を盗み、黙って静かに去っていた眞白なのだ。
 独り、ひっそりと。
 罰を受けるべき罪人がいると言うのなら、田原ではなく、田原の目を盗み、消えた眞白であるはずなのに、現実は田原が罰を受けていた。
 こんな事になっているなどと、本当に思っていなかったのだ。
 眞白は想像すら、出来なかった。出来たなら、田原を残し去ることなどしなかった。もっと別の去り方を考えた。
 そもそも粛として去り、眞白のいる煩わしい非日常から解放し、男を日常へ戻せば、男の性格から深追いすることなく、この関係は終わりを告げ、事態は収拾されるだろうと浅慮していた。
 浅慮。まさに浅慮だったのだ。
 自分の行動がまさか、こんな非常事態を生み出していたとは、露程も思わなかった。
 「……ぁ、あ、あぁ、そん、そんな……っ」
 眞白の目の前は、許容を遥かに超えた惨烈さに、否定するように暗澹となる。
 これが、自分の齎した結果などとは、認めたくもなかった。
 こんな異常を、認められるはずもなかった。
 「眞白くんが田原の目さえ盗まなければ、こんな事にならなかったのにね」
 ───可哀想な田原、ずっと謝罪して、泣き絶叫していたんだよ。
 「そ、そんな……っ、そんな……っ、わ、わ、悪いのは俺、で、だから、だから、も、う、もう、田原くんのことは、解放してあげてくれっ」
 た、頼むから、眞白はそう頼み込んだが、男は弱ったように小首を傾げ、難しいだろうねと、眞白の頼みを跳ね除けた。
 「眞白くん、移動しようか、立って」
 無理矢理立たせられると、引き摺るようにして眞白は、狭い風呂場の、扉の前に座るよう促される。
 浴槽には溢れるように水が溜められているにもかかわらず、蛇口からは未だ水が流され続けていた。その前にスーツの男二人が田原を挟むようにして膝をついて、座る。
 不自然でしかない構図に、眞白は呼吸が浅くなるのを感じた。
 「じゃあ眞白くん、始めようね」
 「え、え、な、何を」
 男は微笑むと、写真を数枚床に並べはじめた。
 どれも視点が合うことなく、外れたその写真を、眞白は訳が分からないまま覗き込んだ。
 共通点はすべて女性ということのみだった。
 「いる?」
 「……え、え?」
 眞白は男の意図を汲むことが出来ず、茫然と男を見つめ返した。
 「一目惚れしたっていう女性、ここに写っている?」
 「え、え、え、いない、いるわけ、ないだろっ」
 眞白は力強く首を横に振った。
 「そっか。じゃあ次はどうかな?」
 男はまた数枚違う写真を並べる。やはりそこにはカメラ目線とは言えない女性ばかりが写っていた。
 けれど眞白の視線は、写真に落とされることなく、男の後ろに釘付けにされた。
 なみなみと注がれた浴槽に、田原の顔が沈められ、水が溢れかえり、醜く荒れた音を立て排水溝に流れていた。
 一人が田原の後頭部を掴み浴槽に沈め、また一人が暴れる田原の身体を押さえつけていた。
 眞白の指先は真冬の外にいる時のように冷え、それは身体全体に広がりをみせた。
 「ま、し、ろ、く、ん」
 男は、写真を見るように、指で床を叩いた。
 力なく、ゆるゆると、眞白の視線が男に向き直る。
 「り、りと、うし、うしろ……っ」
 「気にしなくていいよ。ねぇ、いる?」
 気にしなくて。田原は藻掻き、苦しみ、危殆に瀕しているのだ、気にしないなんてことは不可能だった。
 寧ろ田原にしか意識は向かない。
 直ぐに助けなければならないという倫理観が脳内を占める。
 「た、田原、くん、が、しんじゃ、しんじゃうって!」
 男はやはり、この状況下ではあまりにも異質すぎる、嫣然なる微笑みを浮かべ、小首を傾げる。
 「眞白くん、お願いだから、写真見てね」
 「で、でもっ、田原くんがっ」
 「写真が先だよ」
 取り付く島もない様子に、眞白は、口を音なく開閉したあと、奇麗に印刷された写真を漸く気も漫ろに視界に捉えた。
 しかし捉えても、一目惚れの相手など写っているわけがないのだ。
 口からでまかせなのだから。
 眞白は今でも男だけを、愛していたのだから。
 田原は沈められていた顔を水中から上げられており、眞白は小さく気付かれぬように安堵した。
 「いる?」
 「……い、いない」
 「いないかぁ」
 また並べられる写真に、浴槽に顔を沈められる田原。
 疎い眞白も漸くその法則に気付き、血の気を引かせた。
