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深潭
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男の長く冷えた指先が、黒髪を絡め取り、耳許を露わにした。
すっと、眞白は涼風が耳許をかすめ、涼しくなったのを感じ取りながら、視線を横へ浮上させた。
仙姿玉質な男が写し出され、双眸を埋め尽くす。
あまりの近さに眞白は息を呑むと、貌に朱を集中させると同時に、浮上させた視線を元のスマホへと戻した。
だが生憎、戻された視線は、無機質な板へと落とされただけで、まるで先程までの板の中で再生されていた愛らしい動物の動きを追う熱心さなど削がれていた。
恋人という関係になった今でさえ、眞白は大人の色香を放ち、更に洗練された美丈夫と変化した利執に慣れず、視線が絡んだだけで、緊張に胸が飛び跳ね、じとりと汗を滲ませた。
「あ……、あ、と……なに……?」
つい……、と冷える指先が、耳許を飾る小さな丸いデザインのピアスを撫でた。
「意外だね、眞白くん耳に穴開けていたんだ」
「え、あ……あぁ、うん、まあ、な。片方、だけだけど……」
「どうして?」
小首を傾げた反動で、男の艶のあるやわらかな亜麻色の髪がさらりと揺れる。
瞬かれた白藍はどこかいとけない。大人の色香を存分に振り撒き、常に他者を花の蜜に群がる幾千もの蝶の如く惑わせているというのに、時折こうした隙を見せる男を、眞白は狡いと思った。
男は意図なく、終ぞ無意識に晒しているのだろうが、晒されている方は、自分だけが得られている、特別なものと錯覚してしまいそうになるのだから。
男はこうしてまた、男の魅惑の深潭へと引き摺り込むのだろう。ずるずる、ずうるりと。
泥濘み、そう易易とは這い上がらせてはくれぬ、底無し沼へ。
眞白はそっと、左耳へ自身の左手の指を耳朶へ這わせた。
「た、大した理由はない、けど。た、ただ左側にだけ黒子があるのが、な、なんとなくバランス悪いようで、気持ち悪くて……。だから右側だけ開けたんだ」
「気持ち悪い?」
「う、うん。お、落ち着かなかったんだ」
「そう、痛かった?」
眞白は瞬きを繰り返してから男を仰いだ。その間も脈打つ心臓は変わらない。
「わ、忘れられる程度の痛みだったけど、利、利執は逆にあ、開いてないんだな」
するりと、ピアスを一撫でしてから男の冷えた指先は離される。
「うん、意外?」
男の背部一面に彫られた、巧みな芸術作品を目の当たりにした眞白からしてみれば、それはもう意外そのものであった。
「ま、まあな」
素直に頷いた眞白に、男は弱ったように微笑んだ。
「開ける理由も、特になかったからね」
「利、利執ならなんでも似合いそうだけど」
「本当?嬉しいな」
男は腕を伸ばすと、眞白を抱き締めたまま、ソファの背に沈む。
「わっ」
眞白の手からスマホが抜け、ソファの上へ転げ落ちた。
「ねぇ、自分で開けたの?それとも誰かが開けてくれた?」
耳許で囁かれた甘い聲は、どこまでも侵食する毒のようですらあった。泥濘みが足首に巻き付き、またずうるりと眞白を引き込む。
「あ、こ、これは、自分で開けた。こ、怖かったけど……、気持ち悪いままも嫌だったからな」
本音は誰かに力を借りたかったが、頼れる人など眞白にはいなかった。
「そう、似合ってるね。眞白くんはピアスになにか拘りがあったりするの?」
「え、な、ないよ、俺センスとかないし……」
現に眞白はファーストピアスから何ら代わり映えがない。
「そんなことは無いと思うよ」
男は眞白の首に尊顔を埋める。
「そっかぁ、眞白くんはピアス、開けていたんだね」
───それは知らなかったなぁと、男はこぼした。
✯✩✯✩
深黒の瞳がしばたいた。男が差し出してきたものを捉え。
「……ぴ、ピアッサー?」
「うん、眞白くんが開けているなら、僕も開けようかなって」
「べ、べつに、興味がある訳でもないんなら、開けなくても……」
