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其の弐

想定外の事態

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「あなた…。あなた…」大王との最後の遣り取りを思い浮かべて
白昼夢に迷い込んでいた大海人は、呼びかけを受けて声の主を振り返った。
「ん。どうした」
「雄君(おきみ)が戻って来ました」
鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)は、
部屋の入口の柱に気怠そうに身を預けて、
朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)の帰還を告げた。
彼にはここのところ安八磨評(あはちまのこおり)の
湯沐邑(ゆのむら)よりの荷の到着が滞っているので、
行って様子を見て来るように命じていた。
「そうか。では、行こう」気怠そうな鸕野讃良皇女を残して、
大海人は一人で雄君の待つ応接の間へ向かった。
鸕野讃良皇女は悠長な足取りでその後を追う。
大海人は時折後ろを振り返って、鸕野讃良皇女の様子を伺うが、
その度に鸕野讃良皇女はその視線に気づかないような素振りを見せる。

応接の間に入ると雄君が血相を変えて身体を震わせていた。
大海人が来たことにも気づいていないようで、
「何と言う…許されぬ…」とか、ぶつぶつと一人で呟いていた。
その様子が非常に面白く見えたので、大海人はわざと大きな声でもって、
「雄君。無事で何よりであった。美濃はどうであったか」と問いかけた。
「どうもこうも御座いませぬ」と雄君は、さらに大きな声で叫んだ。
「まぁ、落ち着け」と大海人が言うと、
「落ち着けと言うのは無理な話です。どう思われますか」
と雄君がいきなり問いかけたので、
「待て、雄君。私はまだ何も報告を聞いていないのだが…」と大海人は、
つくづく彼は真っ直ぐな男だと確認して苦笑しながら応えた。
「はっ、そ、そうでございました。申し訳ありません」
雄君が一呼吸して落ち着きを取り戻してから、
美濃の様子について話を始めたところ…。
天井から人が降って来て、大海人と雄君の間を塞いだ。
降って来たのは伸び放題の髪を後ろで括っているだけの
襤褸ぼろをまとった褌姿の男であった。
「こめ。うじばしで、に、とまっている」
「お、おともの、へい。いっぱい、みはってる」と呟いた。
「清麻呂。苦労をかけた」と大海人が一言告げると、
男は飛び上がって天井へ駆け上がり、すぐさま姿を消した。

「今の者は奴婢ですか」と雄君が問いかけると、
大海人は雄君の発言を不快に思ったらしく表情を歪めて一言、
「清麻呂だ」とだけ答えてから、しばらく色々と思い巡らせた。
大王に話したことは、真の思いであり政を離れて
静かに余生を過ごすつもりであった。
だが、反省してみれば、あの時に古人大兄皇子の出来事を
私心から起こった浅ましい揶揄から口を滑らせたことが
災いしたのかも知れない。しかし、それにしても、
大王はそれさえも深き心で受け止められないほどに
荒んでいたと言うのか、それほどまでに愚かであったのか、
そのような見識でもって、私を蔑みながら、死してなお、
浅ましきやり方で手に入れた権威を振りかざし、
私が神より授けられた権利を、理不尽で狭量な認知力によって
正当化した判断を他に押し付けて強要し、
彼らの慾に火をつけて彼らの手で私を葬り去る
筋書きを作ったと言うのか。それは許されぬことである。
たとえ、神であっても許されぬことであり、傲慢である。
このように思い巡らせているうちに大海人は嗚咽を漏らしながら、
振り絞るように
「このまま…黙って…何もせずに滅ぼされて…なるものか…」
と声を漏らした。
その瞬間、大海人の傍で相変わらず気怠そうに立ち尽くしていた
鸕野讃良皇女が突如として神憑って声を発した。
「阿呆になりて直日の御霊で受けよ。汝は再びこの国を取り返せ」
大海人はその言葉を受けて、直日の御霊を心に思い起こし、
憤る心を振り払ってから雄君に向かって満面の笑顔で語り掛けた。
「雄君。改めて話を聴こう。美濃の様子はどうであった」
雄君はその笑顔によって平静を取り戻して、
美濃での様子を語り始めた。
「美濃においては、国司(くにのみこともち)によって、
大王の山陵造営のために人足の調達が行われております。
各戸への呼びかけは勿論のこと、辻という辻においても
武器を持って馳せ参じよと官人が声を上げて呼びかけております。
道行く者の話では、大王はお亡くなりになる前に
大友皇子と重臣の方々をお集めになって、あなた様を討ち、
天意に逆らって国替えをさせるように命じられたと…」
「雄君、もうよい」大海人は続く言葉を封じてから、
村国連男依(むらくにのむらじおより)、
和珥部臣君手(わにのべのおみきみて)、
身毛君広(むげつのきみひろ)の三名を雄君に呼ばせて、
急ぎ自らの安八磨評の湯沐邑へ行き、
兵を集め不破道を封鎖せよと多臣品治(おおのおみほむち)
に伝えるよう命じた。湯沐邑とは分かりやすく言えば、
大海人が生活する上での収入源となる領地のことである。
一息ついて、鸕野讃良皇女が気になったので様子を伺うと、
神憑りで疲れたらしく立ったまま眠り呆けていた。

三人を美濃へ派遣してから、一息ついて思いを巡らせるうちに、
大海人の心の内で反省が兆した。
…もしかすると、美濃での人足の徴発は、
本当に山陵造営のためであって、武器を携帯させるのは、
道中の賊や半島の呼びかけがあった時に
派兵するための対応ではないだろうか…。宇治橋や大津から倭、
それから吉野までの道の監視についても、もしかすると
祭事に関係するための措置ではないのか…。
う~ん。悩ましいことだ。どうすればよいのか、
己の内に居ます神は黙したままだ…。
ん、そうだ、倭古京(やまとのふるきみやこ)に
駅鈴の許可を取ってみれば、これらがいずれかなのかは
判明するではないか。駅鈴がすんなりと発給されたならば問題はなく、
そうでないならば事態は悪いほうにあると言うことだ。
反省はそこに行き着いて、
大海人は倭古京の高坂王(たかさかのおおきみ)に
駅鈴発給の許可を取るために
大分君恵尺(おおきだのきみえさか)、
黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)、
逢臣志摩(おうのおみしま)の三名を派遣することにした。

そこで事態が悪い方であった時のために、
大分君恵尺(おおきだのきみえさか)には、
大津宮の高市皇子と大津皇子の両名に大津宮を離れ
鈴鹿関にて合流の知らせを託し、
黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)には、
倭古京の地において、大海人と思いを同じくする、
大伴連馬来田(おおとものむらじまぐた)と
大伴連吹負(おおとものむらじふけい)の兄弟に
倭古京の占領行動を起こす知らせを託した。
逢臣志摩(おうのおみしま)はいずれにせよ
結果を報告するために吉野へ戻ることとなった。
勿論、すんなりと発給が許可されたならば、
三名ともに吉野へ戻ることになる。

そこまで話を進めた時に、「私が大津宮へ行くのですか」と
大分君恵尺が不安そうに言ったので、
大海人は笑いながら
「怖いもの知らずの大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)を
頼って何とかすれば良いではないか」と言うと、
「あ、それもそうですな」と、思い出したように安心して
朗らかな心持ちを取り戻したが、
すぐさまその気持ちを一転させて
「あいつは無謀な所もあるので、
無茶をしないかいささか不安です」と一人呟いた。
大分君恵尺の危惧した
大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)の無謀さが、
後に戦闘終結のきっかけを作ることになるのだが、
それはまだ先の話である。
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