 「……り、りと、こんなの、無駄だ、居ないから、も、もう、やめよう」
 「そんなの、分からないでしょう。ほら、見て?」
 水が次々流れていく、急流の音、田原が四肢を暴れさせるけたましい音、その二つの音が鮮明に耳に刻まれていく。
 それはどこか現実味を曖昧なものとしていくようだった。
 吹き出した冷や汗が顎を伝う感触、それだけが現実のように。
 「だ、だから、だからっ!い、いない、いないって!」
 「本当に?じゃあ全部の写真に目を通してみて」
 男は持っていた写真すべてを眞白に手渡した。
 眞白はその写真すべてに怪しまれぬよう目を通したが、勿論居るはずもないので、同じくまたいないと繰り返した。
 「いないの?」
 「ほ、本当に、いないんだよ、も、もういいだろ?」
 「んー……そっか、いないか、困ったね」
 男はにわかに立ち上がると、田原に近づき、自ら田原の頭を浴槽へと沈めた。
 「ひっ」
 「田原、あの中にはいないんだって。少し職務怠慢が過ぎるんじゃないかな、本当に仕事していたのか疑わしいね」
 何故、写真の中に一目惚れの相手がいないだけで、田原がこう何度も叱責されているのか。
 写真に写りこんでいる方が、奇跡ではないか。男は奇跡を望み、それを田原に求めているとしたなら、それほど理不尽なことは無かった。
 眞白の脳内は疑問で満たされ、焦げつくようだった。
 男のこんな姿は、初めて目にした。
 男の職業を理解しているつもりでいた。しかしいつだって男は、閑麗としていて、粗野な振る舞いなどなく、品があった。
 温厚な男が何故そんな職業をしているのか、向いていないのではないか、眞白は急遽仕事に向かう男を見送る時、常々そう考えていた。
 だからこそこんな粗笨な姿は、夢を見ているようだった。
 男の職業を理解出来ているつもりで、その実まったく理解出来ていなかったことを痛感する。
 男の水責めは、今までで一番長く、田原の動きは段々と鈍く、手足の指先は血色が変化し目に見えて悪くなってきていた。
 「り、りと、利執っ!ほ、ほんとうにいない、いないんだっ!」
 「それが問題なんだよ」
 より一層、田原の頭は水の中に深められる。
 スーツを着用したままの男の腕は、半分近くも水没した。
 いないと言っているにも拘わらず、何故この状況は続き、田原は叱責され続けているのか、眞白には理解出来ず、ただ助けなければいけないという使命感と共に、混乱していく。
 田原には五人の幼い弟妹がいたが、父母等は田原達を残し高飛びし、唯一成人し働ける年齢の田原が弟妹達を食べさせていかなければならなかった。自分の努力次第で稼げると知って、この世界に入ったと話してくれたことを、眞白は忘れたことはなかった。
 眞白付きになることで、少し稼ぎが良くなったと嬉しそうに話してくれたことも、勿論鮮やかに記憶されていた。
 全員にデザートや玩具、新品の清潔な服を買い渡せたことを、次の日にはいつだって心の底から嬉しそうに事細かに報告してくれていたのだ。
 田原は紛れもなく善人だった。
 そんな田原の身体が不自然なほど小刻みに震え、限界を伝えていた。
 田原が死ぬ───。
 過ぎった恐ろしい結末に、眞白はとうとう耐えかね、絶叫した。
 「……や、やめろ、やめて……っやめてください、うそ、うそだからっ!そ、そんなやつ、そんなやつ、本当はいないんだ……っごめ、ごめん、うそついて、ごめんなさ……っ」
 いないのだと、眞白は男にしがみついた。
 眞白の言葉に、男は漸く動きを止め、眞白を、今の今まで残酷な行為をしていたとは思えぬ澄んだ透き通る白藍に映した。
 今も昔も変わらぬ、宝石が詰められたような瞳に。
 「───嘘?」
 男は瞬きを数度繰り返し、頭を傾けた。さらりと、亜麻色の髪が揺れる。
 眞白は首が取れそうなほど、首肯を繰り返した。
 「しゃ、写真にいないのなんて、あ、当たり前だ、だ、だって嘘なんだから、そんな相手、存在しないんだっ!」
 涙に濡れ、嗚咽混じりの聲で眞白は白状した。
 男は田原の髪から手を離すと、逡巡したのち、泣き崩れる眞白を見下ろした。
 「本当かな」
 「う、嘘じゃないっ」
 「そう?」
 男は眞白を抱え、少ない家具で纏められたリビングへと戻り、床へと座らせた。
 男の腕は酷く冷えており、腕の他にもジャケット自体も随分濡れていた為、冷酷な行為をしていたことを真に物語り、それが現実であることを眞白へとありありと突きつける。