穏やかな目許をさらに下げ弛め、男は首を横へ振った。
「僕が開けたいんだよ」
「そ、そっか?」
「うん、それで眞白くんに開けて欲しいんだ」
予想だにしない言葉に、眞白は瞠若した。
「え、お、俺?」
「お願い」
こてんと首を横に倒した男に、眞白は顔の目の前で大きく手を振りかぶった。
「む、むりむりむり、むりだっ、無理に決まってるだろ」
「素人の僕より、経験者の眞白くんのほうが安心だよ」
「ず、随分前のことだし、経験者と呼ぶほどのものじゃない……っ、利、利執と何も変わらないよ俺」
「そんなことないよ、眞白くんは一度自分で開けているんだもの」
ね、お願いと初めて男に頼られるという行為をされたが、眞白に自信はなかった。何より、利執に傷を付ける、それは眞白にとって忌むべきものであり、己が行って良いことではなかった。
「……お、俺にはで、出来ない、ぶ、部下の人に頼むとか……」
するりと、男の凍てつく手が眞白の両手を包み込む。
「こういうのは大切な人にしてもらいたいんだよ」
哀しげに翳った男の瞳が、眞白の胸を痛ませる。
「で、でも俺、自信ない、よ。じ、自分にも怖かったのに、他人になんて更に怖い。利、利執に痛い思いもさせたくない、む、無理だ」
「大丈夫、僕痛みには強いから、気にせず開けてくれていいよ」
「で、でも……」
「眞白くん」
───お願い。
男の魔法のような聲が、眞白の意に反し頷かせる。
断りきれず、眞白は結局ピアッサーを消毒した男の耳朶にあてがった。しかしその手つきは何処か心許ない。
「い、いたいかも」
「大丈夫だよ」
「やっぱやめ……」
「ううん、やってほしいな」
手首を握られ、逃れられないと悟り、眞白は懊悩した挙句、い、いくよと聲を掛け、ピアッサーを力強く打ち込んだ。
ファーストピアスが男の色白の耳朶に飾られる。
上手く貫通したことに眞白は胸を撫で下ろしつつ、痛みについて問いかけた。
「い、痛かったか?」
「ん、うん?一瞬……?全然平気だよ」
「ほ、本当か?」
「本当本当、ありがとう眞白くん、もう片方もお願いね」
「も、もうやりたくないよ」
「頑張って、眞白くん」
男に促されるまま、眞白はなんとから両耳にファーストピアスを打ち込んだ。
「ありがとう、眞白くん」
鏡で出来栄えを確認しながら、にこやかに男は云った。男の表情は晴れ晴れとし、酷く満足気であった。
「ほ、本当の本当に痛くないか」
「痛くない痛くない。眞白くんも忘れられる程度の痛みだって云ってたじゃない」
「そ、そう、だけど……」
おろおろと落ち着きのない眞白を両足の隙間に捉え、背後から抱きしめると、男は有名ブランドのロゴが印刷された小箱を二つ差し出した。
「拘りないって云ってたでしょう、だからお揃いのピアス買ってみたんだ、どうかな」
小箱を開ければ全く同じデザインの、色味だけが異なる宝石が嵌められたシンプルなピアスが二つ。
「黒い方が僕で、薄青が眞白くんのにしてみたんだ」
「あ、うん、いいと思うけど、俺、片方しか、開いてない」
「片方だけでいいよ」
「せ、せっかく買ってくれたのに、それはも、勿体ないだろ」
「無理に開けることないもの、眞白くんは片方だけでいいの」
それは男にも云えたことでは無いのかと思ったが、眞白は男がそれで良いと肯定するならばそれで良いのかもしれないと、深く考えることを放棄した。
揃いのピアスなど考えたこともなかったが、恋人らしいとも眞白は感じた。
最初こそ何故こんな苦行を強いるのかと意気消沈していたが、終えてみれば結果良かったように思えた。傷を付けることを禁忌としていたくせに、終えてみれば自分が男の初めてを奪ったのだという高揚感も押し寄せた。
こればかりは、他の誰も得られぬ、自分だけが得られた男のものだと過信しても良い筈である。
ずうるりと、また眞白は沈む。
「僕の穴が安定したら付けようね」
眞白の頭上で男が恍惚をのせ、クスクスと心底愉しげに笑う。
「嬉しいな、これで僕達お揃いだね」
