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其の肆

二人の皇子

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駅鈴の発給が断られたことで、
事態は間違いなく悪い方に流れていることを知りながら、
敵地へ潜入したうえで高市皇子と大津皇子の
両名に連絡する役である大分君恵尺は、
どのようにしたものかと思い悩んでいた。
成人して政にも参画している高市皇子はともかく、
大王によって後継者として目されていた大津皇子は
まだ幼く連れ出すのは容易ではない。
大海人皇子が言われたように大津皇子に付き添っている
大分君稚臣を頼れば心配はないと思われるが、
彼はいささか大胆な所もある。勇敢なのは結構なのだが、
彼には状況において激情がそれに勝る場合がある。
今回のような一見して理不尽と思われることに関しては
特にそのような傾向が強い。
「さて、どうしたものか」と心の中で呟いたとき、
高市皇子の家の入口が見えてきた。
すでに事態は伝わっているものと思って、
恐る恐る入口で来訪を告げると、高市皇子本人が出て来た。
「えっ」と大分君恵尺が驚くと、高市皇子はにっこりと微笑んで
「久しぶりだなぁ」と言って大分君恵尺の肩を抱いて
そのまま家の中へと招き入れた。
「一体どうして、ほとんど人がおりませんが…」
大分君恵尺が問いかけると、
「いや、ほとんど山陵造営に向かわせているのだ。
大海人皇子の血統のわけだから、
そうしたほうが身の安全も保てる」と高市皇子は
独自の政治的配慮を口にした。
「はぁ、なるほど」大分君恵尺からすれば分かるような、
分からないような発想である。疑問符が浮かんだままで
高市皇子に引き摺られるような感じで二人して部屋へ入った。
「接待はないぞ。人が居ないのだからな」と高市皇子は
断りを言ってから大津宮の状況について話を始めた。
「大王が亡くなってから、父上を排除するための計画が
持ち上がっているようだが、私のところへは
直接そのような話は来ない。もしかすると官人においては
聞かされているかも知れないし、
すでに決定されているかも知れない。
これはあくまでも私の推察に過ぎないが、
未だあいまいな態度にある豪族たちを靡かせるために、
父上をわざと動かして豪族たちを父上の下に
おびき寄せ集めたうえで、戦でもってこれら豪族と父上を下し、
大王の国造りを全きものにすることを
大津宮の重臣たちは考えているようだ。
私のほうは父上の下に駆けつけるつもりであるが、
そのように暇を願い出てもまず許されないだろう。
ともかく今夜、群臣会議の場が設けられるので、
はっきりとしたところも分かるだろうから、
穏便にことを済ませるように申し出るつもりだが、
目的は先ほども述べたように父上を排除する
ということだけではないので、難しいと思う」
自らが話をする前に高市皇子が滔々と話を述べたので、
大分君恵尺は面食らってしまい
「いよいよ父上が決起することになりました」とだけ告げた。
「そうか。分かった」とだけ高市皇子は応えた。
高市皇子への話がすんなりと終ってから
「ところで大津皇子はいずれに」と大分君恵尺が問いかけると、
「山陵造営の現場の近くに設けられた
額田姫王(ぬかたのおおきみ)の宮に滞在している」
と高市皇子が答えた。
「大分君稚臣らもそちらですか」と大分君恵尺が
さらに問いかけると、「ああ、多分一緒だろう」と言ってから、
「私の方は何とでもなるのだが、大津皇子を連れ出すのは
難しいだろう」と続けた。大分君恵尺は高市皇子の見解と違って、
これを難しいとは思わなかった。
大津皇子が額田姫王の宮に滞在していることは、
大分君恵尺にとっては有利な状況である。
額田姫王を説得すれば、何とか大津皇子を
連れ出すことは可能である。
また、大分君稚臣や従う者が数人居るならば、
そのまま連れ出すのも問題ない。
ふふっ。と変な笑い声が思いも寄らずに出た。
高市皇子はそれに気づくと
「大丈夫か。恵尺」と心配そうに顔を覗き込んだ。
驚いた大分君恵尺は慌てて「いや、何でもありません。
色々と教えて頂き、有難う御座いました。
では、これにて失礼」と言って
逃げるように高市皇子の家を出た。

額田姫王の宮はささやかなものだった。
山陵造営の現場が一望できる高台にありながらも、
作業の進展が手に取るように見える場所。
大分君恵尺が道を昇って行きそこまで正面まで辿り着いた時、
額田姫王はちょうど大津皇子を外へ連れ出そうとしていた。
道を昇って来た大分君恵尺に気づくことなく、
大津皇子の手を取って宮の階段をゆったりとした足取りで、
幼い大津皇子の足さばきを気遣いながら降りて来た。
「お久しぶりでございます」と大分君恵尺が
懐かしさを込めて呼びかけた。声だけで分かったのか、
大津皇子の足元に顔を向けたまま
「大分君恵尺ですね。お久しぶりです」
と額田姫王は応えてから、その顔を大分君恵尺に向けてから
少し微笑んで「少し、共に散歩を致しましょう」と言った。
「えっ、今しがた昇って来たばかりなのに…」
と大分君恵尺は思ったが、その思いとは別に口からは
「ええ、そう致しましょう」という言葉が出た。
自らの足元を気遣って下を向いていた大津皇子は、
大分君恵尺に気づくと「恵尺…」と彼を見て微笑んだ。
それを受けて、これから大津皇子が抱くと思われる
不安に心を配りつつ、その瞳を優しい思いを込めて
「恵尺でございます。お久しぶりで…」と大分君恵尺が応えた。
造営に必要な部材として樹々が取り払われたことで、
造営現場が見晴らすことが出来るようになった
その場所まで三人は無言で歩いた。
そこまで来てから額田姫王は、
造営現場を大分君恵尺に目配せで知らせて、
「山陵の造営には、尾張や美濃からの民が多く来ております。
恵尺、貴方が来たことは、来るべき時が
来たことを意味しているようですね」と大津皇子の左耳の上に
左手をそっと触れながら言ったので、
「ええ、そういう意味になります」と大分君恵尺は応えてから、
続けて「どうか、大海人皇子の願いを
汲み上げて頂けませんか」と頼んだ。
その言葉を受けて、額田姫王は大きく息を吸い込んでから、
ゆっくりと呼吸を整える。
しばらく沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、大津皇子だった。
大津皇子は沈黙の意味を感じ取って、
「父上に何かあったのですか」と誰に聞くでもなく言葉を発した。
大津皇子の言葉を受け止めて額田姫王は大津皇子の両手を
自らの両手で包み込んで、しっかりと視線を
大津皇子に差し向けながら、
「大津、このまますぐに貴方は、
恵尺と共に父上の所へ向かうのです」と言った。
大分君恵尺は深々と頭を下げてから大津皇子の手を取った。
額田姫王はゆっくりと頷いてから、
「大津皇子の舎人たちは、人手が不足しているので、
山陵造営の手助けをしております。戻ってきたら
委細を話して後を追わせるのでご心配なく」と言った。
大分君恵尺は、「分かりました。くれぐれもお願い申し上げます」
と応えてから、来た道とは反対方向に続く、
人が通うようになった獣道を、
足元を気遣いながら大津皇子の手を引いて下って行った。
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