 「何故そんな嘘を吐いたの?」
 男の疑問は最もだった。
 思いもよらなかったとはいえ、田原をここまで巻き込んでおきながら、見て見ぬふりなどできる訳もなく、田原をこの状況から救うべく、最早経緯を話す道以外ないだろうと、腹を括る。
 嘘の理由を話せば、次は何故その嘘を付くまでに至ったかを連鎖的に問われてしまうのだから。
 話さないという逃げ道は、最早眞白には存在しなかった。
 「ま、まえ、利執の元恋人って人に会ったんだ。そ、その時に、利執は復讐するために、俺に接触して、優しくしてるんだって……本当は俺を相当恨んでいるって……だから、こ、これ以上利執のことを好きになる前に、ふ、深みに落ちる前に、は、離れられる内に、離れようと思って、別れる為に適当なう、嘘ついたんだ、ごめん、ごめんなさっ。だ、だから、た、田原くんはっ、仕事、してた、ちゃんと、してたんだっ。う、嘘ついてるのは、俺、だ……っ、だ、だから、田原くんは本当に、か、かんけいない……」
 咄嗟に口をついた嘘だった。
 その場を乗り切るための。
 けれどもそれは、眞白が利執に対し、ずっと思っていることでもあった。
 「あ、あんなの、本心じゃない、だけど、り、利執はほんとうは、女性のほうがいいんじゃないかとか、も、もっと美人とのほうが嬉しいんじゃないかとか、だから、わ、別れてお、俺から自由にしてあげたかったんだ。だ、だって、だって本当は利執は俺のことなんか愛してないんだろ、め、面食いらしいのに、ず、ずっとおかしいと思ってたんだよっ!」
 普段では考えられぬ、眞白の叫喚が響いた。
 「だ、だからっ」
 ────はっ、力を抜いたような呼吸をもらし、男は自嘲した。
 「……まさか、眞白くんはそんなことで、僕から離れようとしたの?」
 男は内ポケットからシガレットケースを取り出してから、スーツを脱ぐと、ブラウスの袖を煩わしそうに腕捲りし、シガレットケースから煙草を手に取り、火を付けた。
 「……ぇ、え……そ、そんなことって……」
 「だってそうでしょう。眞白くんは恋人である僕の言葉ではなく、その元恋人かどうかも確証がない、怪しい人物の言葉を信用したのでしょう?僕に確認することも無く、ただ鵜呑みにして、挙句何も言わずに消えようとするなんて……。誠実の欠片もない。眞白くんはそんな不確かな情報程度で、僕のこれまで惜しむことなく伝えてきた好意や態度を鑑みることも無く、容易く踏み躙り、傷付け、疑い、深く侮辱したんだよ。嗚呼、本当に……哀しいな」
 男は煙草を持たぬ左手で、両のこめかみを押さえつけ、浅く溜息を吐いた。
 「眞白くん、今も昔も本当に変わっていないね。僕を嘘吐きと、裏切り者と罵ったけれど、じゃあ眞白くんは?離れちゃいけないと先に言ったのは眞白くんじゃないか、そのくせ自分から離れていくような真似……それこそ最大の背信行為でしょう」
 男は紫煙を吐き出し、今度は嘲笑するように、一縷、笑い声を落とした。
 「なのに何も言わずに引越して、僕の元から離れて、約束を反故にして。ずっと一緒だと言ったのに。いつだって不誠実なのは、眞白くんでしょう。眞白くんがいなくなった日、僕がどれだけ傷付いたと思う?」
 まだ世界の中心が自分であったころ、我儘に、奔放に、思うがまま、相手の事も考えずに発した、あまりにも独善的な強要。洗脳にも似たそれを、男がまだ憶えていたことに眞白は衝撃を受けた。
 「そ、それは……」
 「僕は赦すと伝えた。眞白くんから受けた全てを。ただそれは、約束を今度こそ反故にしないという条件付きだったはずだよ。それなのに眞白くんはまた、同じことを繰り返した。本当に変わらない。惑わされたのは同情するけれど、だけど約束を反故にして良い理由にも、赦される理由にもならない。だって何があってもずっと一緒だって、離れてはいけないって言ったでしょう」
 男は初めて、穏やかな目許を吊り上げ、眞白を睥睨した。
 初めて向けられる、男の嚇怒を隠さぬ熾烈な眼差し。 
 眞白は男が激憤している事を、漸く悟った。
 「眞白くんが、言ったんだよ」
 男の口調、速度、高さは変わらず抑揚のない平坦なものだったが、強調するような強さと硬さがあった。