揃いのピアスを身に付けられる日を、楽しみに心待ちにしながら、眞白は頷いた。
「そ、そうだな」
すっと、眞白は涼風が耳許をかすめ、涼しくなったのを感じ取りながら、視線を横へ浮上させた。
仙姿玉質な男が写し出され、双眸を埋め尽くす。
あまりの近さに眞白は息を呑むと、貌に朱を集中させると同時に、浮上させた視線を元のスマホへと戻した。
だが生憎、戻された視線は、無機質な板へと落とされただけで、まるで先程までの板の中で再生されていた愛らしい動物の動きを追う熱心さなど削がれていた。
恋人という関係になった今でさえ、眞白は大人の色香を放ち、更に洗練された美丈夫と変化した利執に慣れず、視線が絡んだだけで、緊張に胸が飛び跳ね、じとりと汗を滲ませた。
「あ……、あ、と……なに……?」
つい……、と冷える指先が、耳許を飾る小さな丸いデザインのピアスを撫でた。
「意外だね、眞白くん耳に穴開けていたんだ」
「え、あ……あぁ、うん、まあ、な。片方、だけだけど……」
「どうして?」
小首を傾げた反動で、男の艶のあるやわらかな亜麻色の髪がさらりと揺れる。
瞬かれた白藍はどこかいとけない。大人の色香を存分に振り撒き、常に他者を花の蜜に群がる幾千もの蝶の如く惑わせているというのに、時折こうした隙を見せる男を、眞白は狡いと思った。
男は意図なく、終ぞ無意識に晒しているのだろうが、晒されている方は、自分だけが得られている、特別なものと錯覚してしまいそうになるのだから。
男はこうしてまた、男の魅惑の深潭へと引き摺り込むのだろう。ずるずる、ずうるりと。
泥濘み、そう易易とは這い上がらせてはくれぬ、底無し沼へ。
眞白はそっと、左耳へ自身の左手の指を耳朶へ這わせた。
「た、大した理由はない、けど。た、ただ左側にだけ黒子があるのが、な、なんとなくバランス悪いようで、気持ち悪くて……。だから右側だけ開けたんだ」
「気持ち悪い?」
「う、うん。お、落ち着かなかったんだ」
「そう、痛かった?」
眞白は瞬きを繰り返してから男を仰いだ。その間も脈打つ心臓は変わらない。
「わ、忘れられる程度の痛みだったけど、利、利執は逆にあ、開いてないんだな」
するりと、ピアスを一撫でしてから男の冷えた指先は離される。
「うん、意外?」
男の背部一面に彫られた、巧みな芸術作品を目の当たりにした眞白からしてみれば、それはもう意外そのものであった。
「ま、まあな」
素直に頷いた眞白に、男は弱ったように微笑んだ。
「開ける理由も、特になかったからね」
「利、利執ならなんでも似合いそうだけど」
「本当?嬉しいな」
男は腕を伸ばすと、眞白を抱き締めたまま、ソファの背に沈む。
「わっ」
眞白の手からスマホが抜け、ソファの上へ転げ落ちた。
「ねぇ、自分で開けたの?それとも誰かが開けてくれた?」
耳許で囁かれた甘い聲は、どこまでも侵食する毒のようですらあった。泥濘みが足首に巻き付き、またずうるりと眞白を引き込む。
「あ、こ、これは、自分で開けた。こ、怖かったけど……、気持ち悪いままも嫌だったからな」
本音は誰かに力を借りたかったが、頼れる人など眞白にはいなかった。
「そう、似合ってるね。眞白くんはピアスになにか拘りがあったりするの?」
「え、な、ないよ、俺センスとかないし……」
現に眞白はファーストピアスから何ら代わり映えがない。
「そんなことは無いと思うよ」
男は眞白の首に尊顔を埋める。
「そっかぁ、眞白くんはピアス、開けていたんだね」
───それは知らなかったなぁと、男はこぼした。
✯✩✯✩
深黒の瞳がしばたいた。男が差し出してきたものを捉え。
「……ぴ、ピアッサー?」
「うん、眞白くんが開けているなら、僕も開けようかなって」
「べ、べつに、興味がある訳でもないんなら、開けなくても……」
穏やかな目許をさらに下げ弛め、男は首を横へ振った。
「僕が開けたいんだよ」
「そ、そっか?」
「うん、それで眞白くんに開けて欲しいんだ」
予想だにしない言葉に、眞白は瞠若した。