 「あの日君が言ったんだ。あの日から僕は君のもので、君は僕のものだ。なのに黙って聞いていれば、田原田原、煩わしい。田原に心移りでもした?指環も外せて、僕から離れていけるんだものね。おかしいなぁ。だけど、心移りしても、離れたくても、逃げたくても、僕達は一緒にいなければならない。何があってもずっと一緒だと、他でもない君がそう言ったのだから。別れることも、離れることも許さない」
 男は煙草を消すと、眩暈がするような艷笑を浮かべ、手を伸ばした。
 眞白の、褐色の首許へ。
 「え、え、り───……ぐ、ぁっ」
 撫でるように這わされた指先は、戸惑うことなく首全体を覆い、男のしなやかな親指は喉仏を的確に狙い、全体に力を込め、締め上げた。
 信じられないというように、眞白の双眸が見開かれる。
 「……ッ、り……っ」
 「僕ね、眞白くんの利己的なところ、嫌いじゃないんだよ。寧ろ好ましいって思ってる。眞白くんのそのどこまでも突き抜けた、独善的な態度に救われたんだもの」
 眞白の手は、男の雪膚の掌を外そうと藻掻き、赫い傷をつけていく。
 顔に似合わず、男の力は強く、動じること無く、安定した握力で眞白の呼吸を奪っていく。
 眞白の喉元は確実に絞められていき、はくりと、呼吸をもらしたのを最後に、いよいよ酸素が薄まっていき、やがて頭痛が訪れる。
 苦しい、助けて、然しそれらは言葉になることなく、眞白の咥内で沈んでいく。
 男の言葉など聞こえてはいなかった。
 どさりと、眞白の身体が床に倒れる。
 男は体勢を変えても尚、変わらぬ力で絞め続け、いよいよ眞白の手は、抵抗も出来なく、床に落とされた。
 「……っ、ぁ、ぁ、ぐ……っ」
 「だけど、僕から離れていくようなら、受け入れてあげられないな。一度反故にした人は何度でも反故を繰り返すって本当なんだね。眞白くんが、もう二度と約束を反故できないように、責任を持てるように、僕も手伝ってあげる。約束した僕が責任をもって、信用たる人物にしてあげるからね」
 一層強まる首への圧力。
 視界が白みはじめ、霞みが訪れる。溢れる泪のせいなのか、酸素が薄まったせいなのか、最早眞白には判別不可能だった。
 「……っ、ゃ、ゃえ、……ッ」 
 暗い瞳から、眦を伝い、横に泪が流れたのを最後に、眞白は意識を手放した。

 *.。.:*・゚*.:*・゚ 

 間接照明が一つ照らされただけの薄暗い部屋のベッドの上、照明よりも華やかで強烈な、燃えるような白藍が浮かんでいた。
 その今や獣のような獰猛さを孕んだ白藍は一人の男を捉えて、離さない。
 形の整った男の唇が、眞白の太陽に愛された肌膚の、至る所へと吸い付けば、限界まで上り詰めた眞白の身体は少しの刺激にさえ、過激に反応をみせた。
 気絶から目醒めた時、既に男によって暴かれていた身体は、熱を持ち、昂られた興奮を持て余していた。
 身体が内に溜まった熱を発散したがっていたが、男の与える刺激は、常に甘く微弱なもので、発散するどころか、熱は積み重ねられ、上昇していくばかりだった。
 いつだって男はすっかり寡黙になった眞白の意志を汲むのが上手く、男との身体の繋がりでもどかしい思いをしたことは無かった。
 先程で随分と体力を使い、疲労したからか、眞白の意識は随分とぼんやりとしていた。上手く纏まらず、濁る脳内は、忠実で、昂った欲望を口走らせた。
 「い、いきたい……」
 眞白が言葉にし望むことは少なく、そもそも初めてですらあった。
 しかし男の唇や指先は眞白の項や鎖骨、手首ばかりを刺激し、確たる刺激を与えることはない。
 男は口付ける度、好きだよと囁いた。
 そして次に、眞白の気持ちも常ならば問うてくるが、今日に限り、それは起こらない。
 凡庸で、秀でたものは何もなく、これと言った特技もない。
 特に諧謔を弄することも出来ず、面白味に掛けている。
 人生において最も罪深い醜行に及んだ救いようのない人間。
 それが眞白だった。
 それなのに、何故男はこんな眞白を好きだと言うのか。
 復讐の為の偽りだと聞いた時、漸く納得出来たのだ。
 眞白という恋人がいるというのに、恋人が動揺してしまうような距離で人と接するのは、器量好みである男が好みの相手と時間を共にできる束の間の憩いの場に相違ないからだと。
 器量好みからすれば、眞白のような決して美しいとは言えない人間を相手にするのは、それも恋人として接するのだから、それは相当苦労するものがあったに違いないと。
 ───しかし未だ男は眞白を好きだと言う。
 鎖骨に焦げるような痛みが迸れば、獰猛に輝く危険な瞳が、眞白を射抜き、直視していた。
 「愛してる」
 募っていく熱。身体の昂り。上がった吐息。
 「───でも」
 男は区切り、眞白の髪を梳く。
 「眞白くんは僕と同じ気持ちではないんだよね。女性がいいんだものね。女性からの話なら、何でも信じてしまうんだもの」
 「ち、ちが……っ、あれは、あれはっ嘘で……ッ」
 「女性にはなれないもの、傷付いたよ」
 「お、俺はっ、い、今でも、り、利執がす、好きだっ。で、も……」
 眞白は視線を下げ、声量も落とし、続けた。
 「こ、こんな俺をど、どうして利執こそ好きになれるんだよっ」
 「僕は、君を好きになってはいけないの?」
 「そ、れは……で、でも、ふ、つう……好きになれるわけ……」 
 黙ってしまった眞白を見下ろし、男は迷いなく言った。
 「だって眞白くんが、眞白くんは僕のものだって言ったから」
 惑うことなく、ただ真っ直ぐと告げられた言葉に、眞白は不思議と背筋に緊張が走った。
 「その時からずっと、君だけが僕の中心だった」
 とろりと、蕩ける白藍。
 「だから、眞白んが僕に何をしようと、側に居てさえくれれば、一向に構わなかった。僕は君が中心で、君の中心には、いつだって僕が含まれていたから」
 男はにわかに、眞白の胸元の中央よりも僅かに左寄りへと掌を這わせ、触れる。心臓の位置へと。
 「いつだって……君がいるのに。君のここには、もう僕が居ないんだね」
 ふふ───と嗤い、空気が揺れる。男はそのまま、眞白の首許に顔を埋めた。
 「……り、り……、と」
 暗く、深い濡羽色の瞳から無色透明な液体が流れる。眞白は暗涙した。
 男が懇篤であることは、自覚済みであった。けれどもここまで律儀であるとは知らなかった。
 幼い頃の只管に自分の欲望を何より優先し、相手の意思など何一つ考慮しない、傲慢で一方的な要望。
 独占欲で強要した、あまりにも理不尽な所望を、この義理堅い男は、今日まで守っていたというのだ。
 ───その事実は身体を丸め世界を遮断してしまいたいほど、眞白の心を重くさせ、且つ荒れ狂わせ、掻き乱した。
 幼い頃の天真爛漫な無邪気という名の冷酷さが、今でさえ牙を剥き、眞白を追い詰める。
 幼い眞白の男を独占したい、狭隘な心から起きた衝動的な発言が、まさか男をここまで縛りつけていたとは。
 ───呪いのようだと、眞白は胸を締め付ける。
 幼い頃の戯言だと、子供の言う気の迷いであると、そのような理不尽極まりない要求など、鵜呑みにすることなどなかったのだ。
 幼い頃の無垢に付け入り、繰り返し言い聞かせたことが悪かったのか。
 相手にすることの無い眞白の我儘を、律儀に守り続けるその様は、まるで洗脳のようで、眞白は知らず知らずのうちに男を縛り付ける呪詛を唱えていたのだと、過去の自分を心底恥じる。
 そんなこと、言ってはいけなかった。
 男は真面目故に、その言葉に今も拘束され続け、眞白に囚われ続けている。
 どうして、こんな取り柄のない眞白を好きだと側に置いてくれたのか。
 過去の自分が掛けた呪詛のせいかと、漸く謎が解ける。
 普通ならば幼少期の頃の、それも一方的な約束など、合ってないようなものだが、無垢な心に付け入れば、それはここまで果たされてしまうのだ。
 「……ご、ごめ、なさ……ッ、ご、ごめんない……っ、わ、わる、かった」
 震える聲を耐えようとし、却って上擦ってしまいながら、眞白は謝罪した。
 「どうして謝るの」
 男は理解出来ないと言うように、顔を上げ小首を傾げる。
 「……っ、こ、恋じゃない。ち、ちがう、から。利執の言う、そ、それは、恋なんかじゃない、錯覚だ……っ。お、俺が言葉で縛り付けたりしたから、そう在らなければいけないと思いこんだだけだ……っ、か、勘違いなんだよそれは……。さ、錯覚させるほど、追い込んで、し、縛り付けて悪かった、ご、ごめん、ご、めんな、ごめんなさい……ッ」

 ───それは恋じゃない、洗脳だ。

 森閑とした寝室に、眞白の後悔に苛まれ黯然銷魂しきった、枯れたような嗄声が響く。
 呪詛を掛けてしまったのなら、眞白にはそれを解く責任があった。
 鼻をぐすりと鳴らし、喉を震わせ、眞白はその洗脳から解き放つ為、言葉を放った。

 「───……恋じゃない?」

 しかしそれが男の雰囲気を変え、眞白の顎を粗暴に掴む。