「え、お、俺?」
「お願い」
こてんと首を横に倒した男に、眞白は顔の目の前で大きく手を振りかぶった。
「む、むりむりむり、むりだっ、無理に決まってるだろ」
「素人の僕より、経験者の眞白くんのほうが安心だよ」
「ず、随分前のことだし、経験者と呼ぶほどのものじゃない……っ、利、利執と何も変わらないよ俺」
「そんなことないよ、眞白くんは一度自分で開けているんだもの」
ね、お願いと初めて男に頼られるという行為をされたが、眞白に自信はなかった。何より、利執に傷を付ける、それは眞白にとって忌むべきものであり、己が行って良いことではなかった。
「……お、俺にはで、出来ない、ぶ、部下の人に頼むとか……」
するりと、男の凍てつく手が眞白の両手を包み込む。
「こういうのは大切な人にしてもらいたいんだよ」
哀しげに翳った男の瞳が、眞白の胸を痛ませる。
「で、でも俺、自信ない、よ。じ、自分にも怖かったのに、他人になんて更に怖い。利、利執に痛い思いもさせたくない、む、無理だ」
「大丈夫、僕痛みには強いから、気にせず開けてくれていいよ」
「で、でも……」
「眞白くん」
───お願い。
男の魔法のような聲が、眞白の意に反し頷かせる。
断りきれず、眞白は結局ピアッサーを消毒した男の耳朶にあてがった。しかしその手つきは何処か心許ない。
「い、いたいかも」
「大丈夫だよ」
「やっぱやめ……」
「ううん、やってほしいな」
手首を握られ、逃れられないと悟り、眞白は懊悩した挙句、い、いくよと聲を掛け、ピアッサーを力強く打ち込んだ。
ファーストピアスが男の色白の耳朶に飾られる。
上手く貫通したことに眞白は胸を撫で下ろしつつ、痛みについて問いかけた。
「い、痛かったか?」
「ん、うん?一瞬……?全然平気だよ」
「ほ、本当か?」
「本当本当、ありがとう眞白くん、もう片方もお願いね」
「も、もうやりたくないよ」
「頑張って、眞白くん」
男に促されるまま、眞白はなんとから両耳にファーストピアスを打ち込んだ。
「ありがとう、眞白くん」
鏡で出来栄えを確認しながら、にこやかに男は云った。男の表情は晴れ晴れとし、酷く満足気であった。
「ほ、本当の本当に痛くないか」
「痛くない痛くない。眞白くんも忘れられる程度の痛みだって云ってたじゃない」
「そ、そう、だけど……」
おろおろと落ち着きのない眞白を両足の隙間に捉え、背後から抱きしめると、男は有名ブランドのロゴが印刷された小箱を二つ差し出した。
「拘りないって云ってたでしょう、だからお揃いのピアス買ってみたんだ、どうかな」
小箱を開ければ全く同じデザインの、色味だけが異なる宝石が嵌められたシンプルなピアスが二つ。
「黒い方が僕で、薄青が眞白くんのにしてみたんだ」
「あ、うん、いいと思うけど、俺、片方しか、開いてない」
「片方だけでいいよ」
「せ、せっかく買ってくれたのに、それはも、勿体ないだろ」
「無理に開けることないもの、眞白くんは片方だけでいいの」
それは男にも云えたことでは無いのかと思ったが、眞白は男がそれで良いと肯定するならばそれで良いのかもしれないと、深く考えることを放棄した。
揃いのピアスなど考えたこともなかったが、恋人らしいとも眞白は感じた。
最初こそ何故こんな苦行を強いるのかと意気消沈していたが、終えてみれば結果良かったように思えた。傷を付けることを禁忌としていたくせに、終えてみれば自分が男の初めてを奪ったのだという高揚感も押し寄せた。
こればかりは、他の誰も得られぬ、自分だけが得られた男のものだと過信しても良い筈である。
ずうるりと、また眞白は沈む。
「僕の穴が安定したら付けようね」
眞白の頭上で男が恍惚をのせ、クスクスと心底愉しげに笑う。
「嬉しいな、これで僕達お揃いだね」
揃いのピアスを身に付けられる日を、楽しみに心待ちにしながら、眞白は頷いた。
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