 「ぐぅっ」
 「眞白くん、自分が何を言っているか自覚している?」
 みしりと、眞白の顎の骨が軋む。
 「……ぁ、ぐ、り、りと、いた、い」
 男が眞白を映す眸子は、心臓を震わせるほど冷然とした底知れぬ暗さを宿していた。
 しかしその暗さに紛れるように、憂戚と悲憤も同時に宿し、酷く複雑な眼差しを男は向けていた。
 無機質なようで、男の眼差しには感情が燻っていた。
 「恋じゃないって何かな。───洗脳?あまり自分を過大評価し過ぎない方がいいよ、自分が中心だった眞白くんに、そんなことが出来たと本当にそう思っている?自分が心変わりしたら、僕の気持ちを否定し出すのは、あまりに目に余る無礼だよ」
 ───君にそんな力量はなかった、男は眞白をどこまでも無力で、平凡な一般人だと突き付ける。
 墨のような瞳が揺れる。
 「だ、だけど、じゃ、じゃあなんで……」
 「分からない?素直に眞白くんからの要求を受け入れたのは、僕が眞白くんのことを好きになってしまったからだよ。───君に強要されたから、好きになったわけじゃない」
 ───勘違いするな、暗に男はそう示す。
 「愛しい君は、ずっと一緒だと言った。だからね、駄目だよ、眞白くん。また僕を中心にしてくれないと」
 男は雄弁に感情を浮かべる双眸をゆるめ、艶笑し、眞白の唇を奪う。
 普段とはかけはなれた荒々しい口付けだった。

 *.。.:*・゚*.:*・゚
  
 男の手は、荒々しい口付けとは裏腹に、酷く優しげに眞白の身体に触れ、───肌膚の上を撫で滑り、───愛撫し、───熱を高めていった。
 至って普通の流れであったが、そこから男は眞白の頭を擡げた昂りの付け根へ、円を描くシリコン製のリングを装着した。
 そこから現在に至るまで、眞白は体験したことの無い、出口の見えぬ未知の領域へと引き摺り込まれ、泥黎を味わうこととなる。顔に血液を寄せ集め、充血させながら、はらはらと泪を零し、悶え、苦しみ、懇願し、初めて味わう感覚を拒絶する。
 男の雄々しいものが、敏感になった泥濘を満たし、前立腺を刺激する。
 その度に眞白は、強くも甘い刺激に身体を強ばらせ、恍惚の頂きへと向かおうとするが、然しそれは男が装着させた拘束するリングの辺りでとどめられ、発散されることなく、もどかしく燻り、沈殿していくように身体に残留する。
 一度与えられた享楽は消失することは無く、眞白の身体全体を支配する力をますます強め、積み重ねられていく。
 まるでもう、張り付き離れぬように。
 ただもどかしい熱だけを溜められていく、恍惚にたどりつけぬ身体を持て余し、眞白は咽び泣く。
 ───は、はず、せ、はず、して。
 そう、男に懇願をするものの、聞き入られることはなく、ならばと無我夢中で自ら外すように手を伸ばせば、弱い部分を容赦無く穿たれ、また積み重ねられる享楽に悶え、泪する。
 眞白の脳内は、爆ぜたいという一点のみに絞られていた。
 「ぃ、いぎだ、も───はず、はずしでぇ……ッ」
 ───お、お願いしますと、眞白はさくら色に上気した頬をしとどに濡らす。
 それほど、耐え兼ねるものだった。
 男は正常位から、背面座位へと体勢を変えると、挿入を深めると同時に、眞白の張り詰め、とうに限界に晒されている、透明な液体を溢れかえらせる昂りを、ぬちぬちと音を立て、上下に触れはじめ、眞白を更なる快楽の激流へと誘う。
 ───脳が、───身体が、破損させるような、電流のような刺激を捉え、視界は弾け、断続し、光を散らす。
 「───ぁ、あ、ひ、や、ぇ……っ、やめ……」
 無意識に男の腕を引き離そうと抵抗を見せるが、快楽に浮かされた手は弱々しく、抵抗という境地に至ることはない。
 「少しは耐える事を知らないと。女性がいいんだよね?でも、これじゃあ満足させてあげられないんじゃないかな」
 眞白の耳許で男は告げ、絡み付く媚肉を掻き分けるように突き上げる。
 ぐらりと、眞白の意識が霞む。
 「……ち、ちが……うそ、あっ、ふ、あ、う、うそだ、か───らぁっ!」
 激しくかぶりを振り、否定しながら、譫言のように眞白はリングを外すように懇願を繰り返す。
 眞白の意志を汲まれることは終ぞなく、幾度目かの穿ちで、眞白の身体は隘路を暴く雄々しいものを締め付けながら、激しく痙攣を繰り返し、やがて白濁を零すことなく、凶暴に似た過ぎた恍惚を得た。
 眞白は自身に何が起きているか、理解が追いつかず、戸惑いながら下腹部や腰を震わせた。
 「……ぇ、えぁ……なん……れ……っ」
 吐精していないにもかかわらず、爆ぜた感覚が身体中を巡り、やがてそれも離れぬように蓄積される。
 自分の身に起きた予期せぬ出来事に、驚愕する眞白の後ろで、男が嘲笑し、耳朶を舐る。
 「───ふふ、出さずに達してしまったの?眞白くんには、きちんとこれが付いているのに……飾りのようだね」
 するり……と指先で眞白の立ち上がったままの陰茎を付け根から上るように撫で、鬼頭に辿り着くと、ぐちぐちと音を奏でながら触れる。
 「ぁ、ぁぁあ……っ」
 直接的な摩擦は、直ぐに脳を蕩けさせる。
 「女性みたいな感じ方をするんだね、眞白くんは」
 男は一笑し、体勢を正常位へと戻すと、眞白の片足を上げ、また蠢く隘路へ昂りを突き立て、包み込んでくる柔襞を堪能する。
 「……や、やらぁ……ッ、も、あ、ぁぁぁ」
 肚を満たす異物が、前立腺を掠め、奥へと辿り着き、その穿ちは甘く全体へと響く。
 「あ……っ、ぅ、あ……っ、ひ、やめ、やめ、ろっ」
 「絡み付いてきているのに?」
 眞白はかぶりを振る。
 「は、はず、せぇ……っ」
 爆ぜたような感覚を得たものの、けれどもリングの拘束感が消えたわけでも、出したいという欲望が払拭された訳でもなく、リングを外し、吐精し、開放されたいという欲は大いに残されていた。
 しかし一度上り詰め方を憶えた身体は、容易く白濁を流すことなく、極め果てる。
 律動を送られ、身体を揺さぶられ、内側で摩擦が起こされる度、嬌音をもらし、しとどに透明な液体だけをたらたらと零しながら、快楽に身体を支配される。
 何度も高められた眞白の双眸からやがて活力が失われる。
 眞白は煤を固めたような黒い瞳から泪を、唇からは飲み込めなかった唾液を垂らし、享楽に溺れ、前後不覚へと陥いっていた。
 すっかりやわらかく解れた隘路から、男の剛直が抜かれると、白濁がとろりと溢れ出る。
 男の手は、するりと眞白の胸元を撫でる。
 「眞白くんは男なのに、女性のように沢山快楽を得られて凄いね。でも眞白くんが女性みたいでは、女性と付き合うなんて難しいんじゃないかな。自分の快楽へ従順で、耐える事も碌に出来ないようだし、ねぇ?」
 ───眞白くんに女性は向いていないよ、と男は、混濁した意識の眞白へ聲を掛ける。
 「そうでしょう?ま、し、ろ、くん、返事は?」
 「……ひ、ひ、ぁああ……っ」
 硬さを取り戻した男の昂りが、また突き立てられ、眞白は仰け反りながら、激しく頷いた。
 「ぁ、あっ───う、ん……っ、は、い、う、うしょ、うしょだか、りゃぁぁっ」
 「うん、僕もそれが良いと思う」
 男は眞白の両手を引き寄せると、どちらにも口付けをし、また律動を再開する。
 「女性がいいなんて二度と起こらないように、僕を中心から逸らさないようにしないとね」
 男はそう言って玲瓏な頬笑みを浮かべると、腰をさらに進め、最奥へと灼熱を深める。
 今までにない深さに、眞白の焦点の合わなくなった瞳が見開かれる。
 「ぁ、あっ!?ぁ、ひ、ひ、やえ……っ」
 大きく身体が揺れ、四肢が抵抗をしようと慌ただしく動かされる。
 男はやんわりと手を封じると、更に深め、最奥を抉る。
 眞白は深すぎるとまた泪を流した。
 「僕を憶えて、忘れないで」
 男はそう言って、何度も最奥を穿ち、眞白の悲鳴のような嬌音が高くなっていくと同時に、ぐちりと最奥を貫き、直腸の先、結腸の入口へと侵入させた。
 「ひ、ひぐっ!?おっ、あぁぁぁ……っ!」
 絶叫とともに、眞白の身体は激しく痙攣した。
 強い衝撃が眞白を襲っていた。けれども男はそのまま腰を掴み、ぐぷぐぷと奇妙な音を立て、男を受けいれた入口へ出入りを繰り返した。
 その度に眞白の身体は跳ね、達する。
 「……眞白、くん……っ」
 「ぉ、おっ、ぁがあ……っ、んぐ、ぇっ、あぁぁ……っ」
 隘路は痛いくらいに、男の灼熱を締付ける。
 「は、ぁ……っ」
 「ゃ、やぁぁぁ……こわ、やぶけ、ひっ、あぐぅっ、おっ!?」
 眞白は途切れ途切れの意識で抜くように頼み込んだ。
 「ん、眞白くんが僕のこと心から好きなら抜いてあげる」
 どうなの、と男は結腸を押し上げる。
 「おっ!?ぉぉ……っ、ぐ、あひ、す、しゅき、だ、だい、あぁぁ……ッ!すき、だ、りゃ、も、ぬ、ぬぃでぇ……っ」
 「伝わらないな」
 激しく入口を突かれ、眞白は男に縋り付き頭を振り乱す。
 「し、しゅ、き!だ、だい、しゅきっ!あ、あいじ、て、からぁっ!や、め……っ」
 縋りついた、男の鶴が彫られた背中に、赫い傷が付けられていく。
 「……」
 男が無言で律動を繰り返せば、眞白は鈍くなる脳を必死に酷使し、無我夢中で言葉を尽くした。
 「ほ、ほん、と、すきだ、あ、あい、あいじでる、か、らぁ……っ」
 ───嘘ついてごめん、本当は離れたくなかった───泣き濡れた聲で、哀れに訴え、男の硬くなった欲望を締め付け、捕まえる。
 男の穏やかな表情は次第に崩れ、余裕のない表情へと変わり、激しく蠕動する中を堪能しながら、男は白濁を注いだ。
 熱い飛沫を感じ、眞白もまた、朧気の意識の中でさえ確かな恍惚を得る。
 長い痙攣の後、眞白の意識は暗闇へと吸い込まれていく。
 しかし男は容赦が無かった。
 「……眞白くん?眞白」
 頬を指先で突き、それでも起きないでいると、漸く根元に装着していたリングを外し、愛撫を散らすと、弛緩した身体を貫き、また貪り始める。
 眞白の陰茎の先端からは、とろとろと勢いなく白濁が流れていた。
 コチュコチュと最奥を突かれ、結腸の入口に入られる為、その衝撃に眞白は目覚め、最早全身が性感帯となった身体を震わせる。
 「僕を中心に据えるって言ったでしょう?今までの時間でさえ眞白くんには響かなかったのだから、まだまだ足りないよ」
 するりと、男は眞白の手に、指を絡める。
 「ここでなんて終わらせない。もっと僕で満たされるまで。眞白くん───好きだよ」
 男が言った。
 眞白の身体を揺さぶり、喰らいながら。
 眞白の瞳から枯れない泪が伝う。
 「な、なんれ、おりぇ、……だったん、ら」
 男は愛されている。
 少なくとも眞白よりも求められ、その愛を欲し、引く手数多と群がられている。
 蝶が蜜に群がるように。
 そしてそれを男は煩わしい素振りすら見せずに、伸ばされた腕はすべて受け入れる。
 眞白よりも秀で、蓋し眞白よりも男を愛し、男の好む相手が現れるかもしれない。眞白でなければいけない理由など、存在しない。
 男は眞白を容易く棄てることが可能な、優位的立場にある。
 男と眞白は対等ではない。
 男は取捨選択出来、眞白はどんな望みであれそれを受け入れる立場でしかない。
 つまるところ、眞白は男にとって替えの利く取るに足らない存在なのだ。
 そうであるはずなのだ。
 しかし男は、眞白を引き留める。
 何故、眞白を。
 遡れば遡るほど、眞白を引き留める要因は低くなるというのに。
 男は一拍置いてから静かに開口した。
 「……君以外、誰がいるの」 
 男の脳裏に、手を引き、輝く幼い頃の眞白が思い起こされる。
 濁りのない、澄んだ黒目で、男だけを映し、───微笑う。
 その度に、幼い頃の男は、否、今でさえ、胸の動悸を憶えた。
 躊躇いなく握られる手に、喜悦を憶えた。 
 名前を呼ばれる度に、幸福を憶えた。
  
 「……君だったんだ」

 どくり……と、眞白の肚の内側に埋められていた男の灼熱が質量を増す。
 透き通る白藍が細められる。
 「……僕はね、君が好きなんだよ、───君は?」
 眞白の言葉を催促するように、男は腰を動かす。
 「ひ、ひぁ……、あ───す、すき……っ」
 「もっと言って」 
 男は言葉を繰り返すように告げながら、深い交わりを続け、いよいよ刺激を、衝撃を与えても眞白は指先一つ動かさず、力が抜ける。
 僅かに膨らんだ下腹部は、男の婬情
を煽る。
 けれどもそれを逃し、散々内側を堪能した欲望を引き抜く。
 黎明に向かう空は、藍色と太陽の色を織り交ぜ、暗くも優しく染め上げていた。
 男は気を遣ってしまった眞白の唇を奪い、顔を撫で、やがてその繊細な手つきの指先は肩や胸や腹を通過し、足に触れる。
 「眞白くん、約束を反故にするようなこんな足……、恋人を心配にさせて、不安にさせるようなこんなもの、要らないよね」
 男が艶やかに嗤う。
 もう不安になることなどないのだと。
 これでもう、怯えることなどないのだと。
 最初からこうしておけば良かったのだと。
 男は名案に安堵し、穏やかな表情を浮かべた。

 
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